「橋本」
4時限目の授業の後、教室で担任に呼び止められた。
「え? なんすか?」
「なんすかじゃねぇよ。進路調査表、うちのクラスで出してねぇの、お前だけだぞ」
「あー……」
そういえば、すっかり忘れていた。しゅんとなった俺の頭を、先生は呆れたように軽く叩いた。
「明日まで待つから。ちゃんと考えろよ、三年だぞ」
「あざっす……」
そう、ついに俺たちも三年生だ。
クラス替えはなかったから、メンツは見慣れている。
だけど……。
教室を見渡して、ふっとため息を吐いた。
四月の教室はなんだか空気が違う。一年の頃は浮かれていて、二年の頃はすっかり慣れて、三年になった途端、みんな急に真面目な顔になる。
俺の机に座ったたもっちゃんが、コンビニで買ってきた菓子パンの袋を開けた。
「なぁ、たもっちゃーーん。進路、なんて書いた?」
「商学部。家業継ぐから」
はっきりとした将来を告げられ、たもっちゃんへの尊敬と、置いてかれたような寂しさで少しだけ胸がちくりとする。
そっかぁ、と机に突っ伏しながら返事をしている俺の隣に今度は翔太郎が座った。
「俺は兄貴と一緒の大学で、経済学部」
「ガチ……!? ああ……でも、翔太郎ならいけるか……」
「俺、教育学部! 体育の先生狙う!」
そう言いながら、楓も俺の前の席に腰を下ろす。
全員、ちゃんと答えを持っていた。
「マジか……お前ら、いつ決めたんだよぉ……」
「え、いつって……二年の途中くらいから?」
「だよなぁ。ていうか、大晴のほうが珍しいんじゃね? ノープランって」
「ノープランっていうか……」
俺は机の上に放り投げた、しわしわのプリントを見た。
第一志望、第二志望、第三志望。
……マジで、何書きゃいいんだ。
「相談したら? 彼氏に」
楓がそう言い、たもっちゃんもにやにやしてこっちを見る。翔太郎はげんなりした表情で、弁当を食べ始めた。
ちなみに彼氏とは、もちろん翔太郎のクソ兄貴こと蓮司さんのことだ。
翔太郎にバレた日からしばらくして、俺は蓮司さんに「たもっちゃんと楓だけには言ってもいいですか……?」とおずおずと聞いた。
蓮司さんは「あいつらか……」と一瞬嫌な顔をしたけれど、いつもどおり淡々と返す。
――いいよ。
かなりうれしかった。
翌日、照れながらカミングアウトした俺に、たもっちゃんと楓は「は?」と固まり、それからげらげらと笑い出し、「マジであの蓮司さんと!?」「まぁでも、大晴ならありえるわ!」と肩をばしばし叩かれた。
以来ふたりは、俺がスマホを見ていると「すきピからぁ?」とにやにやしてくる。最初は気恥ずかしくて困っていたけれど、最近は俺も慣れてきて、「そう、好きピ♡」と返せるくらいにはなっていた。
「蓮司さんに、相談かぁ……」
眉間に皺を寄せて、いつも説教をしてくるうるせぇ好きピを思い出す。
蓮司さんは頭が良くて、経験が豊富で、俺とは比べられないくらい大人だ。俺が高校生だからって、未だにキス以上してこないくらい……。いや、手ぇ出せよ、清水蓮司。
「……よし、ちょうど今日会うし、蓮司さんに相談してみるわ!」
にかっと笑ってみせる。
たもっちゃんが「お前ほんと大丈夫かよ」と笑った。
「いいんだよ、大晴は。大晴のペースで」
翔太郎は、何気なくそう言って玉子焼きを齧った。
俺は「翔太郎、好き♡」なんて茶化しながら、しわしわのプリントをかばんに突っ込んだ。
……でも、内心は、めちゃくちゃ焦っていた。
これまでの人生で、未来のことを真剣に考えたことがなかったかもしれない。
夕飯のおかずとか、来週の小テストとか、土日のバイトのシフトとか、そういう短いスパンのことばっかり考えて、「なんとかなるっしょ」「楽しけりゃおっけー」って感じで、にこにこご機嫌に笑って生きてきた。
でも、ふと、こうやってみんなが進路の話をしてるのを聞いていると、ようやく気づく。
……俺、何になりたいんだ?
*
その日のバイト帰り。
四月の夜は、まだ少し肌寒い。蓮司さんと並んで歩きながら、俺は何気ない感じで聞いてみた。
「蓮司さんって、卒業したらどうするんすか」
蓮司さんは少し驚いたように、こっちを見た。
「……まだ完全には決めてねぇよ。就職か、院に進むかで迷ってる」
「院……? 大学院!?」
「ああ。研究、続けてみたい気もしてて」
「マジか……かっけぇ……」
心の底から、声が出てしまった。
「就職するとしたら、どこ受けるんすか」
「絞ってんのは、地元の公務員か、地銀。ちょっと前に新聞社の説明会も覗いてみたわ」
「えっと、全部、地元っすか……?」
「……まあ、できれば残りてぇなって思ってるよ」
ぽつりと言った蓮司さんの横顔を、俺は見上げた。
地元に残る理由——たぶん、いろいろあるんだろう。家族に近い場所にいたいとか、生活コストとか、慣れた街がいいとか。
でも、その「いろいろ」の中に、ほんの少しでも、俺がいたらいいなって、勝手に思ってしまった。
「お前は、進路どうすんの?」
蓮司さんに聞かれて、俺はうっと言葉に詰まった。
「……まだ、決めてなくて」
「ふうん」
「ガキみたいな話なんすけど、自分が何になりたいのか、よくわかんなくて。みんなはちゃんと考えてんのに、俺だけ、なんもなくて」
「……」
「翔太郎は経済系で、たもっちゃんは商学で、楓は教育学部って言ってて。俺、自分のことなんも見えてねぇなって、今日めっちゃ思いました」
しゃべってるうちに、ちょっと泣きそうになった。
蓮司さんはしばらく黙って歩いてた。それから、ぽつりと言った。
「お前が好きなもんは?」
「えっ」
「それを起点に大学考えたら?」
好きなもの。
俺の頭の中に、真っ先に浮かんできたのは……蓮司さんだった。
いや、それはそうなんだけど、進路に書けるかよ、第一志望「清水蓮司」って。
「……考えときます」
「ああ」
笑った蓮司さんが、俺の頭を一回だけくしゃっと撫でた。
それだけで、心臓が痛いくらい軋む。
俺の一番好きなもの、清水蓮司。
家に帰ってから、自室でスマホを開いた。蓮司さんの大学の名前を検索し、出てきた偏差値を見て、ぽとりとスマホを落とす。
「はぁ……!?」
いや、嘘でしょ。偏差値の差がエグい。
「無理じゃん、無理! 絶対無理!」
ベッドの上で転がりながら、俺はしばらく天井を見つめた。
無理。普通に考えて無理。
でも――。
蓮司さんと、同じキャンパス。同じ通学路。同じ食堂。
休み時間に「蓮司さん!」って突進できる距離。
想像したら、もうそれが欲しくて欲しくてたまらなくなった。
「……いや、待てよ」
がばっと起き上がる。
蓮司さんが言ってたじゃん。「好きなものを考えて大学決めろ」って。
俺の好きなものは、何があっても蓮司さんだ。
ぜったい無理だって思って諦めるのは、まだ早ぇだろ。
だって、こちとら大きく晴れる、橋本大晴なんだぞ。
*
翌日。バイトのシフト終わりに、俺は蓮司さんのアパートに転がり込んだ。
「蓮司さん」
「ん?」
「言いたいことがあります」
「……なんだよ、改まって」
蓮司さんは本を閉じた。俺はソファの前にちょこんと正座して、深呼吸した。
「俺、蓮司さんと同じ大学行きたいっす」
空気が一瞬、止まった。
蓮司さんが「は?」みたいな顔をしている。これは……無理って言われるパターンだと察しながらも、俺は開き直って蓮司さんを睨みつけた。
「……どういう理由で決めた?」
じっと見つめてくる蓮司さんに、ゆっくりと口を開く。
「れ……蓮司さんがいるから」
かなり恥ずかったけれど、正直に言った。
きっとばかにされんだろうな、と思う。それから「お前、進路をそんな理由で決めんなよ」って怒られるのも覚悟した。
でも、蓮司さんは少しだけ目を伏せてふっと笑った。
「わかった」
「えっ、マジで!?」
「きっかけなんて、最初はそんなもんだろ」
まじ? 蓮司さん、俺の言ってること、ちゃんと受け止めてくれた?
ぽかんとしている俺に、蓮司さんは真顔になって続ける。
「でも、今のお前の偏差値じゃ無理だな」
「そ、そうっすよね、わかってます……。だけど、俺、挑戦したいです! 無理かもしんねぇけど、やってみたいんです! やっぱ、やらないより、やってから後悔したいっていうか!」
ぐっと拳を握って言ったら、蓮司さんが少しだけ目を細める。
「ああ、その意気だ。……お前の勉強見てるけど、地頭はわるくねぇと思うよ。俺も勉強教えてやるから、死ぬ気でやれ」
「えっ!? 蓮司さんっ、教えてくれるんすか!?」
「塾とかと並行でな。俺はあくまで補助。基礎の詰めと、お前のサボり監視」
「えー、蓮司さん、大好きー!」
「ほんとうるせぇな」
口ではそう言うくせに、俺が飛びついたら強く抱きしめてきた。頭を撫でる手つきだって甘々だ。
おい、清水蓮司。俺のこと、けっこう好きなんじゃないですか?
*
その夜から、俺の生活はガラッと変わった。
翌日、蓮司さんちに行ったら、もう机の上には問題集の山ができていた。
「さ、さっそくっすね……?」
うずたかく積まれた問題集を見上げて、思わず半歩あとずさりそうになったけれど、がんばって前に進んだ。
俺だって今日は相応の覚悟を持ってやって来たんだ。
「あの、蓮司さん」
「ん?」
「俺……考えたんすけど、蓮司さんといるとすぐいちゃいちゃしたくなるっていうか、蓮司さんのメロさにやられるっていうか。だから、今日から願掛けの意味を込めて、抱っこもキスもお預けにしようかなって……やめられないし、とらまないのが清水蓮司なんで……」
蓮司さんが驚いたように目を見開く。
「もうほんとマジで血が出てんのかってくらい俺にとっては痛い選択なんですけど、これは合格するためには必須だなって思ってて……あ、でもやっぱやめ――」
「俺もそう言おうと思ってたよ」
「……へ?」
「良い心がけだな、大晴」
蓮司さんが優しく目を細めて笑った。
こういう顔、ほんとずるい。
ていうか、蓮司さんも同じこと考えてたのか。それはそれでちょっと寂しい気もして……。でも、たぶん蓮司さんは蓮司さんで、俺の合格を本気で考えてくれていたってことなんだろう。
「がんばろうな、大晴」
「が、がんばります……!」
拳を握って言うと、蓮司さんは短くうなずいてくれた。
「がんばろうな」の「な」のところに、なんだか全部つまっている気がした。お前ひとりで戦うんじゃなくて、俺も一緒に戦うから、みたいな。
深読みしすぎかもしれないけれど、やっぱりそういうところが蓮司さんだと思うのだ。
ぜってー、蓮司さんと同じ大学に行って、バラ色キャンパスライフを掴むんだ!!!!
心の中で叫びながら、俺は問題集に向き合った。
数学。古文。英語。世界史。
「蓮司さん」
「あ?」
「俺、たぶん、思ってたより……ばかかもしれません」
「それがわかったってことは、頭が良くなってる証拠だよ」
……ほんとかよ、清水蓮司。
*
バイトのシフトは、週四から週一に減らした。
店長は「がんばれよ」としみじみ言ってくれた。海斗さんは「蓮司もめっちゃ張り切ってんのな? あいつが他人のためにあんなに動くの初めて見たわ 」とニヤニヤしていた。
翔太郎たちには、最初しばらく言えなかった。なんとなく恥ずかしくて、言葉にする勇気がでない。
でも、放課後すぐ帰るようになった俺を見ていた彼らに詰められて、観念して打ち明けた。
俺が「蓮司さんと同じ大学行きたい」と言ったとき、翔太郎は一瞬ぽかんとして、それから頭を抱えて「大晴……」と呆れていた。
たもっちゃんと楓は「マジか、大晴」「相変わらず、ぶっとんでんなぁ」と顔を見合わせて、それから笑って「応援する」と言ってくれた。翔太郎は、最後まで何かを考えるような顔をしていたけれど、ぽつりと「がんばれよ」と言った。
今ではみんなで、翔太郎が通っている塾に通っている。
蓮司さんの家での勉強会は、今まで以上にスパルタになった。
俺がぼーっとしてると「集中しろ」と低い声が飛んでくる。古文の文法を間違えると「ここ、昨日もやったとこ」とサクッと指摘される。だけど、問題が解けるとちゃんと褒めてくれる。
真剣に問題を解いている最中、ふと顔を上げると、蓮司さんがじっと俺を見つめていた。
「も、もしかして、間違ってます……?」
蓮司さんは「あ」みたいな顔をして、それから、「いや、悪い……」とめちゃくちゃ素直に謝ってきた。
どうして謝るのか、きょとんとした俺に、蓮司さんがバツの悪そうな顔を浮かべる。
「お前が……、……いなと思って……」
「え?」
「……かわいいなと思って」
俺はじわじわと頬が熱くなるのを感じていた。
「ちょっ、そういうのやめてくださいよ!」
「だから、悪かったって言ってんだろ!」
「べっ、勉強続けますからね!」
「当たり前だ! さっさとやれ!」
互いにぶち切れながら、また勉強を始める。蓮司さんは本を読み始めていて、もう俺を見ていなかった。
だけど、さっき刺さった視線だけは、未だに俺の頬を熱くしている。
自分で提案しといて、抱き合えないのがこんなにも寂しい。
俺はぐっと唇を引き結んで、また問題集に向きあった。
心の中で、「ぜったい受かったら蓮司さんにめちゃくちゃ甘えてやるからな!」と叫びながら。
*
「や、やった!」
夏の模試の結果を持って、俺は飛び上がっていた。
D判定。E判定の常連だった俺が、Dに上がったのはまずまずの奇跡だ。
蓮司さんにさっそく結果を見せたら、小さくうなずいた。
「まずは一歩だな。よくやった」
「あざっす!」
「次もがんばれよ」
「はい!」
秋の模試では、またひとつ判定が上がった。
C判定。
答案が返ってきた日、俺は教室で何回も結果を見直した。「橋本大晴」の名前と、「C」の文字。何度見ても、たしかに「C」と書かれている。
夢じゃなかった。
「翔太郎ぉぉぉ、見て! Cだ! C判定!」
「マジかよ、よかったじゃん」
「俺、イケる……ぜったいイケるわ!」
「あんま調子乗んなよ……」
翔太郎は呆れたように笑ったけれど、なんだかんだ喜んでくれてるみたいだ。
その夜、蓮司さんに結果を見せたら、いつもよりずっと長ーーーーく頭を撫でてくれた。
「ようやくここまで来たな」
「来ました!」
「気を抜くなよ」
「はい!」
夜。布団に入ってからも、にやにやが止まらなかった。
このままいけば、もしかして、ほんとに……?
蓮司さんと、同じキャンパス。
同じ食堂で昼飯を食って、講義の合間に「蓮司さん、お疲れー」とか言って、手を振り合って、帰り道は一緒に帰る。
空いた時間に図書館で勉強してる蓮司さんを見つけて、ちょっかい出して、めちゃくちゃ睨まれて、それもぜんぶ幸せで。
ヤバい、未来、楽しすぎ。
その日の夜は、最高にしあわせな夢を見た。
*
そうして迎えた十一月。
模試の結果が返却された日。俺はその紙をしばらく見つめていた。
数字がかすんで見える。だけど、何度見てもD判定だ。
塾の自習室から近くの空き部屋に移動して、俺は扉を閉めた。
誰もいない部屋で、「くそっ」と悪態をつきながらしゃがみ込む。
ばかだ、何やってんだよ。
あれだけがんばったのに。
蓮司さんに、あんなにたくさん教えてもらったのに。
C判定が出た時、もしかしたらいけるかもって調子に乗っていた。あの時、未来のキャンパスライフまで想像してにやけてた俺がほんとうにばかみたいだ。
春からずっと、机に向かい続けてきた。バイトも遊びも我慢して、蓮司さんとのいちゃいちゃも我慢して、ぜんぶ削って、ぜんぶ勉強に注いだ。
なのに。
やっぱ……ぜんぜんだめじゃん。
こんなにやっても届かないなら、俺、何をどうがんばればいいんだよ。
「大晴ー!」
扉の外で足音と俺を呼ぶ声が聞こえた。たぶん翔太郎たちだ。今日、たもっちゃんが「塾終わったら、みんなでマック行こうぜ」って言ってたのを、思い出す。
「おーい? お前、ここにいんの?」
たもっちゃんの声。喉が詰まって、すぐに返事ができなかった。
「何? どうしたんだよ。大晴、いるんだろ?」
翔太郎の声。
「あー、ごめん! 今日はパス! 俺抜きで行って!」
平静を装おうとしても、どうしても声が震えてしまう。
「おい、開けろよ。大晴」
「……え、どしたん。大晴?」
「もしかして、模試のD判定のこと? あんなん目安だから気にすんなって!」
「なぁ、大晴! マジで心配になるから開けろって!」
「おい、たいせー!」
みんな俺の声色で何かを察したんだ。誰かが扉を開けようとして、ガチャガチャとドアノブを回す。
俺は咄嗟に鍵を締めて、首を横に振った。扉に向かって叫ぶ。
「入ってきたら絶交だからな! マジで!」
「……はぁ!?」
「もういいから、帰れって!」
こんな情けない顔を、誰にも顔を見せたくなかった。
翔太郎にも、たもっちゃんにも、楓にも。
扉の外で、三人がひそひそと話している声がするけれど、何を言っているのかはわからない。
翔太郎たちはしばらく粘っていたみたいだったけど、どうやら諦めてどこかに行ったみたいだった。
よかった。ひとりにしてくれて。
俺はしゃがみこんだまま、目を閉じた。
……だめだ。
ちゃんと顔を上げて、もう一回がんばらないと。
わかってる。わかってるんだけど、心が重くてどうしても動けない。
どれだけそうしていたのだろう。
――ガチャ。
鍵の開く音がして、パッと顔をあげた。息が止まる。
「……あ」
……蓮司さん、だった。
「な、なんでいんですか」
蓮司さんはなぜか右手に部屋の鍵を持っていて、何も言わずに後ろ手に扉を閉めた。それからつかつかと俺の前に来て、顔を覗き込むようにしてしゃがみ込む。
「お前さ、」
低い声だった。
どこかで聞いたような気がする。俺は泣きそうになりながらも、思い出していた。
そうだ。初めて会った時、蓮司さんに言われた言葉。「お前さ、黙ってらんねぇの?」それと、まったく同じトーン。
「俺との約束、忘れたのかよ」
ひゅっと息を呑んだ。
「死ぬ気でやれって言ったろ。閉じこもってる時間あんなら、机に向かえ」
淡々と、でも、ちゃんとぜんぶ届く声だった。
蓮司さんの顔を見たら、どうしても我慢できなくて、ぼろぼろと泣いた。
自分の意思ではもう止められなかった。
「……っ、で、でも、D判定で……、俺、蓮司さんと同じ大学行きてぇのに、ぜったい無理で……、蓮司さんに、あんなにたくさん教えてもらったのに……」
しゃくりあげながら、続ける。
「俺、……あの大学、受かりてぇのに……」
最初は、ただ蓮司さんと同じ大学っていうだけだった。
蓮司さんと同じキャンパスに行きたい。それだけが理由だったし、それだけで十分だった。
でも、勉強を始めて、何度もパンフレットをめくっているうちに、いつのまにか、俺はあの大学のことが本気で好きになっていた。
経済学部のシラバスを眺めて、面白そうな授業を見つけた。
オープンキャンパスの動画を見て、講義室の雰囲気にわくわくした。
キャンパスの中庭に、銀杏の木がたくさんあるのを知った。秋になると、黄色い葉っぱで地面が埋まるらしい。
俺、あそこで、勉強したい。
あの食堂で昼飯食って、あの図書館で本読んで、あの中庭、四年間歩きたい。
蓮司さんがいるから、っていう気持ちは、もちろんある。
でも、もうそれだけじゃない。
俺の意思で、あの場所に行きたいんだ。
「……っ、行きたいんすよ、ほんとに……」
蓮司さんは、しばらく俺の頭をいつものようにぐしゃぐしゃと撫でた。
「今日は特別だ」
「な、何が……」
「来いよ」
蓮司さんは膝をついて、両手を広げた。ずっと張り詰めていた何かがぷつりと切れた気がした。
迷ったのは、ほんの一瞬だ。
蓮司さんのほうに体を傾けたその瞬間、ぐいっと強い力で腕を引かれた。
「……っ」
気づけば、俺は蓮司さんの腕の中に閉じ込められていた。抱きしめる手が苦しいくらい強くて、思わず息が止まる。
「あー……久しぶりだな、お前の匂い」
頭の上で、ぼそりと言われて、俺は無言でうなずいた。
俺だって蓮司さんの匂いを感じている。久しぶりの蓮司さんの匂い。
「お前はよくやってるよ、大晴……。本当にすごいし、えらい。マジで惚れ直してる」
蓮司さんの大きな手が、俺の背中をぽんぽんと叩いた。
ゆっくりと、子どもをあやすみたいに。
「シフト減らして、遊びも我慢して、ちゃんと机に向かって。そういうの、あいつらも俺も、ずっと見てるからな」
「……っ」
翔太郎たちの顔が浮かぶ。今も心配させてしまっているだろう。
「それにD判定がなんだよ。うちの大学、D判定からの逆転合格、結構いんだからな」
ぐっと顔を上げる。
蓮司さんは、まっすぐ俺を見ていた。
「俺も受験のとき、嫌ってほど判定の数字とにらめっこしてたから覚えてるよ。D判定ってのは、合格可能性35%。100人いたら35人受かる判定だ。決して『落ちる側』じゃねぇんだよ 」
「……っ、で、でも」
「聞け、大晴。うちの大学はとくに、本番の出来で結構ひっくり返る。共通テストで多少ミスっても、二次でちゃんと取れれば受かるやつが毎年いる。逆もあるけどな」
「……」
「まぁ、あれだけ集中してたお前なら、十一月の判定はただの通過点だ。本番までまだ三ヶ月以上ある。現役は最後の三ヶ月で、信じられねぇくらい伸びるからな」
淡々と、でも、ひとつひとつ事実を積み重ねるみたいに、蓮司さんは話した。清水蓮司らしい慰め方だった。
ロジカルで、容赦なくて、嘘がない。
「……わかり、ました」
少しだけ落ち着いた。
「覚えてるか? 初めて会った時、俺がお前の目の前で扉を閉めたのに、お前はそんなん知ったこっちゃねぇって感じで、開けてきたよな?」
「……覚えてます。……だって、蓮司さんともっとしゃべりたかったし」
「俺はそういうお前がさ、かわいくて仕方ねぇよ、マジで」
俺はぽかんと口を開けた。蓮司さんは笑いを堪えるように俺を見ている。
かぁっと全身が熱くなっていく。
「もう蓮司さん! ほめすぎですって! ツンデレのツン、ちゃんと出してくださいよ!」
「……あ?」
「俺の知ってる清水蓮司は、もっと塩なんで! なんかキャラ違うんで!」
「ばーか」
「あ、それそれ! その調子です!」
言いながら、俺は笑ってしまった。
蓮司さんも、肩を揺らして笑った。
笑ったらまた涙が出たけど、もう悲しい涙じゃなかった。
「……蓮司さん、よく塾の鍵、借りられましたね」
「俺、ここの生徒だったからな。受付のおばちゃんが覚えててくれたわ」
「あー、なるほど……」
「翔太郎が連絡してきたんだよ。俺らじゃ無理だから来てくれって」
「……翔太郎たちが」
俺は鼻をすすって、蓮司さんの胸に額を埋めた。
明日からぜったいに折れない。
だから、今日だけは蓮司さんに甘えさせてほしい。
*
そこからの俺は、たぶん、人生で一番、勉強した。
冬休みも、正月も、ぜんぶ机に向かった。
元日に、蓮司さんが「お年玉」と言って、新しい問題集をくれた。お年玉の概念。
一月。共通テスト本番が来た。
二日間、ガチガチに緊張しながら受けて、終わった日の夜、蓮司さんちに駆け込んで自己採点を見てもらった。
「……ボーダー、ぎりぎり越えてる」
「ま、マジっすか……?」
「ああ。二次でちゃんと取れば、十分勝負になる」
そこからまた一ヶ月、追い込んだ。蓮司さんが過去問を解く時間を計ってくれて、間違えたところをぜんぶ洗い出して、何度も何度もやり直した。
二月。二次試験本番も、無事に終わった。
手応えは、正直、よくわからなかった。でも、やれることはぜんぶやった。
そして、合格発表の日。
蓮司さんの家で、スマホを開いた。画面を見るのが怖くて、何度も指が止まった。
「あー! 無理! 俺、見れねぇって……! 蓮司さん、見てください!」
「なんでだよ。ちゃんとお前が見ろ。隣にいてやるから」
隣にいてやるから、とか言いつつ、蓮司さんは俺の隣で本を読んでいた。
いつもみたいに、淡々と。
俺は深呼吸して、画面をタップした。
ぐるぐると、ロード中の表示が回る。
心臓がうるさい。
受験番号を入力する手が、震えた。
ぱっ、と、画面が切り替わる。
「あっ、……あっ……」
「どうだった?」
俺はスマホを蓮司さんに向けた。
蓮司さんは、画面を見て、それからとっても嬉しそうに笑った。
「やったな、大晴」
「うっ……ううぅ……」
「泣くな、ばか」
「だっで、だっでぇ……」
俺は、蓮司さんに飛びついた。
蓮司さんは、しっかり受け止めてくれた。
ひとしきり抱きついて、ようやく落ち着いてきた。
受かった。マジで、受かったんだ。
俺は蓮司さんに両腕を回して、にやけきった顔を隠そうともしなかった。
「これで、同じキャンパスっすね……へへっ」
「ああ」
「……蓮司さん」
「なんだよ」
「大学生になったら、手、出してくれるんでしょ?」
蓮司さんはゆっくりと顔を寄せてきて、俺の耳元で口を開く。
「覚悟しとけよ、大晴」
「ふあ、っ……!?」
俺は飛び上がる勢いで蓮司さんから離れた。
蓮司さんは、「お前、ほんとそんなんで大丈夫か?」と楽しそうに笑っている。
心臓が、もう、ぜんぜんだめ。爆発しそう。
「蓮司ASMR、エッロ……」
俺は赤い顔のまま、耳をぐっと押さえた。
まだ、蓮司さんの声が、耳の奥で響いている。
「おい、大晴。やっとハグ解禁になったんだから、こっち来いって」
「……あ、はい」
俺は素直に蓮司さんの腕の中に入った。蓮司さんは俺の髪を何度も撫でながら、目を瞑って口を開く。
「あとでみんなに連絡しろよ」
俺は赤い顔でこくりとうなずいた。
……いやマジで、ヤバい。
桜が咲いたら、俺は大学生になる。蓮司さんと同じ、キャンパスで。
4時限目の授業の後、教室で担任に呼び止められた。
「え? なんすか?」
「なんすかじゃねぇよ。進路調査表、うちのクラスで出してねぇの、お前だけだぞ」
「あー……」
そういえば、すっかり忘れていた。しゅんとなった俺の頭を、先生は呆れたように軽く叩いた。
「明日まで待つから。ちゃんと考えろよ、三年だぞ」
「あざっす……」
そう、ついに俺たちも三年生だ。
クラス替えはなかったから、メンツは見慣れている。
だけど……。
教室を見渡して、ふっとため息を吐いた。
四月の教室はなんだか空気が違う。一年の頃は浮かれていて、二年の頃はすっかり慣れて、三年になった途端、みんな急に真面目な顔になる。
俺の机に座ったたもっちゃんが、コンビニで買ってきた菓子パンの袋を開けた。
「なぁ、たもっちゃーーん。進路、なんて書いた?」
「商学部。家業継ぐから」
はっきりとした将来を告げられ、たもっちゃんへの尊敬と、置いてかれたような寂しさで少しだけ胸がちくりとする。
そっかぁ、と机に突っ伏しながら返事をしている俺の隣に今度は翔太郎が座った。
「俺は兄貴と一緒の大学で、経済学部」
「ガチ……!? ああ……でも、翔太郎ならいけるか……」
「俺、教育学部! 体育の先生狙う!」
そう言いながら、楓も俺の前の席に腰を下ろす。
全員、ちゃんと答えを持っていた。
「マジか……お前ら、いつ決めたんだよぉ……」
「え、いつって……二年の途中くらいから?」
「だよなぁ。ていうか、大晴のほうが珍しいんじゃね? ノープランって」
「ノープランっていうか……」
俺は机の上に放り投げた、しわしわのプリントを見た。
第一志望、第二志望、第三志望。
……マジで、何書きゃいいんだ。
「相談したら? 彼氏に」
楓がそう言い、たもっちゃんもにやにやしてこっちを見る。翔太郎はげんなりした表情で、弁当を食べ始めた。
ちなみに彼氏とは、もちろん翔太郎のクソ兄貴こと蓮司さんのことだ。
翔太郎にバレた日からしばらくして、俺は蓮司さんに「たもっちゃんと楓だけには言ってもいいですか……?」とおずおずと聞いた。
蓮司さんは「あいつらか……」と一瞬嫌な顔をしたけれど、いつもどおり淡々と返す。
――いいよ。
かなりうれしかった。
翌日、照れながらカミングアウトした俺に、たもっちゃんと楓は「は?」と固まり、それからげらげらと笑い出し、「マジであの蓮司さんと!?」「まぁでも、大晴ならありえるわ!」と肩をばしばし叩かれた。
以来ふたりは、俺がスマホを見ていると「すきピからぁ?」とにやにやしてくる。最初は気恥ずかしくて困っていたけれど、最近は俺も慣れてきて、「そう、好きピ♡」と返せるくらいにはなっていた。
「蓮司さんに、相談かぁ……」
眉間に皺を寄せて、いつも説教をしてくるうるせぇ好きピを思い出す。
蓮司さんは頭が良くて、経験が豊富で、俺とは比べられないくらい大人だ。俺が高校生だからって、未だにキス以上してこないくらい……。いや、手ぇ出せよ、清水蓮司。
「……よし、ちょうど今日会うし、蓮司さんに相談してみるわ!」
にかっと笑ってみせる。
たもっちゃんが「お前ほんと大丈夫かよ」と笑った。
「いいんだよ、大晴は。大晴のペースで」
翔太郎は、何気なくそう言って玉子焼きを齧った。
俺は「翔太郎、好き♡」なんて茶化しながら、しわしわのプリントをかばんに突っ込んだ。
……でも、内心は、めちゃくちゃ焦っていた。
これまでの人生で、未来のことを真剣に考えたことがなかったかもしれない。
夕飯のおかずとか、来週の小テストとか、土日のバイトのシフトとか、そういう短いスパンのことばっかり考えて、「なんとかなるっしょ」「楽しけりゃおっけー」って感じで、にこにこご機嫌に笑って生きてきた。
でも、ふと、こうやってみんなが進路の話をしてるのを聞いていると、ようやく気づく。
……俺、何になりたいんだ?
*
その日のバイト帰り。
四月の夜は、まだ少し肌寒い。蓮司さんと並んで歩きながら、俺は何気ない感じで聞いてみた。
「蓮司さんって、卒業したらどうするんすか」
蓮司さんは少し驚いたように、こっちを見た。
「……まだ完全には決めてねぇよ。就職か、院に進むかで迷ってる」
「院……? 大学院!?」
「ああ。研究、続けてみたい気もしてて」
「マジか……かっけぇ……」
心の底から、声が出てしまった。
「就職するとしたら、どこ受けるんすか」
「絞ってんのは、地元の公務員か、地銀。ちょっと前に新聞社の説明会も覗いてみたわ」
「えっと、全部、地元っすか……?」
「……まあ、できれば残りてぇなって思ってるよ」
ぽつりと言った蓮司さんの横顔を、俺は見上げた。
地元に残る理由——たぶん、いろいろあるんだろう。家族に近い場所にいたいとか、生活コストとか、慣れた街がいいとか。
でも、その「いろいろ」の中に、ほんの少しでも、俺がいたらいいなって、勝手に思ってしまった。
「お前は、進路どうすんの?」
蓮司さんに聞かれて、俺はうっと言葉に詰まった。
「……まだ、決めてなくて」
「ふうん」
「ガキみたいな話なんすけど、自分が何になりたいのか、よくわかんなくて。みんなはちゃんと考えてんのに、俺だけ、なんもなくて」
「……」
「翔太郎は経済系で、たもっちゃんは商学で、楓は教育学部って言ってて。俺、自分のことなんも見えてねぇなって、今日めっちゃ思いました」
しゃべってるうちに、ちょっと泣きそうになった。
蓮司さんはしばらく黙って歩いてた。それから、ぽつりと言った。
「お前が好きなもんは?」
「えっ」
「それを起点に大学考えたら?」
好きなもの。
俺の頭の中に、真っ先に浮かんできたのは……蓮司さんだった。
いや、それはそうなんだけど、進路に書けるかよ、第一志望「清水蓮司」って。
「……考えときます」
「ああ」
笑った蓮司さんが、俺の頭を一回だけくしゃっと撫でた。
それだけで、心臓が痛いくらい軋む。
俺の一番好きなもの、清水蓮司。
家に帰ってから、自室でスマホを開いた。蓮司さんの大学の名前を検索し、出てきた偏差値を見て、ぽとりとスマホを落とす。
「はぁ……!?」
いや、嘘でしょ。偏差値の差がエグい。
「無理じゃん、無理! 絶対無理!」
ベッドの上で転がりながら、俺はしばらく天井を見つめた。
無理。普通に考えて無理。
でも――。
蓮司さんと、同じキャンパス。同じ通学路。同じ食堂。
休み時間に「蓮司さん!」って突進できる距離。
想像したら、もうそれが欲しくて欲しくてたまらなくなった。
「……いや、待てよ」
がばっと起き上がる。
蓮司さんが言ってたじゃん。「好きなものを考えて大学決めろ」って。
俺の好きなものは、何があっても蓮司さんだ。
ぜったい無理だって思って諦めるのは、まだ早ぇだろ。
だって、こちとら大きく晴れる、橋本大晴なんだぞ。
*
翌日。バイトのシフト終わりに、俺は蓮司さんのアパートに転がり込んだ。
「蓮司さん」
「ん?」
「言いたいことがあります」
「……なんだよ、改まって」
蓮司さんは本を閉じた。俺はソファの前にちょこんと正座して、深呼吸した。
「俺、蓮司さんと同じ大学行きたいっす」
空気が一瞬、止まった。
蓮司さんが「は?」みたいな顔をしている。これは……無理って言われるパターンだと察しながらも、俺は開き直って蓮司さんを睨みつけた。
「……どういう理由で決めた?」
じっと見つめてくる蓮司さんに、ゆっくりと口を開く。
「れ……蓮司さんがいるから」
かなり恥ずかったけれど、正直に言った。
きっとばかにされんだろうな、と思う。それから「お前、進路をそんな理由で決めんなよ」って怒られるのも覚悟した。
でも、蓮司さんは少しだけ目を伏せてふっと笑った。
「わかった」
「えっ、マジで!?」
「きっかけなんて、最初はそんなもんだろ」
まじ? 蓮司さん、俺の言ってること、ちゃんと受け止めてくれた?
ぽかんとしている俺に、蓮司さんは真顔になって続ける。
「でも、今のお前の偏差値じゃ無理だな」
「そ、そうっすよね、わかってます……。だけど、俺、挑戦したいです! 無理かもしんねぇけど、やってみたいんです! やっぱ、やらないより、やってから後悔したいっていうか!」
ぐっと拳を握って言ったら、蓮司さんが少しだけ目を細める。
「ああ、その意気だ。……お前の勉強見てるけど、地頭はわるくねぇと思うよ。俺も勉強教えてやるから、死ぬ気でやれ」
「えっ!? 蓮司さんっ、教えてくれるんすか!?」
「塾とかと並行でな。俺はあくまで補助。基礎の詰めと、お前のサボり監視」
「えー、蓮司さん、大好きー!」
「ほんとうるせぇな」
口ではそう言うくせに、俺が飛びついたら強く抱きしめてきた。頭を撫でる手つきだって甘々だ。
おい、清水蓮司。俺のこと、けっこう好きなんじゃないですか?
*
その夜から、俺の生活はガラッと変わった。
翌日、蓮司さんちに行ったら、もう机の上には問題集の山ができていた。
「さ、さっそくっすね……?」
うずたかく積まれた問題集を見上げて、思わず半歩あとずさりそうになったけれど、がんばって前に進んだ。
俺だって今日は相応の覚悟を持ってやって来たんだ。
「あの、蓮司さん」
「ん?」
「俺……考えたんすけど、蓮司さんといるとすぐいちゃいちゃしたくなるっていうか、蓮司さんのメロさにやられるっていうか。だから、今日から願掛けの意味を込めて、抱っこもキスもお預けにしようかなって……やめられないし、とらまないのが清水蓮司なんで……」
蓮司さんが驚いたように目を見開く。
「もうほんとマジで血が出てんのかってくらい俺にとっては痛い選択なんですけど、これは合格するためには必須だなって思ってて……あ、でもやっぱやめ――」
「俺もそう言おうと思ってたよ」
「……へ?」
「良い心がけだな、大晴」
蓮司さんが優しく目を細めて笑った。
こういう顔、ほんとずるい。
ていうか、蓮司さんも同じこと考えてたのか。それはそれでちょっと寂しい気もして……。でも、たぶん蓮司さんは蓮司さんで、俺の合格を本気で考えてくれていたってことなんだろう。
「がんばろうな、大晴」
「が、がんばります……!」
拳を握って言うと、蓮司さんは短くうなずいてくれた。
「がんばろうな」の「な」のところに、なんだか全部つまっている気がした。お前ひとりで戦うんじゃなくて、俺も一緒に戦うから、みたいな。
深読みしすぎかもしれないけれど、やっぱりそういうところが蓮司さんだと思うのだ。
ぜってー、蓮司さんと同じ大学に行って、バラ色キャンパスライフを掴むんだ!!!!
心の中で叫びながら、俺は問題集に向き合った。
数学。古文。英語。世界史。
「蓮司さん」
「あ?」
「俺、たぶん、思ってたより……ばかかもしれません」
「それがわかったってことは、頭が良くなってる証拠だよ」
……ほんとかよ、清水蓮司。
*
バイトのシフトは、週四から週一に減らした。
店長は「がんばれよ」としみじみ言ってくれた。海斗さんは「蓮司もめっちゃ張り切ってんのな? あいつが他人のためにあんなに動くの初めて見たわ 」とニヤニヤしていた。
翔太郎たちには、最初しばらく言えなかった。なんとなく恥ずかしくて、言葉にする勇気がでない。
でも、放課後すぐ帰るようになった俺を見ていた彼らに詰められて、観念して打ち明けた。
俺が「蓮司さんと同じ大学行きたい」と言ったとき、翔太郎は一瞬ぽかんとして、それから頭を抱えて「大晴……」と呆れていた。
たもっちゃんと楓は「マジか、大晴」「相変わらず、ぶっとんでんなぁ」と顔を見合わせて、それから笑って「応援する」と言ってくれた。翔太郎は、最後まで何かを考えるような顔をしていたけれど、ぽつりと「がんばれよ」と言った。
今ではみんなで、翔太郎が通っている塾に通っている。
蓮司さんの家での勉強会は、今まで以上にスパルタになった。
俺がぼーっとしてると「集中しろ」と低い声が飛んでくる。古文の文法を間違えると「ここ、昨日もやったとこ」とサクッと指摘される。だけど、問題が解けるとちゃんと褒めてくれる。
真剣に問題を解いている最中、ふと顔を上げると、蓮司さんがじっと俺を見つめていた。
「も、もしかして、間違ってます……?」
蓮司さんは「あ」みたいな顔をして、それから、「いや、悪い……」とめちゃくちゃ素直に謝ってきた。
どうして謝るのか、きょとんとした俺に、蓮司さんがバツの悪そうな顔を浮かべる。
「お前が……、……いなと思って……」
「え?」
「……かわいいなと思って」
俺はじわじわと頬が熱くなるのを感じていた。
「ちょっ、そういうのやめてくださいよ!」
「だから、悪かったって言ってんだろ!」
「べっ、勉強続けますからね!」
「当たり前だ! さっさとやれ!」
互いにぶち切れながら、また勉強を始める。蓮司さんは本を読み始めていて、もう俺を見ていなかった。
だけど、さっき刺さった視線だけは、未だに俺の頬を熱くしている。
自分で提案しといて、抱き合えないのがこんなにも寂しい。
俺はぐっと唇を引き結んで、また問題集に向きあった。
心の中で、「ぜったい受かったら蓮司さんにめちゃくちゃ甘えてやるからな!」と叫びながら。
*
「や、やった!」
夏の模試の結果を持って、俺は飛び上がっていた。
D判定。E判定の常連だった俺が、Dに上がったのはまずまずの奇跡だ。
蓮司さんにさっそく結果を見せたら、小さくうなずいた。
「まずは一歩だな。よくやった」
「あざっす!」
「次もがんばれよ」
「はい!」
秋の模試では、またひとつ判定が上がった。
C判定。
答案が返ってきた日、俺は教室で何回も結果を見直した。「橋本大晴」の名前と、「C」の文字。何度見ても、たしかに「C」と書かれている。
夢じゃなかった。
「翔太郎ぉぉぉ、見て! Cだ! C判定!」
「マジかよ、よかったじゃん」
「俺、イケる……ぜったいイケるわ!」
「あんま調子乗んなよ……」
翔太郎は呆れたように笑ったけれど、なんだかんだ喜んでくれてるみたいだ。
その夜、蓮司さんに結果を見せたら、いつもよりずっと長ーーーーく頭を撫でてくれた。
「ようやくここまで来たな」
「来ました!」
「気を抜くなよ」
「はい!」
夜。布団に入ってからも、にやにやが止まらなかった。
このままいけば、もしかして、ほんとに……?
蓮司さんと、同じキャンパス。
同じ食堂で昼飯を食って、講義の合間に「蓮司さん、お疲れー」とか言って、手を振り合って、帰り道は一緒に帰る。
空いた時間に図書館で勉強してる蓮司さんを見つけて、ちょっかい出して、めちゃくちゃ睨まれて、それもぜんぶ幸せで。
ヤバい、未来、楽しすぎ。
その日の夜は、最高にしあわせな夢を見た。
*
そうして迎えた十一月。
模試の結果が返却された日。俺はその紙をしばらく見つめていた。
数字がかすんで見える。だけど、何度見てもD判定だ。
塾の自習室から近くの空き部屋に移動して、俺は扉を閉めた。
誰もいない部屋で、「くそっ」と悪態をつきながらしゃがみ込む。
ばかだ、何やってんだよ。
あれだけがんばったのに。
蓮司さんに、あんなにたくさん教えてもらったのに。
C判定が出た時、もしかしたらいけるかもって調子に乗っていた。あの時、未来のキャンパスライフまで想像してにやけてた俺がほんとうにばかみたいだ。
春からずっと、机に向かい続けてきた。バイトも遊びも我慢して、蓮司さんとのいちゃいちゃも我慢して、ぜんぶ削って、ぜんぶ勉強に注いだ。
なのに。
やっぱ……ぜんぜんだめじゃん。
こんなにやっても届かないなら、俺、何をどうがんばればいいんだよ。
「大晴ー!」
扉の外で足音と俺を呼ぶ声が聞こえた。たぶん翔太郎たちだ。今日、たもっちゃんが「塾終わったら、みんなでマック行こうぜ」って言ってたのを、思い出す。
「おーい? お前、ここにいんの?」
たもっちゃんの声。喉が詰まって、すぐに返事ができなかった。
「何? どうしたんだよ。大晴、いるんだろ?」
翔太郎の声。
「あー、ごめん! 今日はパス! 俺抜きで行って!」
平静を装おうとしても、どうしても声が震えてしまう。
「おい、開けろよ。大晴」
「……え、どしたん。大晴?」
「もしかして、模試のD判定のこと? あんなん目安だから気にすんなって!」
「なぁ、大晴! マジで心配になるから開けろって!」
「おい、たいせー!」
みんな俺の声色で何かを察したんだ。誰かが扉を開けようとして、ガチャガチャとドアノブを回す。
俺は咄嗟に鍵を締めて、首を横に振った。扉に向かって叫ぶ。
「入ってきたら絶交だからな! マジで!」
「……はぁ!?」
「もういいから、帰れって!」
こんな情けない顔を、誰にも顔を見せたくなかった。
翔太郎にも、たもっちゃんにも、楓にも。
扉の外で、三人がひそひそと話している声がするけれど、何を言っているのかはわからない。
翔太郎たちはしばらく粘っていたみたいだったけど、どうやら諦めてどこかに行ったみたいだった。
よかった。ひとりにしてくれて。
俺はしゃがみこんだまま、目を閉じた。
……だめだ。
ちゃんと顔を上げて、もう一回がんばらないと。
わかってる。わかってるんだけど、心が重くてどうしても動けない。
どれだけそうしていたのだろう。
――ガチャ。
鍵の開く音がして、パッと顔をあげた。息が止まる。
「……あ」
……蓮司さん、だった。
「な、なんでいんですか」
蓮司さんはなぜか右手に部屋の鍵を持っていて、何も言わずに後ろ手に扉を閉めた。それからつかつかと俺の前に来て、顔を覗き込むようにしてしゃがみ込む。
「お前さ、」
低い声だった。
どこかで聞いたような気がする。俺は泣きそうになりながらも、思い出していた。
そうだ。初めて会った時、蓮司さんに言われた言葉。「お前さ、黙ってらんねぇの?」それと、まったく同じトーン。
「俺との約束、忘れたのかよ」
ひゅっと息を呑んだ。
「死ぬ気でやれって言ったろ。閉じこもってる時間あんなら、机に向かえ」
淡々と、でも、ちゃんとぜんぶ届く声だった。
蓮司さんの顔を見たら、どうしても我慢できなくて、ぼろぼろと泣いた。
自分の意思ではもう止められなかった。
「……っ、で、でも、D判定で……、俺、蓮司さんと同じ大学行きてぇのに、ぜったい無理で……、蓮司さんに、あんなにたくさん教えてもらったのに……」
しゃくりあげながら、続ける。
「俺、……あの大学、受かりてぇのに……」
最初は、ただ蓮司さんと同じ大学っていうだけだった。
蓮司さんと同じキャンパスに行きたい。それだけが理由だったし、それだけで十分だった。
でも、勉強を始めて、何度もパンフレットをめくっているうちに、いつのまにか、俺はあの大学のことが本気で好きになっていた。
経済学部のシラバスを眺めて、面白そうな授業を見つけた。
オープンキャンパスの動画を見て、講義室の雰囲気にわくわくした。
キャンパスの中庭に、銀杏の木がたくさんあるのを知った。秋になると、黄色い葉っぱで地面が埋まるらしい。
俺、あそこで、勉強したい。
あの食堂で昼飯食って、あの図書館で本読んで、あの中庭、四年間歩きたい。
蓮司さんがいるから、っていう気持ちは、もちろんある。
でも、もうそれだけじゃない。
俺の意思で、あの場所に行きたいんだ。
「……っ、行きたいんすよ、ほんとに……」
蓮司さんは、しばらく俺の頭をいつものようにぐしゃぐしゃと撫でた。
「今日は特別だ」
「な、何が……」
「来いよ」
蓮司さんは膝をついて、両手を広げた。ずっと張り詰めていた何かがぷつりと切れた気がした。
迷ったのは、ほんの一瞬だ。
蓮司さんのほうに体を傾けたその瞬間、ぐいっと強い力で腕を引かれた。
「……っ」
気づけば、俺は蓮司さんの腕の中に閉じ込められていた。抱きしめる手が苦しいくらい強くて、思わず息が止まる。
「あー……久しぶりだな、お前の匂い」
頭の上で、ぼそりと言われて、俺は無言でうなずいた。
俺だって蓮司さんの匂いを感じている。久しぶりの蓮司さんの匂い。
「お前はよくやってるよ、大晴……。本当にすごいし、えらい。マジで惚れ直してる」
蓮司さんの大きな手が、俺の背中をぽんぽんと叩いた。
ゆっくりと、子どもをあやすみたいに。
「シフト減らして、遊びも我慢して、ちゃんと机に向かって。そういうの、あいつらも俺も、ずっと見てるからな」
「……っ」
翔太郎たちの顔が浮かぶ。今も心配させてしまっているだろう。
「それにD判定がなんだよ。うちの大学、D判定からの逆転合格、結構いんだからな」
ぐっと顔を上げる。
蓮司さんは、まっすぐ俺を見ていた。
「俺も受験のとき、嫌ってほど判定の数字とにらめっこしてたから覚えてるよ。D判定ってのは、合格可能性35%。100人いたら35人受かる判定だ。決して『落ちる側』じゃねぇんだよ 」
「……っ、で、でも」
「聞け、大晴。うちの大学はとくに、本番の出来で結構ひっくり返る。共通テストで多少ミスっても、二次でちゃんと取れれば受かるやつが毎年いる。逆もあるけどな」
「……」
「まぁ、あれだけ集中してたお前なら、十一月の判定はただの通過点だ。本番までまだ三ヶ月以上ある。現役は最後の三ヶ月で、信じられねぇくらい伸びるからな」
淡々と、でも、ひとつひとつ事実を積み重ねるみたいに、蓮司さんは話した。清水蓮司らしい慰め方だった。
ロジカルで、容赦なくて、嘘がない。
「……わかり、ました」
少しだけ落ち着いた。
「覚えてるか? 初めて会った時、俺がお前の目の前で扉を閉めたのに、お前はそんなん知ったこっちゃねぇって感じで、開けてきたよな?」
「……覚えてます。……だって、蓮司さんともっとしゃべりたかったし」
「俺はそういうお前がさ、かわいくて仕方ねぇよ、マジで」
俺はぽかんと口を開けた。蓮司さんは笑いを堪えるように俺を見ている。
かぁっと全身が熱くなっていく。
「もう蓮司さん! ほめすぎですって! ツンデレのツン、ちゃんと出してくださいよ!」
「……あ?」
「俺の知ってる清水蓮司は、もっと塩なんで! なんかキャラ違うんで!」
「ばーか」
「あ、それそれ! その調子です!」
言いながら、俺は笑ってしまった。
蓮司さんも、肩を揺らして笑った。
笑ったらまた涙が出たけど、もう悲しい涙じゃなかった。
「……蓮司さん、よく塾の鍵、借りられましたね」
「俺、ここの生徒だったからな。受付のおばちゃんが覚えててくれたわ」
「あー、なるほど……」
「翔太郎が連絡してきたんだよ。俺らじゃ無理だから来てくれって」
「……翔太郎たちが」
俺は鼻をすすって、蓮司さんの胸に額を埋めた。
明日からぜったいに折れない。
だから、今日だけは蓮司さんに甘えさせてほしい。
*
そこからの俺は、たぶん、人生で一番、勉強した。
冬休みも、正月も、ぜんぶ机に向かった。
元日に、蓮司さんが「お年玉」と言って、新しい問題集をくれた。お年玉の概念。
一月。共通テスト本番が来た。
二日間、ガチガチに緊張しながら受けて、終わった日の夜、蓮司さんちに駆け込んで自己採点を見てもらった。
「……ボーダー、ぎりぎり越えてる」
「ま、マジっすか……?」
「ああ。二次でちゃんと取れば、十分勝負になる」
そこからまた一ヶ月、追い込んだ。蓮司さんが過去問を解く時間を計ってくれて、間違えたところをぜんぶ洗い出して、何度も何度もやり直した。
二月。二次試験本番も、無事に終わった。
手応えは、正直、よくわからなかった。でも、やれることはぜんぶやった。
そして、合格発表の日。
蓮司さんの家で、スマホを開いた。画面を見るのが怖くて、何度も指が止まった。
「あー! 無理! 俺、見れねぇって……! 蓮司さん、見てください!」
「なんでだよ。ちゃんとお前が見ろ。隣にいてやるから」
隣にいてやるから、とか言いつつ、蓮司さんは俺の隣で本を読んでいた。
いつもみたいに、淡々と。
俺は深呼吸して、画面をタップした。
ぐるぐると、ロード中の表示が回る。
心臓がうるさい。
受験番号を入力する手が、震えた。
ぱっ、と、画面が切り替わる。
「あっ、……あっ……」
「どうだった?」
俺はスマホを蓮司さんに向けた。
蓮司さんは、画面を見て、それからとっても嬉しそうに笑った。
「やったな、大晴」
「うっ……ううぅ……」
「泣くな、ばか」
「だっで、だっでぇ……」
俺は、蓮司さんに飛びついた。
蓮司さんは、しっかり受け止めてくれた。
ひとしきり抱きついて、ようやく落ち着いてきた。
受かった。マジで、受かったんだ。
俺は蓮司さんに両腕を回して、にやけきった顔を隠そうともしなかった。
「これで、同じキャンパスっすね……へへっ」
「ああ」
「……蓮司さん」
「なんだよ」
「大学生になったら、手、出してくれるんでしょ?」
蓮司さんはゆっくりと顔を寄せてきて、俺の耳元で口を開く。
「覚悟しとけよ、大晴」
「ふあ、っ……!?」
俺は飛び上がる勢いで蓮司さんから離れた。
蓮司さんは、「お前、ほんとそんなんで大丈夫か?」と楽しそうに笑っている。
心臓が、もう、ぜんぜんだめ。爆発しそう。
「蓮司ASMR、エッロ……」
俺は赤い顔のまま、耳をぐっと押さえた。
まだ、蓮司さんの声が、耳の奥で響いている。
「おい、大晴。やっとハグ解禁になったんだから、こっち来いって」
「……あ、はい」
俺は素直に蓮司さんの腕の中に入った。蓮司さんは俺の髪を何度も撫でながら、目を瞑って口を開く。
「あとでみんなに連絡しろよ」
俺は赤い顔でこくりとうなずいた。
……いやマジで、ヤバい。
桜が咲いたら、俺は大学生になる。蓮司さんと同じ、キャンパスで。



