道路脇にぽつぽつと民家が見え始めると、さっきの出来事が嘘のように、車内にはいつもの空気が戻ってきた。
「今から帰ると、着くの深夜になっちゃいますね。高速のインターまで結構あるし、今夜は泊まっていきましょうか」
ちらりとこちらに視線を向けながら、木田が言う。
「松平さん……疲れてるみたいだし」
木田の数少ない長所の一つに、切り替えの速さがある。俺もそれを見習って、さっき自分の身に起きたことはいったん頭の外に追いやることにした。
「そうだな。途中に旅館があった。ボロかったが、温泉って書いてあったぞ」
「お、いいですね! 湯上がりはフルーツ牛乳とコーヒー牛乳、どっちにしようかなっと」
急にウキウキし出した木田を放っておいて、俺は明日のスケジュールを頭の中で整理する。
「明日はどうする? もう少し調べたいが、俺は明日の夜に都内でバーの取材が入ってる。タイアップだからリスケできない」
「俺も帰ります。置いてかないでください」
木田は軽い調子で言ったが、目は笑っていなかった。
その旅館は村の入り口に立っていた。
木造二階建て。外壁の塗装は剥げかけ、ところどころに雨染みができている。色褪せた電飾看板の端は割れて中の電球が露出し、駐車場の舗装の隙間からは雑草が伸びていた。
いつ廃墟になってもおかしくない佇まいだ。今回の取材にふさわしいと言えばふさわしい。
他に泊り客はいないらしく、玄関の照明は落とされていた。がたつく木枠のガラス戸を開け、中に入る。
広い框から、薄暗い廊下が奥へと伸びていた。湿気をたっぷりと含んだ木材の匂いが鼻につく。一泊だけなら野宿よりましだと自分に言い聞かせて、俺は中に声をかけた。
「すみません」
返事はない。何度か呼ぶと、奥から足音が聞こえた。現れたのは腰の曲がった老女だった。
「お客さんかい?」
一晩、二人。素泊まりで。そう伝えると、老女は面倒くさそうにため息をついた。
「予約なしだから、温泉は入れないよ。お湯抜いてあるから」
木田が「フルーツ牛乳とコーヒー牛乳、混ぜたら何味になるか試そうと思ったのに」と小さく不満の声を漏らす。俺はそれを無視して、「かまいません」と言った。
「うちはね、昔はねぇ、予約が取れないって、みんな何ヶ月も前から電話してきたんだよ。観光バスが何台も来てさ。満室だからって言っても、玄関でもいいから泊めてくださいなんて言われてねぇ。俳優さんも、何人もきたんだよ、お忍びで」
女将が挙げた俳優の名前には心当たりがなく、俺と木田は顔を見合わせてから「そりゃすごいですね」と曖昧に笑い合った。
料金は先払いで、思っていたよりも高かった。木田は「帰るときまでに領収書お願いしますね! 俺が忘れてたら言ってくださいね!」と何度も念を押しながら、金を払っていた。
通されたのは、二階の山側の部屋だった。畳は柔らかく、壁紙の端は丸まって剥がれかけている。建物が歪んでいるのか、押入れの襖は完全には閉まらなかった。
窓際に丸いガラステーブルと、藤の一人がけ椅子が二脚置かれている。俺はそこに腰掛けてパソコンを開き、メールアプリを立ち上げた。Wi-Fiなんてものはもちろんなく、スマホに接続してテザリングする。
そして、俺はメールを打った。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
差出人:松平洋司 <matsudaira01@*****.co.jp>
宛先:鳴海吉彦 <narumi.writer@*****.co.jp>
日時:20██年XX月X日 21:35
件名:██県██村についてお伺いしたいことがあります
鳴海さん
ご無沙汰しております。松平です。
昨年の「因習村ムック」では本当にお世話になりました。
読者からの反響も大きく、編集部も第2弾を検討したいと言っておりました。その際はまた、お声がけさせていただいてもいいでしょうか。
ところで、現在、██県██村を取材しています。
鳴海さんの専門分野に近そうなので、何かご存知でしたら教えていただけないかと思い、ご連絡しました。
この村の東の山の入り口には「ムササビ地蔵」というものがあり、「ムササビ地蔵を越えるな」、つまり山に入るなという言い伝えがあります。三十年前にはその山で子供の集団失踪事件も起きているようです。表向きは遭難扱いですが、地元では今も山に関する噂と関連付けて考える人もいるようです。
現地で、古い郷土誌(50年ほど前のもの)のコピーを入手しました。そこに、山の中腹に明治期に廃村となった集落があったと書かれていました。ただ、「大雪による孤立で全戸離散」と一行あるだけで、詳細はまったく触れられていません。隣村であれば多少なりとも交流があったはずなのに、村の名前すら書かれていない。
この██村、それから消滅した名無しの村について、何かご存じないでしょうか。
似たようなケースや、資料のあたりどころなどでも構いません。
もしお手元に関連資料がありましたら、拝見させていただけると助かります。
よろしくお願いいたします。
松平
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
「あ、こんなところに宿泊思い出ノートがある」
俺がパソコンを閉じると同時に、木田が固定電話の隣から一冊のノートを手に取った。
「なんか昔っぽくていいですよね。俺、こういうの読んじゃう派なんです。……へえ、結構古い日付だ。さっきの女将さんも言ってたけど、昔はお客さん多かったみたいですね」
木田の言葉に興味が湧いて、俺もノートを覗き込んだ。
「今から帰ると、着くの深夜になっちゃいますね。高速のインターまで結構あるし、今夜は泊まっていきましょうか」
ちらりとこちらに視線を向けながら、木田が言う。
「松平さん……疲れてるみたいだし」
木田の数少ない長所の一つに、切り替えの速さがある。俺もそれを見習って、さっき自分の身に起きたことはいったん頭の外に追いやることにした。
「そうだな。途中に旅館があった。ボロかったが、温泉って書いてあったぞ」
「お、いいですね! 湯上がりはフルーツ牛乳とコーヒー牛乳、どっちにしようかなっと」
急にウキウキし出した木田を放っておいて、俺は明日のスケジュールを頭の中で整理する。
「明日はどうする? もう少し調べたいが、俺は明日の夜に都内でバーの取材が入ってる。タイアップだからリスケできない」
「俺も帰ります。置いてかないでください」
木田は軽い調子で言ったが、目は笑っていなかった。
その旅館は村の入り口に立っていた。
木造二階建て。外壁の塗装は剥げかけ、ところどころに雨染みができている。色褪せた電飾看板の端は割れて中の電球が露出し、駐車場の舗装の隙間からは雑草が伸びていた。
いつ廃墟になってもおかしくない佇まいだ。今回の取材にふさわしいと言えばふさわしい。
他に泊り客はいないらしく、玄関の照明は落とされていた。がたつく木枠のガラス戸を開け、中に入る。
広い框から、薄暗い廊下が奥へと伸びていた。湿気をたっぷりと含んだ木材の匂いが鼻につく。一泊だけなら野宿よりましだと自分に言い聞かせて、俺は中に声をかけた。
「すみません」
返事はない。何度か呼ぶと、奥から足音が聞こえた。現れたのは腰の曲がった老女だった。
「お客さんかい?」
一晩、二人。素泊まりで。そう伝えると、老女は面倒くさそうにため息をついた。
「予約なしだから、温泉は入れないよ。お湯抜いてあるから」
木田が「フルーツ牛乳とコーヒー牛乳、混ぜたら何味になるか試そうと思ったのに」と小さく不満の声を漏らす。俺はそれを無視して、「かまいません」と言った。
「うちはね、昔はねぇ、予約が取れないって、みんな何ヶ月も前から電話してきたんだよ。観光バスが何台も来てさ。満室だからって言っても、玄関でもいいから泊めてくださいなんて言われてねぇ。俳優さんも、何人もきたんだよ、お忍びで」
女将が挙げた俳優の名前には心当たりがなく、俺と木田は顔を見合わせてから「そりゃすごいですね」と曖昧に笑い合った。
料金は先払いで、思っていたよりも高かった。木田は「帰るときまでに領収書お願いしますね! 俺が忘れてたら言ってくださいね!」と何度も念を押しながら、金を払っていた。
通されたのは、二階の山側の部屋だった。畳は柔らかく、壁紙の端は丸まって剥がれかけている。建物が歪んでいるのか、押入れの襖は完全には閉まらなかった。
窓際に丸いガラステーブルと、藤の一人がけ椅子が二脚置かれている。俺はそこに腰掛けてパソコンを開き、メールアプリを立ち上げた。Wi-Fiなんてものはもちろんなく、スマホに接続してテザリングする。
そして、俺はメールを打った。
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差出人:松平洋司 <matsudaira01@*****.co.jp>
宛先:鳴海吉彦 <narumi.writer@*****.co.jp>
日時:20██年XX月X日 21:35
件名:██県██村についてお伺いしたいことがあります
鳴海さん
ご無沙汰しております。松平です。
昨年の「因習村ムック」では本当にお世話になりました。
読者からの反響も大きく、編集部も第2弾を検討したいと言っておりました。その際はまた、お声がけさせていただいてもいいでしょうか。
ところで、現在、██県██村を取材しています。
鳴海さんの専門分野に近そうなので、何かご存知でしたら教えていただけないかと思い、ご連絡しました。
この村の東の山の入り口には「ムササビ地蔵」というものがあり、「ムササビ地蔵を越えるな」、つまり山に入るなという言い伝えがあります。三十年前にはその山で子供の集団失踪事件も起きているようです。表向きは遭難扱いですが、地元では今も山に関する噂と関連付けて考える人もいるようです。
現地で、古い郷土誌(50年ほど前のもの)のコピーを入手しました。そこに、山の中腹に明治期に廃村となった集落があったと書かれていました。ただ、「大雪による孤立で全戸離散」と一行あるだけで、詳細はまったく触れられていません。隣村であれば多少なりとも交流があったはずなのに、村の名前すら書かれていない。
この██村、それから消滅した名無しの村について、何かご存じないでしょうか。
似たようなケースや、資料のあたりどころなどでも構いません。
もしお手元に関連資料がありましたら、拝見させていただけると助かります。
よろしくお願いいたします。
松平
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「あ、こんなところに宿泊思い出ノートがある」
俺がパソコンを閉じると同時に、木田が固定電話の隣から一冊のノートを手に取った。
「なんか昔っぽくていいですよね。俺、こういうの読んじゃう派なんです。……へえ、結構古い日付だ。さっきの女将さんも言ってたけど、昔はお客さん多かったみたいですね」
木田の言葉に興味が湧いて、俺もノートを覗き込んだ。
