――久我山家の若き当主、景継様の元に嫁いで、もう三年が経とうとしている。
にも関わらず、私、小鞠は夫の景継様と食事を共にしたことがない。
この屋敷の人間の誰もが、そして何より私自身がそれを疑問にすら思わなくなっていた。
「奥方様、本日の夕餉もお部屋へとお運びいたします」
「ええ。お願いします」
障子の向こうから、かけられた女中の声にも、どこか形式だけの響きが混じっていた。
「ああ……毎度のことなのに、どうして毎日、奥方様に事前報告しなくてはいけないのかしら」
「聞こえてしまうわよ。形ばかりの奥方様に」
「そろそろ景継様から離縁を切り出されるのではないかしら」
「景継様には弥生様のほうがお似合いでいらっしゃるわ」
くすくすくすと女中たちの冷笑と足音が遠ざかる。
私は筆を置いて、帳面を閉じた。
――形ばかり……その通りだ。
私は妻の立場でありながら、景継様と肌を合わせたことはもちろん指一本ですら触れられたことはない。
この婚姻は家同士の取り決めで成立したもの。
景継様が若くして家を継いでから、久我山家は目に見えて栄えたと聞く。
戦が終わり、武功を重ねて領地を広げた久我山家が名門の名を求め、由緒正しくも没落しかけている旧家の天沼家の後ろ盾を必要とした。
家を立て直したい天沼家にとっても、
名門の血統を取り込みたかった久我山家にとっても、
双方にとって、景継様と私との婚姻は合理的なものだった。
けれど、忙しいという理由だけでは片づけられないほど、景継様とはお顔を合わせることすらなく、稀に廊下ですれ違っても距離を保たれたまま、軽く会釈されるだけ。
景継様は多くを語らない。
それでも家臣たちは迷いなく従っていた。
私の夫は、ただひたすらに遠い人。
最初から私に近づく気すらなかったのかもしれない。
妻として求められないのなら、せめて久我山家のお役に立てるようにと……。
帳面に向き直った、その時だった。
「――景継様のご命令だ。奥方様の警護を増やせ」
障子の向こう側、廊下が何やら騒がしい。
緊張感を帯びた低い声が交わされ合っていた。
「奥方様……というのは私のこと……?」
呟いたところで、答える者などいるはずもなく、私の声が空気へと溶けただけ。
私の護衛が増える理由に思い当たるところはなかったけれど、景継様のご命令ということは何か事情が隠れているのだろう。
一人で考えたところで、答えの出ないことは打ち切る。
それが三年の結婚生活で私が身につけた思考方法だった。
翌日の久我山家の屋敷内は朝から慌ただしかった。
近隣領主の使者が来訪すると耳に入る。
本来であれば景継様の正妻である私が同席しなくてはいけない場面。
天沼家で生まれ育ってきた私は母の姿から、そう学んでいる。
呼ばれているわけではない。
――でも、装いを整えて控えておくのが妻としての務めだわ。
自分の小さく、ふっくらとした唇に久しぶりに紅を引く。
普段よりも自分の顔が色づいた気がした。
「奥方様、失礼いたします」
襖越しに鈴を転がすような声がしたかと思うと、静かに開かれていく。
振り向くと久我山家家臣団の筆頭である大宮佳親様のご息女である弥生様が淡い藤紫の打掛を着こなして立っていた。
「おはようございます。奥方様」
「ええ。おはようございます。弥生様」
年の頃は私とそう違いない弥生様。
弥生様は美しく流れるような所作だった。
「本日の今川様のご対応は、私が承っております」
弥生様は穏やかな笑顔でそう告げた。
「承る……とは?」
「今川様は旧知の大切な客人です。私のほうが久我山家に詳らかでございますし、景継様もご多忙を極めていらっしゃいます。奥方様のご負担になりませぬよう家中で相談いたしました。奥方様は安心してお休みくださいませ」
弥生様は丁寧な物言いだった。
私に気遣いされている……。
正妻である私の役目を奪われているわけではない。
あくまで配慮という形だ。
「さようでございますか。お気遣い、感謝いたします」
私は弥生様に頭を下げた。
我を通して場を乱してはならない。
それが天沼家で育った私が学んだこと。
「それでは、失礼いたします」
襖を閉めていく弥生様の背後で、見覚えのない護衛の男が目に入った。
「――決して奥方様から目を離すな」
その低い命令に頷く低音も複数聞こえた。
私を見張られている?
お飾りの妻が客人に出過ぎた真似をしないか監視されているのだろうか?
鮮やかなまでに色づいた自分の唇が、とても虚しく感じられてしまった。
ふと、屋敷の空気が変わったのを部屋の中でも拾いとる。
不自然なまでに静まり返った屋敷内。
規則正しく、一切の迷いのない足音。
視界に入れなくてもわかる。
――久我山家当主、景継様のものであると。



