ゲーセンのバイトと翔太郎の家とを行き来しながら、気づいたら八月の終わりが近づいている。夏休みもあとちょっとだ。
蓮司さんはあの夜「大晴」と呼んでくれた。けれど、次のバイトで会った時、俺がにやにやしていたら、また「橋本」に戻っていた。「なんでですか」と食い下がったらめちゃくちゃ嫌な顔をされた。でも、あの時たしかに、名前を呼んでくれたし、それで十分だ。今のところは。
だけど、どうして蓮司さんのそばにいたいのか、という問いの答えを、俺はまだ出せていなかった。出そうとするたびに、なんか手前で止まってしまう。まあ、いつか答えは出るだろう。
*
その日は朝から家の中が慌ただしかった。
じいちゃんがでかいスーツケースを玄関まで引っ張ってきて、ばあちゃんが「大晴、冷蔵庫にご飯作ってあるからね」と言いながら鞄の中を確認していた。父ちゃんはリビングのテーブルでノートパソコンを開いたまま、老眼鏡を外したり掛けたりしている。
「大晴、ほんとに今日、ひとりで大丈夫か?」
じいちゃんが言った。
「あー……」
俺は手元のスマホで天気予報を開いた。今日の天気。晴れ。
ほっとして、笑う。
「全然おっけー! つーか、みんなお土産よろしく! 甘い系としょっぱい系両方ね!」
じいちゃんとばあちゃんが顔を見合わせ、「うちの孫はちゃっかりしてるなぁ」とのほほんと笑う。
「大晴、悪いな。よりによってこんな日に出張とは……」
父ちゃんがパソコンから顔を上げた。眼鏡の奥の目が、かなり申し訳なさそうだった。
「全然いいって。急に決まっちゃったんだし、大事な仕事じゃん」
「飯、ちゃんと食えよ。コンビニばっかにすんなよ」
「わかってるって」
父ちゃんはもう一回「悪いな」と言って、また画面に目を落とした。その横顔が、なんとなく母親に似てると思った。老眼鏡のせいかもしれない。写真の中の母ちゃんはいつも眼鏡をかけていた。
玄関でじいちゃんたちを見送って、昼に父ちゃんも出ていって、ドアが閉まった。
家の中が、しんと静かだ。
ばあちゃんが作ってくれた昼飯を温めて食べたあと、わざと「よし」と声に出して、スマホを手に取った。
翔太郎に電話したけれど、つながらなかった。LIMEを送ったら「今日、ずっと塾」と返ってきた。たもっちゃんにも、メッセージを送ったら「バイトー! 夜は彼女とデート」とハートマーク付きで返ってきた。おいおい、ふざけんなよ。
だったら、楓だ、とメッセージを送ったら、当たり前のように「部活に決まってんだろ!!!」と怒りマークとともに返ってきた。
今日はバイトもない。
無性に蓮司さんに会いたくなって、俺はゲーセンに向かうことにした。
*
「なんで休みの日までくんだよ」
海斗さんが笑った。
「海斗さんに会いたくて?」
「うそつけ、お前が会いたいのは蓮司だろうが」
「正解!」
「ドヤ顔すんなよ、ったく」
これ以上バイト中の海斗さんに迷惑をかけるわけにもいかないので、ゲーセンの中をぶらぶらした。クレーンゲームで三回失敗し、音ゲーをやっている兄ちゃんと仲良くなり、そのあとはメダルゲームをやっているじいちゃんばあちゃんに話しかけて、十分くらいしゃべった。
蓮司さんは出勤していて、フロアのあちこちで仕事をしていた。ガラス拭き、品出し、機械のチェック、クレーン台のメンテナンス。俺のことはまったく気にしていない。
ゆっくりと近づいて、「蓮司さーん♡」と声をかけたら、蓮司さんはこっちを見もせずに「仕事中」と冷たく言い放つ。
「わかってますって、邪魔しないっすよ。ただ見てるだけですから」
「……うぜぇな、帰れ」
「嫌ですぅ……! つうか、今日は客なんだから、俺にもメロ男接客してくださいよ」
「……なんだよ、メロ男接客って」
「あれですよ、『よかった』にこっ、みたいなやつとか、『またのお越しをお待ちしています』ふっ、みたいなやつとか、たまにお客さんにやってるじゃないですかぁ!」
「……お前の言ってることの十割、意味わかんねぇよ」
「全部じゃないっすかそれ!」
蓮司さんがため息をついた。でも、追い払おうとする感じじゃなかった。俺を一瞥すると、蓮司さんの手が俺の頭の上に来る。
「え……?」
俺の頭をガシガシと一回撫でて、蓮司さんは何事もなかったかのように、さっさと次の仕事に行ってしまった。
「えっ!?」
驚きすぎて、固まる俺。
「おやおやぁ……?」
いつの間にか近くにいた海斗さんがにやりとしている。
「ちょっ!? 海斗さん、見ました!? 今の何!? 撫でましたよね!? 俺の頭を、蓮司さんが、撫でましたよね!?」
「見てたよ。うるせーな」
「だって、今の……マジ!?」
「だから、わかったって。ちょっとは仲良くなれたんじゃねぇの? 『蓮司さん』と」
海斗さんは笑って、また仕事に戻っていった。
俺は撫でられた頭に手をやって、じんわりした気持ちを抱えていた。
推しからのファンサ最高じゃん……。
*
ご機嫌にゲーセンをうろうろしていたら、女子高生の集団が入ってきた。この前クレーンゲームを蓮司さんに教えてもらっていた子たちだ。
その中でも特に人なつっこい子が俺を見て「あ、大晴じゃん!」と声をかけてきた。
この前、彼女たちがクレーンゲームで苦戦していた時、やり方を教えていたら同い年だと判明した。そこからは秒速で仲良くなった。
三十分くらい話して、クレーンゲームに付き合って、プリクラの話を聞いて、グループの子が好きな男子の話を聞いた。俺が「それ、脈ありじゃね?」と言ったら「ちょっ、大晴、信じてるからね!? 言葉に責任持ちなよ!?」とめちゃくちゃ食いついてきた。おもしれぇ。
ふと視線を感じて顔を上げたら、蓮司さんがこちらを見ていた。にこにこして手を振ったら、蓮司さんはふっと視線を逸らしてしまう。
女子高生たちと話している最中、そういうことが何回もあった。
んー? とちょっとだけ考えて、やっぱりこの中に蓮司さんのタイプの子がいたりするのかもと思った。
女子高生たちが「たいせい、またねー!」と言って帰っていったあと、俺は蓮司さんのほうに歩いていった。
「帰っちゃいましたよ、あの子ら」
「……あっそう」
「タイプの子、来てましたか?」
「まだ、言ってんのかよ」
「だってさっきもずっと、こっちの様子窺ってたじゃないっすか。いい感じの子がいたから見てたんでしょ? ずるいっすよ、いや……ずるくはねぇけど、やっぱ、蓮司担としてはモヤっとするっつうか。こっち見て~~俺を見て~~みたいな?」
蓮司さんが俺を見た。なんか、ちょっとだけ、困ったような顔をしている。でもすぐにいつもの無表情に戻って、口を開く。
「いい加減帰れ。もう八時過ぎてんだろ。ガキがふらついていい時間じゃねぇんだよ」
「えー! やだぁ!」
「ぶりっ子してんな、気持ち悪ぃな」
何度も抵抗したけれど、結局、強引に追い出されてしまった。
外に出た途端、空気が変わった。さっきまでの賑やかさが嘘みたいに、ゲーセンの電子音が遠くなる。
見上げた空はやけに重くなっていた。さっきまで確かに晴れていたのに……。
スマホを開いたら、天気予報が変わっていた。今夜から雨。
「橋本、これ使え」
はっとして振り返ったら、蓮司さんがゲーセンの入り口から半歩だけ出た場所に立って、傘を差し出していた。
「え、あ……」
「橋本?」
蓮司さんが怪訝な顔をする。
「どうした、お前」
「……あっ、いやー、……なんでもないっす」
「……とにかく、雨が降る前に、早く帰れよ」
俺はぼんやりと傘を受け取った。
「……ありがとうございます」
「気を付けろよ。じゃあな」
蓮司さんはそれだけ言って、中に戻っていった。
傘は嬉しい……でも。
俺は傘を握ったまま、しばらく動けなかった。
*
雨が降り始めたのは、家まであと五分というところだった。
蓮司さんから借りた傘を開く。忙しない雨音が頭の上をずっと叩いている。
息を吸う。ちゃんと吸えた。大丈夫。傘もあるし、もうすぐ家だろ。
でも足が重かった。
家に帰っても誰もいない。
雨が強くなっていく。静かな住宅街に、雨音だけが響いていた。
——雨の日は苦手だ。
どうしても家に帰れなくて、コンビニに入った。
明るくて人がいて、BGMが流れていた。雑誌コーナーをしばらく眺める。別に何も読みたくなかったけど、立っていた。
時計を見たら二十二時を過ぎていた。
窓の外の雨はどんどん強くなっていく。
こんな時間に翔太郎たちに連絡したら迷惑だ。じいちゃんたちにも心配をかけたくない。父ちゃんは出張中で……。ひとりで帰れるだろ。子どもじゃないんだから、ひとりだって、平気だ。
入り口のガラス戸が開いて、巡回しているらしい警察官がふたり入ってきた。
「やべっ」
補導されるのを恐れて、反射的に店を出た。
歩き始めて、気づいたら立ち止まっていた。
道の真ん中で、自分がどこにも行けない感じがした。家には帰れない。コンビニには戻れない。
仕方なく隣の公園のベンチまで歩いて、腰を下ろした。
頭の中でずっとしゃべり続けていた。大丈夫、大丈夫、帰れる、平気だって。気にしすぎだって。
スマホを開いた。蓮司さん。翔太郎。たもっちゃん。楓。じいちゃん。ばあちゃん。父ちゃん。
指が止まった。もう一度だけスクロールした。
蓮司さん。
どうせ出てくれないだろう。そう思って二回コールしたあと、切ろうと思っていた。
『なんだよ』
なんで、出るんだよ。
「助けて、……蓮司さん」
口から勝手に出てしまっていて、自分でも驚いた。
「なぁんて……」
慌てて笑おうとしたら、「ぶひっ」と豚みたいな声を出してしまった。恥ず、と思うと同時に、ちょっとだけ冷静になる。
「すみません。冗談っす。蓮司さんはバイト終わったとこっす――」
『お前、どこにいんの』
「えー、クイズです! 俺はどこにいるでしょうか? いや、俺のことはいいんですって、それより蓮司さんの」
『大晴』
窘めるような、大人びた蓮司さんの声。こういう時だけ名前で呼ぶのはちょっとずるいと思う。
「……駅の近くの公園。コンビニの隣の」
『わかった。……話、聞いててやるから、そのままずっとしゃべり続けてろ』
なんだよ、それ。
泣きそうになりながら、つらつらとくだらないことをしゃべった。
ベンチに座ったまま、傘の柄を片手で持ち直す。来てくれるんだろうかと期待した。でも会ったらすごく怒られるんだろうなとも思った。だけどどうしても会いたかったから、それでもいいやと思い直した。
しばらくして、公園の入り口のほうで足音がした。
蓮司さんだった。
傘をさしていなかった。走ってきたらしく、肩のあたりが濡れていた。俺を見つけると、早足で近づいてきた。
「大晴!」
名前を呼ばれて、急激にほっとした。
勢いよく立ち上がって、俺は気づいたら蓮司さんに抱きついていた。蓮司さんは一瞬だけ固まって、それから俺の背中に腕を回してくれた。思ったより、強く。
俺は目を閉じた。
雨の音がしていた。同じ音のはずなのに、さっきとは違って聞こえる。不思議だ。
「……とりあえず俺んち、来い」
ちょっとだけ笑う余裕が出てきて、小さくうなずいた。
なにしてんだろ、俺。友達の兄貴に抱きついてるなんて。
*
「お邪魔、します……」
蓮司さんのアパートは、こじんまりとしていて、でも蓮司さんらしかった。無駄なものが何もなくて、本が何冊か積まれていて、カーテンは紺色だった。ゲーセンのバイトで貯めたお金でひとりで選んだ部屋なんだと思ったら、俺をここに入れてくれたことが妙にうれしかった。
「……ほら」
蓮司さんがマグカップを差し出してくる。俺は感激して受け取った。
「ココアだぁ……」
蓮司さんは「子どもかよ」と呆れたように言う。
「あったけぇ……」
一口飲んだら、甘さと温かさが喉の奥まで落ちていった。体の芯から緩んでいく感じがする。さっきまでずっと冷えていたんだ、と、飲んで初めて気がついた。
「ひとり暮らしの蓮司さんの家に、ココアがあるってやばくないですか?」
「……やばくねぇだろ」
「女の子連れ込んでココア飲ましてんだ……いやらしい……」
「今すぐ返せ、ココアを」
「嘘ですって! 冗談!」
怒った蓮司さんから距離を取って、ココアを飲んだ。
「それ飲んだら、風呂入れ」
「え、いいんすか」
「これ、パジャマな。俺のだけど……着れんだろ」
「あ……あざっす……」
ありがたく借りて、お風呂も入らせてもらった。ぽかぽかになって風呂から出たら、蓮司さんがドライヤーを手に持って、俺を待っていた。
「橋本、こっち。座って」
「え……?」
「髪、乾かすから」
「え? ……えっ!?」
「早く座れ」
「……あ、はい」
素直に床に座ったら、蓮司さんが後ろからドライヤーをあてはじめた。想像以上にやわらかい手つきで。
「あの、……蓮司さん」
「……あ?」
「急に大量のデレをぶつけてくんのやめてもらえます? 俺、けっこう供給過多で死にそうなんすけど」
蓮司さんは聞いているのかいないのか、そのままドライヤーを続けていた。
「はい、終わり」
ゆっくりと蓮司さんを見上げる。蓮司さんは優しい顔をして、俺の前に座り込んだ。
「で? なんか俺に言いたいことは」
そう聞かれると、何をしゃべっていいかわからなくなる。俺は子供が言い訳するように、もじもじと口を開いた。
「……あー、……あの、俺、雨苦手で」
「ああ……」
「いや、……ちげぇか、厳密には雨っていうか、雨の日にひとりでいるのが苦手なんすよね。……口にするとめっちゃガキみたいで萎えるけど」
蓮司さんは話の続きを促すように、俺の目を見る。
俺はたどたどしく話し始めた。
母ちゃんが死んだのは、小学三年生の秋だった。原因は事故だった。
亡くなった日以降のことはあまり覚えていない。ただ、母ちゃんのことを待っていた時間だけは鮮明に覚えている。雨に濡れて学校から走って帰ったその日。玄関のドアを開けたら、家の中がやけに静かだった。
いつもならそこにいるはずの人がいなくて、俺はずっと待っていた。
雨の中、静かな家でずっと。
ばかみたいだけど、その日から雨の日に誰もいない家に帰るのが怖いのだ。ドアを開けた瞬間の静けさが、あの日と重なって怖くなる。
「今日は父ちゃんも、じいちゃんたちも誰もいなくて。なんか……思い出しちゃって……母ちゃんが死んだ日も、雨だったんで」
蓮司さんは何も言わなかった。でも、俺の頭にそっと手を乗せた。ガシガシとかじゃなく、ただ乗せているだけだった。
やっぱり、供給過多で死にそうだ。
「今は? お前、平気なのかよ」
「い、今は全然! ……なんか、ひとりの時だけ、だめになるんです。誰かといると、普通なんすけど。……今は蓮司さんがいてくれるから」
「そうか」
蓮司さんの手が、俺の頭からゆっくりと離れた。
「飯は? もう食った?」
「……そういえば夕飯食ってねぇわ」
「おま、ばかか!」
「食欲どころじゃなかったんですって!」
蓮司さんが立ち上がって、台所に向かっていった。俺は後ろ姿を見ながら、わくわくして笑ってしまった。
「蓮司メシ……! 楽しみー!」
「静かに座ってろ」
「はーい」
台所で蓮司さんが何かを温め始める音がした。
俺はリビングに座って、台所の蓮司さんの背中を見た。
なんでこの人のそばにいたいんだろうって、ずっと考えてた。
蓮司さんは優しい。怖いふりをしても、聞いていないふりをしても。
俺は……。
「好きだな……」
「あ……?」
聞こえなかったのか、蓮司さんが不思議そうに俺のほうを振り返る。
「え?」
「……いや、今、なんか言わなかったか、お前」
「あ……」
答えは、ずっと心の中にあった。
俺って――もしかして。
「えーーーー!!!!!!!!!!!!!! マジかよ!!!!」
ひっくり返る勢いで叫ぶと、蓮司さんにめちゃくちゃ怒られた。
「急にうるせぇよ、橋本! 近所迷惑だろ!」
「……あ、すみません……ほんとに……すみません」
「お前、どうした……?」
俺はドッドッドッと高まるばかりの心臓を服の上から押さえつけた。
マジかよ。
そんなんありかよ。
だって、俺。
この人が好きなんだ。
完全にやっちゃったかも……。
蓮司さんが首を傾げている。
俺、どうしよう……友達の兄貴を好きになってしまった、かもしれない。
蓮司さんはあの夜「大晴」と呼んでくれた。けれど、次のバイトで会った時、俺がにやにやしていたら、また「橋本」に戻っていた。「なんでですか」と食い下がったらめちゃくちゃ嫌な顔をされた。でも、あの時たしかに、名前を呼んでくれたし、それで十分だ。今のところは。
だけど、どうして蓮司さんのそばにいたいのか、という問いの答えを、俺はまだ出せていなかった。出そうとするたびに、なんか手前で止まってしまう。まあ、いつか答えは出るだろう。
*
その日は朝から家の中が慌ただしかった。
じいちゃんがでかいスーツケースを玄関まで引っ張ってきて、ばあちゃんが「大晴、冷蔵庫にご飯作ってあるからね」と言いながら鞄の中を確認していた。父ちゃんはリビングのテーブルでノートパソコンを開いたまま、老眼鏡を外したり掛けたりしている。
「大晴、ほんとに今日、ひとりで大丈夫か?」
じいちゃんが言った。
「あー……」
俺は手元のスマホで天気予報を開いた。今日の天気。晴れ。
ほっとして、笑う。
「全然おっけー! つーか、みんなお土産よろしく! 甘い系としょっぱい系両方ね!」
じいちゃんとばあちゃんが顔を見合わせ、「うちの孫はちゃっかりしてるなぁ」とのほほんと笑う。
「大晴、悪いな。よりによってこんな日に出張とは……」
父ちゃんがパソコンから顔を上げた。眼鏡の奥の目が、かなり申し訳なさそうだった。
「全然いいって。急に決まっちゃったんだし、大事な仕事じゃん」
「飯、ちゃんと食えよ。コンビニばっかにすんなよ」
「わかってるって」
父ちゃんはもう一回「悪いな」と言って、また画面に目を落とした。その横顔が、なんとなく母親に似てると思った。老眼鏡のせいかもしれない。写真の中の母ちゃんはいつも眼鏡をかけていた。
玄関でじいちゃんたちを見送って、昼に父ちゃんも出ていって、ドアが閉まった。
家の中が、しんと静かだ。
ばあちゃんが作ってくれた昼飯を温めて食べたあと、わざと「よし」と声に出して、スマホを手に取った。
翔太郎に電話したけれど、つながらなかった。LIMEを送ったら「今日、ずっと塾」と返ってきた。たもっちゃんにも、メッセージを送ったら「バイトー! 夜は彼女とデート」とハートマーク付きで返ってきた。おいおい、ふざけんなよ。
だったら、楓だ、とメッセージを送ったら、当たり前のように「部活に決まってんだろ!!!」と怒りマークとともに返ってきた。
今日はバイトもない。
無性に蓮司さんに会いたくなって、俺はゲーセンに向かうことにした。
*
「なんで休みの日までくんだよ」
海斗さんが笑った。
「海斗さんに会いたくて?」
「うそつけ、お前が会いたいのは蓮司だろうが」
「正解!」
「ドヤ顔すんなよ、ったく」
これ以上バイト中の海斗さんに迷惑をかけるわけにもいかないので、ゲーセンの中をぶらぶらした。クレーンゲームで三回失敗し、音ゲーをやっている兄ちゃんと仲良くなり、そのあとはメダルゲームをやっているじいちゃんばあちゃんに話しかけて、十分くらいしゃべった。
蓮司さんは出勤していて、フロアのあちこちで仕事をしていた。ガラス拭き、品出し、機械のチェック、クレーン台のメンテナンス。俺のことはまったく気にしていない。
ゆっくりと近づいて、「蓮司さーん♡」と声をかけたら、蓮司さんはこっちを見もせずに「仕事中」と冷たく言い放つ。
「わかってますって、邪魔しないっすよ。ただ見てるだけですから」
「……うぜぇな、帰れ」
「嫌ですぅ……! つうか、今日は客なんだから、俺にもメロ男接客してくださいよ」
「……なんだよ、メロ男接客って」
「あれですよ、『よかった』にこっ、みたいなやつとか、『またのお越しをお待ちしています』ふっ、みたいなやつとか、たまにお客さんにやってるじゃないですかぁ!」
「……お前の言ってることの十割、意味わかんねぇよ」
「全部じゃないっすかそれ!」
蓮司さんがため息をついた。でも、追い払おうとする感じじゃなかった。俺を一瞥すると、蓮司さんの手が俺の頭の上に来る。
「え……?」
俺の頭をガシガシと一回撫でて、蓮司さんは何事もなかったかのように、さっさと次の仕事に行ってしまった。
「えっ!?」
驚きすぎて、固まる俺。
「おやおやぁ……?」
いつの間にか近くにいた海斗さんがにやりとしている。
「ちょっ!? 海斗さん、見ました!? 今の何!? 撫でましたよね!? 俺の頭を、蓮司さんが、撫でましたよね!?」
「見てたよ。うるせーな」
「だって、今の……マジ!?」
「だから、わかったって。ちょっとは仲良くなれたんじゃねぇの? 『蓮司さん』と」
海斗さんは笑って、また仕事に戻っていった。
俺は撫でられた頭に手をやって、じんわりした気持ちを抱えていた。
推しからのファンサ最高じゃん……。
*
ご機嫌にゲーセンをうろうろしていたら、女子高生の集団が入ってきた。この前クレーンゲームを蓮司さんに教えてもらっていた子たちだ。
その中でも特に人なつっこい子が俺を見て「あ、大晴じゃん!」と声をかけてきた。
この前、彼女たちがクレーンゲームで苦戦していた時、やり方を教えていたら同い年だと判明した。そこからは秒速で仲良くなった。
三十分くらい話して、クレーンゲームに付き合って、プリクラの話を聞いて、グループの子が好きな男子の話を聞いた。俺が「それ、脈ありじゃね?」と言ったら「ちょっ、大晴、信じてるからね!? 言葉に責任持ちなよ!?」とめちゃくちゃ食いついてきた。おもしれぇ。
ふと視線を感じて顔を上げたら、蓮司さんがこちらを見ていた。にこにこして手を振ったら、蓮司さんはふっと視線を逸らしてしまう。
女子高生たちと話している最中、そういうことが何回もあった。
んー? とちょっとだけ考えて、やっぱりこの中に蓮司さんのタイプの子がいたりするのかもと思った。
女子高生たちが「たいせい、またねー!」と言って帰っていったあと、俺は蓮司さんのほうに歩いていった。
「帰っちゃいましたよ、あの子ら」
「……あっそう」
「タイプの子、来てましたか?」
「まだ、言ってんのかよ」
「だってさっきもずっと、こっちの様子窺ってたじゃないっすか。いい感じの子がいたから見てたんでしょ? ずるいっすよ、いや……ずるくはねぇけど、やっぱ、蓮司担としてはモヤっとするっつうか。こっち見て~~俺を見て~~みたいな?」
蓮司さんが俺を見た。なんか、ちょっとだけ、困ったような顔をしている。でもすぐにいつもの無表情に戻って、口を開く。
「いい加減帰れ。もう八時過ぎてんだろ。ガキがふらついていい時間じゃねぇんだよ」
「えー! やだぁ!」
「ぶりっ子してんな、気持ち悪ぃな」
何度も抵抗したけれど、結局、強引に追い出されてしまった。
外に出た途端、空気が変わった。さっきまでの賑やかさが嘘みたいに、ゲーセンの電子音が遠くなる。
見上げた空はやけに重くなっていた。さっきまで確かに晴れていたのに……。
スマホを開いたら、天気予報が変わっていた。今夜から雨。
「橋本、これ使え」
はっとして振り返ったら、蓮司さんがゲーセンの入り口から半歩だけ出た場所に立って、傘を差し出していた。
「え、あ……」
「橋本?」
蓮司さんが怪訝な顔をする。
「どうした、お前」
「……あっ、いやー、……なんでもないっす」
「……とにかく、雨が降る前に、早く帰れよ」
俺はぼんやりと傘を受け取った。
「……ありがとうございます」
「気を付けろよ。じゃあな」
蓮司さんはそれだけ言って、中に戻っていった。
傘は嬉しい……でも。
俺は傘を握ったまま、しばらく動けなかった。
*
雨が降り始めたのは、家まであと五分というところだった。
蓮司さんから借りた傘を開く。忙しない雨音が頭の上をずっと叩いている。
息を吸う。ちゃんと吸えた。大丈夫。傘もあるし、もうすぐ家だろ。
でも足が重かった。
家に帰っても誰もいない。
雨が強くなっていく。静かな住宅街に、雨音だけが響いていた。
——雨の日は苦手だ。
どうしても家に帰れなくて、コンビニに入った。
明るくて人がいて、BGMが流れていた。雑誌コーナーをしばらく眺める。別に何も読みたくなかったけど、立っていた。
時計を見たら二十二時を過ぎていた。
窓の外の雨はどんどん強くなっていく。
こんな時間に翔太郎たちに連絡したら迷惑だ。じいちゃんたちにも心配をかけたくない。父ちゃんは出張中で……。ひとりで帰れるだろ。子どもじゃないんだから、ひとりだって、平気だ。
入り口のガラス戸が開いて、巡回しているらしい警察官がふたり入ってきた。
「やべっ」
補導されるのを恐れて、反射的に店を出た。
歩き始めて、気づいたら立ち止まっていた。
道の真ん中で、自分がどこにも行けない感じがした。家には帰れない。コンビニには戻れない。
仕方なく隣の公園のベンチまで歩いて、腰を下ろした。
頭の中でずっとしゃべり続けていた。大丈夫、大丈夫、帰れる、平気だって。気にしすぎだって。
スマホを開いた。蓮司さん。翔太郎。たもっちゃん。楓。じいちゃん。ばあちゃん。父ちゃん。
指が止まった。もう一度だけスクロールした。
蓮司さん。
どうせ出てくれないだろう。そう思って二回コールしたあと、切ろうと思っていた。
『なんだよ』
なんで、出るんだよ。
「助けて、……蓮司さん」
口から勝手に出てしまっていて、自分でも驚いた。
「なぁんて……」
慌てて笑おうとしたら、「ぶひっ」と豚みたいな声を出してしまった。恥ず、と思うと同時に、ちょっとだけ冷静になる。
「すみません。冗談っす。蓮司さんはバイト終わったとこっす――」
『お前、どこにいんの』
「えー、クイズです! 俺はどこにいるでしょうか? いや、俺のことはいいんですって、それより蓮司さんの」
『大晴』
窘めるような、大人びた蓮司さんの声。こういう時だけ名前で呼ぶのはちょっとずるいと思う。
「……駅の近くの公園。コンビニの隣の」
『わかった。……話、聞いててやるから、そのままずっとしゃべり続けてろ』
なんだよ、それ。
泣きそうになりながら、つらつらとくだらないことをしゃべった。
ベンチに座ったまま、傘の柄を片手で持ち直す。来てくれるんだろうかと期待した。でも会ったらすごく怒られるんだろうなとも思った。だけどどうしても会いたかったから、それでもいいやと思い直した。
しばらくして、公園の入り口のほうで足音がした。
蓮司さんだった。
傘をさしていなかった。走ってきたらしく、肩のあたりが濡れていた。俺を見つけると、早足で近づいてきた。
「大晴!」
名前を呼ばれて、急激にほっとした。
勢いよく立ち上がって、俺は気づいたら蓮司さんに抱きついていた。蓮司さんは一瞬だけ固まって、それから俺の背中に腕を回してくれた。思ったより、強く。
俺は目を閉じた。
雨の音がしていた。同じ音のはずなのに、さっきとは違って聞こえる。不思議だ。
「……とりあえず俺んち、来い」
ちょっとだけ笑う余裕が出てきて、小さくうなずいた。
なにしてんだろ、俺。友達の兄貴に抱きついてるなんて。
*
「お邪魔、します……」
蓮司さんのアパートは、こじんまりとしていて、でも蓮司さんらしかった。無駄なものが何もなくて、本が何冊か積まれていて、カーテンは紺色だった。ゲーセンのバイトで貯めたお金でひとりで選んだ部屋なんだと思ったら、俺をここに入れてくれたことが妙にうれしかった。
「……ほら」
蓮司さんがマグカップを差し出してくる。俺は感激して受け取った。
「ココアだぁ……」
蓮司さんは「子どもかよ」と呆れたように言う。
「あったけぇ……」
一口飲んだら、甘さと温かさが喉の奥まで落ちていった。体の芯から緩んでいく感じがする。さっきまでずっと冷えていたんだ、と、飲んで初めて気がついた。
「ひとり暮らしの蓮司さんの家に、ココアがあるってやばくないですか?」
「……やばくねぇだろ」
「女の子連れ込んでココア飲ましてんだ……いやらしい……」
「今すぐ返せ、ココアを」
「嘘ですって! 冗談!」
怒った蓮司さんから距離を取って、ココアを飲んだ。
「それ飲んだら、風呂入れ」
「え、いいんすか」
「これ、パジャマな。俺のだけど……着れんだろ」
「あ……あざっす……」
ありがたく借りて、お風呂も入らせてもらった。ぽかぽかになって風呂から出たら、蓮司さんがドライヤーを手に持って、俺を待っていた。
「橋本、こっち。座って」
「え……?」
「髪、乾かすから」
「え? ……えっ!?」
「早く座れ」
「……あ、はい」
素直に床に座ったら、蓮司さんが後ろからドライヤーをあてはじめた。想像以上にやわらかい手つきで。
「あの、……蓮司さん」
「……あ?」
「急に大量のデレをぶつけてくんのやめてもらえます? 俺、けっこう供給過多で死にそうなんすけど」
蓮司さんは聞いているのかいないのか、そのままドライヤーを続けていた。
「はい、終わり」
ゆっくりと蓮司さんを見上げる。蓮司さんは優しい顔をして、俺の前に座り込んだ。
「で? なんか俺に言いたいことは」
そう聞かれると、何をしゃべっていいかわからなくなる。俺は子供が言い訳するように、もじもじと口を開いた。
「……あー、……あの、俺、雨苦手で」
「ああ……」
「いや、……ちげぇか、厳密には雨っていうか、雨の日にひとりでいるのが苦手なんすよね。……口にするとめっちゃガキみたいで萎えるけど」
蓮司さんは話の続きを促すように、俺の目を見る。
俺はたどたどしく話し始めた。
母ちゃんが死んだのは、小学三年生の秋だった。原因は事故だった。
亡くなった日以降のことはあまり覚えていない。ただ、母ちゃんのことを待っていた時間だけは鮮明に覚えている。雨に濡れて学校から走って帰ったその日。玄関のドアを開けたら、家の中がやけに静かだった。
いつもならそこにいるはずの人がいなくて、俺はずっと待っていた。
雨の中、静かな家でずっと。
ばかみたいだけど、その日から雨の日に誰もいない家に帰るのが怖いのだ。ドアを開けた瞬間の静けさが、あの日と重なって怖くなる。
「今日は父ちゃんも、じいちゃんたちも誰もいなくて。なんか……思い出しちゃって……母ちゃんが死んだ日も、雨だったんで」
蓮司さんは何も言わなかった。でも、俺の頭にそっと手を乗せた。ガシガシとかじゃなく、ただ乗せているだけだった。
やっぱり、供給過多で死にそうだ。
「今は? お前、平気なのかよ」
「い、今は全然! ……なんか、ひとりの時だけ、だめになるんです。誰かといると、普通なんすけど。……今は蓮司さんがいてくれるから」
「そうか」
蓮司さんの手が、俺の頭からゆっくりと離れた。
「飯は? もう食った?」
「……そういえば夕飯食ってねぇわ」
「おま、ばかか!」
「食欲どころじゃなかったんですって!」
蓮司さんが立ち上がって、台所に向かっていった。俺は後ろ姿を見ながら、わくわくして笑ってしまった。
「蓮司メシ……! 楽しみー!」
「静かに座ってろ」
「はーい」
台所で蓮司さんが何かを温め始める音がした。
俺はリビングに座って、台所の蓮司さんの背中を見た。
なんでこの人のそばにいたいんだろうって、ずっと考えてた。
蓮司さんは優しい。怖いふりをしても、聞いていないふりをしても。
俺は……。
「好きだな……」
「あ……?」
聞こえなかったのか、蓮司さんが不思議そうに俺のほうを振り返る。
「え?」
「……いや、今、なんか言わなかったか、お前」
「あ……」
答えは、ずっと心の中にあった。
俺って――もしかして。
「えーーーー!!!!!!!!!!!!!! マジかよ!!!!」
ひっくり返る勢いで叫ぶと、蓮司さんにめちゃくちゃ怒られた。
「急にうるせぇよ、橋本! 近所迷惑だろ!」
「……あ、すみません……ほんとに……すみません」
「お前、どうした……?」
俺はドッドッドッと高まるばかりの心臓を服の上から押さえつけた。
マジかよ。
そんなんありかよ。
だって、俺。
この人が好きなんだ。
完全にやっちゃったかも……。
蓮司さんが首を傾げている。
俺、どうしよう……友達の兄貴を好きになってしまった、かもしれない。



