人の顔を覚えられない薄幸令嬢は、妖から望まれて溺愛花嫁になる~冷酷無慈悲で秀麗な死神様の甘い溺愛~



「お前みたいに醜い娘なんて、産むんじゃなかった」

 実の母から告げられた言葉が、数え年で六つのまだ幼い百合(ゆり)の心へ刃物のように突き刺さる。
 だが実際に刃物が刺さっていたのは百合ではなく、薄い着物を着た母の身体だった。
 なぜか嫌な予感がして、母の部屋へ向かい襖を開けた直後の出来事である。
 母から飛んだ血で、自分の薄灰色の髪が汚れるのも厭わず百合は叫ぶ。

「お母様、お母様!!」
「触るな化け物! お前が醜いから、あの人は他の女に子どもを産ませたんだ!」

 母を助けたい一心で駆け寄った百合の身体が、拒絶の声で弾かれたようにビクッと震えた。
 この土地では他にいない、髪と同じく極めて薄い灰色の目をした百合の瞳から大粒の涙が次々と零れ落ちる。
 泣きながら必死に何度も母を呼ぶ百合の声は、自らの手で自分自身の命を終えようとしている母に届いていない。

「お前のせいで、あの人は!!」

 百合の母がそう叫んだ直後、大人の男の背丈以上ある柄の長さの大きな鎌が、音も立てずに空中で円を描く。
 するとそこに幼い百合の手のひらと同じくらいの大きさの黒い玉が現れて、トン、と部屋の畳の上に落ちた。
 その黒くて丸いものは少しだけ畳を転がっていく。そして動かなくなった百合の母のすぐそばで止まった。

「お母様……?」
「もう死んでるぞ」

 いつの間にか室内に存在していた黒い装束で身を包んだ男性が、慣れた手つきで当たり前のように黒い玉を拾う。
 そしてそれをガブリと齧ると呟いた。

「不味いな」

 母の部屋には百合の父親以外の男性は入ってこないはずだ。
 その父親も、最近は母の近くに寄ろうとすらしない。
 幼い百合は震えた声を喉の奥から絞り出す。

「誰……?」

 そう問いかけたが、百合には半分答えが分かっていた。
 彼の髪の長さは、この土地の男の人たちと同じくらいでそれほど長くはないが、明らかに色が違う。
 金色の髪が美しく輝いている。それにこの土地で百合の他は黒髪黒目の人間しかいないのに、彼の瞳は朱い。
 その瞳を見て百合は確信した。
 彼は人の叫び声を刈って食す死神様だ。
 冷酷無慈悲で恐れられている神だが人間を襲っていた妖を統率し、むやみな争いを終息させたため、この土地の大人たちからは貴神(きしん)様と呼ばれている。
 人の顔を覚えられない百合が、忘れることのできない瞳と出会ったのはこれが初めてであった。
 思わずジッと見つめてしまう。

「お前の母が…………」

 冷酷無慈悲なはずの死神から伝えられたのは、百合が考えもしなかった意外な言葉だった。



 * * * * * * *



 ひゅうッと冷たい風が吹いている。
 十七歳になった百合は裕福な商家の娘にもかかわらずもう十年以上、使用人と同様の生活を送っていた。
 義母に洗濯を命じられた棚宮(たなみや)家の長女の百合が冷たい水へ手を入れて、ザブザブと敷布を洗う。
 仕事の邪魔にならないように胸までの伸びた薄い灰色の髪をうしろでキュッとひとつに結わえているから首が寒い。

 風に晒されながらギュウッと力を込めて敷布を絞ると、あかぎれがパクリと割れた。
 ピリッとした痛みに百合は思わず顔をしかめてしまう。
 手が乾くと、今度は手の甲全体がヒリヒリと痛くなってきた。

 洗濯物を干したら次は廊下の拭き掃除だ。
 早くしなければ、でないと義母から罵声を浴びせられるだろう。
 水を入れて重くなった桶の取っ手を持ち上げると、先ほど割れたあかぎれから血が滲んだ。

 もう少しで拭き掃除が終わる……というところで水の入った桶が倒れた。
 正確には『倒れた』のではなく『倒された』のを百合は見てしまった。
 汚れた水が、拭いたばかりの廊下に広がっていく。

「やだ、こんな所に置かないでよ! 着物が濡れるじゃないの!」
「申し訳ございません」

 つい先ほど濡れないように着物の裾を捲って桶を蹴った本人に向かって、百合は慌てて頭を下げる。
 言い返せば何倍もの嫌がらせが返ってくることを百合は身をもって知っていた。

「早く片づけてよね。このあと徳壱様がいらっしゃるのは知っているでしょう? 今はまだ黒百合の婚約者なんだから」

 そう言って、百合よりもひとつ年下の異母妹、麗蘭(れいらん)はフフンと鼻で笑った。
 皆から美しいともてはやされている麗蘭の顔を、百合は覚えることができない。
 人の顔を覚えることができないのは、生まれてからずっとだ。
 だが百合を蔑む口調と刺繍が華やかで豪奢な着物のおかげで、いつもすぐに麗蘭だと認識することができた。

「徳壱様もかわいそうよねぇ。醜いせいで母親が心を病んでしまうような黒百合が婚約者だなんて」

 義母と異母妹は、百合のことを『黒百合』と呼ぶ。
 ふたりが言うには、髪も目も薄い灰色できったない色してるから名前くらい黒にしといてあげる、というのがその理由だ。
 ずっと醜いと言われ続けてきたので百合は知らなかった。自分の顔立ちが決して悪くないということを。むしろ愛らしいくらいであった。
 だが黒髪黒目の人ばかりでその色が濃ければ濃いほど美しいとされるこの土地の人間たちにとっては、薄灰色の百合の見た目は非常に醜く、嫌悪の対象でしかない。

 来客の知らせを受けて荷物を持つために門まで迎えに行った百合は、付き人を連れて立つ人物の姿を見て戸惑う。立派な着物を身に纏い、明らかに付き人ではない高い身分の男性が、ふたりいる。

(今日は徳壱様と、弟の宗次郎様もご一緒なのね……)

 人の顔を覚えられない百合は、似たような着物を身につけられるとどちらが自分の婚約者なのか分からない。
 百合が人の顔を覚えられないのは生まれつきで仕方のないことだった。
 しかし他の人が当たり前にできることが難しいという現実に、自分の努力が足りないのではないかと百合はどうしても自身を責めてしまう。
 人の顔の特徴をとらえて記憶しようと何度も試みた。でもいつもうまくいかない。
 間違えてしまっては失礼になるから、粗相のないように百合は常に気を張っている。
 立派な身なりのふたりの男のうち、ひとりが百合に対する嫌悪を隠そうともしないで眉根を寄せた。
 それを見て、百合はホッと安堵の息を吐く。
 婚約者の徳壱が自分を見て眉根を寄せたことで彼だと分かり、安心したのだ。
 百合が使用人のように荷物を受け取ると、徳壱は吐き捨てるように呟いた。

「こんなに醜い女が婚約者だなんて、本当に嫌になる」

 その言葉を聞いて百合は、涙をこらえ困ったように微笑んだ。
 百合と徳壱の婚約は、お互いの祖父同士が決めたものだった。
 徳壱は一歳、百合に至ってはまだ生まれてさえいない時期での婚約だ。
 当時、華昇院家当主だった徳壱の祖父が、治めている領地で最も裕福な商家の棚宮家と繋がりを強固にするために望んだ婚約だった。
 向こうから求められての婚約だったため、婚約後に生まれてきた百合の外見が醜くても、それを理由に解消するのは外聞が悪いこともあってか徳壱の祖父が亡くなり当主が徳壱の父へ変わった今も婚約関係は継続している。

 屋敷に入ると、玄関で麗蘭が両親と一緒に徳壱と宗次郎を出迎えた。
 いつの間に着替えたのか、麗蘭の着物は水の桶を蹴った時よりもさらに華やかなものに変わっている。同じ棚宮家の娘なのに、ツギハギだらけの百合の着物とは大違いだった。
 麗蘭に声をかけられた徳壱は先ほど百合へ見せた嫌悪の表情が噓のように、にこやかに微笑んでいる。

 今日の徳壱は華昇院の領地内にある、高位の妖たちが住む屋敷への供物のことで徳壱の父――華昇院家当主から文書を預かり棚宮家を訪れると聞いていた。
 
 妖は人の叫びを狩って食す。
 通常の妖は、叫びからできる黒い玉をうまく狩ることができず、握り潰すようにしてしまうので一度に少しの叫びしか掴むことができないらしい。
 それ故に昔々この地の妖たちは、叫びを手に入れるために人間をたくさん襲い叫ばせていたといい伝えられている。
 しかしいつの頃からか、大きな鎌を用いて死ぬ間際の者や罪人の叫びだけを次々と刈る妖が現れた。しかもその妖は、手に入れた大量の叫びの黒い玉を他の妖たちにも分け与えたのだという。
 人の死期が分かるのか、その妖は死の間際に現れることが多いため、人々から『死神』と呼ばれていた。
 そしてその当時の華昇院家当主は『死神』が死とは関係ない罪人の叫びも刈っていることに目をつける。妖のための屋敷をつくり、捕らえた罪人の叫びを『死神』が刈る機会を設けるから、その叫びを他の妖に分配し善良な領民が襲われないようにしてほしいと彼に願ったのだ。
 それを死神が受け入れたのか、妖たちがむやみやたらに人間を襲うことが減っていく。
そして華昇院家の領地を攻めると捕らえられた時に恐ろしい妖が現れるため、この地を攻撃しようとする他家はいなくなった。その結果、『死神』と呼ばれていた妖はこの地で『貴神様』と呼ばれ敬われる存在となっている。
 
 今日は来客があり、両親と麗蘭のために用意する夕食の準備がいつもよりほんの少しだけ遅くなってしまった。
 そのせいで、はぁぁぁぁ……と義母が大きなため息を吐く。

「まったく、役立たずだこと。満足に働けないのにご飯はやれないわ。今日の夕飯は無しね」

 夕ご飯どころか、百合は朝も昼も食べていない。
 しかしそれを伝えたところで、義母の考えは変わらないことを百合は経験で知っている。
 何かしら理由をつけてご飯を抜かれることはよくあることだ。
 自分以外の家族が入る風呂を沸かした後で百合は皆が夕食で使った食器を片づけてから、水で濡らして絞った布で体を清めた。
 そして百合は空腹で鳴るお腹を押さえつつ母屋を出て、寒さに震えながら歩き寝床として与えられた物置小屋の扉を開ける。
 小屋の隅に集めた藁の上に座って休んでいると、バサバサッ、と羽の音が聞こえてきたのでそちらを見上げた。

「くえー、くえー」

 木の格子がついた明かり取りから、一羽の黒い烏が鳴きながらこちらを見おろしていた。
 その烏の足元には、いつものように桃がひとつ置かれている。
 百合は小さな梯子を出してのぼるとそこへ手を伸ばし、甘い匂いのする桃を受け取った。
 初めて烏が来た時はまさか自分へ渡すためだと思わずにしばらく様子を見ていたが、ずっと「食え、食え」と言っているような感じで動かなかったため口にしたのだ。
 その日から律儀に毎日、烏は桃を持ってこの小屋を訪れてくれている。

「親切な烏さん、ありがとうございます。優しい飼い主様にもお礼を伝えてください」

 百合の言葉が分かっているのか、真っ黒な烏は首を動かしてコクリと頷いた。
 そして烏はそのままその場所に居座り、百合が桃を食べ終えるまで寝て待とうとするかのように目を閉じる。
 どんなに寒い日でも届けられるこの実は甘く、とても美味で、しかも種が金で出来ている不思議な桃であった。
 この桃がなかったら、百合は間違いなく飢えてとっくに動けなくなっていただろう。

 百合の実の母が亡くなってまもなく、気落ちした祖父は隠居して静かな土地へ引越してしまった。
 一緒について行きたかったが、自分のために祖父が決めてくれていた婚約者はこの土地の領主の息子だったため百合はこの家を離れることができない。
 それまでたったひとり、百合の外見を厭うことなく接してくれていた祖父がいなくなり、婿養子だった父がこの家へ連れてきたのは、半分だけ血のつながったひとつ年下の異母妹とその母だった。
 その日から百合の生活が一変する。
 働かないと食事が用意されることはない。その食事もいつの頃からか自分で用意しなければならなくなった。
 家族といるよりも女中たちと過ごす時間の方が多かったが彼女たちは皆同じ格好をしているため、人の顔を覚えられない百合には誰が誰だか判断することが難しくて親しくなれる者がいない。
 百合は屋敷の中ですっかり孤立してしまっていた。
 誰も味方はおらず、義母が百合に物置小屋で寝るよう命じても、そんな酷い仕打ちが見て見ぬふりをされてしまう。
 罰として食事がないこともしょっちゅうだった。
 烏が届けてくれる桃のおかげで、今日まで生きてこられたとしか思えない。
 桃が届けられるようになったのは、物置小屋で寝るようになった翌日からだ。
 初めて食べた時はその美味しさにとても驚き、お礼の手紙とともに洗った金の種を包んで烏に渡した。
 するとその翌日、再び届けられた金の種と桃には手紙が添えられていた。

『自由につかっていい』

 一言だけそう書いてあった手紙を見て、金の種を孤児院へ寄付しようと思いつく。
 百合はまだ幼かったが、何度か祖父に連れられて領地内の孤児院を慰問したことがあった。
 自分は昨日も今日も桃を食べられたが、孤児院ではもっとお腹を空かせている子たちがいるにちがいない。
 これを寄付すれば、その子たちに食べ物が届くだろう。
 しかし金の種を手に持って出かけようとしたところで、運悪く義母に見つかってしまった。

「あら黒百合、それ、もしかして母親の形見かしら。私が預かってあげる」

 その数日後、新しい着物と簪を身につけた麗蘭が嬉しそうに、母様が金の塊を換金して買ってくれたと百合に自慢してきた。
 あの日以来、自分では役立てることができないからと手紙を書いて、金の種は烏に渡して返すようにしている。
 種を返すようになって数日後、また手紙が添えられていた。

『その家を出てこちらへ来ないか』

 行けるのならば行きたい。手紙の主は知らないが、おそらくこの家の者たちよりは優しい人だろう。
 でも百合には、祖父が決めてくれた婚約者がいた。

『こんやく者がいます。だから行けません』

 その返事を書いた日からも毎日欠かさず桃は届けられて、百合もお礼の手紙と金の種を烏に渡していたが、向こうからの手紙が添えられることはなかった。




 * * * * * * *



 百合が十八の歳を迎えた数日後、棚宮家で唯一の味方だった祖父が、隠居先で亡くなったとの知らせが届く。

「ねえ、お母様。今日の葬儀、貴神様もいらっしゃるのかしら?」
「そうね。この家とは華昇院家を介して縁が深いし、いらっしゃると思うわ」
「すごく美しいかたなんでしょう? お会いできるのが楽しみだわ」

 着替えを手伝う百合の存在はないもののように無視して、義母と麗蘭は楽しそうに話している。

「秀麗で、しかも神々しい金色の髪と朱色の瞳らしいわよ」
「すごいわ。金色と朱色なんて、高貴なかただけが纏える色じゃないの」

 この地では黒髪黒目が濃いほど美しいとされているが、例外がある。
 金色の髪と朱色の瞳をもつ貴神様は別格だ。金色と朱色は高貴な者だけに使用が許される色であり、美しさの次元が違う。

 隠居していても祖父は大商家棚宮家の前当主だったため、葬式には多くの人が参列した。
 いや、人だけではない。
 義母が予想していたように妖屋敷からも朱い目をした金色の髪の死神が、一尺ほどの二本のツノを持つ身体の大きな鬼をつれて棚宮家を訪れた。

 そして、粛々とした通夜の場での事だった。
 皆の前で徳壱が立ち上がり、大きな声で発言したのだ。

「両家の一族が揃う良い機会だから宣言させてもらう。僕は麗蘭と婚約する!」
「嬉しいですわ、徳壱様!」

 ぴとりと麗蘭に寄り添われて、徳壱はご満悦だった。

「式もなるべく早く挙げて結婚しよう」

 鼻の下を長くしている徳壱の姿に呆然としながら、百合はなんとか唇を動かして言葉を話す。

「徳壱様……私たちは婚約しています……お互いのお爺様たちが決めた、大切な約束です……」

ふん、と徳壱が鼻で笑う。

「その祖父がふたりとも、もういないではないか」
「でも……」
「それに僕は気づいているぞ。お前、僕と宗次郎の見分けがついていないだろう。頭、悪いんじゃないのか」
「っ」

 徳壱の指摘に、百合は思わず喉を詰まらせる。

「見た目も中身も不出来な女と、次の華昇院家当主の僕が結婚なんてできるわけないだろう?」

 ダンッと大きな音がして、辺りが一瞬で静まり返った。
 皆の視線が、音のしたほうへ向けられる。
 その先にいたのは、貴神様と呼ばれる金色の髪と朱色の瞳をもつ妖の姿だった。
 大きな鎌の柄で、強く床を突いたようだ。

「ではその娘、我の妻として迎えよう」

 その場にいる人間たちが皆、驚きすぎて声を出せずにいた。
 貴神様と呼ばれている死神の隣に立つ大きな鬼が、手に持っていた袋を逆さにする。
 すると数えきれないほどの金の塊がすごい音を立てて出てきた。
 金色の髪と朱色の瞳をもつ妖が、威厳のある声で告げる。

「それをやるから、今後この娘には一切近づかないように」

 百合は気づいた。
 いま目の前で山になっている金は、百合が送り主に返していた桃の種だ。 
 人の顔を覚えられない百合でも忘れられない朱色の瞳をもつ妖が、ゆっくりと近づいてくる。

「あの桃を届けてくださったのは、あなた様だったのですね……」
「あの時は婚約者がいるからと断られたが、いない今なら来てくれるか?」

 百合は思った。
 母が亡くなった時「お前の母が亡くなったのは、お前のせいじゃない」と言ってくれた彼のもとへ行きたい、と。
 百合が頷いたのを見て、妖が大きな鎌を頭上に掲げる。
 その刃が空中で円を描くと、妖たちと百合の姿が人間たちの前から消えた。



 * * * * * * *



 ここは妖の屋敷の中だろうか。
 百合は目を丸くして驚いた。
 自分のいる場所が、大商家の棚宮家のどの部屋よりも畳の枚数が多い広い部屋だったからだ。
 人間たちから貴神様と呼ばれている死神が頭上に手を掲げて指をパチンと鳴らすと、広間に妖たちが現れた。
 様々な見た目の妖たちが、死神とその隣に立つ百合を囲んでいる。
 低いのによく通る声で、死神が妖たちへ宣言した。

「この娘は我の嫁だ。今日からここで暮らすことになった」
「嫁……って大丈夫なのかい? 怖がって泣いているじゃないか」

 まだ妖たちが人間の前へ頻繁に姿を現していた時代に口裂け女と呼ばれていた妖がそう言うと、ぽろぽろと涙を零している百合に妖たちの視線が集まった。
 百合は首を横に振りながら、怖くはありません、と告げる。

「怖いだろう、この大きく裂けた口」

 百合の目の前で妖の女が、耳まで裂けた口をクワッと大きく開けた。
 その姿を見た百合が正直に答える。

「真っ赤な唇が鮮やかで、美しいです」
「はあ? 本気で言ってんのかい?」
「とても素敵です……華やかで印象に残ります」

 嬉しい……、と百合が呟く。
 すると祖父の葬儀に来ていた鬼が近づいてきて、言った。

「嬢ちゃん俺は? 流石に俺は怖いだろう、こんなツノが生えてるしなぁ?」
「怖い……とは違います。立派なツノで触ってみたいな、と思いました」

 呆気にとられたように鬼がポカンと口を開ける。
 まだ訝しげに眉根を寄せている口裂け女が百合に向けて言葉を発した。

「じゃあなんで泣いてるんだい」
「すごく嬉しかったんです。みなさんのお顔をすぐに覚えられたことが」

 口裂け女が、チラリと毛むくじゃらの妖のほうを見て『本当かい?』と心の中で問いかける。
 視線の先で毛むくじゃらの妖――心を読む『覚』は首を縦に振りコクンと頷いた。

「どうやら本当のようだね……アタイたちのことが怖くないんだ」

 遠巻きに様子を伺っていた妖たちが、次々と百合に話しかけ始めた。
 首の長いろくろ首、目も鼻も口も無いのっぺらぼう、頭に皿がある河童、目がひとつしかないひとつ目小僧、布のような一反木綿……
 それぞれの妖がはっきりとした特徴を持っていた。
 黒髪黒目ばかりの人間と違い見分けがつくのが嬉しくて、百合は妖たちの唯一無二の個性を無自覚に褒めていく。
 人間から心無い言葉ばかり浴びせられてきた妖たちは、百合の言葉に癒されて心の底から喜んだ。

「すごいねアンタ……ええと、この子の名前は何ていうんだい?」

 口裂け女が問いかけるように死神へ視線を向ける。
 すると彼は百合に尋ねた。

「どう呼んでほしいか、教えてくれないか?」

 百合は迷った。棚宮家ではもうずっと『黒百合』と呼ばれていたからだ。
 でも、本当は……

「百合……」
「分かった、そう呼ぼう。では、我のことも名で呼んでもらおうか」

 死神にそう言われて百合は考える。
 死神様の名前、皆が呼んでいたのは……

「……貴神様……」
「それは人間たちが勝手に呼んでいる名だ。我の名は『イサヤ』。呼んでみろ」
「イサヤ様……」
「妻なのだから、我を呼ぶ時に『様』はいらないのだがな。まあ、今はそれでもいい」

 イサヤが百合に優しく呼びかける。

「百合」
「は、はいっ」

(名前を呼んでいただけた!)

 わぁ……

 百合の心が躍る。本当の名を呼ばれたのは久しぶりであった。
 だが喜びに弾んで温かくなっていた心は、すぐにその温度を下げる。
 イサヤが眉根を寄せて、訝しげに百合の方を見つめたからだ。
 心配になった百合は、思わず問いかけた。

「いかがなさいましたか……?」
「こちらへおいで」

 百合が近づくと、耳元で囁くような感じでイサヤに名前を呼ばれた。

(ふぁあっ)

 百合の胸がときめく。
 次の瞬間、百合の頭上でイサヤが大きな鎌を振った。
 するとそこに綺麗な色をした手のひらくらいの大きさの玉が現れて、ふわりふわりと漂っている。
 それを見たイサヤが言葉を発した。

「浮いているな、しかも黒くない」
「虹の色と同じ……」

 思わず百合は呟く。
 イサヤは、漂っていた虹色の玉を手に取った。
 そして百合に問う。

「百合、さっき心の中で叫んだか?」
「叫んだ……かもしれません」
「気配を感じたのだ。そうか、これは百合の叫びか」

 手の中の虹色の玉を、イサヤはジッと見つめている。

「味はどうだろうな」
「え、食すのですか!?」

 驚く百合が止めに入る前に、イサヤはパクリと虹色の玉を食べた。
 そして、朱色の瞳を丸くする。

「甘くて美味い。黒いのとは全然違うな」
「本当かい? アタイも食べたい!」

 イサヤは再び百合の名を呼んで、虹色の玉を手にした。
 それを口の裂けた女の妖が美味しそうに食べる。
 周りで見ていた妖たちも寄ってきて欲しがった。
 
「ダメだ、百合に近づきすぎだ」

 妖たちから距離を取らせようとして、イサヤが百合を抱き寄せる。
 するとイサヤは何か気配を感じたのか、大きな鎌で空中を刈った。
 どうやらイサヤに名前を呼ばれたり触れられたりすると、百合は心の中で叫ぶようだ。
 虹の玉を取って、イサヤは妖たちに配った。
 ひとつ食べてまだまだ百合の虹玉を食べたそうにしている妖たちに「今日はもう終わりだ」と告げたイサヤは口の裂けた女の妖に声をかける。

「サキ、そろそろ百合を休ませたいから風呂へ入れてやってくれ。それが済んだら寝床へ案内を」

 その言葉に百合は戸惑う。
 もう十年以上ものあいだ風呂は自分にとって入るものではなく、家族のために沸かすものだった。
 温かい湯船につかり、百合が風呂から出ると新しい浴衣が用意されていた。
 ツギハギの無いものを着るのは、いつ以来だろう。百合は思い出せない。
 サキと呼ばれていた妖に案内された部屋に入ると、ふんわりと膨らんで暖かそうな布団が部屋の中央に敷かれていた。

(こちらの布団はどなたのものかしら……私はここにいてもいいの……?)

 誰か探して聞いてみようかと考えたが、もう夜だし迷惑をかけてしまうだろうと百合は思いとどまった。
 いても差し支えない場所はどこだろうと頭を働かせた結果、百合は部屋の隅へ行き、横になって猫のように体を丸くする。

(ああ、暖かい……)

 風が入ってくる物置小屋とは全然違う。
 畳の上で眠れることの喜びを噛みしめながら百合は目を瞑った。
 久しぶりの暖かさが心地よくてウトウトしてからどのくらい時間が経っただろうか。

「なぜ、そこにいる」

 低いのに不思議と甘いよく通る声が聞こえて、百合はパッと覚醒した。
 朱色の美しい瞳に見つめられているのに気づき、すぐに起き上がる。
 そして思い至った。
 そうか、この部屋はイサヤ様の寝室で、自分がいてはいけなかったのだ。

「申し訳ありませんでした。すぐに出て行きます」
「出て行く? どこへ行くつもりだ?」
「ええと……物置小屋か、馬小屋でも。私がいても邪魔にならない場所を教えていただければ、どこでも」

 はぁ……、とイサヤが小さくため息を吐いた。思わず百合は怯えた仔猫のように肩をビクリと揺らしてしまう。
 義母がため息を吐くと、決まって次に悪いことが起きたからだ。
 嫌味を言われるくらいならまだいい。打たれたり、熱いお茶をかけられたり。
 今回はいったいどんな仕打ちをされるのだろう。

「ひぁっ!?」

 ふわっと百合の体が浮いた。イサヤに横抱きにされている。
 畳から体が離れて、初めてのことに驚いた百合は空中を蹴るように足をバタバタ動かした。

「そう暴れるな。じっとしていないと落ちるぞ」

 イサヤは背が高いから、ここから落ちたら大変なことになる。
 百合はピタ、と足の動きを止めた。

「いい子だ。そのまま我の首へ腕をまわして、落ちないようにしっかりと掴まれ」
「は、はいっ失礼いたします」

 百合は彼の首へ腕をまわしてしがみつく。
 必死だったため、自分から積極的に強く抱きしめるような格好になっていることに百合は気づかない。

(人間とは、こんなに可愛いものなのか)

 イサヤは無意識に引き寄せられて、横抱きにしている百合の髪にそっと口づけた。
 腕の中の存在に愛しさが込み上げてくる。
 名残惜しさを感じつつ、イサヤは百合を布団へおろした。

「他の場所へは行くな。邪魔にならない所はここだ」

 そう言うとイサヤは百合の隣で横になった。

「一緒に寝るのですか!?」
「ああ、そうしないと百合は布団を抜け出して、床で寝そうだからな」

 ほら寝ろ、とイサヤは腕を伸ばして百合の髪を優しく撫でた。
 イサヤとの距離が近くて百合の胸の鼓動がドキドキと音を立てる。何か言葉を発していないと胸の音がイサヤにまで聞こえてしまいそうに思えて夢中で口を動かした。

「イサヤ様、ここへ連れてきてくださってありがとうございます」
「人間が妖と暮らしても幸せになれないだろうと思っていたが、無理やりにでももっと早く連れてくるべきだったな。百合がみなと打ち解けられてよかった」

 百合は、ふと疑問に思ったことを口にした。

「私、今まで人の顔を覚えることが出来なかったんです。でも妖のみなさんは個性豊かで、すぐに覚えられました。それがとても嬉しかったんです。だけど見た目が似ている妖さんも、たくさんいらっしゃったりするんでしょうか」
「それは無いな。妖はどこからともなく生まれ、その個体が死んだらまたどこかに現れる。同時期に同じ種族の妖が自然発生したことはない」
「そうですか……」

 百合はホッとした。
 それならば、妖たちの姿を覚えることができる。
 安心した表情の百合を見て、イサヤは少し意地悪で蠱惑的な笑みを浮かべた。

「だが、人間のように交配すればその限りではないかもしれんな。試してみるか、百合?」

 百合は大きく目を見開き驚いた。
 その顔を見て、ふ、とイサヤが小さく笑う。

「そう怖がらなくても、今夜は何もしない……今はまだ、な」
「そのうちなさるのですか……?」
「されたいか?」

 甘く問いかけながらイサヤが百合の頬を撫でると、みるみるうちに百合の頬が紅く染まり、薄灰色の瞳が潤んでいく。
 その様子を見たイサヤの口から思わず言葉が零れた。

「可愛い……」
「っ!?」
「好きだ、百合が可愛くてたまらない」

 百合が心の中で悶えながら叫ぶ。
 すると手を伸ばして鎌を持ったイサヤが、百合の叫びを刈った。

「食事がしたかっただけなのですね……。からかわないでくださいませ……」
「百合は可愛いし、我は百合のことを愛しく思っている。からかってなどいない」
「うぅ~~~、イサヤさま……そんなことを言われたら、照れてしまいます……」

 再び虹色の玉を刈り、イサヤはそれを食す。

「照れている時の百合の叫びは、格別に甘いのだな」
 
 その後もイサヤの甘やかしは続き、翌朝、妖たちは山のような虹色の玉を見て「虹玉だー」と喜んだのだった。



 * * * * * * *




 なぜだ……わからない……わからないが……何かがおかしい。

 華昇院徳壱は苛立っていた。
 昨日も、一昨日もだ。
 華昇院家が治める領内の各地で暴動が起きている。
 そんなことは今までになかった。

 実は罪人をイサヤに差し出す際に、徳壱の父である華昇院家の当主は、華昇院家へ害をなそうとする無実の者も差し出していたのだ。
 だが百合の虹玉のおかげで、イサヤが数多くの黒玉をとらなくても妖たちが飢えることはなくなった。
 華昇院家が人間たちの手で、正しく裁かれるのもそう遠い日ではないだろう。



 * * * * * * *



「うわぁ、すごい! 海が見えます!」
「百合様に喜んでもらえてよかったっすー」
「屋敷の真上でも、高く昇れば海が見えるんですね!」

 今日の百合は一反木綿のサイハクに誘われて、彼の背に乗り空を飛んでいた。

「それにしてもイサヤ様は誘ってないんすけどー。重いっすー」
「わがまま言うな。百合の叫びを刈っていいのは我だけなのだから」

 手を振って否定するような感じに、サイハクは自分の布の先端を振った。

「それこそわがままっすー。飛びながら拙者が百合様の叫びを刈ればいいじゃないっすかー」
「ダメだ。他の者では百合の虹玉を刈る時に少し潰してしまうからな。少しでも無駄にすることは許さん」
「そんなこと言って、もー。ただ単に百合様のそばにいたいだけじゃないっすかー」

 痛い所を突かれたのか、ぐ、とイサヤが喉を詰まらせた。
 しかし大鎌を持つ手は動かして、百合の嬉しそうな叫びを器用に刈っていく。

「あ、ジンニ様が手を振っています」

 百合が下へ目を向けると、鬼のジンニが林檎の入ったカゴを片手で持ち上げて、もう一方の手をこちらへ向けて振っていた。

「うわぁ、真っ赤な林檎ですね。美味しそう!」
「自分は食べないのにあんなにとって。物でつろうとしてるっすー。ずるいっすー」
「百合はそろそろおやつの時間か。サイハク、おりるぞ」

 しょぼん、とサイハクは自分の布の先端を萎れさせている。

「もっと百合様と飛んでいたかったっすー」
「ありがとうございます。またぜひご一緒させてください」
「我が一緒にいる時にな」

 イサヤはそういうと、刈ったばかりの虹玉をサイハクへ渡した。
 次はジンニの所へ向かう。
 ジンニから勧められるままに百合が林檎を食べていると、頬を膨らませたサキがやって来た。
 口裂け女のサキは口も大きいが、膨らませた頬も大きい。

「もぅっジンニ、食べさせすぎだよ。夕ご飯が入らなくなるじゃないか」

 人間と同じ食事はとらないが、喜んで食べてくれる姿にハマったサキは百合の食事を作るようになっていた。
 今では口元を隠した姿で孤児院へ慰問し料理を振舞っている。
 その訪問には百合も希望して一緒に行っていた。

「百合ちゃん百合ちゃん。貴女に新しい浴衣を作ったの。お風呂上りに着てもらえるかしら」
「うわぁ、素敵ですね」

 夕食後、ろくろ首のセリハから浴衣を渡されて、百合は目を輝かせた。
 しかしすぐにその顔が青褪める。今はイサヤがそばにいない。

「申し訳ありません。こんなに素敵な浴衣をいただいたのに、セリハさんに虹玉をお渡しできなくて」

 セリハは長い首を揺らしながら微笑んで百合に優しく声をかけた。

「ふふ、いいのよ。百合ちゃんに喜んでもらいたかっただけ」
「でも……」
「みんなもそうよ。百合ちゃんの虹玉をもらえてももらえなくても、百合ちゃんが大好きだから喜ばせたいっていう気持ちは変わらないわ」

 その言葉を聞いて、百合の瞳がみるみるうちに潤んでいく。

「セリハさん……っ」
「あらあら、泣かせちゃったわね。みんなに怒られちゃうかしら」

 湯浴みを済ませて新しい浴衣に袖を通し寝所の襖を開けると、すでに部屋にいたイサヤに朱色の瞳を向けられた。

「見たことのない浴衣だな」
「セリハさんが作ってくださいました」
「そうか……」

 小さく呟いたイサヤの表情がいつもより暗い。
 心配になった百合は布団の上で胡坐をかいて座るイサヤの方へ近づき、両膝をついて座った。


「いかがなさいましたか?」

 百合が問いかけると、イサヤが少し拗ねたような声で呟く。

「我も何かしら、百合が喜ぶことをしてやりたい」
「ここに連れてきてくださっただけで、充分です」
「何かないか。どんなことでもいい。望みがあったら言ってくれ」
「どんなことでも……?」

 ああ、とイサヤが告げた。
 はしたないお願い事でもいいのだろうか。
 外国の物語で読んで、素敵な場面だったので憧れていることがある。

「イサヤ様に……口づけを……していただきたい……です」
「……口づけとは……接吻のことか?」
「はい」
「……お、おぅ……」

 戸惑っている。軽蔑されてしまっただろうか。
 困らせてしまい申し訳ない気持ちでいっぱいになり泣きそうになった百合は俯いた。
 が、勇気を出して顔を上げイサヤの顔を潤んだ瞳でジッと見つめる。

「ダメでしょうか……?」
「っ……!」

 イサヤは息を呑むと、天を仰ぐように上を向き片手で自分の顔を覆い隠した。
 そして呟く。

「我の妻が、可愛すぎる……」

 その瞬間、百合は何かの気配を感じた。
 指を揃え手を刀のようにして空中をそっと掬う。
 するとそこに、百合の叫びと同じような虹色の玉が現れた。
 それを見て、イサヤと百合は目を見開いて顔を見合わせる。

「百合が我の叫びを刈ったのか……」
「私が、叫びを……?」
「考えられるとしたら、我が育てた桃を幼い頃から百合が食していたことだな。我の力が桃を介して百合に伝わってしまったのだろう」

 百合は手を伸ばしてイサヤの虹色の玉を食べた。
 それを見たイサヤは大慌てで百合の口の前に手を差し出す。

「そんな物を口にして、腹でも壊したら大変だろう。ほら、ここに吐き出すんだ」
「……甘くて美味しい!」
「我の叫びは甘いか、それはよかった。しかし、身体は大丈夫なのか……、待て、何かおかしい」

 かつて死神と呼ばれていたイサヤは、人の寿命を感じとる事ができる。
 
「我の叫びを食べたせいか? 百合の寿命が延びている……」
「本当ですか? そうしたらたくさんイサヤ様の甘い叫びを食べたら、私もイサヤ様と同じくらい生きられるのでしょうか。口づけをお願いすると、イサヤ様は叫んでくださるのですか?」
「お手柔らかに願う。我の心臓がもたない」

 百合はハッとした表情を浮かべた。

「私の寿命が延びたことを人に知られたら、人間たちがイサヤ様の虹玉を狙ってきて危険かもしれません」
「そうなった時は、百合を守……」
「私、強くなります。いざという時イサヤ様を守れるように!」

 一瞬、目を見開いたイサヤは、すぐに嬉しそうな表情を浮かべた。

「頼もしいな、我が妻は」

 イサヤの左手が優しく百合の肩を引き寄せる。

「愛しい妻に守ってもらえるなんて、我は幸せ者だ」

 そしてふたりの唇が重なった。
 口づけはさらに深くなり、甘さを増していく。
 初めての経験に驚き空中で行き場を求めるように動かされていた百合の手を、そっとイサヤが握った。

 つながれる前にさまよっていた百合の手が意図せず叫びを掬っていたのだろう。
 数えきれないほどの虹色の玉が、柔らかに光りながらふわりふわりと浮いている。