【短編】冷遇されていた正妻ですが、武家当主様からの独占愛が止まりません

 髪の乱れを正して、廊下へと歩み出る。
 昨日とはまるで違う屋敷の様子がそこにあった。
 ただならぬ昨日の出来事との比較というわけではなく、今までの全てと違っている。
 ――誰もが私に頭を下げた。
 すれ違う家臣、女中、皆が足を止めて深く私に頭を下げるのだ。
 家臣の中には私をあからさまに空気扱いする者もいたのに、どうしたことだろうと……。
 戸惑いながら歩みを進めていると、庭が目に飛び込む。
 土は掘り起こされ、外壁の修復作業を何人かで行っていた。

「……怪我をされた方はいらっしゃるのでしょうか?」

 案内している女中に問いかけてみる。

「軽傷のみとうかがっております」
「そう……、なら何よりです」

 女中が嘘をついているようには思えない。
 あれだけの襲撃騒ぎで軽傷者しか出なかったのは奇跡に近いのではないかしら……。
 部屋へと戻ると、机の上は整然としていた。
 筆も帳面も文箱の中に収まっている。
 
「景継様より、奥方様にお言葉がございます」
「景継様から……?」

 その響きだけで胸が熱くなる。

「本日はご無理をなさらぬようにと」

 女中の声なのに、景継様の低音で言われたように思えた。

「承知いたしました」

 私の知らぬところで様々なことが、起こっていたはずだ。
 それでも景継様は私に配慮してくださっている。
 昨日の景継様に呼ばれた“小鞠“の響きが思い起こされて、頬が朱くなったのが、わかった。
 私の務めを果たしましょう……。
 帳面を整えて、控えの間へ向かった。
 今日は護衛の男たちが後ろからついてくる気配はない。
 修復の木槌の音が遠くで続いている。
 やはり今日は廊下で誰かにすれ違うたびに立ち止まって腰を折って挨拶された。
 どこか私を確かめているような、値踏みしているような視線を送ってくる。

「奥方様、本日もありがとうございます」

 控えの間に入ると、いつもの係の女中が駆け寄ってきた。
 彼女とは以前から帳簿の管理をしあったりと、やり取りを重ねてきている。
 今までと態度の変わらない彼女の様子に落ち着けた。
 この屋敷の者に何があったのか聞こうと思ったけれど、彼女を困らせるだけだとわかり、やめておく。
 
「奥方様……」

 しわがれた低い声をかけられる。
 振り返ると久我山家の筆頭家臣である大宮殿が立っていた。
 この家に仕えている者の中心で頂点に立っているのが大宮殿だ。
 弥生様のお父上でもある。
 景継様の元に嫁いできて三年もの月日が流れているのに、大宮殿とはほとんど会話を交わしたことはない。
 反射的に身構えながらも、私は一礼をした。

「お忙しいところ失礼いたします」
「いえ……」

 大宮殿は私と目線を合わせない。
 逡巡しているように黙り込んでいる。

「昨晩はご不便をおかけいたしました」
「不便……とは……?」
「急なご移動をお願いしてしまいましたゆえ……」

 それが大宮殿のせいでないことくらい明白だった。
 私は首を振る。

「皆様にこの身を守っていただき、ありがたく存じます」

 本心だった。
 混乱こそしたけれど、不便も不満も感じてはいない。

「さようでございますか……」

 それきり、再び大宮殿は黙り込んでしまった。
 大宮殿が私が胸元で抱えている帳面に目線を合わせる。

「奥方様、いつも帳簿をご管理いただき、誠にありがとうございます」

 大宮殿からお礼を告げられるなんて初めての出来事だった。

「いえ、務めを果たしているだけでございます」

 そう答えた私と大宮殿の視線が重なる。
 大宮殿は皺の刻まれた目尻を下げ、

「お気をつけてお戻りください」

 と、一歩下がって譲るように道を開けた。

「失礼いたします」

 頭を下げて、足を前へと踏み出す。
 背中に大宮殿からの視線がずっと注がれているのを感じないふりをした。
 大宮殿はもちろん、どこか皆が私に対して慎重な態度で接してくる。
 自室へと戻ってからも、気が散ってしまう。
 大宮殿に話しかけられた……。
 それも私への御礼まで添えられて。
 その事実が何より重たく感じられる。
 帳面を広げれば、気持ちも落ち着けるかと思えば、筆先は思い通りに動いてはくれなかった。
 数字とにらみ合いをしていれば、いつも心は静まる。
 それなのに、数字が数字でしかなくて、まったく集中できない。
 朝からずっと鳴りやまぬ木槌の音。
 この屋敷は危険にさらされていたのだと、今さらながらに怯えが出てくる。

『――小鞠は無事か?』

 奥の部屋へと(かくま)われた私の元までやってきてくれた景継様の低音の響き。
 どうして、景継様はあの場所まで来てくれたのだろう。
 屋敷内の被害状況の確認のひとつ……。
 でも、もし景継様のあの行動が私のためだとしたら……。
 ――私を守ってくれていたのだとしたら……。
 ありえない……、そう思えた。
 それ以上の意味を考えてはいけない。
 そう結論づけるものの、どこか判然としなかった。
 立ち上がって、廊下から庭の様子を確認する。
 外壁の修復作業は思ったより大がかりな様子だ。
 家臣たちは真剣に作業にあたっていた。
 彼らには彼らの役目がある。
 私にも私の役目が……。
 もう一度、机に向き直り帳面を開いた。