なつやすみのにっき

 正美さんから教えてもらった地図を頼りに、シェビィは集落の外れへと進んでいく。
 しばらくは田んぼが広がる平野だった。やがて両脇から山が迫り、道は杉林の中へと続いていく。
 手入れのされていない暗い森で、ひょろひょろと高く伸びた杉の枝葉が道に覆いかぶさっていた。センターラインは雨風で消え失せ、アスファルトにあいた穴に何度もタイヤを取られた。
 急に薄暗くなり、俺はヘッドライトを点ける。
「あ、あそこだ」
 木田の声に、俺はスピードを緩めた。道の脇に、石の地蔵が一体、ぽつんと立っているのが見えた。
 車を寄せてエンジンを切ると、あたりは急に静かになった。鳥の声すら聞こえてこない。
 外に出る。さっきまでとは明らかに空気が違っていた。ひんやりとして湿っぽく、土の匂いがやたらと鼻につく。
 俺たちは地蔵に近づいた。よくあるお地蔵さんがつけているような赤い前掛けはなく、供え物も花も水もない。経年なのか、それとも誰かが故意に奏したのか。顔の部分だけが、えぐられたように削れていた。
「長いこと、誰も来ていないみたいですね」
 木田がスマホを取り出して、アングルを変えながら何枚か写真を撮る。それからふと俺のほうを見て、何か言いたそうに口を開いた。が、結局は何も言わず、また地蔵にカメラを向ける。
「……ムササビって名前はかわいいのに。あ、お地蔵さんの奥に道っぽいのがありますね」
 地蔵の背後は、一見したところ藪に覆われているように思えた。だが目を凝らすと、獣道のようなわずかな隙間がある。
 かつて山中の村へと続く道だったのだろう。村が消えて人が通らなくなり、今は獣が通るだけの道になっている。両側から草木が被さってトンネルを作り、その先は暗くて見えない。
 写真を撮り終えた木田は、任務終了とばかりに「ここら辺て、ムササビが棲んでるのかな。見てみたいですね」と言いながら辺りを見回している。明るい声だったが、ちらちらと俺のほうを窺っていた。
 ──三十年前、五人の子供たちはここで自転車を降りて、この廃道に踏み込んで行ったのか。
 土の匂いが、さっきよりも強くなった気がした。
 俺は廃道を見つめた。
 暗い。
 暗くて、冷たくて、土の匂いがする。いつの間にか、辺りは霧に包まれていた。
 遠くで──誰かに呼ばれた気がした。
 一歩足を前に出す。枯れ枝を踏む音が響いて、濃厚な土の匂いが立ちのぼった。
「……さん」
 声が響いた。霧の向こうから。甲高い、歌うような声が。
 ──呼ばれている。
 土の匂いを含んだ冷たい霧粒がまとわりつく。空気は淀んでいるのに、どうしてか心地いい。
「……らさん」
 俺はもう一歩、足を前に進めた。
「……いらさん、ちょっと! 松平さんてば!」
 急に声が響いて、右腕に鈍い痛みを感じた。見ると、木田が真っ青な顔をして、俺の腕を両手で締め付けるように掴んでいた。
「どこ行こうとしてるんですか! ムササビ地蔵を越えたらいけないって言われたでしょう!」
 俺は周囲を見回した。さっきまでの霧は嘘のように晴れている。
 振り返ると地蔵が見えた。俺は──廃道に足を踏み入れていた。
「──少しだけ見てくる」
 俺はそう言って、木田の手を振りほどこうとした。
「ダメですって! 弟と同じことになるって、正美さんに言われたじゃないですか!」
「大丈夫だ」
「大丈夫じゃないですよ!」
 木田が俺の腕を引っ張った。思ったより強い力だった。
「松平さん、俺の目を見てください!」
 その剣幕に押されて、俺は木田を見た。木田の目は大きく見開かれ、顔からは血の気が引いている。
「自分が今、どんな顔しているかわかっています?」
「顔?」
「松平さん、笑ってるんですよ、ここに来てからずっと!」
 言われて初めて、俺は自分の頬がひきつっていることに気がついた。口角を大きく上げて、目を見開いて、俺は笑っている。なぜ俺は笑っているんだ。
「……行きたい」
 自分の口から出た言葉に、俺自身がぞっとした。行きたい? どこへ行きたいというんだ。
「ダメですって! 深掘りしたいのはわかりますけれど、今回はやめておきましょう。なんか嫌な感じがしますよ」
 腕を引かれ、地蔵の前まで連れ戻される。木田は、俺が記事のために山に入りたがってると思っているようだった。
 自分が向かおうとしていた廃道を振り返る。草木に覆われた道の奥は、さっきよりも暗さを増している。その闇の中で、何かがこちらを見ている気がした。
 風が吹いて、木々が揺れる。俺は廃道から視線を上げて、山を見た。
「──聞こえたか?」
「何がですか?」
 ──木田には、聞こえなかったのか。
 笑い声のような、歌い声のような。
 ──呼んでいる、声のような。
「なんでもない。行こうか」
 俺は深く息を吸い込んだ。土の匂いはまだ残っていたが、さっきほど強くはなかった。
 シェビィのエンジンをかけて、一度切り返してUターンする。発進しながらふとバックミラーに目をやると、誰そ彼の空の下、ムササビ地蔵のシルエットがぼんやりと映っていた。
 その隣に……子供の影が見えた。
 目を凝らそうとしたとき、木田が「前、前!」と叫んだ。俺は慌ててブレーキを踏む。タイヤが悲鳴を上げ、車体が大きく揺れた。車が止まってから顔を上げると、フロントガラスいっぱいに杉の巨木が迫っていた。
「……悪い」
 冷や汗を拭いながら、俺はもう一度バックミラーを見る。
 薄闇のなか、地蔵だけがそこに立っていた。