診療日誌(2024年11月20日)
記録者: 早瀬冴(水無月市立病院・精神科)
最近、奇妙な患者が急増している。
共通する訴え:「人形が見える」「人形が家にある」
初診時、私はこれを集団ヒステリーの一種と考えた。過疎地域特有の、閉鎖的なコミュニティにおける心理的感染。水無月市のような地方都市では、噂や不安が急速に広がることがある。
しかし、診療を重ねるうちに、私の診断は揺らぎ始めた。
患者たちの証言には、あまりにも具体的な共通点がある。
そして、その共通点は——
科学的に説明できない。
患者記録
患者A:男性・34歳・会社員
初診日: 2024年11月8日
主訴: 「家に人形があるが、いつ買ったか覚えていない」
診療メモ:
患者Aは、几帳面な性格の会社員。IT企業勤務。論理的思考を重視するタイプ。精神疾患の既往歴なし。
訴えによれば、1週間前、自宅のリビングに木彫りの人形が置かれていることに気づいた。高さ30センチ程度。しかし、患者Aは、その人形をいつ、どこで購入したか、全く記憶にないという。
患者A: 「先生、おかしいんです。あの人形、確かに家にあるんです。でも、買った記憶がない」
早瀬: 「ご家族が買った可能性は?」
患者A: 「独身で一人暮らしです。誰も家に入れてません」
早瀬: 「では、以前から家にあったものを、最近気づいただけでは?」
患者A: 「いえ、絶対に違います。私、部屋の配置とか、すごく気にするタイプなんです。急に人形が現れるなんて、あり得ない」
患者Aの表情は真剣だった。嘘をついている様子はない。しかし、客観的に考えれば、記憶の錯誤か、何らかの解離性障害の可能性がある。
診断: 解離性健忘の疑い。経過観察。
患者B:女性・52歳・主婦
初診日: 2024年11月10日
主訴: 「娘が『昔から家にあった』と言う人形の記憶がない」
診療メモ:
患者Bは、温和な性格の主婦。家族構成は、夫と娘(26歳)。精神疾患の既往歴なし。
訴えによれば、娘が「この人形、昔から家にあったよね」と尋ねてきたが、患者Bには全く記憶がない。娘は、幼少期からその人形を見ていたと主張するが、患者Bは一度も見た覚えがないという。
患者B: 「先生、娘は嘘をついてるわけじゃないんです。本気で、昔から家にあったと信じてるんです」
早瀬: 「娘さんの記憶違いでは?」
患者B: 「でも、写真にも写ってるんです」
早瀬: 「写真に?」
患者B: 「はい。娘が小学生の頃の写真。確かに、人形が写ってるんです。でも、私、その人形を見た記憶がないんです」
患者Bは、困惑した表情で古いアルバムを取り出した。娘の小学生時代の写真。確かに、背景に木彫りの人形が写っている。
早瀬: 「この写真、あなたが撮ったものですか?」
患者B: 「はい。私が撮りました。でも……人形を撮った記憶がないんです」
私は、写真を詳しく観察した。合成や加工の痕跡は見られない。古い写真特有の色褪せもある。しかし、患者Bは、この人形の記憶が全くないという。
診断: 記憶障害の可能性。または家族間の認識の齟齬。経過観察。
患者C:女性・28歳・フリーランスデザイナー
初診日: 2024年11月12日
主訴: 「写真を見返すと、子供の頃から人形を持っているが、全く覚えていない」
診療メモ:
患者Cは、繊細で内省的な性格。芸術的感性が高く、細部に敏感。精神疾患の既往歴なし。
訴えによれば、最近、実家から送られてきた古いアルバムを見返したところ、幼少期の写真の多くに人形が写っていることに気づいた。しかし、患者Cは、その人形を持っていた記憶が全くないという。
患者C: 「先生、怖いんです。自分の記憶が信じられなくなって」
早瀬: 「写真を見せていただけますか?」
患者Cは、スマートフォンに保存した写真を見せた。幼稚園の頃、小学生の頃、中学生の頃。様々な年代の写真に、同じ木彫りの人形が写っている。
患者C: 「この人形、確かに写ってるんです。でも、全く覚えてないんです」
早瀬: 「ご両親に確認しましたか?」
患者C: 「はい。母は『あなた、すごく大事にしてたわよ』って言うんです。でも、私、本当に覚えてないんです」
患者Cの目には、涙が浮かんでいた。自分の記憶と、記録されている事実との乖離に、深く混乱している様子だった。
診断: 解離性健忘の可能性。幼少期の記憶喪失。継続診療が必要。
内部メモ(2024年11月15日)
3人の患者に共通する点:
全員が水無月市に関係がある
患者A: 水無月市出身
患者B: 水無月市在住
患者C: 幼少期を水無月市で過ごす
全員が「人形の記憶がない」と訴える
しかし、記録(写真、家族の証言)には人形が存在する
記憶と記録の乖離
患者たちは嘘をついていない
家族も嘘をついていない
しかし、記憶が一致しない
これは、単なる記憶障害では説明できない。
3人とも、独立した症例として来院している。互いに面識はない。しかし、訴える内容があまりにも酷似している。
集団ヒステリー? しかし、患者たちに接点はない。
では、何が起こっているのか?
共通点の分析
私は、3人の患者の記録を徹底的に分析した。
分析結果:
共通点1:全員が「過去に人形送りに関わった」と記録されている
患者Aの母親への聞き取り:「息子は小学生の頃、川で人形を流しました」
患者Bの娘への聞き取り:「母は、私が小さい頃、一緒に川へ人形を流しに行ったと言っていました」
患者Cの母親への聞き取り:「娘は、小学生の頃、人形送りの儀式に参加しました」
しかし、患者本人には、その記憶が全くない。
共通点2:写真に写っている人形が、本人に似ている
私は、患者たちから提供された写真を詳しく分析した。
患者Aの写真:人形の顔の輪郭が、患者Aに似ている。
患者Bの写真:人形の顔の輪郭が、患者Bに似ている。
患者Cの写真:人形の顔の輪郭が、患者Cに似ている。
これは、単なる偶然だろうか?
それとも——
記録の改竄
2024年11月17日、私は恐ろしい発見をした。
患者BのSNS投稿
患者Bの娘の許可を得て、患者BのSNSアカウントを確認した。
5年前の投稿に、人形の写真がある。
投稿文: 「娘が大事にしてる人形。もうボロボロだけど、手放さないんです」
投稿日時: 2019年11月3日
私は、患者Bに確認した。
早瀬: 「この投稿、覚えていますか?」
患者B: 「……いえ。こんな投稿、した覚えがありません」
早瀬: 「でも、あなたのアカウントから投稿されています」
患者B: 「でも、本当に覚えてないんです」
投稿日時を確認した。確かに5年前。アーカイブデータを確認しても、改竄の痕跡はない。
では、なぜ患者Bは覚えていないのか?
私は、さらに詳しく調査することにした。SNSのログイン履歴、投稿デバイスの情報、位置情報。全て確認した。
異常は見つからなかった。
投稿は、確かに患者Bのスマートフォンから行われている。位置情報も、患者Bの自宅。時刻も、患者Bが普段SNSを利用する時間帯。
しかし、患者Bは覚えていない。
患者Aの実家のアルバム
患者Aの母親の許可を得て、実家の古いアルバムを確認した。
30年前の写真。幼稚園の集合写真。
写真の背後、教室の隅の棚に、人形が置かれている。
私は、その幼稚園に問い合わせた。
幼稚園の先生(60代): 「そんな人形、園にはありませんでした。30年以上働いてますが、見たことがありません」
早瀬: 「でも、写真には映っています」
先生: 「……不思議ですね。でも、本当に記憶にないんです」
物理的な写真にも、人形が写っている。
デジタルデータなら、改竄の可能性もある。
しかし、これは30年前の紙の写真だ。
どうやって改竄する?
記録改竄の検証(2024年11月18日)
私は、さらに深く調査を進めることにした。
もし、写真が本当に改竄されているなら——
いや、そんなことがあるはずない。
でも、確認しなければならない。
私は、患者Aの母親に許可を得て、同級生の家族にも連絡を取った。
患者Aの幼稚園時代の集合写真。同じ日、同じ場所で撮影された写真を、複数の家族が所有しているはずだ。
私は、3つの家族から写真を提供してもらった。
患者Aの家、同級生Bの家、同級生Cの家。
3枚の写真を、診察室のデスクに並べた。
そして——
私は、恐ろしい発見をした。
同じ集合写真なのに、人形の写り方が微妙に違う。
患者Aの家の写真: 人形は棚の左側にある。本棚の端。
同級生Bの家の写真: 人形は棚の右側にある。反対側の端。
同級生Cの家の写真: 人形は棚の中央にある。ちょうど真ん中。
同じ日、同じ場所、同じ瞬間の写真。
撮影者も同じ。幼稚園の先生が撮った集合写真。
なのに、人形の位置が違う。
これは、物理的にあり得ない。
私は、写真を何度も見比べた。拡大鏡を使って、細部まで確認した。
加工の痕跡はない。
3枚とも、本物の写真だ。古い写真特有の色褪せ、紙の質感、全て一致している。
しかし、人形の位置だけが違う。
私は、震える手で写真を置いた。
これは、何を意味するのか?
同じ瞬間なのに、異なる記録。
まるで——
人形が、写真ごとに異なる位置に「存在していた」かのように。
いや、そんなことがあるはずない。
私は、頭を抱えた。
科学的に説明できない。
物理的に不可能だ。
でも、事実として、目の前にある。
カルテ記録(2024年11月18日 深夜)
私は、病院に残って、カルテに詳細な記録を残すことにした。
これは、医学的な記録として残さなければならない。
たとえ、科学的に説明できなくても。
【症例の共通点—記録の改竄? または集団妄想?】
3人の患者に共通する現象:
本人には記憶がない
しかし記録には残っている(写真、SNS投稿、家族の証言)
物理的な証拠(写真)も存在する
複数の証言者(家族)の記憶が一致
しかし——
物理的証拠との整合性が取れない。
事例:患者Aの幼稚園集合写真
同じ瞬間を撮影した3枚の写真(異なる家族が所有)において、人形の位置が異なる。
写真1:棚の左側
写真2:棚の右側
写真3:棚の中央
これは改竄では説明できない。
なぜなら:
物理的な紙の写真である(デジタル改竄不可能)
3つの家族が独立して所有(改竄の動機なし)
加工の痕跡が一切ない
では、何が起こっているのか?
仮説1:集団催眠
→ 患者同士に接点はない。催眠をかけた人物も不明。却下。
仮説2:記録媒体への物理的干渉
→ 紙の写真に後から干渉? 物理的に不可能。却下。
仮説3:記憶の集団的改竄
→ しかし、写真という物理的証拠が存在する。記憶だけの問題ではない。却下。
仮説4:過去への遡及的干渉
→ 人形が、記録を通じて、過去に遡って存在を主張している?
→ これは科学的にあり得ない。時間は一方向にしか流れない。
しかし——
他に説明がつかない。
私は、この仮説を真剣に検討し始めている。
もし、記録そのものが「過去に遡って書き換わっている」としたら?
デジタルデータだけでなく、物理的な写真までも。
そして、その書き換えが「観察者ごとに異なる」としたら?
同じ写真でも、見る人によって、写っている内容が異なる。
いや、そんなことがあるはずない。
私は、カルテを閉じた。
疲れている。考えすぎだ。
明日、もう一度冷静に考えよう。
患者Aとの第3回セッション(2024年11月19日)
翌日、患者Aが予約外で来院した。
表情が硬い。目の下にクマがある。明らかに睡眠不足。
早瀬: 「どうされましたか?」
患者A: 「先生……顔が、おかしいんです」
早瀬: 「顔が?」
患者A: 「笑えないんです。笑おうとしても、顔が動かない」
患者Aは、無理に笑顔を作ろうとした。しかし、口角がわずかに上がるだけで、目は笑っていない。表情筋が硬直しているように見える。
早瀬: 「いつからですか?」
患者A: 「3日前くらいから。最初は、疲れてるだけかと思ったんです。でも、だんだんひどくなって」
早瀬: 「他に症状は?」
患者A: 「鏡を見ると……顔が、木みたいに見えるんです」
私は、息を呑んだ。
患者Cと、同じ症状だ。
早瀬: 「木みたい、というのは?」
患者A: 「表情がなくて、硬くて。まるで、木彫りの人形みたいに」
患者Aは、震える手で自分の顔を触った。
患者A: 「先生、私、どうなってるんですか?」
私は、患者Aの顔を注意深く観察した。
確かに、表情が硬い。笑顔が作れない。目の動きも少ない。
しかし、「木彫り」というのは、患者の主観的な感覚だろう。
いや——
待て。
患者Cも、同じことを言っていた。
「顔が木みたいになってる」
そして、患者Aも。
これは、偶然だろうか?
診断: 表情筋の硬直。心因性の可能性。しかし、患者Cとの症状の類似性が気になる。継続観察が必要。
患者Bとの第4回セッション(2024年11月19日)
同じ日の午後、患者Bも来院した。
患者B: 「先生、娘がおかしいんです」
早瀬: 「娘さんが?」
患者B: 「ええ。最近、私を見る目が……怖いんです」
早瀬: 「怖い?」
患者B: 「『お母さん、人形を思い出した?』って、何度も聞いてくるんです。でも、私、本当に覚えてないんです」
患者Bは、涙ぐんだ。
患者B: 「娘は、『お母さんが思い出さないと、人形が帰ってくる』って言うんです。何を言ってるのか、全然わからなくて」
早瀬: 「娘さんは、何か知っているのでしょうか?」
患者B: 「わかりません。でも、娘の様子がおかしいんです。まるで、何かに怯えてるみたいに」
私は、患者Bの娘にも話を聞く必要があると判断した。
患者Cとの第5回セッション(2024年11月20日)
患者Cは、憔悴しきった様子で来院した。
目の下に深いクマ。顔色は青白く、唇は乾いている。声は掠れていて、震えている。
診療記録・患者C(28歳・女性)第5回セッション
早瀬: 「眠れていますか?」
患者C: 「眠れません。声が聞こえるんです」
患者Cは、椅子に座りながら、膝を抱えている。体を小さく丸めて、まるで何かから身を守るように。
早瀬: 「どんな声ですか?」
患者C: 「人形の声です」
私は、カルテに記録する。幻聴。統合失調症の可能性。
早瀬: 「人形が、あなたに話しかけてくるのですか?」
患者C: 「はい」
患者Cは震えながら続ける。
患者C: 「最初は、ただの錯覚だと思いました」
患者C: 「でも、毎晩聞こえるんです。夜中に」
患者C: 「『思い出せ』って」
早瀬: 「何を思い出せ、と?」
患者C: 「人形送りのこと。私が、人形を流したこと」
患者C: 「でも私、そんなこと覚えてないんです」
私は、患者Cの表情を観察する。瞳孔は正常。目の動きも正常。しかし、恐怖に怯えている様子は明らかだ。
早瀬: 「それで、人形は何と言ってるんですか?」
患者Cは俯き、震える声で答える。
患者C: 「教えてくれたんです。人形送りの本当の意味を」
患者C: 「先生、人形送りって、厄災を流す儀式じゃないんです」
早瀬: 「では、何を流す儀式なんですか?」
患者Cは、私の目をまっすぐ見た。その目には、深い恐怖と、何か確信めいたものがあった。
患者C: 「流したい"もの"じゃない。流されるべき"もの"を流すんです」
患者C: 「こうはなりたくない自分。忘れたい自分。消したい自分」
患者C: 「そして、流した瞬間に忘れるんです」
患者C: 「だから誰も覚えてない」
私は、息を呑んだ。
患者Cの言葉が、あまりにも具体的だった。
しかも、これは他の患者の症状とも一致する。
早瀬: 「それは、人形が教えてくれたんですか?」
患者C: 「はい。毎晩、囁くんです」
患者C: 「『お前が流したのは、お前自身だ』って」
患者C: 「『そして今、私はお前のもとへ帰る』って」
患者Cは、突然泣き出した。
声を殺して、肩を震わせて、涙を流す。
患者C: 「先生、私、怖いんです」
患者C: 「人形が、私になろうとしてるんです」
患者C: 「いや、違う——私が、人形になろうとしてるんです」
早瀬: 「どういう意味ですか?」
患者C: 「鏡を見るたび、顔が硬くなってる」
患者C: 「笑えなくなってる」
患者C: 「先生、私の顔、木みたいになってませんか?」
私は、患者Cの顔を注意深く観察した。
確かに、表情が硬い。
笑顔を作ろうとしても、口角が上がらない。目も、あまり動いていない。
患者Aと、同じ症状だ。
早瀬: 「患者Cさん、あなたの顔は正常です。木のようには見えません」
患者C: 「でも……」
患者C: 「人形が言うんです」
患者C: 「『もうすぐ入れ替わる』って」
患者C: 「『お前は流された側になる』って」
その後、患者Cは黙り込んだ。
私が何を聞いても、反応しなくなった。
ただ、膝を抱えて、小さく震えているだけ。
診療時間が終わり、私は患者Cを帰宅させた。
しかし、強い不安を感じた。
患者Cの症状は、明らかに悪化している。
そして、患者Aも、同じ道を辿っている。
診療後の記録(内部メモ)
患者Cの証言を、カルテに記録した。
診断: 統合失調症の可能性。幻聴、妄想。しかし——
患者Cの幻聴の内容が、他の患者の訴えと酷似している。
患者A、患者B、患者C。
3人とも、「人形の記憶がない」と訴える。
3人とも、「記録には残っているが、覚えていない」と言う。
そして、患者Cは「流した瞬間に忘れる」と言った。
患者Aは「顔が木みたいになる」と言った。
患者Cも「顔が木みたいになる」と言った。
これは、偶然だろうか?
それとも——
私は、自分の手が震えていることに気づいた。
冷静になれ。
これは、集団ヒステリーの一種だ。
水無月市という閉鎖的な地域で、噂が広がり、患者たちが互いに影響を受けている。
科学的に説明できるはずだ。
でも——
私の中に、小さな疑念が芽生え始めていた。
もし、患者Cの言うことが本当だとしたら?
人形送りは、「なりたくない自分を流す儀式」
そして、「流した瞬間に忘れる」
だから、誰も覚えていない。
でも、記録には残っている。
そして、記録を通じて——
人形が、戻ってくる。
いや、そんなことがあるはずない。
私は、頭を振った。
考えすぎだ。
早瀬自身の発見
2024年11月20日、夜。
私は、自宅に帰った。
夕食の準備をしながら、ふと実家から持ってきた古いアルバムを見た。
私は、時々このアルバムを見返す。幼少期の思い出を振り返るために。
ページをめくる。
赤ん坊の頃。幼稚園の頃。小学生の頃。
そして——
私は、ある写真で手を止めた。
小学生の頃の写真。庭で撮った家族写真。
父、母、私。3人で並んで、カメラに向かって笑っている。
しかし、写真の背後に、見覚えのないものが写っている。
人形だ。
木彫りの人形。庭の隅のベンチに置かれている。
私は、この人形を覚えていない。
こんな人形、家にあったか?
いや、覚えていない。全く覚えていない。
私は、すぐに実家の母親に電話した。
夜の9時過ぎ。母は電話に出た。
母親: 「もしもし、冴? どうしたの、こんな時間に」
早瀬: 「お母さん、ちょっと聞きたいことがあって」
母親: 「何?」
早瀬: 「私、子供の頃、人形を持ってた?」
母親: 「人形? ああ、あの人形ね」
母は、すぐに答えた。まるで、当たり前のことのように。
母親: 「あなた、すごく大事にしてたわよ」
早瀬: 「え……?」
私は混乱した。そんな記憶は、一切ない。
早瀬: 「私、そんな記憶ないんだけど」
母親: 「覚えてないの? 小学生の頃、いつも抱えてたじゃない」
早瀬: 「本当に?」
母親: 「本当よ。あなた、その人形にすごく愛着持ってたわ。どこに行くにも持っていって」
早瀬: 「その人形、どうなったの?」
母親: 「ああ、あれね。あなた、小学校高学年の頃、川で流したのよ」
早瀬: 「川で……流した?」
母親: 「そう。水無川で。人形送りの儀式で」
私は、電話を握る手が震えた。
水無川。
人形送り。
患者たちと、同じだ。
母親: 「あなた、覚えてないの? 泣きながら流してたわよ。『これで忘れられる』って言いながら」
早瀬: 「私が……?」
母親: 「そうよ。もう忘れちゃったの?」
電話を切った後、私はしばらく動けなかった。
私が、人形を流した?
人形送りの儀式を行った?
そんな記憶は、一切ない。
でも、母は確かに覚えている。
そして、写真にも映っている。
記憶と記録が、食い違っている。
患者たちと、同じだ。
私も——
同じ状態にある。
写真の分析
私は、もう一度写真を見た。
背後に写っている人形。
木彫りの人形。高さ30センチ程度。
顔の輪郭が、私に似ている。
目鼻口の配置が、私に似ている。
いや、気のせいか?
私は、他の写真も見返した。
幼稚園の頃の写真。運動会の写真。遠足の写真。
様々な写真に、人形が写り込んでいる。
背景の隅に。棚の上に。誰かの手に。
そして、どの人形も、私に似ている気がする。
私は、鏡を見た。
自分の顔を見つめる。
表情を作ってみる。笑顔、驚き、悲しみ。
でも——
なぜか、表情が硬い気がする。
患者Cが言っていた言葉が、頭をよぎる。
「鏡を見るたび、顔が硬くなってる」
いや、気のせいだ。
私は疲れているだけだ。
患者たちの話を聞きすぎて、影響を受けている。
冷静になれ。
夢
その夜、私は夢を見た。
子供の頃の自分が、川で人形を流している夢。
水無川。流れは穏やかで、水面がきらきらと光っている。
私は、人形を両手で持っている。
人形の顔は、私に似ている。
私は、川に向かって歩く。
水の中に入る。冷たい。足首まで、膝まで。
そして、人形を手放す。
人形は水面に浮かび、ゆっくりと流れていく。
私は、泣いている。
「これで、忘れられる」
「なりたくない自分を、流せる」
夢から覚めた。
午前3時。
私は、汗びっしょりだった。
心臓が激しく鳴っている。
これは、夢だ。
ただの夢だ。
でも——
あまりにもリアルだった。
まるで、実際に経験したかのように。
枕元の人形
ベッドから起き上がろうとした時、私は気づいた。
枕元に、人形が置かれている。
木彫りの人形。高さ30センチ程度。
顔は、私に酷似している。
私は、悲鳴を上げそうになった。
しかし、なぜか声が出ない。
喉が詰まったように、声が出ない。
私は、人形を見つめた。
人形も、私を見つめている。
無表情な顔で。
木彫りの、冷たい目で。
私は、震える手で人形を手に取った。
温かい。
木のはずなのに、人肌のように温かい。
まるで、生きているかのように。
私は、人形を部屋の隅に置いた。
できるだけ遠くに。
そして、ベッドに戻った。
でも、眠れなかった。
人形が、私を見ている気がする。
カルテへの記録
2024年11月21日、朝。
私は、震える手でカルテに記録した。
記録:
私も、患者と同じ状態にある。
人形送りをした記憶がないが、記録には残っている。
母の証言も一致する。
幼少期の写真にも、人形が写っている。
そして昨夜、枕元に人形が置かれていた。
誰が置いたのか、分からない。
いや、分かっている。
私が置いたのだ。
でも、覚えていない。
私は何を流したのか?
なぜ、覚えていないのか?
そして——
人形は、なぜ戻ってきたのか?
患者Cの言葉が、頭から離れない。
「流した瞬間に忘れる」
「記録を通じて、人形が戻ってくる」
「人形と、入れ替わる」
もし、これが本当なら——
私も、患者たちと同じ運命を辿るのか?
【診療音声記録】
┌─────────────────────┐
│██ ██████ ██ ████ ████│
│ ████ ██████ ██ ██████│
│████ ██ ██ ████ ██ ██│
│██ ████ ██████ ████ ██│
│██████ ██ ████ ██ ████│
│ ██ ████ ██ ██████ ██│
│████ ██████ ████ ██████│
│██ ████ ██ ██████ ████│
│██████ ██ ████ ██ ██ │
└─────────────────────┘
[コード表面に、誰かが触れた跡]
[音声記録の波形が滲んでいる]
https://observation-record-c14.example.com/session
※この音声記録を聞いた者は、人形の声を聞いたことになります
[コード下部に、震える手書き文字]
「聞くな」
【アクセス記録】
初回アクセス時表示内容:
診療音声記録 - C-14
記録者:早瀬冴(水無月市立病院・精神科)
記録日時:2024年11月20日
アクセス回数:[カウント開始]
[音声ファイル:患者Cとの第5回セッション]
※この記録を閲覧したことで、あなたは観測者として登録されました
観測者ID:[自動生成番号]
2回目アクセス時表示内容:
診療音声記録 - C-14
記録者:早瀬冴
記録日時:2024年11月20日
アクセス回数:[増加]
[音声再生]
※背景に、かすかな水音が混ざっています
※観測回数:2回
※浸透進行度:20%
3回目アクセス時表示内容:
診療音声記録 - C-14
最終確認日時:[リアルタイム表示]
[音声再生]
※背景に、木がこすれる音が混ざっています
※かすかに「帰る」という囁き声が聞こえます
※観測回数:3回
※浸透進行度:45%
警告:
この音声を繰り返し再生することで、
あなたの記憶が音声記録と同期し始めます
5回目アクセス時表示内容:
診療音声記録 - C-14
最終確認日時:[リアルタイム表示]
[音声再生]
※背景の囁き声がはっきりしてきます
「戻る」「お前だ」「流した」
※観測回数:5回
※浸透進行度:75%
警告:
音声の中で、あなたの名前が呼ばれていませんか?
人形は、記録を辿って、あなたのもとへ向かっています
10回目以降アクセス時表示内容:
[音声の中で、あなたの名前がはっきりと呼ばれる]
システムメッセージ:
観測完了
浸透進行度:100%
あなたは、人形の声を聞きました
そして今——
人形は、あなたに語りかけています
「思い出せ」
「お前が流したのは、お前自身だ」
「そして今、私はお前のもとへ帰る」
[記録を削除する] ←ボタン(クリックしても無効)
エラー:この記録は削除できません
理由:音声は既にあなたの記憶に浸透しています
削除を試みることで、帰還速度が加速します
最終警告:
この音声を閉じても、声は止みません
あなたは既に、人形の声を聞きました
音声を辿って、人形は囁き続けます
記録者: 早瀬冴(水無月市立病院・精神科)
最近、奇妙な患者が急増している。
共通する訴え:「人形が見える」「人形が家にある」
初診時、私はこれを集団ヒステリーの一種と考えた。過疎地域特有の、閉鎖的なコミュニティにおける心理的感染。水無月市のような地方都市では、噂や不安が急速に広がることがある。
しかし、診療を重ねるうちに、私の診断は揺らぎ始めた。
患者たちの証言には、あまりにも具体的な共通点がある。
そして、その共通点は——
科学的に説明できない。
患者記録
患者A:男性・34歳・会社員
初診日: 2024年11月8日
主訴: 「家に人形があるが、いつ買ったか覚えていない」
診療メモ:
患者Aは、几帳面な性格の会社員。IT企業勤務。論理的思考を重視するタイプ。精神疾患の既往歴なし。
訴えによれば、1週間前、自宅のリビングに木彫りの人形が置かれていることに気づいた。高さ30センチ程度。しかし、患者Aは、その人形をいつ、どこで購入したか、全く記憶にないという。
患者A: 「先生、おかしいんです。あの人形、確かに家にあるんです。でも、買った記憶がない」
早瀬: 「ご家族が買った可能性は?」
患者A: 「独身で一人暮らしです。誰も家に入れてません」
早瀬: 「では、以前から家にあったものを、最近気づいただけでは?」
患者A: 「いえ、絶対に違います。私、部屋の配置とか、すごく気にするタイプなんです。急に人形が現れるなんて、あり得ない」
患者Aの表情は真剣だった。嘘をついている様子はない。しかし、客観的に考えれば、記憶の錯誤か、何らかの解離性障害の可能性がある。
診断: 解離性健忘の疑い。経過観察。
患者B:女性・52歳・主婦
初診日: 2024年11月10日
主訴: 「娘が『昔から家にあった』と言う人形の記憶がない」
診療メモ:
患者Bは、温和な性格の主婦。家族構成は、夫と娘(26歳)。精神疾患の既往歴なし。
訴えによれば、娘が「この人形、昔から家にあったよね」と尋ねてきたが、患者Bには全く記憶がない。娘は、幼少期からその人形を見ていたと主張するが、患者Bは一度も見た覚えがないという。
患者B: 「先生、娘は嘘をついてるわけじゃないんです。本気で、昔から家にあったと信じてるんです」
早瀬: 「娘さんの記憶違いでは?」
患者B: 「でも、写真にも写ってるんです」
早瀬: 「写真に?」
患者B: 「はい。娘が小学生の頃の写真。確かに、人形が写ってるんです。でも、私、その人形を見た記憶がないんです」
患者Bは、困惑した表情で古いアルバムを取り出した。娘の小学生時代の写真。確かに、背景に木彫りの人形が写っている。
早瀬: 「この写真、あなたが撮ったものですか?」
患者B: 「はい。私が撮りました。でも……人形を撮った記憶がないんです」
私は、写真を詳しく観察した。合成や加工の痕跡は見られない。古い写真特有の色褪せもある。しかし、患者Bは、この人形の記憶が全くないという。
診断: 記憶障害の可能性。または家族間の認識の齟齬。経過観察。
患者C:女性・28歳・フリーランスデザイナー
初診日: 2024年11月12日
主訴: 「写真を見返すと、子供の頃から人形を持っているが、全く覚えていない」
診療メモ:
患者Cは、繊細で内省的な性格。芸術的感性が高く、細部に敏感。精神疾患の既往歴なし。
訴えによれば、最近、実家から送られてきた古いアルバムを見返したところ、幼少期の写真の多くに人形が写っていることに気づいた。しかし、患者Cは、その人形を持っていた記憶が全くないという。
患者C: 「先生、怖いんです。自分の記憶が信じられなくなって」
早瀬: 「写真を見せていただけますか?」
患者Cは、スマートフォンに保存した写真を見せた。幼稚園の頃、小学生の頃、中学生の頃。様々な年代の写真に、同じ木彫りの人形が写っている。
患者C: 「この人形、確かに写ってるんです。でも、全く覚えてないんです」
早瀬: 「ご両親に確認しましたか?」
患者C: 「はい。母は『あなた、すごく大事にしてたわよ』って言うんです。でも、私、本当に覚えてないんです」
患者Cの目には、涙が浮かんでいた。自分の記憶と、記録されている事実との乖離に、深く混乱している様子だった。
診断: 解離性健忘の可能性。幼少期の記憶喪失。継続診療が必要。
内部メモ(2024年11月15日)
3人の患者に共通する点:
全員が水無月市に関係がある
患者A: 水無月市出身
患者B: 水無月市在住
患者C: 幼少期を水無月市で過ごす
全員が「人形の記憶がない」と訴える
しかし、記録(写真、家族の証言)には人形が存在する
記憶と記録の乖離
患者たちは嘘をついていない
家族も嘘をついていない
しかし、記憶が一致しない
これは、単なる記憶障害では説明できない。
3人とも、独立した症例として来院している。互いに面識はない。しかし、訴える内容があまりにも酷似している。
集団ヒステリー? しかし、患者たちに接点はない。
では、何が起こっているのか?
共通点の分析
私は、3人の患者の記録を徹底的に分析した。
分析結果:
共通点1:全員が「過去に人形送りに関わった」と記録されている
患者Aの母親への聞き取り:「息子は小学生の頃、川で人形を流しました」
患者Bの娘への聞き取り:「母は、私が小さい頃、一緒に川へ人形を流しに行ったと言っていました」
患者Cの母親への聞き取り:「娘は、小学生の頃、人形送りの儀式に参加しました」
しかし、患者本人には、その記憶が全くない。
共通点2:写真に写っている人形が、本人に似ている
私は、患者たちから提供された写真を詳しく分析した。
患者Aの写真:人形の顔の輪郭が、患者Aに似ている。
患者Bの写真:人形の顔の輪郭が、患者Bに似ている。
患者Cの写真:人形の顔の輪郭が、患者Cに似ている。
これは、単なる偶然だろうか?
それとも——
記録の改竄
2024年11月17日、私は恐ろしい発見をした。
患者BのSNS投稿
患者Bの娘の許可を得て、患者BのSNSアカウントを確認した。
5年前の投稿に、人形の写真がある。
投稿文: 「娘が大事にしてる人形。もうボロボロだけど、手放さないんです」
投稿日時: 2019年11月3日
私は、患者Bに確認した。
早瀬: 「この投稿、覚えていますか?」
患者B: 「……いえ。こんな投稿、した覚えがありません」
早瀬: 「でも、あなたのアカウントから投稿されています」
患者B: 「でも、本当に覚えてないんです」
投稿日時を確認した。確かに5年前。アーカイブデータを確認しても、改竄の痕跡はない。
では、なぜ患者Bは覚えていないのか?
私は、さらに詳しく調査することにした。SNSのログイン履歴、投稿デバイスの情報、位置情報。全て確認した。
異常は見つからなかった。
投稿は、確かに患者Bのスマートフォンから行われている。位置情報も、患者Bの自宅。時刻も、患者Bが普段SNSを利用する時間帯。
しかし、患者Bは覚えていない。
患者Aの実家のアルバム
患者Aの母親の許可を得て、実家の古いアルバムを確認した。
30年前の写真。幼稚園の集合写真。
写真の背後、教室の隅の棚に、人形が置かれている。
私は、その幼稚園に問い合わせた。
幼稚園の先生(60代): 「そんな人形、園にはありませんでした。30年以上働いてますが、見たことがありません」
早瀬: 「でも、写真には映っています」
先生: 「……不思議ですね。でも、本当に記憶にないんです」
物理的な写真にも、人形が写っている。
デジタルデータなら、改竄の可能性もある。
しかし、これは30年前の紙の写真だ。
どうやって改竄する?
記録改竄の検証(2024年11月18日)
私は、さらに深く調査を進めることにした。
もし、写真が本当に改竄されているなら——
いや、そんなことがあるはずない。
でも、確認しなければならない。
私は、患者Aの母親に許可を得て、同級生の家族にも連絡を取った。
患者Aの幼稚園時代の集合写真。同じ日、同じ場所で撮影された写真を、複数の家族が所有しているはずだ。
私は、3つの家族から写真を提供してもらった。
患者Aの家、同級生Bの家、同級生Cの家。
3枚の写真を、診察室のデスクに並べた。
そして——
私は、恐ろしい発見をした。
同じ集合写真なのに、人形の写り方が微妙に違う。
患者Aの家の写真: 人形は棚の左側にある。本棚の端。
同級生Bの家の写真: 人形は棚の右側にある。反対側の端。
同級生Cの家の写真: 人形は棚の中央にある。ちょうど真ん中。
同じ日、同じ場所、同じ瞬間の写真。
撮影者も同じ。幼稚園の先生が撮った集合写真。
なのに、人形の位置が違う。
これは、物理的にあり得ない。
私は、写真を何度も見比べた。拡大鏡を使って、細部まで確認した。
加工の痕跡はない。
3枚とも、本物の写真だ。古い写真特有の色褪せ、紙の質感、全て一致している。
しかし、人形の位置だけが違う。
私は、震える手で写真を置いた。
これは、何を意味するのか?
同じ瞬間なのに、異なる記録。
まるで——
人形が、写真ごとに異なる位置に「存在していた」かのように。
いや、そんなことがあるはずない。
私は、頭を抱えた。
科学的に説明できない。
物理的に不可能だ。
でも、事実として、目の前にある。
カルテ記録(2024年11月18日 深夜)
私は、病院に残って、カルテに詳細な記録を残すことにした。
これは、医学的な記録として残さなければならない。
たとえ、科学的に説明できなくても。
【症例の共通点—記録の改竄? または集団妄想?】
3人の患者に共通する現象:
本人には記憶がない
しかし記録には残っている(写真、SNS投稿、家族の証言)
物理的な証拠(写真)も存在する
複数の証言者(家族)の記憶が一致
しかし——
物理的証拠との整合性が取れない。
事例:患者Aの幼稚園集合写真
同じ瞬間を撮影した3枚の写真(異なる家族が所有)において、人形の位置が異なる。
写真1:棚の左側
写真2:棚の右側
写真3:棚の中央
これは改竄では説明できない。
なぜなら:
物理的な紙の写真である(デジタル改竄不可能)
3つの家族が独立して所有(改竄の動機なし)
加工の痕跡が一切ない
では、何が起こっているのか?
仮説1:集団催眠
→ 患者同士に接点はない。催眠をかけた人物も不明。却下。
仮説2:記録媒体への物理的干渉
→ 紙の写真に後から干渉? 物理的に不可能。却下。
仮説3:記憶の集団的改竄
→ しかし、写真という物理的証拠が存在する。記憶だけの問題ではない。却下。
仮説4:過去への遡及的干渉
→ 人形が、記録を通じて、過去に遡って存在を主張している?
→ これは科学的にあり得ない。時間は一方向にしか流れない。
しかし——
他に説明がつかない。
私は、この仮説を真剣に検討し始めている。
もし、記録そのものが「過去に遡って書き換わっている」としたら?
デジタルデータだけでなく、物理的な写真までも。
そして、その書き換えが「観察者ごとに異なる」としたら?
同じ写真でも、見る人によって、写っている内容が異なる。
いや、そんなことがあるはずない。
私は、カルテを閉じた。
疲れている。考えすぎだ。
明日、もう一度冷静に考えよう。
患者Aとの第3回セッション(2024年11月19日)
翌日、患者Aが予約外で来院した。
表情が硬い。目の下にクマがある。明らかに睡眠不足。
早瀬: 「どうされましたか?」
患者A: 「先生……顔が、おかしいんです」
早瀬: 「顔が?」
患者A: 「笑えないんです。笑おうとしても、顔が動かない」
患者Aは、無理に笑顔を作ろうとした。しかし、口角がわずかに上がるだけで、目は笑っていない。表情筋が硬直しているように見える。
早瀬: 「いつからですか?」
患者A: 「3日前くらいから。最初は、疲れてるだけかと思ったんです。でも、だんだんひどくなって」
早瀬: 「他に症状は?」
患者A: 「鏡を見ると……顔が、木みたいに見えるんです」
私は、息を呑んだ。
患者Cと、同じ症状だ。
早瀬: 「木みたい、というのは?」
患者A: 「表情がなくて、硬くて。まるで、木彫りの人形みたいに」
患者Aは、震える手で自分の顔を触った。
患者A: 「先生、私、どうなってるんですか?」
私は、患者Aの顔を注意深く観察した。
確かに、表情が硬い。笑顔が作れない。目の動きも少ない。
しかし、「木彫り」というのは、患者の主観的な感覚だろう。
いや——
待て。
患者Cも、同じことを言っていた。
「顔が木みたいになってる」
そして、患者Aも。
これは、偶然だろうか?
診断: 表情筋の硬直。心因性の可能性。しかし、患者Cとの症状の類似性が気になる。継続観察が必要。
患者Bとの第4回セッション(2024年11月19日)
同じ日の午後、患者Bも来院した。
患者B: 「先生、娘がおかしいんです」
早瀬: 「娘さんが?」
患者B: 「ええ。最近、私を見る目が……怖いんです」
早瀬: 「怖い?」
患者B: 「『お母さん、人形を思い出した?』って、何度も聞いてくるんです。でも、私、本当に覚えてないんです」
患者Bは、涙ぐんだ。
患者B: 「娘は、『お母さんが思い出さないと、人形が帰ってくる』って言うんです。何を言ってるのか、全然わからなくて」
早瀬: 「娘さんは、何か知っているのでしょうか?」
患者B: 「わかりません。でも、娘の様子がおかしいんです。まるで、何かに怯えてるみたいに」
私は、患者Bの娘にも話を聞く必要があると判断した。
患者Cとの第5回セッション(2024年11月20日)
患者Cは、憔悴しきった様子で来院した。
目の下に深いクマ。顔色は青白く、唇は乾いている。声は掠れていて、震えている。
診療記録・患者C(28歳・女性)第5回セッション
早瀬: 「眠れていますか?」
患者C: 「眠れません。声が聞こえるんです」
患者Cは、椅子に座りながら、膝を抱えている。体を小さく丸めて、まるで何かから身を守るように。
早瀬: 「どんな声ですか?」
患者C: 「人形の声です」
私は、カルテに記録する。幻聴。統合失調症の可能性。
早瀬: 「人形が、あなたに話しかけてくるのですか?」
患者C: 「はい」
患者Cは震えながら続ける。
患者C: 「最初は、ただの錯覚だと思いました」
患者C: 「でも、毎晩聞こえるんです。夜中に」
患者C: 「『思い出せ』って」
早瀬: 「何を思い出せ、と?」
患者C: 「人形送りのこと。私が、人形を流したこと」
患者C: 「でも私、そんなこと覚えてないんです」
私は、患者Cの表情を観察する。瞳孔は正常。目の動きも正常。しかし、恐怖に怯えている様子は明らかだ。
早瀬: 「それで、人形は何と言ってるんですか?」
患者Cは俯き、震える声で答える。
患者C: 「教えてくれたんです。人形送りの本当の意味を」
患者C: 「先生、人形送りって、厄災を流す儀式じゃないんです」
早瀬: 「では、何を流す儀式なんですか?」
患者Cは、私の目をまっすぐ見た。その目には、深い恐怖と、何か確信めいたものがあった。
患者C: 「流したい"もの"じゃない。流されるべき"もの"を流すんです」
患者C: 「こうはなりたくない自分。忘れたい自分。消したい自分」
患者C: 「そして、流した瞬間に忘れるんです」
患者C: 「だから誰も覚えてない」
私は、息を呑んだ。
患者Cの言葉が、あまりにも具体的だった。
しかも、これは他の患者の症状とも一致する。
早瀬: 「それは、人形が教えてくれたんですか?」
患者C: 「はい。毎晩、囁くんです」
患者C: 「『お前が流したのは、お前自身だ』って」
患者C: 「『そして今、私はお前のもとへ帰る』って」
患者Cは、突然泣き出した。
声を殺して、肩を震わせて、涙を流す。
患者C: 「先生、私、怖いんです」
患者C: 「人形が、私になろうとしてるんです」
患者C: 「いや、違う——私が、人形になろうとしてるんです」
早瀬: 「どういう意味ですか?」
患者C: 「鏡を見るたび、顔が硬くなってる」
患者C: 「笑えなくなってる」
患者C: 「先生、私の顔、木みたいになってませんか?」
私は、患者Cの顔を注意深く観察した。
確かに、表情が硬い。
笑顔を作ろうとしても、口角が上がらない。目も、あまり動いていない。
患者Aと、同じ症状だ。
早瀬: 「患者Cさん、あなたの顔は正常です。木のようには見えません」
患者C: 「でも……」
患者C: 「人形が言うんです」
患者C: 「『もうすぐ入れ替わる』って」
患者C: 「『お前は流された側になる』って」
その後、患者Cは黙り込んだ。
私が何を聞いても、反応しなくなった。
ただ、膝を抱えて、小さく震えているだけ。
診療時間が終わり、私は患者Cを帰宅させた。
しかし、強い不安を感じた。
患者Cの症状は、明らかに悪化している。
そして、患者Aも、同じ道を辿っている。
診療後の記録(内部メモ)
患者Cの証言を、カルテに記録した。
診断: 統合失調症の可能性。幻聴、妄想。しかし——
患者Cの幻聴の内容が、他の患者の訴えと酷似している。
患者A、患者B、患者C。
3人とも、「人形の記憶がない」と訴える。
3人とも、「記録には残っているが、覚えていない」と言う。
そして、患者Cは「流した瞬間に忘れる」と言った。
患者Aは「顔が木みたいになる」と言った。
患者Cも「顔が木みたいになる」と言った。
これは、偶然だろうか?
それとも——
私は、自分の手が震えていることに気づいた。
冷静になれ。
これは、集団ヒステリーの一種だ。
水無月市という閉鎖的な地域で、噂が広がり、患者たちが互いに影響を受けている。
科学的に説明できるはずだ。
でも——
私の中に、小さな疑念が芽生え始めていた。
もし、患者Cの言うことが本当だとしたら?
人形送りは、「なりたくない自分を流す儀式」
そして、「流した瞬間に忘れる」
だから、誰も覚えていない。
でも、記録には残っている。
そして、記録を通じて——
人形が、戻ってくる。
いや、そんなことがあるはずない。
私は、頭を振った。
考えすぎだ。
早瀬自身の発見
2024年11月20日、夜。
私は、自宅に帰った。
夕食の準備をしながら、ふと実家から持ってきた古いアルバムを見た。
私は、時々このアルバムを見返す。幼少期の思い出を振り返るために。
ページをめくる。
赤ん坊の頃。幼稚園の頃。小学生の頃。
そして——
私は、ある写真で手を止めた。
小学生の頃の写真。庭で撮った家族写真。
父、母、私。3人で並んで、カメラに向かって笑っている。
しかし、写真の背後に、見覚えのないものが写っている。
人形だ。
木彫りの人形。庭の隅のベンチに置かれている。
私は、この人形を覚えていない。
こんな人形、家にあったか?
いや、覚えていない。全く覚えていない。
私は、すぐに実家の母親に電話した。
夜の9時過ぎ。母は電話に出た。
母親: 「もしもし、冴? どうしたの、こんな時間に」
早瀬: 「お母さん、ちょっと聞きたいことがあって」
母親: 「何?」
早瀬: 「私、子供の頃、人形を持ってた?」
母親: 「人形? ああ、あの人形ね」
母は、すぐに答えた。まるで、当たり前のことのように。
母親: 「あなた、すごく大事にしてたわよ」
早瀬: 「え……?」
私は混乱した。そんな記憶は、一切ない。
早瀬: 「私、そんな記憶ないんだけど」
母親: 「覚えてないの? 小学生の頃、いつも抱えてたじゃない」
早瀬: 「本当に?」
母親: 「本当よ。あなた、その人形にすごく愛着持ってたわ。どこに行くにも持っていって」
早瀬: 「その人形、どうなったの?」
母親: 「ああ、あれね。あなた、小学校高学年の頃、川で流したのよ」
早瀬: 「川で……流した?」
母親: 「そう。水無川で。人形送りの儀式で」
私は、電話を握る手が震えた。
水無川。
人形送り。
患者たちと、同じだ。
母親: 「あなた、覚えてないの? 泣きながら流してたわよ。『これで忘れられる』って言いながら」
早瀬: 「私が……?」
母親: 「そうよ。もう忘れちゃったの?」
電話を切った後、私はしばらく動けなかった。
私が、人形を流した?
人形送りの儀式を行った?
そんな記憶は、一切ない。
でも、母は確かに覚えている。
そして、写真にも映っている。
記憶と記録が、食い違っている。
患者たちと、同じだ。
私も——
同じ状態にある。
写真の分析
私は、もう一度写真を見た。
背後に写っている人形。
木彫りの人形。高さ30センチ程度。
顔の輪郭が、私に似ている。
目鼻口の配置が、私に似ている。
いや、気のせいか?
私は、他の写真も見返した。
幼稚園の頃の写真。運動会の写真。遠足の写真。
様々な写真に、人形が写り込んでいる。
背景の隅に。棚の上に。誰かの手に。
そして、どの人形も、私に似ている気がする。
私は、鏡を見た。
自分の顔を見つめる。
表情を作ってみる。笑顔、驚き、悲しみ。
でも——
なぜか、表情が硬い気がする。
患者Cが言っていた言葉が、頭をよぎる。
「鏡を見るたび、顔が硬くなってる」
いや、気のせいだ。
私は疲れているだけだ。
患者たちの話を聞きすぎて、影響を受けている。
冷静になれ。
夢
その夜、私は夢を見た。
子供の頃の自分が、川で人形を流している夢。
水無川。流れは穏やかで、水面がきらきらと光っている。
私は、人形を両手で持っている。
人形の顔は、私に似ている。
私は、川に向かって歩く。
水の中に入る。冷たい。足首まで、膝まで。
そして、人形を手放す。
人形は水面に浮かび、ゆっくりと流れていく。
私は、泣いている。
「これで、忘れられる」
「なりたくない自分を、流せる」
夢から覚めた。
午前3時。
私は、汗びっしょりだった。
心臓が激しく鳴っている。
これは、夢だ。
ただの夢だ。
でも——
あまりにもリアルだった。
まるで、実際に経験したかのように。
枕元の人形
ベッドから起き上がろうとした時、私は気づいた。
枕元に、人形が置かれている。
木彫りの人形。高さ30センチ程度。
顔は、私に酷似している。
私は、悲鳴を上げそうになった。
しかし、なぜか声が出ない。
喉が詰まったように、声が出ない。
私は、人形を見つめた。
人形も、私を見つめている。
無表情な顔で。
木彫りの、冷たい目で。
私は、震える手で人形を手に取った。
温かい。
木のはずなのに、人肌のように温かい。
まるで、生きているかのように。
私は、人形を部屋の隅に置いた。
できるだけ遠くに。
そして、ベッドに戻った。
でも、眠れなかった。
人形が、私を見ている気がする。
カルテへの記録
2024年11月21日、朝。
私は、震える手でカルテに記録した。
記録:
私も、患者と同じ状態にある。
人形送りをした記憶がないが、記録には残っている。
母の証言も一致する。
幼少期の写真にも、人形が写っている。
そして昨夜、枕元に人形が置かれていた。
誰が置いたのか、分からない。
いや、分かっている。
私が置いたのだ。
でも、覚えていない。
私は何を流したのか?
なぜ、覚えていないのか?
そして——
人形は、なぜ戻ってきたのか?
患者Cの言葉が、頭から離れない。
「流した瞬間に忘れる」
「記録を通じて、人形が戻ってくる」
「人形と、入れ替わる」
もし、これが本当なら——
私も、患者たちと同じ運命を辿るのか?
【診療音声記録】
┌─────────────────────┐
│██ ██████ ██ ████ ████│
│ ████ ██████ ██ ██████│
│████ ██ ██ ████ ██ ██│
│██ ████ ██████ ████ ██│
│██████ ██ ████ ██ ████│
│ ██ ████ ██ ██████ ██│
│████ ██████ ████ ██████│
│██ ████ ██ ██████ ████│
│██████ ██ ████ ██ ██ │
└─────────────────────┘
[コード表面に、誰かが触れた跡]
[音声記録の波形が滲んでいる]
https://observation-record-c14.example.com/session
※この音声記録を聞いた者は、人形の声を聞いたことになります
[コード下部に、震える手書き文字]
「聞くな」
【アクセス記録】
初回アクセス時表示内容:
診療音声記録 - C-14
記録者:早瀬冴(水無月市立病院・精神科)
記録日時:2024年11月20日
アクセス回数:[カウント開始]
[音声ファイル:患者Cとの第5回セッション]
※この記録を閲覧したことで、あなたは観測者として登録されました
観測者ID:[自動生成番号]
2回目アクセス時表示内容:
診療音声記録 - C-14
記録者:早瀬冴
記録日時:2024年11月20日
アクセス回数:[増加]
[音声再生]
※背景に、かすかな水音が混ざっています
※観測回数:2回
※浸透進行度:20%
3回目アクセス時表示内容:
診療音声記録 - C-14
最終確認日時:[リアルタイム表示]
[音声再生]
※背景に、木がこすれる音が混ざっています
※かすかに「帰る」という囁き声が聞こえます
※観測回数:3回
※浸透進行度:45%
警告:
この音声を繰り返し再生することで、
あなたの記憶が音声記録と同期し始めます
5回目アクセス時表示内容:
診療音声記録 - C-14
最終確認日時:[リアルタイム表示]
[音声再生]
※背景の囁き声がはっきりしてきます
「戻る」「お前だ」「流した」
※観測回数:5回
※浸透進行度:75%
警告:
音声の中で、あなたの名前が呼ばれていませんか?
人形は、記録を辿って、あなたのもとへ向かっています
10回目以降アクセス時表示内容:
[音声の中で、あなたの名前がはっきりと呼ばれる]
システムメッセージ:
観測完了
浸透進行度:100%
あなたは、人形の声を聞きました
そして今——
人形は、あなたに語りかけています
「思い出せ」
「お前が流したのは、お前自身だ」
「そして今、私はお前のもとへ帰る」
[記録を削除する] ←ボタン(クリックしても無効)
エラー:この記録は削除できません
理由:音声は既にあなたの記憶に浸透しています
削除を試みることで、帰還速度が加速します
最終警告:
この音声を閉じても、声は止みません
あなたは既に、人形の声を聞きました
音声を辿って、人形は囁き続けます



