友達の兄貴を好きになってしまいました

「うわっ……」

 思わず声が出た。
 リビングの扉が開く。そこに立っている人物を見て、俺は固まった。

 背が高い。俺より頭ひとつ……は言い過ぎ。たぶん俺の頭の半分は差がある。

 色素の薄い肌に、すっと通った鼻筋。切れ長の目が、俺を一瞬だけとらえる。そして次の瞬間、舌打ちでもしそうな勢いで顔を背けると、扉をバンと閉めてしまった。
 まぬけに口を開けた俺だけが、リビングに残された。

 なんだ今の、とか、めちゃくちゃきれいな顔だった、とか、いくつかの感想が頭の中でぐるぐるしたけれど、どれを先に処理していいかわからなかった。

 いや、今はそんなことよりも明るく元気にご挨拶だろ。

 とにかく俺は生まれた時から明るかった。「この子は……なんか明るい気がする」そう母親が言って、父親が「じゃあ、『大きく晴れる』で『大晴』なんてどう?」とサムズアップしたって話は、俺の中でとても有名だ。
 そんなこんなで今日も俺は『大きく晴れて』過ごしている——はずだったんだけど。


 扉を開けると、さっきの男が廊下にいた。

「お邪魔してまーす!」

 だるそうに振り向いた男に、俺はにかっと笑って声をかける。

「あ、ども!」

 相手は整った目を一瞬俺に向けただけで、ゆらゆらとまた歩き出してしまった。

 聞こえてねぇのかな、と思って、もう一度大声で言う。

「お邪魔してまーす!! あ、翔太郎のお兄さんっすよね? 俺、翔太郎のダチで橋本大晴って言います。橋本は普通の橋本で、たいせいは大きく晴れるで大晴です!」

 男は立ち止まり、面倒そうに俺のほうを向く。正面から見ると、ますますきれいな顔だった。翔太郎もイケメンだけど、あいつのからっとしたイケメン加減とはかなり違う。なんかもっと……ねっとり? というか、色気? というか。漫画でよく出てくるダークサイドのヴィランって感じの。

「え、背でかいっすね。180はありますよね? うわー、羨ましー。俺、昔、背ぇ伸びるココアみてぇのあるじゃないっすか、あれめっちゃ飲んでもあんま伸びなくて、今170.9センチなんすけど、頑なに171センチって言い張ってます」

 けらけらと笑っていたら、低い声が落ちてきた。

「……っせぇな」

 ぼそりと吐かれた言葉。

「えっ、なんすか?」

 俺の言葉を最後まで聞かず、翔太郎の兄貴っぽい男はまた歩き出してしまった。
 いかんいかん。このままでは泥棒だと思われてしまう。
 翔太郎の兄貴っぽい男のあとを歩きながら、もう一度大声で言う。

「あのっ、俺怪しい者じゃないです! まあでも、怪しいって感じしますよね! だって家帰ってきたら見知らぬ男がひとり、リビングで寛いでる~~みたいな? つうか今まで翔太郎とたもっちゃんと楓――全員、同級生っす――といたんですけど、あいつら急に『ファミチキ』食べたくね? みたいなこと言って、そしたら『え、俺も食べたい』なるじゃないですか?」

 翔太郎の兄貴っぽい男は、そのまますたすたと広い廊下を歩き続けた。つうか、廊下だけで俺の部屋より広い気がする。

「あー、で、なんでしたっけ? あ、そうだファミチキ! そんで、誰か買ってこいよってひと悶着あって、平等にじゃんけんしたら俺だけ勝っちゃって、『逆にひとりでさみしー』ってなってたとこなんすよ」

 兄貴っぽい男はそのまま吹き抜けになっている二階まで、長い足でどんどん上がっていく。俺は慌てて背中を追いかけた。

「つうか、お兄さんイケメンですね! 翔太郎も顔整いですけど、マジできれいだわ。なんか美容とかやってるんすか? 俺もそういうのやり――」

 兄貴っぽい男が立ち止まったと思ったら、扉を開けていた。たぶん自室のようだ。そして、すぐにバンッ!!! と扉を閉められた。

 俺は締められた扉の前で一度瞬きしたあと、思い切りその扉を開ける。

「失礼しまーす!」
「……な」

 扉の向こうで、男が振り返った。めちゃくちゃ驚いた顔をしているけれど、やっぱイケメンだ。

「あいつらが帰ってくるまで、一緒に居ていいっすか? この家でけぇから、ひとりさみしーと思って。てか、家に中庭あんのすごくないっすか?」

 沈黙。男は俺を見て、それから深い深いため息をついた。そして、部屋の隅にある椅子に腰を下ろして、文庫本を手に取る。
 もう俺のことは一切見ていなかった。
 あ、いていいってことかも。そう思って、床にクッションを引いて腰を下ろす。

「翔太郎に兄ちゃんいるの知ってましたけど、会うの初めてっすよね? つうか翔太郎、あんまり兄貴の話しねぇから。でも、仲悪そうみたいな雰囲気はあいつから感じたことなくて、『兄貴は大学行ってて頭がいい』~みたいなこと言ってましたね。なんか、そういうのいいっすよね。ほら、俺――いや、ほらとか言っちゃったわ、俺って兄弟いないんすよ、だから、けっこう羨ましくて、俺も兄貴ほしいなぁみたいな――」
「お前さ」

 低い声が割り込んだ。男が本から目を上げて、俺を射抜く。

「黙ってらんねぇの? なんで?」
「え」

 一瞬、考えが止まった。あんまり聞かれたことのない質問だった。

「なんで、って……そりゃ……」

 言いかけて、自分でも答えがないことに気づく。なんでだろう。
 なんで俺、こんなにしゃべってるんだろう。
 当たり前のことすぎて、考えたことがなかった。生まれた時から明るくて、いつも場の中心にいて、誰とでも話して、げらげら笑って。それが橋本大晴で、それが俺で——でも、なんで?

「……なんでっすかね」

 口から出たのは、自分でもびっくりするくらい低い声だった。

 なんでだろう。生まれて初めて真剣に考えてみた。
 しゃべるのが好きだから? いや、好きかどうかも考えたことない。

 じゃあ、しゃべらないとどうなる? しゃべらない俺って、何?

 しゃべらなかったら、静かになる。静かになったら……。

 静かになると、いろんなことを考えてしまう。考えたくないことを。だからしゃべってる。音で埋めてる。

 家の中がシンとなってしまったあの日から、ずっと。

 そうか、俺は……。

「たぶん俺、……沈黙が怖い? ……のかもしんないっすね」

 やっと答えが出たのに、翔太郎の兄貴っぽい男は文庫本のページをめくっただけだった。

 いや待って。これ、すごくない? 俺、今、すごいことに気づいたんだけど。ずっとしゃべり続けてきて、なんで自分がしゃべってるかを、今この瞬間はじめて知ったんだけど。

 男がまたページをめくる。

「俺、なんで自分がしゃべってるか、全然考えたことなかったんすよ。なんで、って聞かれてはじめて気づきました。蓮司さん——あ、翔太郎のお兄さん、蓮司さんって名前で合ってますよね? 翔太郎から聞いてて——あー、で、蓮司さんのおかげで、なんか……深掘り? みたいなのができました。あざっす!」

 言い終えると、蓮司さんはじっと俺を見ていた。
 何かを考えているような顔だった。見つめ合うこと十秒間。それから、ふっと、笑いを堪えられなかったみたいに口の端を上げる。

 笑った!!!!!!! 笑えるんだ!!!!!

 からかうような、でも、なんか、そうじゃないような。いや、やっぱからかっているような。
 心臓が痛いくらいドクッとする。

「ん?……なんか、このあたりが」

 心臓に手をやった瞬間、玄関のほうがにわかに騒がしくなった。

「ただいまー! 大晴ー! 買ってきてやったぞ!」

 翔太郎の声だ。続いて、たもっちゃんと楓の「お邪魔しまーす」「お邪魔しますパート2!」とかよくわからないことを言いながら上がってくる足音がした。

「帰って来た」
「……え?」
「さっさと行けよ。弟んとこ」

 蓮司さんが言って、また本に目を落とした。
 俺は立ち上がって、もう一度蓮司さんを見た。ページをめくる横顔は、さっき笑ってくれた顔とは全然違う冷たい表情をしている。

「じゃあ、お邪魔しました~~」
「お前さ、」

 扉に手をかけたところで、蓮司さんが呼んだ。
 ばっと振り返ったけれど、蓮司さんはこっちを見てもいない。

「ばかだな、マジで」

 ページをめくりながら、ぼそりと言う。相変わらず目線は本のままだ。

「……そうっすね」

 そう言って、扉を閉めた途端、笑いが込み上げてくる。

 すげぇ悪口言われたし、めっちゃ塩対応で草。翔太郎の兄貴、清水蓮司、おもろすぎる。

 なんかよくわかんねぇけど、仲良くなれそうな気がした。次に会う時にはもっと。
 俺のこういう直感は当たる。翔太郎の時も、たもっちゃんの時も、楓の時もそうだったのだ。




 にやにやしながら一階のリビングに戻ると、翔太郎たちがすでにファミチキを半分食べていた。

「お前、まさか兄貴の部屋にいたの?」
「あ、うん。なんか……気づいたら」
「奇跡じゃん!」

 そう言って楓が目を丸くした。俺は高校からの付き合いだけれど、翔太郎とたもっちゃんと楓は中学からの仲だ。

「え、どういうこと?」
「……俺たちだったら、入る前に即行、扉閉められてるって」
「閉められたけど、強引に入った」
「「「たいせ~~~~~!!」」」

 三人がおかしそうにげらげらと笑う。きょとんとしていたら、翔太郎がファミチキを一本渡してくる。俺は「ありがとー!」とチキンにかじりついた。

「うっま!」
「お前、兄貴と会話できたの?」
「んーん、ぜんぜん。めっちゃ塩対応だったわ」
「「「たいせ~~~~~!!」」」

 また三人が腹を抱えて笑う。

「てかさぁ、次はもっと仲良くなれると思うわ、蓮司さんと」
「……マジかよ。あの蓮司さんを落とせたらすげぇわ」
「無理だろ。どんだけ陰の者だと思ってんだよ、うちの兄貴」
「でも、大晴ならありえるかもよ?」

 にやにや笑うたもっちゃんに肩を叩かれつつ、さりげなく翔太郎に聞く。

「ところで翔太郎、蓮司さんって大学生なんだよな?」
「うん、二年」
「ハタチ?」
「そうだけど」
「やっぱ、そうかぁ。めっちゃ大人っぽいもんなぁ」
「いや、なんで?」
「なんか……気になったから」

 翔太郎がじっと俺を見た。

「……ふうん」

 それだけ言って、ゲームのコントローラーを手に取る。

「ゲームしようぜ」
「うぃー、やりますかぁ!」

 それ以上は何も聞かなかったけど、夜、家に帰ってから翔太郎にLIMEした。「蓮司さんって彼女いんの?」って。既読がついて、しばらくして「いたことあるとは思うけど、家につれて来たことはねぇな。なんで?」と返ってきた。「今度はもっと仲良くなりたいから! 色々知りてぇなぁと思って」と送ったら、また「ふうん」とだけ返ってきた。

 布団に転がって、天井を見た。また会いてぇな、塩対応の蓮司さんと。





 夏休みに入り、俺たちは「ハッピー!」とばかりに翔太郎の家に集まった。

 翔太郎のお母さんはおっとりした人で、俺たちが来てもまったく気にしないようだった。今日はピラティスに行くらしい。さすが金持ちは違うなと思った。

 翔太郎の家のリビングは広くて、俺たちはいつもそこに集まった。デカいソファに三人転がっても余裕があって、エアコンも効いてて最高だった。
 蓮司さんはだいたい自分の部屋にいた。
 大学が休みの時はリビングでゲームをしていることもあれば、ソファで本を読んでいることもある。俺たちがわいわいしていてもたいして気にする風でもなく、ただそこにいた。夕飯の時間が近づくと台所に立つこともあって、そういうときは静かに、黙々と何かを作っていた。ペペロンチーノみたいなのがめっちゃうまそうで、「少しください」って口を開けていたら、めっちゃ睨まれてシカトされた。

 なんだかいつも蓮司さんのほうに目がいってしまう。ゲームに集中しているときの横顔とか、本を読みながらページをめくる指とか、パソコンとにらめっこしてるときの仏頂面とか、俺を見るときのゴミを見るみたいな冷たい目とか。なんかかっこいいとか、なんかきれいとか、そういうシンプルな感じで。

「お前、ほんと懲りねぇな」

 翔太郎が笑っている。
 お前の兄貴だろ、と思った。
 そりゃ仲良くなりたいよな。

 その日、三人は近くのコンビニに出かけて行った。俺はさっき買い食いしすぎたのと、外の暑さが死ぬほどやばかったので「待ってる」と言ってリビングのソファでお留守番をすることにした。

 三人の足音が玄関から遠ざかって、ドアが閉まると、途端に静かになった。
 今日は珍しく、リビングに蓮司さんがいる。蓮司さんはさっきからカタカタとパソコンを打っていた。言うまでもなく、俺のことなんかこれっぽっちも気にしていない。

 沈黙。

 テレビもついていない。でも、前よりは焦りがなかった。
 のんびりと蓮司さんのきれいな顔を見ながら、なんとなく口を開く。

「蓮司さん、……俺、邪魔っすか?」
「……」
「あー、よかったぁ」

 無言は否定だ。時と場合によっては、肯定。俺の気分次第。

「つうか今日、外ヤバくないっすか。あの暑さ。俺、今年の夏で一番やばいって感じしました。なんか体もだるいし……」

 蓮司さんはパソコンから目を上げず、返事をしなかった。俺はまたしゃべった。今日あったこと、翔太郎とたもっちゃんと楓との出会いの話、なんとなく頭に浮かんだこと。蓮司さんは何も返事をしない。でも、「うるせぇ」って怒られもしなかった。

 不思議な空間だった。

 誰かにしゃべりかけているのに、返事がない。人がいるのに、沈黙が怖くない。

 いつもみたいに空白を埋めなきゃという焦りがなくて、しゃべりたいからしゃべっていて、黙りたくなったらいつまでも黙っていられる気がした。
 ためしに少し黙ってみる。
 カタカタと蓮司さんのパソコンから音がしていた。

「いい音だな……」

 蓮司さんのタイピング音を聞きながら、目を閉じる。誰に聞かせるでもなく、「塩対応でおなじみ、蓮司ASMRのお時間です」とつぶやいたら、どこかからかすかに笑ったような声が聞こえた。

 ぱっと目を開ける。でも、蓮司さんは笑ってなくて、気のせいかぁと、また目を閉じた。

 静かだ。

 友達の前では、いつも「うぇーい」でいる。それが楽だし、それが俺だし、べつにそれが嫌いなわけじゃない。

 でも蓮司さんの前だと、なんか、そういうモードじゃなくていい気がした。返事がないから。反応がないから。蓮司さんは俺をまったく気にしてないから。

「俺のかあちゃん、ガキの頃に死んじゃったんですけど」

 だから、気づいたら、友達には言わないようなことを話していた。

 母親が死んでから、家の中がシンとなってしまったこと。父親も口数が減って、ばあちゃんも、じいちゃんも元気がなくて、俺だけがしゃべっているような気がすること。俺がしゃべれば少し明るくなる気がして、でも俺がしゃべらなかったらどうなるのか、なんか怖くて、だからしゃべり続けているような気がすること。

 蓮司さんは俺が話している間、少しもパソコンの手を止めなかった。すごく安心した。

 それでよかった。俺の話をどうでもいいって思っていてほしかった。

 取るに足らない、ありきたりなこと。誰もが思い、悩んでいること。

 俺だけじゃない、そのへんにいくらでも転がっているような取るに足らない孤独。

 それから俺はしゃべり疲れて、いつの間にか寝てしまった。

「大晴ー! アイス買ってきたー!」

 みんなの騒がしい声で起きた俺は、「――っ!?」声にならない声をもらした。
 俺の体に夏用のブランケットが掛けられている。この家には幽霊がいないという前提で考えると、蓮司さんがかけてくれたってことだ。

 うそ、マジで?

 あの塩対応でおなじみの清水蓮司が?

 辺りを見回したけれど、蓮司さんはもうどこにもいなかった。

「やば……」

 夏のだるさが一気に吹き飛んだ。にやにやしている俺を見て、翔太郎たちは「どったの?」と不思議そうにしている。





「マジで金がないんすよねー」

 ある金曜の夜、俺は蓮司さんの部屋の床に転がっていた。蓮司さんはベッドの上でスマホを見ていた。いつも通り、何も返さない。
 気づいたら、習慣になっていた。
 翔太郎の家に行くと、蓮司さんがいる部屋に転がり込んで、一方的にしゃべる。
 最近はほんとに忙しくてだめな時が、雰囲気でわかるようになっていた。


「ガチなんすよ、今月やばくて。もうすっからかんっす。つうか親にあんま金くれって言うのも悪いし。でも欲しいものは無尽蔵に増えるっていうか。俺の友達で、毎月三万もらってるやつとかいて、まぁ、蓮司さんの弟なんすけど——」
「バイトすればいいだろ」
「……え?」

 久しぶりに聞いた蓮司さんの声。
 俺は上半身を起こして、蓮司さんを見た。蓮司さんはスマホに目を落としたまま、それ以上は何も言わなかった。

 バイトすればいいだろ。

 二週間越しの、ちゃんとした初めての言葉。
 聞いてたんかい、と思った。いや、聞いてたんだ。そっか。

「いや……マジすか」
「……なんだよ」

 たったひとことでこんな嬉しいの、マジか。俺って、蓮司さんに飼い慣らされててウケる。
 蓮司さんが俺をちらりと見た。

「お前って、バイトしたことねぇの?」
「ないっす!!!!」

 蓮司さんからの質問、あざーす!

「ドヤ顔で言うなよ……。金ほしいならバイトしろ、自分で」

 蓮司さんが、今度こそ本格的に俺を見た。なんかあきれたような目だった。

「してみたいですね、バイト!」
「……どこがいいとかあんの」

 なんか今日、めっちゃ蓮司さんとしゃべってね、俺。やば、ヨントンきたこれ。

「……聞いてんのかよ」
「えっ、あ、ああ、……とくには。でも人が好きなんで、接客とかいいっすね!」
「いいかもな。お前、愛想だけはいいし」

 ふっと笑う。久しぶりの笑顔、ゲットあざす……。

「うるせぇし、ばかだけど」

 最後のひとことぜんぶ余計だ。

 また沈黙。蓮司さんはスマホに戻って、それ以上は何も言わなかった。
 バイト、か。いいな、と俺は思う。




 一週間後。

「どこでバイトすっかなぁ」

 にぎやかな翔太郎のリビングで、俺はスマホ片手にバイト情報サイトをぼんやり眺めていた。コンビニ、ファミレス、塾の講師。どれも「悪くはないな」で止まってしまう。

「蓮司さんに相談してくるわー!」
「はぁ?」

 翔太郎がぽかんとした顔で俺を見ていた。気にせず廊下に出て、蓮司さんの部屋のドアをノックする。

「蓮司さーーん」

 返事はなかった。でもドアを開けたら、ベッドの上で本を読んでいる蓮司さんがいた。

 ぱっと目が合うも、蓮司さんは無言で視線を本に戻した。いつも通りだ。俺はとりあえず部屋に入ってクッションに腰を下ろす。

「バイトどこにしようか相談しに来ました」
「……知らねぇよ」
「ですよね。でも、そこをなんとか!」

 俺は部屋の中を見渡して、ふと気づく。

 なんか、ものが少ない。もともとあんまりなかったけど、もっとなくなっている。デスクの上にあったはずのものがごっそりなくなっていて、充電器やケーブル類もない。クローゼットの扉が少し開いたままになっていて、中はほとんど空のハンガーだった。まるで、引っ越すみたいな。

「れ、蓮司さん……? え、もしかして、引っ越すんすか?」

 蓮司さんは本から目を上げなかった。

「……蓮司さん?」

 返事はなかった。

「ちょっ、蓮司さん!? なんで? マジで引っ越し!? えっ、違いますよね!?」

 蓮司さんは本のページをめくっている。

「蓮司さーーん!!」

 ぺらり。

「いや聞いてます!? 俺の話!!」

 ぺらり。

「…………」

 ぺらり。
 清水蓮司、こいつじゃ話になんねぇ!!
 俺はばたばたと部屋を飛び出して、階段を駆け下りた。バイトの相談のことは、すっかり頭から消えていた。

「なぁ、翔太郎! もしかして蓮司さん、引っ越し……!?」

 リビングに戻ったら、翔太郎は当然みたいな顔をしていた。

「兄貴? 引っ越すよ。ひとり暮らしすんだって」
「マジか……!!!! うそだろ!!!」

 崩れ落ちて、途方にくれる。

「……なんでそんな落ち込むわけ?」

 だって、やっと仲良くなれそうだったのに。
 口から出そうになった言葉を、俺は飲み込んだ。

「別に近所だって」
「え……そうなん?」
「うん、歩いて十分くらいのとこ」

 よかったぁ。ほっとして体から力が抜ける。

「つうか、わざわざそんな近くにひとり暮らしせんでもって言ったけど、あの人、意思固すぎだから」
「いいなぁ、ひとり暮らし」
「……だよなぁ、俺もしてぇけど金かかりそう~~」
「それな。兄貴はゲーセンのバイトでけっこう金貯めてたみたいだけど」

 ゲーセンのバイト。

 俺の頭の中で、何かがかちっとはまった。

 悪くないな、と思った。





 面接は、一発で受かった。
 まあ、そうなるよな、と自分でも思った。対面のコミュニケーションなら俺の出番だ。

 店長に名前を聞かれて、「橋本大晴です! 大きく晴れるで大晴です!」と言ったら「縁起がいい名前だね」と笑われた。それからはとんとん拍子で話が進んで、「来週から来れる?」「もちろんっす!」という感じで終わった。

 スマホに翔太郎からLIMEが来ていた。

『面接どうだった?』
『受かった! 来週からシフト入る!』
『もう受かったのかよ!?』

『その場でOKもらった!』と返したら『たいせい~~』ときた。続けて『お前はほんと陽キャの塊って感じだな……』って。

 初出勤は次の週の水曜日だった。

 控え室で待っていたら、隣のロッカーの先輩に「新しい子?」と話しかけられて、名前を言ったら「縁起よさそう!」と笑われた。面接の時と同じリアクションで内心ウケた。

 で、その先輩が別の先輩を呼んで、その先輩がまた別の先輩を呼んで、気づいたら控え室に五、六人いた。「お前めっちゃ喋るな」「初日の癖に、こいつなじみすぎだろ」という謎に爆笑されて、俺はすっかりいい気分だった。みんないい人たちそうだ。

 先輩に教えてもらいながら更衣室で制服に着替えて、出ようとしたところでドアが開いた。
 蓮司さんだった。

「うぃーーーす! 蓮司さーん!」
「……っ!?」

 テンションがめちゃくちゃ高い俺を見て、蓮司さんは固まった。

「お、お前……なんでここに!」

 蓮司さんは珍しく動揺していた。かわいい。
 俺は一秒だけ考えて、にかっと笑った。

「バイトすればいいって言ったの、蓮司さんじゃないっすか」