***
翌朝、屋敷内の空気はどこか緊張感で張り詰めていた。
表向きはいつもと何も変わらない。
屋敷内を行き交う女中、庭師が草木を手入れしている。
廊下へと進み出ると、すぐに私の背後には足音が揃った。
振り返ると、護衛が二名距離を保って控えている。
「奥方様はどちらにいらっしゃるのですか?」
「本日も奥の控えの間へと帳面を届けにまいります。あと外の空気を少し吸いたくて……」
「私が代わりにお届けいたします」
「ずっと部屋の中にばかりいるのも身体がなまってしまいます。米蔵の在庫が帳面と一致しているかも、この目で確認したいのです」
「――我々は務めで奥方様の後ろに控えておりますので」
護衛二人は深く私へと頭を下げた。
彼らが仕えているのは私ではなく景継様だ。
私が断ってよい雰囲気ではない。
表門近くまでは久々に足を運んだ。
青々と茂っていた草木の色は褪せ、乾いた土の香りが届く。
――少し、肌寒いかもしれない。
神経を尖らせた門番たちの声が耳に入ってきた。
「――宮前の使者だと?」
「急な来訪だな」
「様子見でしょう」
「内情を探りにきたか」
宮前の名前は聞いたことがある。
隣領を治める家で、近年は久我山家に負けず劣らず急激に勢力を伸ばしていると。
「人数が多すぎる。通しはするが、減らせ」
緊迫しているのが私にも伝染してくる。
後ろに控えていた護衛がいつの間にか私の前へと立っていた。
「奥方様、門の外が騒がしいようですので、こちらへ」
「私がお会いしてはいけませんか?」
「ご遠慮いただくよう、おおせつかっております」
誰からの命令など、尋ねるまでもなくわかっている。
客人に会わせてもらえない離縁寸前の妻。
私はそれを受け入れ理解している。
素直に踵を返す。
その背後で門の開く重たい音がした。
風がいっそう強く通り抜ける。
振り返ってはいけないとわかっていながら、まるで誘われるように目線を向けてしまった。
門の向こう側に、一人の男が立っている。
私のほうを真っ直ぐにじっと見つめていた。
男と目が合いそうな瞬間、
「――奥方様、気にせず参りましょう」
護衛の身体が私の視界を遮った。
「ええ。承知してるわ」
背後で門が閉じられる音が響き渡った。
護衛を連れたまま、控えの間へと入ると、女中たちが慌ただしく行き来している。
帳面を預かる係の女中が忙しない様子で私に駆け寄ってきて頭を下げた。
「奥方様、失礼いたしました。お待たせしてしまいまして」
「いえ、構いません。こちらをお持ちいたしました」
私が持参した屋敷運営の管理帳簿を差し出すと、女中は頁をめくっていく。
「米蔵も布の配分も問題ございませんね。今月の支出もおさまっているようです。いつも助かります」
女中がほっとした様子の後に私へ笑いかけてくれたから、私も微笑み返す。
私でも少しは役に立てているのなら、それで充分だった。
「――さすがでございますわ。奥方様」
後ろを振り返ると弥生様が立っていた。
淡い藤色の装いは、まるでそこに花が咲いているかのように美しい。
「さすが天沼家のご出身でございますわね。帳簿管理ができますなんて……」
「いえ。たいしたことでは……」
「ご立派ですわ。しかし、本来であるならば奥方様は景継様の御前に立たれる機会の方が多くあるべきお立場です。女中頭がやるような仕事を奥方様がなさっていますなんて……。ここは奥方様が出入りする場所ではありませんわ」
穏やかな弥生様の声色に胸の奥が冷やされる。
責められているわけではない。
褒められてもいる。
それでも、言葉の裏はわかってしまう。
――あなたは景継様の御前にすら立たせてもらえない妻であると。
周囲の女中たちは気まずそうに視線を落とした。
弥生様のお言葉に口をはさむことなど、誰もできはしない。
「私はこちらで充分にございます」
景継様に求められていない場所を望みはしない。
私は私に出来ることをしていく。
弥生様は一瞬だけ真顔になった後、
「奥方様は健気でございますね」
と、微笑を向けてくる。
「ですが、直に景継様も考えを改められると思います。ご自身の妻としてのお役目を果たせるのは誰であるのかを」
柔らかな声音で、弥生様ははっきりと私に告げた。
弥生様を景継様の側室に……という風聞を聞いたこともある。
しんと静まり返った室内の空気を震わせたのは入り口にやってきた一人の家臣だった。
「弥生様。筆頭様がお呼びでございます」
「お父様が? 今、まいります。それでは奥方様、お引き留めしてしまいまして失礼いたしました」
弥生様は私に丁寧に腰を折ってから立ち去った。
姿が見えなくなると、ほんの少し呼吸がしやすくなったように思える。
「米蔵を確認してもよろしいかしら。帳簿と実際に合っているのか確認したいわ」
「失礼ですが、確認は女中にお願いして、奥方様は自室へと戻られてください」
「……え?」
「お察しくださればと」
護衛の一人が私へ頭を下げる。
「……承知いたしました」
聞き返したいことはあったけれど、素直に従う。
控えの間を出ると、廊下の空気が冷えていた。
季節だけのせいじゃない……。
警備の者がやけに多く感じる。
ぐるりと目線を中庭から廊下へと巡らせただけで何人も確認できた。
こちらへ背中を向けている警備の者が外壁近くに並んでいる。
――外……。
門のそばで聞いた名前が脳裏に過ぎる。
何の前触れもなしに来訪してきた”宮前”という名前の領主。
……考えるのはやめる。
私には関わりのない話だ。
自分の領分はわきまえなければいけない。
翌朝、屋敷内の空気はどこか緊張感で張り詰めていた。
表向きはいつもと何も変わらない。
屋敷内を行き交う女中、庭師が草木を手入れしている。
廊下へと進み出ると、すぐに私の背後には足音が揃った。
振り返ると、護衛が二名距離を保って控えている。
「奥方様はどちらにいらっしゃるのですか?」
「本日も奥の控えの間へと帳面を届けにまいります。あと外の空気を少し吸いたくて……」
「私が代わりにお届けいたします」
「ずっと部屋の中にばかりいるのも身体がなまってしまいます。米蔵の在庫が帳面と一致しているかも、この目で確認したいのです」
「――我々は務めで奥方様の後ろに控えておりますので」
護衛二人は深く私へと頭を下げた。
彼らが仕えているのは私ではなく景継様だ。
私が断ってよい雰囲気ではない。
表門近くまでは久々に足を運んだ。
青々と茂っていた草木の色は褪せ、乾いた土の香りが届く。
――少し、肌寒いかもしれない。
神経を尖らせた門番たちの声が耳に入ってきた。
「――宮前の使者だと?」
「急な来訪だな」
「様子見でしょう」
「内情を探りにきたか」
宮前の名前は聞いたことがある。
隣領を治める家で、近年は久我山家に負けず劣らず急激に勢力を伸ばしていると。
「人数が多すぎる。通しはするが、減らせ」
緊迫しているのが私にも伝染してくる。
後ろに控えていた護衛がいつの間にか私の前へと立っていた。
「奥方様、門の外が騒がしいようですので、こちらへ」
「私がお会いしてはいけませんか?」
「ご遠慮いただくよう、おおせつかっております」
誰からの命令など、尋ねるまでもなくわかっている。
客人に会わせてもらえない離縁寸前の妻。
私はそれを受け入れ理解している。
素直に踵を返す。
その背後で門の開く重たい音がした。
風がいっそう強く通り抜ける。
振り返ってはいけないとわかっていながら、まるで誘われるように目線を向けてしまった。
門の向こう側に、一人の男が立っている。
私のほうを真っ直ぐにじっと見つめていた。
男と目が合いそうな瞬間、
「――奥方様、気にせず参りましょう」
護衛の身体が私の視界を遮った。
「ええ。承知してるわ」
背後で門が閉じられる音が響き渡った。
護衛を連れたまま、控えの間へと入ると、女中たちが慌ただしく行き来している。
帳面を預かる係の女中が忙しない様子で私に駆け寄ってきて頭を下げた。
「奥方様、失礼いたしました。お待たせしてしまいまして」
「いえ、構いません。こちらをお持ちいたしました」
私が持参した屋敷運営の管理帳簿を差し出すと、女中は頁をめくっていく。
「米蔵も布の配分も問題ございませんね。今月の支出もおさまっているようです。いつも助かります」
女中がほっとした様子の後に私へ笑いかけてくれたから、私も微笑み返す。
私でも少しは役に立てているのなら、それで充分だった。
「――さすがでございますわ。奥方様」
後ろを振り返ると弥生様が立っていた。
淡い藤色の装いは、まるでそこに花が咲いているかのように美しい。
「さすが天沼家のご出身でございますわね。帳簿管理ができますなんて……」
「いえ。たいしたことでは……」
「ご立派ですわ。しかし、本来であるならば奥方様は景継様の御前に立たれる機会の方が多くあるべきお立場です。女中頭がやるような仕事を奥方様がなさっていますなんて……。ここは奥方様が出入りする場所ではありませんわ」
穏やかな弥生様の声色に胸の奥が冷やされる。
責められているわけではない。
褒められてもいる。
それでも、言葉の裏はわかってしまう。
――あなたは景継様の御前にすら立たせてもらえない妻であると。
周囲の女中たちは気まずそうに視線を落とした。
弥生様のお言葉に口をはさむことなど、誰もできはしない。
「私はこちらで充分にございます」
景継様に求められていない場所を望みはしない。
私は私に出来ることをしていく。
弥生様は一瞬だけ真顔になった後、
「奥方様は健気でございますね」
と、微笑を向けてくる。
「ですが、直に景継様も考えを改められると思います。ご自身の妻としてのお役目を果たせるのは誰であるのかを」
柔らかな声音で、弥生様ははっきりと私に告げた。
弥生様を景継様の側室に……という風聞を聞いたこともある。
しんと静まり返った室内の空気を震わせたのは入り口にやってきた一人の家臣だった。
「弥生様。筆頭様がお呼びでございます」
「お父様が? 今、まいります。それでは奥方様、お引き留めしてしまいまして失礼いたしました」
弥生様は私に丁寧に腰を折ってから立ち去った。
姿が見えなくなると、ほんの少し呼吸がしやすくなったように思える。
「米蔵を確認してもよろしいかしら。帳簿と実際に合っているのか確認したいわ」
「失礼ですが、確認は女中にお願いして、奥方様は自室へと戻られてください」
「……え?」
「お察しくださればと」
護衛の一人が私へ頭を下げる。
「……承知いたしました」
聞き返したいことはあったけれど、素直に従う。
控えの間を出ると、廊下の空気が冷えていた。
季節だけのせいじゃない……。
警備の者がやけに多く感じる。
ぐるりと目線を中庭から廊下へと巡らせただけで何人も確認できた。
こちらへ背中を向けている警備の者が外壁近くに並んでいる。
――外……。
門のそばで聞いた名前が脳裏に過ぎる。
何の前触れもなしに来訪してきた”宮前”という名前の領主。
……考えるのはやめる。
私には関わりのない話だ。
自分の領分はわきまえなければいけない。



