花が咲く、君が泣く

 七章
 
 もう金糸雀一条に行くことはなくなった。
 付き合いで訪れるとは云え北坂と顔を合わせるのも怖くて燕界隈で遊ぶのも辞めた。
 そろそろ別の界隈で遊ばないか、と友人たちを云い包めて俺たちは燕界隈よりほんの僅かに品格の下がる鶯界隈で遊ぶようになった。
 あんなことがあっても酒に溺れて女と遊ぶことを辞められない自分はどうしようもないと思わないでもなかったが、もうそれは身に染みてしまった習性で。今更改善出来るものじゃなかった。
 大学へ辛うじて通っていたのは、遊んでいても祖父に責められないようにする為だった。
 期末の成績が悪くなければ祖父はもう煩いことは云わなくなっていた。
 何も知らない祖父は、すゞ音を失くした俺を少なからず哀れに思っているようだったから。
 北坂と顔を合わせたくない。
 北坂のことを考えたくない。
 その一心で遊ぶ場所を変えたのに。
「……っ!」
 夜、飛び起きる。
「……っ、は……」
 紅は色褪せてきた。その代わりに萌黄色は今までに増して鮮明。
 それまでただ萌黄色を傍観していた俺は、いつからかその萌黄色に手を伸ばすようになって。
 起こす体。顔はぼやけて判らないのに。
「許さない」  
 低い声が脳髄を揺らして、俺は声のない悲鳴を上げながら飛び起きるのだった。  
 戸棚から酒を取り出して瓶を傾ける。
 口の端から零れた一筋を手の甲で拭い、ソファにドサリと身を任せる。
「亡霊かよ……」
 否、生き霊か。
 どちらにせよ厄介なことに変わりはない。
 考えたくないのに考えさせられる。
 思い出したくないのに思い出してしまう。
 嫌だ嫌だ。悪夢も見れないくらい、深く眠りたい。
 そうは云っても眠れないから、また女を探しに行くのだけれど。
 北坂に絶縁を云い渡されて一年。一応盆と彼岸には訪れていたすゞ音の墓にも行かなかった。
 だって、どんな顔をして行けば良い?
 もし北坂と鉢合わせしたら?
 俺はどんな顔をすれば良い?
 そんなことを考えたら、とてもじゃないけど墓参りになんて行けなかった。
 ある日、嘘ではなく大学の授業がなかった際に、祖母に遣いを頼まれた。
 稽古事の弟子(祖母は舞踊の師範をしていた)に子供が生まれたらしいが、少々遠方で最近足を悪くした自分では祝物を持って行けないから代わりに行ってくれと頼まれたのだ。
 小遣いをくれると云われれば断る理由はない。
 風呂敷包みを片手に、俺は隣町まで歩いた。
 片道約一時間。苦になる年でもない。
 俺も顔を知っている人だったから、挨拶をして、赤ん坊の顔を少しだけ眺めて、お茶を一杯ご馳走になって帰路に着いた。
 両手を薄手のコートのポケットに差し込んで軽い足取りで石畳を歩く。
 町の境を越えて少し。
 今夜友人たちの予定はどうだろうかなどと考えながらふと横に流した視線が捉えたものに、俺は思わず足を止めた。
「きた、さか……」
 横顔は少し遠くて判別しにくいけれど、あの目立つ金茶髪は間違いなく北坂だろう。
 一歩後ずさり、小道を一本入ろうとしたところで、視界に入ってきたのは蛇行しながら車道を進んでいく車。
「何あれあぶな……」  
 呟いて、ハッとする。
 緩く蛇行しながらもじわじわと歩道に寄って行く車の先には北坂が居るのだ。
 無意識に足が動いた。
 駆けて、駆けて。
「北坂!」      
 叫ぶと同時に北坂を突き飛ばす。
 その瞬間、プァー! と車笛の音。直後、俺は鉄の塊と接触して道路に転がった。
「とー、ぐう……? おい春宮っ?」 
 北坂の呼び掛けは俺の鼓膜を揺らさなかった。

 目が覚めたら真っ白な天井が見えた。ゆらり、揺らした視線の先にはやっぱりただ白いだけの壁。
 頭の方にだけ、纏められた生成り色のカーテンが見えた。
 此処、何処……。
 記憶を手繰って、嗚呼、と大きく瞬く。
「きたさか……」
 北坂が事故に遭いそうになっていたところに飛び込んで……多分、自分が事故に遭ったんだろう。
 体のあちこちが痛い。だけど添え木とかをしている様子はなく、大したことなかったのかな、なんて思う。
 北坂は無事だっただろうか。
 絶縁されたんだから放っておけば良かったのに。俺の中の俺がそう云うけれど、そうはいかなかった。
 何故、と問われたら答える術はないのだけれど。
「あ、春宮さん、目が覚めめたのね?」
「えーと、看護婦さん……?」
「暴走した自動車に跳ねられてこの公立病院に運ばれたんですよ」 
 丸一日目を覚まさなかったから心配しましたよ。
 労りの台詞に、それはどうもご迷惑を……などとさらりと社交辞令が零れた。
「丁度ご面会の方がいらしてるので、先生に診て頂いてからお呼びしますね」     
 面会……祖父母だろうか?
 それとも友人たち?
 誰だろうかと浮かんでくる人を一人一人頭の中に並べている間に医者が来て、触診と問診をされた後に、明後日には退院出来ますよ。なるべく体を起こしていて下さいねと笑みを残して部屋を出て行った。
 それから十分くらいしただろうか。医者に云われた通り上半身を起こしていると、コンコン、と戸枠が音を立てた。
「はい」   
「……」     
 俺の応答に何も云わず、ぶすっとした顔で現れたその人を見て、俺は目をまん丸くした。
「きた、さか……」 
 呟いたら、腹の辺りに投げ付けられた切り花の束。
「馬鹿かお前は!」   
 開口一番、騒音にならない程度の怒声を浴びせられて、キョトンとしてしまう。
「俺なんか庇ってこんな目に遭って、馬鹿なのか!」
「馬鹿って……酷くない……?」      
 薄ら笑ったら、馬鹿以外の何者でもないと断言された。
「……大体、わざわざ俺の見舞いになんか来る北坂も馬鹿じゃないか……」      
 云い返したら、自分の代わりに事故に遭った人間を見舞わない方が馬鹿だとまた怒鳴られた。
「…………」     
「…………」
「金輪際会わないって云った癖に……」 
「お前が俺を助けなきゃ金輪際会うことなんてなかったよ」
「何、俺の所為なの」
「お前の所為だよ」 
「助けなきゃ良かった」  
「そうだよ、助けなきゃ良かったんだよ」 
「……でも、体が勝手に動いたんだ……」 
 俺だって、どうして北坂を助けに行ったのか判らない。
 唇を尖らせたら、大きな溜息。
「……まぁ、大事なさそうで良かった……」
 そう呟いた北坂はやっと静かな声音になった。
 暫し、痛い程の沈黙。
 居た堪れず、口を開く。   
「何で俺をすぐに責めなかったの……」
 一年以上前のことを引っ張り出す。脈絡なかったけれど、北坂はちゃんと拾ってくれた。
「……お前が元凶だっていう証拠がなかったから」
 お前たちが本当に円満な夫婦関係を築いていて。
 それでも何かしらの理由があってすゞ音が死を選んだのなら、それは仕方のないことだと思ってた。
 だけど、と北坂は大きく息を吸った。
「お前はすゞ音を裏切ったんだろうって判ったから、もう二度と関わるものかと思った」
「…………」
「運命ってのは、悪戯にも程がある……」
「…………」
「何でお前に助けられなきゃいけないんだ」
「それは、」
「俺は……」
 は、と息を吸って、北坂は俯いた。
「お前に、こんな目に遭って欲しくなかった……」
「北坂……」
「悔しいけど、ムカつくけど、信じたくねぇけど……っ」
 北坂の声が震えていく。
「お前のことを……俺は、」
「待って、北坂、そんなこと云われても困……」
「困れば良い! 俺にあんなことをしておいて、相応の報いを受ければ良いんだ!」
「きた……、」
「お前と過ごした時間の中で……っ、俺はいつの間にか、お前に惚れてたんだよ……っ!」
 そう叫んだ北坂の俯けた顔から、ぼたぼたと大粒の雫が落ちた。
「何、泣いてんの……」
「お前がっ、泣かないからだろうっ」
「何で、俺が泣かなくちゃいけないんだよ……」
 戸惑えば、また怒られる。
「泣く理由なんて沢山あるだろうが……っ」
「もしそうだとしても……俺に泣く資格なんて……」
「泣くのに資格もなにも要るか馬鹿野郎!」
「…………っ、」
「お前、本当は寂しいんだろ……?」
 金茶色が微かに揺れた。
「寂しくなんか……」
「だから酒にも女にも逃げて」
「そんなんじゃ、」
「じゃあ、いつまで夢に囚われてるんだ」
「…………」
「母親に正しく愛してもらえなくて」
「…………」
「すゞ音の愛し方も判らなくて」
「…………」
「本当に愛したいものを愛せない」
 真っ直ぐな、ただ直向きな眼差しが俺を射る。
「そんなお前だから……」
「……だから……?」
 首を小さく傾げたら、金茶色がぐっと近付いて。
 病衣の襟首を掴まれたかと思ったら、唇に柔らかいものが触れた。
「そんなお前だから……っ、俺はお前を愛してやりたいと思った」
 パッと突き放された体。ぐらついて、後ろ手に手をつく。
「きた、さ、か……?」
 忙しなく瞬く俺を、北坂は不遜にも見える態度で見下ろしていた。
「お前はどうなんだ」
「どう、って……」
 そんなことを訊かれても判らない。
「俺のことを、どう思ってるんだ」
「判んない、よ……」
 でも、と震える唇を動かす。
「事故に遭ったのが俺で良かった、って思う……」
「どうして」
「どうして、って……北坂が、危ない目に遭って欲しくなかったから……」
「何で?」
「……北坂が、居なくなったら嫌だと思った……」
「金輪際関わらないって云ったのに?」
「それでも、俺は……」
「俺は……?」
「北坂に……」
 ぐっ、と、喉の奥がつかえた。
 目の縁が熱くなる。
「北坂が、もう俺と関わらなくても、北坂には……っ、生きていて欲しかったから……っ」
 一人じゃ見付けられなかった本音を吐き出したら、じわりと視界が滲んだ。
「生きて、いて欲しかった……母さんや、すゞ音みたいに俺を置いてかないで欲しかった……嫌だったんだ……っ」
 もう、俺の前で誰かが死ぬのは見たくなかった……。
 いよいよ涙を零した俺の頭を、北坂は柔らかく抱いてくれた。
「なぁ、春宮……」
「なに……」
「その感情を、何て表すのか……お前は知らないよな」
「……なに? 悲しい以外に何があるの?」
「誰かを失くしたくないっていうのが、愛情なんだよ……」
「…………」
「嫉妬も執着も手に入れられないもどかしさも、全部、愛情の端っこだ」
「…………なら、尚更……」
 尚更、俺は愛されるべきじゃない。
 だって、上手く愛してこれなかったんだから……。
「ねぇ……北坂」
「何だ?」
「おれを、ころしてよ」
 北坂が愛していたすゞ音を殺したのは俺に違いないのだから。
 目尻に熱い雫を溜めたまま云えば、北坂は鼻で笑った。
「ころしてやるものか」
 そして、また俺に口付けて。
「お前なんか、俺を愛し続けて、そうやって苦しみながら生きれば良い」
 唇に塗りたくられたその言葉はいっそ呪いになった。                                                                                終