友達の兄貴を好きになってしまいました

 もう何回目か数えることもやめた、蓮司さんのアパート。

 ソファに蓮司さんが座っていて、その足の間に俺が座っている。蓮司さんは俺を抱っこしながら、俺の頭上で本を読んでいる。

 いや、顔……良っ。

 俺は蓮司さんの腕の中で、なんだこれぇ……と唸った。

 ついさっき、蓮司さんは俺を蔑ろにして、いつまでもいつまでもソファで読書をしていた。だから、俺はぎゃあぎゃあ言いながら隣に座ったのだ。

 そしたら蓮司さんが、なんでもないみたいな顔で俺を引き寄せて、こんな格好になった。

 もちろん俺は「えっ、えっ、えっ!?」とパニックになったけれど、抗議する間もなく蓮司さんは本を読み始めてしまった。

 最高じゃん。最高なんだけど……いや、でもさ。

「大きく晴れる大晴、どうした。急に静かだな」

 頭の上から、淡々とした声がする。
 付き合い始めて早一ヶ月。相変わらず蓮司さんとはキスまでしかしていない。

 しかも最近は、家に行くと「先に課題を出せ」とか言われて、強制的に休み無しで勉強を教えてくる。スパルタ家庭教師かよ。

 卒業までキス以上しないという清水蓮司は、本当に頑固で、俺の話を聞いてなくて、リアクションが薄くて、それでいてかなりムカつくくらいめちゃくちゃかっこいい。

 そんな清水蓮司に抱きしめられていたら、心臓が大暴れして静かになってしまう。

「だってさー、蓮司さん」
「なんだよ」
「……」

 無言でぐりぐりと頭をこすりつけたら、蓮司さんが「やめろ、読めねぇだろ」と低い声で言ってきた。
 でも、俺を離す気はないらしい。
 俺の上で、ぺらりとページがめくられる。

 ……静かだ。

 昔の俺なら、この沈黙を埋めようと必死にしゃべっていた。なんでもいいから、音を出そうとして。
 でも、今は黙っていられる。蓮司さんがいるから。

「ああ、そうだ。これ」

 なんの気なしに蓮司さんが俺の膝に何かを落としてくる。

「え?」

 ぽとり、と落ちてきたのは、鍵だった。
 銀色の、なんの飾りもない、まっさらな鍵。
 キーホルダーもついていない。袋にも入ってない、リボンもついていない。

「……え、あの、蓮司さん。これって……」
「うちの鍵。ピンポンめんどくせぇだろ、俺が」
「も、持ってても……いいんですか?」
「ああ」
「もらったら、……つ、使いますけど」
「そのために渡してんだよ、ばかが」

 何さらっと言っちゃってんだよ、この人。

「れ、蓮司さんちの合鍵をくれるってことは、俺、いつでも蓮司さんち入っていいってこと? いつでもここに帰ってきていいってこと?」
「いいっつってんだろ」

 迷いのない返事だった。
 心臓がやばい。蓮司さん、いま、めちゃくちゃすごいことしてるって自覚あります?

 俺の頭の上では、また何事もなかったみたいに、ぺらりとページがめくられている。

 いかにも蓮司さんだ。こういうの、絶対、なんでもない顔して渡してくる。

「……蓮司さん、好きぃ」

 鍵を両手で握りしめながら、広い胸に寄りかかると、ふっと頭の上で蓮司さんが笑った気配がした。




 幸せだった。
 たぶん、俺の人生で一番。学校に行っても、頭の中は蓮司さんでいっぱいだった。

 授業中、無意識に「清水蓮司」って書いてて、慌てて消しゴムで消した。

 翔太郎にバレたら一巻の終わりだ。

 ……そう、翔太郎。

 その名前を心の中でつぶやくと、ふっと、胸の中に小さな痛みが走る。

 最近の俺は、心がふたつあるみたいだった。
 ひとつは、蓮司さんと付き合えてとろとろになっている俺。もうひとつは、翔太郎に嘘をつき続けて苦しんでいる俺。

 昼休み、購買のパンを翔太郎と一緒に食べながら、いつもみたいに笑っているつもりだった。でも翔太郎が「兄貴がさー」と話し出した瞬間、心臓がぎゅっとなる。

「兄貴がさ、なんでかアパートに『ココア』常備してんだよな」
「は? 蓮司さん、そういうの飲まねぇじゃん」
「そうだよ、家で飲んでんのなんか見たことねぇよ。なんなん、急に。気持ち悪ぃ」
「ついに陰の者にも、彼女できたんじゃね?」

 たもっちゃんたちが面白がるように笑い合う。
 俺は咄嗟に飲んでいたコーラを吹き出しそうになった。

 ココア。あー、それ、たぶん俺のせいだ……なんて言えるわけがない。
 前に蓮司さんが、ぼそっと言ってた。

 ――お前、バイト先でいつもココア飲んでただろ。そんなお前見てたら、なんか飲みたくなった。

 清水蓮司にしてはガキみたいなセリフで、めっちゃかわいかった。
 それ以来、ココアを家に常備するようになったらしい。

「へ、へぇー、いいじゃん、ココア!」
「は? 大晴、なんで嬉しそうなん?」
「い、いや、別に?」

 誤魔化すように笑ったら、翔太郎が「……ふうん」と俺をじっと見た。

 やばい。翔太郎はめっちゃ勘がいいのだ。

 最近、翔太郎の「ふうん」が増えた気がする。俺が蓮司さんのことを話すと、ちょっと目を眇める。

 バイトの話をすると、ちょっと黙る。

 俺が嘘を重ねるたびに、翔太郎との間に薄い壁ができていく感じがする。

 ごめん、翔太郎。
 でも、言えないんだ。蓮司さんが家族に知られたくないって言ってるから、俺は蓮司さんを守らないといけないから。

 心の中で何回も謝りながら、俺はパンをもそもそと食べた。





 その日の放課後、バイトはお休み。

 剥き出しの銀色をかばんから出して、「へへっ……」と笑う。

 俺はにやけきった顔をどうすることもできないまま、合鍵でドアを開けた。

「蓮司さん、ただいまー!!!」

 蓮司さんは大学から帰ってきていて、台所に立っていた。
 俺はにこにこしながら、蓮司さんに突進して抱きつく。

「アレクサ、大晴の音量を落として」
「蓮司さん、アレクサ持ってねぇじゃん」
「アレクサ、大晴が重ぇから、どこかにやって」
「……無理。くっつく。離しませーーん」

 蓮司さんは呆れたように目尻を下げて、くっつき虫になった俺ごとソファに移動していた。

「ちゃんと勉強してたんだろうなぁ、大晴」
「したよ、しましたぁ!」
「……ブレザー脱いでこいよ。床に置くなよ? ちゃんとかけろ」
「はーーーい……」

 俺のすきぴは小言が多い。唇を尖らせながら、言われたとおりブレザーをかけていると、蓮司さんは慣れた手つきで、本を手に取った。

「ちょっ、また本かよー!」
「……いいとこなんだよ」
「デートはぁ!?」
「どこも混んでるだろ。おうちデートだ」
「マジで『おうちデート』ならいいですけど、蓮司さんの場合、各自で自由行動じゃないっすかぁ! 今日は俺のことかまってくださいよぉ!」
「わかったわかった」
「ほんとにわかってんですか! 今日こそは俺のことをかまっ――」

 蓮司さんが俺をソファに引き寄せて、膝の上に乗せる。

「……っ」

 もう、慣れたし、全然平気……なわけねぇわマジでごめんなさい。

 俺は蓮司さんの肩に頭を預けた。たぶん、頬がやばいことになっている。

 蓮司さんの手が、俺の髪をゆっくりと撫でていた。

「うわ……今日の蓮司さん、めっちゃ甘い……」
「かまえって騒いだの、お前な」
「……それはそう」

 蓮司さんが小さく笑って、俺の額にキスを落とす。大事にされているようで、たまらない。

「蓮司さん……、口にもほしい……あと裸相撲も追加で……」
「調子のるのが早ぇなぁ、橋本大晴」
「いいから、早くキスしてくださいよ! アレクサ! 清水蓮司をやる気にさせて!」
「……ほんとばか」

 蓮司さんがからかうように顔を傾けた。

 あ、キスくる……かも。

 心臓が、勝手にスタンバイの体勢に入る。

 俺はゆっくりと瞳を閉じ、そして、蓮司さんの唇を寄せる気配がした――その瞬間。

「鍵あけっぱじゃん。おい、防犯意識~~」

 ガチャッと玄関のドアが開いた。

「あ」

 声が出た。たぶん蓮司さんも、俺も、両方。

 蓮司さんは俺の髪に手を差し入れたまま、俺は蓮司さんの膝の上に乗ったまま、固まる。

 俺はありえないばかだ。帰って来たとき、鍵をし忘れていた。

「……は?」

 玄関にいたのは翔太郎だった。たぶん翔太郎は、蓮司さんに渡し物があったとか、用事があったとかで来たんだと思う。
 俺たちを見据えている翔太郎の顔から、表情がすっと消えた。

「お、おう、しょ、翔太郎じゃん! うぇーい! ど、どど、どうした……!?」

 俺は慌てて蓮司さんの膝から飛び降りた。

「兄貴」

 翔太郎の声は、聞いたことがないくらい冷たい。

「……何やってんの?」

 蓮司さんは、ゆっくりと息を吐いた。

「どういうこと? マジで最初から、説明してもらえる?」

 翔太郎が鞄をどさっと床に置く。
 そうして俺は生まれて初めて、翔太郎が本気で怒ったところを見ていた。




 俺は最初から全部話した。
 蓮司さんと出会った日のこと。蓮司さんの部屋に転がり込んでしゃべりまくっていたこと。蓮司さんとまた会いたくてバイトを始めたこと。雨の日、ひとりでパニクった俺を蓮司さんが助けに来てくれたこと。それから蓮司さんを好きだって気づいて、俺から告白したこと。ハッピー奇跡で蓮司さんと付き合うことになったこと。

 話している間、翔太郎は一言もしゃべらなかった。床に立ったまま、腕を組んで、俺と蓮司さんを交互に見ていた。

 話し終わったら、部屋がしんとなった。 蓮司さんは静かに俺の隣に座っていた。

 翔太郎は、長い長い沈黙のあと、ぼそりと言った。

「いや、無理。意味わかんねぇ……別れろよ」
「……え」

 本当にそう言われてしまうとは……。心のどこかでもしかしたら認めてもらえるかもしれないって思っていた。
 俺は何も言えないで、小さくうつむく。

「言っとくけど、別れる気はねぇよ」

 蓮司さんが淡々と言った。

「れ、蓮司さん……」

 思わず蓮司さんを見上げた。蓮司さんは翔太郎をまっすぐ見ていた。

 俺はぐっと拳を握って、口を開く。

「……お、俺も別れたくない、ぜったい!!!」
「あぁ?」

 翔太郎が眉間に皺を寄せて、俺を睨みつけてきた。怖い。めちゃくちゃ怖い。

「で、でも……お前とも、友達でいたい!! ぜったい!!!」

 そう言ったら、目の奥が熱くなった。 
 翔太郎は、俺をじっと見て……そして、爆発した。

「そうだよな? 友達だよなぁ? だったら、なんで俺に最初に言わねぇんだよ! 兄貴が同性愛者なのも、大晴と付き合ってんのも、ていうか、雨の日はひとりでいられねぇって初耳なんだけど!? マジでなんなんお前ら!!」

 俺は息を呑んだ。
 翔太郎が怒っているのは、きっと俺たちが付き合っていることじゃない。

「俺ってお前らの何!? 兄貴の弟だし、大晴のダチだろ!? なのに、なんで俺だけ知らねぇの!? なんで俺、こうやって……勝手に部屋入って、自爆するみたいな形で知るわけ!?」

 俺は何か言おうとして、口を開いた。
 その瞬間、隣で蓮司さんが、すっと俺の前に手を出した。
 手のひらをこっちに向けて、軽く。
 最後まで、言わせろ。
 そう言っているみたいだった。
 俺は口を閉じた。蓮司さんは未だにまっすぐ翔太郎を見ている。

「最初に言ってくれてたら、俺だってさぁ……俺だって、応援するなり、反対するなりできただろ!? なのに、なんで俺だけ蚊帳の外なんだよ! 知らねぇ間に、お前らだけで、勝手に……っ!」

 翔太郎の声が、最後で詰まった。

「おかしいと思ったんだよ、……大晴の態度も……。くそっ、お前らだけで、こそこそしやがって……っ」

 翔太郎は、ぐっと唇を噛んだ。きっと翔太郎の中にずっと疑念があったのだと思う。
 怒りを通り越して、たぶん悲しいんだ。
 
 蓮司さんが立ち上がった。台所でミネラルウォーターのペットボトルを取って、翔太郎に差し出す。

 翔太郎は、最初、それを見ていた。

 受け取らない選択肢もあったと思う。でも、翔太郎は黙って受け取って、ごくごくと水を飲んだ。
 また沈黙が落ちる。

「悪かった」

 蓮司さんは短く言った。翔太郎が、驚いたように顔を上げる。

「……は?」
「お前に最初に言うべきだった。それは、ほんとにそうだ。俺が悪い」
「……いや、わかってんなら、なんで……言わなかったんだよ……」

 翔太郎の語尾がしぼんでいく。

 蓮司さんは、少しだけ目を伏せた。
 言葉を選んでいるようで、俺は、ただ隣で蓮司さんを見つめていた。

「……いつから? 男、好きなの」

 考える間もなく、蓮司さんが答える。

「生まれた時から」

 翔太郎がぐっと唇を噛んだ。

「全然、気づかなかった」
「気づかせねぇようにしてたからな」

 蓮司さんは少しだけ悲しげに口角を上げた。

「……あいつは? 俺のダチと少しだけ付き合ってただろ。女じゃん」
「あれは、フリだよ。ほんとは付き合ってねぇから。ふたりで話し合って決めた」

 ぎょっとして蓮司さんを見やる。それは俺も初耳だった。
 付き合うフリ……だったんだ。

「な、なんで、そんなわけわかんねぇこと!」
「それはこの話には関係ねぇだろ。これ以上は言わない。相手があることだから」
「……そ、そうだけど。……だ、だったら……ひとり暮らししたのはどうなんだよ! それって男が好きなの隠すためってこと?」
「……まあ、それもあるっちゃあるな」
「父さんたちに、言うつもりは?」
「ねぇよ。今のところは」
「……なんで」
「親父とおふくろを困らせたくねぇから。それだけ」

 翔太郎は、しばらく黙った。

「……兄貴は、ほんっとに人に頼らねぇよな、昔から」
「……そうかもな」
「うちは、別に兄貴が同性愛者でもなんでも、誰も気にしねぇよ。たぶん」
「……そうだろうな。でも、俺は言いたくない」

 蓮司さんが深く息を吐く。
 俺は隣で、蓮司さんの手をこっそり握った。
 振り払われるかもしれないと思ったけれど、蓮司さんは俺の手を強く握り返してくる。

「……大晴さぁ、お前もだかんね?」
「おい、翔太郎。大晴はなんも悪くねぇだろ。俺が言うなって言ってたんだから」
「そっちじゃねぇよ。雨の日にひとりが怖いとか、なんで俺らに言わなかったわけ?」

 ぐっと言葉に詰まる。

「そ、それは……だ、だせぇかなと思って……」

 ぽつりと口にすると、翔太郎が「は?」と聞き返してきた。

「だって、だせぇじゃん! 雨の日にひとりで家にいるのが怖い~とか、母ちゃんが死んだ日のこと思い出す~とか……、そういうの言ったら、なんか……空気重くしちゃうし、俺、いつもみんなを明るくする側じゃないとだめっていうか……、そういうのが俺だと思ってたから……」

 あの日、蓮司さんに「黙ってらんねぇの? なんで?」って聞かれて、初めて気づいた。

 俺は、沈黙が怖くて、ずっとしゃべっていた。明るくしてないと、俺じゃなくなる気がして。

 翔太郎たちにも、明るい大晴でいなきゃいけなかった。それが俺の役目だと思ってた。

「……ごめん、翔太郎。たぶん、信頼してもらえてねぇような気持ちになってると思うんだけど、……いや、それは全然ちがくて! マジで翔太郎も、たもっちゃんたちのことも大好きで、でも大好きだからこそ、……かっこ悪いとこ見せたくなくて……。ほら、テストで赤点~とかそういうかっこ悪さはいいんだけどさ、でもトラウマっぽいのは違うじゃん? 俺、別に助けてほしくてお前らといるんじゃねぇし……。楽しいから一緒にいて……ほんとにお前らが好きで、……あ、恋愛とは違うけど……ほんと、ごめんなさい」

 頭をゆっくりと下げる。

「……あー、もう!」

 翔太郎は、頭をぐしゃぐしゃっとかき乱した。蓮司さんと同じ癖だ、と少しだけ場違いなことを思う。

「俺もごめん……。大晴に、言わせづらい雰囲気を作ってたってことだろ」
「……いや、別にそんな! 翔太郎は何も悪くねぇし!」
「でも、兄貴には言えたじゃん……!」

 翔太郎が、ちょっと拗ねたみたいに、俺を見た。

「うん……、蓮司さんはなんか……、うん」
「うんってなんだよ、うんって」
「言葉で説明できねぇっていうか……、蓮司さんの前でだったら、しゃべらなくてもいいっていうか……、しゃべっても、聞いてないみたいな顔してくれるっていうか……実際ぜんぜん聞いてなくてムカつくっていうか……」
「……」
「俺、初めて人を好きになったけど、こんなに好きになれんだなぁって思ってる……あれ、なんの話だっけ?」

 そう言ったら翔太郎が「メロがってんじゃねぇよ!!」とテーブルをバンと叩いた。ちょっとおもろい。

「ごめんごめん!」
「兄貴にメロメロになんなよ! うちのバカ兄貴が調子乗んだろ!!」
「えっ、いや、もうガンガン調子乗ってる気がします……。俺、蓮司さんにメロメロだから……」
「やめろや!」

 翔太郎が頭を抱える。
 ふと、隣を見たら、蓮司さんが口を片手で押さえて、肩を震わせていた。
 笑ってる。
 めっちゃ笑ってる。

「何、笑ってんだよ、クソ兄貴!」
「涙を堪えてんだよ」
「んなわけねぇだろ!」

 蓮司さんは、優しく笑って翔太郎を見た。
 その目はもう安心しきっていた。
 たぶん蓮司さんは、翔太郎がどこかで納得していることに気づいているんだと思う。

 翔太郎は、疲れ切ったように深く息を吐いた。

「……兄貴と付き合うのは、まあ、いいよ……いや、よくねぇけど」
「しょ、翔太郎!」
「でも!」

 俺は息を呑む。

「……別れたら、俺がぶっ飛ばす。両方とも」

 そう言ってから、翔太郎はすっと立ち上がった。鞄を手に持ち、肩にかけ直す。

「俺、帰るわ。今日はもう、いろいろキャパオーバー」
「あ、そ、そっか……」
「あと、兄貴」

 翔太郎は玄関に向かって歩き出して、ドアノブに手をかけてから、振り向かずに言った。

「俺らの大晴、泣かせたらマジで殺すから」

 蓮司さんはおかしそうに笑った。

「ああ、わかった」

 玄関のドアが閉まる。
 ガチャン、と音がして、それから急に部屋が静かになった。全身の力が抜けていく。

「かぁ~~~~~、死ぬかと思った!」
「お疲れ、大晴」

 蓮司さんが、俺の頭をぽんぽんと叩いた。

「翔太郎、帰っちゃいましたよ……」
「あいつのことだから、明日には何事もなかった顔してるよ」
「マジっすか」
「ああ。あいつは、ガキの頃からそういうやつだよ。……うるせぇけどな」

 兄貴の顔をして言う蓮司さんは、なんかちょっと優しくて……やっぱり、……すごくメロかった。ごめん、翔太郎。





 次の日。
 教室に入ると、翔太郎が「おっす」といつもの調子で手を挙げてきた。蓮司さんの言うとおりだ。

「昨日はほんとごめんな、翔太郎」
「いいよ、俺も悪かった」
「好き、翔太郎」
「……うん、俺も好き」

 たもっちゃんと楓がげらげらと笑う。

「なんなんだよ、大晴も翔太郎も」
「雑なBLドラマ始まってんぞ」

 雑って言うなよ、とたもっちゃんの肩を小突く。そのうちたもっちゃんたちにも、俺の蓮司さんを自慢するつもりだ。

 それから教室を翔太郎と抜け出して、ふたりで廊下をだらだらと歩いた。

「翔太郎、俺、今日蓮司さんち行くから」
「わざわざ言わなくていいからね? 大晴くん?」
「え、マジ? どこまで進んだか、とかも言わなくていい感じ?」
「……やめて、想像させねぇで?」
「そっかぁ! でもさ、まだキスしかさせてくんねぇの! 今度相談させて! うぇーい!」
「……ぜっっったいやだぁ」

 翔太郎は呆れた顔をしていたけれど、ほんのちょっとだけ口元がゆるんでいた。





 その日の放課後。俺は蓮司さんの家へ向かった。

 合鍵をポケットの中で握りしめながら歩く。一歩進むごとに、足取りが軽くなっていく気がした。
 いつも抱えていた小さな後ろめたさが、今日はない。

 蓮司さんのアパートに着いて、合鍵でドアを開ける。

「蓮司さん、ただいまっすー!!!」

 蓮司さんはパソコンでレポートかなにかを書いていた。俺の声に顔を上げて、小さく笑う。

「おかえり、大晴」

 あ、これ、やばいやつ。
 心臓がぎゅっとなる。あの蓮司さんが「おかえり」って。それだけで、もう胸がいっぱいになってしまう。

 俺はそのまま蓮司さんに突進して、いつもみたいに膝の上に乗せてもらった。
 頬を蓮司さんの胸にくっつけながら、今日のことを少しだけ話す。
 翔太郎がけろっとしてたこと。もう許してくれたみたいだってこと。
 蓮司さんは「だろうな」と、兄貴の顔で笑った。

 昨日はいろいろあった。マジで、いろいろあった。でも、翔太郎にバレて、すごくほっとしている自分がいる。

「……蓮司さん」
「んー?」
「俺たち……これで、堂々といちゃいちゃできるってことっすよね……?」

 俺はにかっと笑って、蓮司さんに迫った。どうせ適当にあしらわれんだろうと思っていると……。
 蓮司さんは、やけに俺をじっと見つめ、それから意地の悪い笑みを浮かべる。

「じゃあ、お前から手ぇ出せよ」

 ……は?

「えっ、お、俺から……!?」
「俺は出さねぇから。お前が出せるなら、出してみろ」

 完全になめられている。ふ、ふざけんなよ、清水蓮司。

 でも、俺はぐっと息を呑んだ。

 やってやろうじゃねぇか。

 俺は、蓮司さんの肩に手を置いた。蓮司さんは微動だにしない。
 もう片方の手を、頬に。蓮司さんはにやにやしている。
 顔を、近づける。蓮司さんは目を閉じない。
 唇を、寄せた。

 ちゅ、と。

 軽く触れて、すぐに離す。
 …………。

「はっ、恥ずかしぃぃぃぃっ!!」

 俺は蓮司さんから逃げ出し、ソファの上でクッションに顔を埋める。心臓が、爆音で鳴っている。
 ガチで恥ずいぃぃ……自分から、キスしたぁぁぁ……。

「……ははっ」

 蓮司さんは余裕たっぷりな様子で肩を揺らしている。
 俺は、クッションに顔を埋めたまま、もごもごと言う。

「いや、清水蓮司、待ってろよマジで……。今日は、ここまでですけど……、いつかぜったい、もっと、上手くキスしてやりますから……!」

 蓮司さんは俺の頭をくしゃっと撫でてきた。

「ちゃんと待ってるよ。だから、無理すんな」

 クッションから顔を上げて、蓮司さんを見た。めっちゃ優しく目を細めて、蓮司さんがこっちを見ている。

 ……あー、もう、だめだ。 頬が熱い。つうか、全身熱い。

 俺ってほんとばかみたいだ。完全に……。

「……メ、メロ負け」

 もう一度、クッションに顔を埋めた。

 蓮司さんはけらけら声を出して笑っている。

 いつになったら、俺たちはもっといちゃいちゃできるんだろう。

 わかんねぇ。わかんねぇけど。

 蓮司さんが、俺の額にちゅっとキスを落とした。
 不意打ちすぎて、また心臓が止まりそうになる。

「大晴、ありがとな。色々」
「……えっ、俺なんもしてない」
「いや、お前の明るさは全世界を救ってるよ」
「……急に規模でけぇ」
「あー、かわいいな、マジで」
「えっ!?」

 おかしい。蓮司さんはそのあと何度も俺を抱きしめながら「かわいい……」とか「は? お前、なんでそんなかわいいわけ?」とか、わけのわからないことを連呼していた。
 驚いて腕から逃れようとすると、「行くなよ」と戻される。

「アレクサ! この蓮司さん、偽物かも!!!」

 なんて言ったらすげぇ怒られたけれども。