【短編】冷遇されていた正妻ですが、武家当主様からの独占愛が止まりません

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 驚くほどに穏やかな朝だった。
 冷えた空気は冴え渡り、庭では野良うさぎが跳ね回っている。
 ここ数日昼夜問わず、屋敷は落ち着いていなかった。
 昨夜も警備の足音は明け方まで途絶えることはなかったけれど、朝になれば星のように消えてしまう。
 そういうものなのだと自分を納得させた。
 帳面に筆を走らせる。
 書き心地が良くて、いつまででも書いていたくて……。
 景継様からのいただきものに筆と紙を替えてから、書き損じは明らかに減った。
 今日は本当に静かである。
 廊下を行き交う足音はほとんど聞こえてこない。
 女中や警護の者の話し声も。
 ――静かすぎないかしら?
 そう疑問に思った時、女中が襖の外から声をかけてきた。

「本日はお部屋でお過ごしくださいとの、おことづけでございます」

 入室してきた女中の表情は見るからに強張っている。

「わかりました。外出の予定はございません」
「よろしくお願い申し上げます」

 女中は丁寧に頭を下げて退室していく。
 考えても仕方のないこと……。
 改めて筆をとり、帳面に向き合った刹那。
 ――外から鋭い笛の音が響き渡ってきた。
 まるで脳髄を揺さぶるような警戒心を煽る音。
 廊下を行き交う足音にも緊張感が増したのがわかる。
 怒声や叫びが波のように耳へと押し寄せてきた。
 ――何かが起きている。
 張り詰めた屋敷の空気は緩まるどころかどんどん強度を増していく。

「宮前の者だ! 門を閉じろ!」
「持ち場へつけ!!」
「早くしろ!!」

 普段ではありえないような速度で様々な者が走り回っている。
 金属のぶつかり合う乾いた音が幾つも幾つも重なっていく。

「奥方様!!」

 襖が勢いよく開け放たれ、護衛の男が大きな歩幅で近づいてくる。

「こちらへお越しください!」

 いつになく護衛の男は険しい顔つきをしていた。
 理由を聞いている余裕などないことは切迫した様子からも伝わってくる。
 すぐに立ち上がり護衛の男の指示に従った。
 廊下へ出ると、普段の屋敷と同じはずなのに知らない場所に迷い込んだようだった。
 家臣たちが走り回り、指示を飛ばしている。
 皆が外へ向かって走っていくのに、私と護衛の男たちだけは逆側に走らされた。
 屋敷の奥へ、奥へと……。

「こちらにお入りください」

 結婚して三年が経つというのに、この部屋の存在を知ったのは初めてだった。
 普段は使われていないのだろう。
 物がほとんど置かれていない簡素な部屋だった。

(いくさ)が始まったのでしょうか?」
「奥方様はご安心ください」

 護衛は部屋の外を警戒しながら、私を宥めるように言った。
 とても安心など出来る状況にないことはわかっている。
 それでも私は頷いた。
 部屋の外からは大きな音が絶えず聞こえてくる。
 人の倒れる音、怒号、泣き声、金属音。
 耳を塞ぎたくなるほど緊迫していた。
 指先が震えているのがわかって、咄嗟に反対の指で握り締める。
 恐ろしい……のかしら?
 それすら分からなくて唇が乾いていく。
 廊下をこちらにかけてくる足音。
 護衛の男たちも抜刀の構えを見せた。

「――小鞠は無事か?」

 その正体が景継様であるとわかって、護衛の男たちは力の入った身体を少しだけ緩めた。

「問題ございません」

 護衛の男が答える。
 扉は開かない。
 姿も見えない。
 それでも景継様がそこにいた。

「このまま、頼む」
「はい」

 景継様は落ち着いた声で告げると、立ち去ったようだった。
 どうして、ここに確認しにきたの?
 それに“小鞠“って……。
 最後に名前を景継様に呼ばれたのはいつだったかしら?
 もしかして初めて……?
 理由を考えかけてやめる。
 今はただ黙って状況を受け入れている他になかった。

 次に目を覚ました時、私は自分がどこにいるのかすぐにわからなかった。
 天井がいつもと違う。
 昨日、屋敷に何らかの異変が起こり、この部屋に通されたことを思い出してきた。
 いつの間にか護衛の男たちもいなくなっている。
 身体を起き上がらせていく。
 敷かれた布団はいつものものと違うけれど、変わらずに寝心地は良かった。
 怪我もなければ、特に衣の乱れもない。
 昨日の出来事が嘘のように静かな世界が私の周りには広がっていた。

「奥方様、お目覚めでいらっしゃいますか?」

 襖の向こうから女中の声がする。

「はい」
「お部屋へお戻りいただけます。こちらでお待ちしておりますので準備が出来ましたら、ご案内いたします」