四章
北坂紀久という男は単純明快、だけど気持ちの良い男だった。
彼が翳す正義感にはうんざりするが、喜怒哀楽がハッキリしている分感情が読みやすく扱いも簡単だった。
大人の男を手の平で転がしているような感覚は俺を優越感に浸らせるには充分。
まぁそれを度外視しても北坂とぽつぽつ交わす会話はそこそこ楽しめるのだけれど。
再会を約束した燕四条の社交純喫茶は落ち着いた、密談なんかにももってこいの店。
薄暗い間接照明は北坂の金茶色の髪の毛を甘い蜂蜜色に見せていた。
「軍って厳しいの?」
「そりゃあな」
「嫌にならないの?」
「別に……規律とか、手本に習倣えば良いだけの話だし」
「息が詰まりそう」
「慣れればそうでもないけど」
カラン、グラスの中の氷を鳴らす北坂。
「北坂の話聞いてる限り、北坂って自分の正義感で身を滅ぼしそう」
「女に溺れて夜道に背後から刺されそうな奴に云われたくはないね」
嫌味を投げたら嫌味が返ってきてすこしむすっとする。
「いっそ刺し殺して欲しいよ」
「……は?」
「俺なんか、早く死ねば良いんだ」
だって俺は間接的な犯罪者だ。
裁かれるべきことをして裁かれずに生きているのだから。
いつ殺されても文句は云えないし、云う気もない。
「自分の命を大切にしない奴は嫌いだな」
「別に北坂に好かれようなんて思ってないから問題ないよ」
クスクスと肩を揺らしてロックのウイスキーをひと息に呷った。
結局その日も既視感の謎は解けないまま。
「ねぇ北坂、次……」
「春宮」
「ん……?」
「感情的になった人間は怖い」
「……だから?」
「だから、本当に刺されないように気を付けた方が良いぞ」
「……ご忠告どーも」
これまた出たよ、正義漢面。
こういうところ、嫌いだな。
次の約束は取り付けなくても良いや。
どうせ同じ町に居たらその内どこかの飲み屋で一緒になるだろう。
話がしたくなったらその時すれば良い。
じゃ、今夜は俺が先に帰るから、と。一杯分多めの酒代をカウンターに置いて、俺は純喫茶を出た。
「……春宮……」
仄かな怨恨が混じった声音は俺の鼓膜を震わせるに至らなかった。
「…………っ!」
音にならない悲鳴を上げて飛び起きる。
「……最近こんなんばっかじゃねぇか……」
瞼の裏に張り付いて剥がれないのは、モノクロの中の赤と、また別の場面での萌黄色。
忘れるな、と云いたいのか。
云われずとも忘れることなど出来やしないのに。
「あー、ホント……やってらんないわ……」
壁時計を見て、長針と短針の位置が示す時間にげんなりしつつも大学に行く支度をして家を出た。
一応講義に出るも、教授の声は右から左。
気分は最悪だと午前を終えて購買でパンを買って大学を出た。
もう今日は講義に出ても意味がない。
町中をふらふらして埠頭に赴く。
大昔、まだおかしくなる前の母親とよく来ていた場所だ。
何でこんな所に足を運んだのか判らない。ただ、足に任せた結果が其処だった。
石造りの堤防によじ登り、天辺の平たい石に腰を落ち着ける。
ざん、ざざん……。
波の音は穏やか。
購買で買ったパンを齧りながら、引いては寄せる波をぼんやりと眺めていた。
暫くそうしていてちらりと流した視線の先には軍艦。
嗚呼、昔はあの軍艦に乗ってみたいと思ったものだ……なんて遠い過去を懐かしんでいたら、軍艦から降りてきた隊列の中に記憶に新しい色を見付けてぱちぱちと目をしばたたいた。
金茶色の頭なんて珍しい。
その持ち主はきっと北坂で。
「本当に海軍将校だったのか……」
疑っていた訳ではないけれど、改めて目の当たりにすると何だか新しい発見をしたような気になった。
先日少し話をした時、北坂は普段金糸雀一条の社交純喫茶で飲むことが多いと云っていた。
今夜其処に行ったら彼に会えるだろうか。
何となく、会いたい、と思った。
彼と話をしたら、このむしゃくしゃした気分も軽くなるんじゃないかって、そんな幻想を抱いて。俺は水平線に夕陽が沈み切るのを待ってから、金糸雀一条の社交純喫茶に足を運んだ。
絡んでくる女が居ない酒の場は些か退屈。
二時間、キスチョコを肴にちまちま洋酒を舐めて、今日は外れかな、と会計に立とうとした時。
「春宮……?」
待ち人来たれり。
「北坂」
「どうして此処に?」
「ん、気分転換」
いつも同じ場所じゃ飽きるからさ、なんて。さも北坂のことを待っていた訳じゃないと匂わす。
「もう帰るのか?」
「一緒に居て欲しい?」
「気色の悪いことを云うな」
口をへの字に曲げる北坂にくすくすと笑う。
「北坂が飲むならもう一杯飲んで行こうかな」
「俺は頼んでないぞ」
「俺の意思だよ」
勘違いしないでと肩を揺らし、一度浮かせた腰をまた落ち着けた。
「ねぇ、ずっと聞きそびれてたけど、北坂の髪の毛、何でそんな色してんの」
「母親が欧米人だから」
「じゃあ在日って訳じゃないんだ」
「あぁ、生まれも育ちもこの町だ」
「前から思ってたけど、間接照明の下だと蜂蜜みたいな色に見えるよね」
美味しそう、と手を伸ばして髪の毛をひと掬いすれば、ゆるりと跳ね除けられた手。
「お前の女の口説き方がよく判った」
「何それ。こんな髪の毛の女に出会ったことないから初めて云ったのに」
「それも常套句だろ」
呆れたように言ちる北坂に、どうかなと肩を竦めて見せる。
「この店、居心地良いね」
「静かなところは気に入ってる」
「金糸雀一条なんて上品な所だもんね」 燕界隈は歓楽街とでも云えば良いだろうか。それに対して金糸雀界隈はしっとりとした大人の町だ。
「いつも一人なの」
「上官に連れ回される以外は」
「友達居ないんだ」
「居るよ。失礼な奴だなお前」
「だって皆で飲む酒の方が美味いじゃん」
「それはあるけど一人が良い時もあんの」
「ふぅん」
大人振ってて何かムカつく。
「何で一人が良いの」
「考え事したいから」
「考え事って例えば」
「お前、割と無作法に踏み込んでくるのな」
「……別に踏み込んだ訳じゃないけど」 何だろう。つい、足が一歩、二歩と出てしまった。
「考え事なんて色々だよ。昔のこととか今のこととか、将来のこととか」
カランと氷が鳴く。
「そういうの、整理つくモン?」
「どちらかと云えば」
「そっか……」
じゃあ俺もたまに此処に来て考え事しようかな、なんて北坂に向かって飛ばしたウインクは逸らされた視線で撃ち落とされた。
北坂は明日もあるから、と一杯だけ飲んで席を立った。
俺も北坂に会いたいなと思っただけだったから同時に席を立って、店の戸口で別れた。
「また」の挨拶はこの日もなかった。
その晩、また夢を見た。鮮やかな紅と、萌黄色。
「……何でこんなに頻繁に……」
荒くなった呼吸を整えながらベッドを降りた。
戸棚から洋酒の瓶を取り出してソファでそのまま口を付ける。
どうして最近こんなにも嫌な夢を見るんだろう。
原因は判らない。
壁時計を見れば、眠りに就いてからまだ二時間しか経っていない。
社交喫茶は朝まで明かりを灯している。
喧騒と纏わり付く甘い香りが恋しくなって、俺はさっと着替えると家を出た。
まだまだ賑わっている社交喫茶でブランデーを飲みながらボックス席で辺りを見回す。
良い女は居ないだろうか。
この場合の良い女、は質の良い女、という意味じゃない。
都合良く扱える、阿婆擦れ女のことだ。
フロアをふらふらしていた女を目に留め、こちらを向いた瞬間に人差し指でくいくいと呼んでやる。
恐らくエタノール焼けした赤茶の髪は癖っ毛で、長さは肩に届くか届かないか。
目はくりっとしているが、鼻は低い。
似合っていない真っ赤な口紅が俺を誘った。
「ねぇ、誰か待ってるの?」
横に座らせてグラスをかち合わせる。
「ううん、待ってた人が今来たみたい」
「それって俺のこと?」
「他に居たら今アタシは此処に座ってないわ」
悪くない。口の端を舌先で舐めてグラスを空にする。
「行こ」
どこへ、なんて野暮な質問は飛んでこなかった。
立ち上がれば女もゆっくりと腰を上げて俺の後をついてきた。
安価な待合茶屋にしけ込んで女を貪った。
ただ憂さを晴らすだけの行為に優しさも何もあったもんじゃない。
それでも女は不満を抱くどころか善がって啼くのだから、利害は一致していると結論付ける。
一通りのコトを終えると網膜に焼き付いていた紅と萌黄色は大分薄れていた。
薄っすら陽の射し込む部屋。俺は女を放ってそのまま茶屋を出た。
満足するには至らなかったが、それでも気晴らしにはなった。
帰ったら寝直そう。今日は自主休講だ。そう決めて、俺は家路を辿った。
そんな俺をふたつの瞳が見詰めていたことなど知らずに。
いつもの社交喫茶。
「おい春宮、最近遊び方激しくねぇ?」
燕界隈で有名になり始めてるぞ、と囁いてきたのはいつも連んでる友人の一人。
「そんなんじゃ祖父さんに勘当されんじゃねぇか?」
また別の、面白がるような声に、はっと鼻で笑う。
「いっそして欲しいね。別に俺は跡取りなんてこれっぽっちも興味ないし」
養子でもなんでも取って、もっと家に貢献する奴を教育した方がずっと建設的だと思うけど。
云って、グラスの中身を一気に呷る。
「うわ、ストレートで一気とか飲み方えげつな……」
「酔っ払ってなきゃやってらんないよ」
相変わらず紅と萌黄色は瞼の裏でちかちかと瞬く。
煩わしいことこの上ない。
ふと、賑やかしい声が鼓膜を騒つかせた。
座った目で入口の方を見れば、大柄な男の後ろに何人かの男。
「あ……」
その中に金茶色を見付けて俺は思わず腰を浮かせた。
ボックス席に落ち着いたのは恐らく海軍将校たちで。
居心地悪そうにしている金茶色を見ていたら揶揄ってやりたくなった俺はもう大分酔っ払っていた。
ふらりと立ち上がり将校たちの席まで足を運んでいく。
おいこら、とか、待てよ、とか。友人たちの声は耳に入らなかった。
「どうも、北坂大尉、お久し振りですね」
にこり、浮かべた笑みは紛い物。
「…………」
「何だ、北坂。知り合いか?」
低い声に北坂はええまぁと言葉を濁す。それが気に食わなかった。
「女が苦手な北坂大尉はこのような場所はさぞかし苦痛でしょうね」
わざと誤解を招くような云い方をすれば、面白い程簡単に騒ついたテーブル。
「北坂、そうなのか?」
「いえ、そのようなことは決して」
「良い子ちゃんするのも大変だね、きたさ、」
名前を最後まで呼ばせてもらえなかったのは、ピッチャーの水を真正面からぶっ掛けられたからだった。
「少佐、礼を失して申し訳ありません。彼は私の知人ではありますがまだ確たる分別のつかぬ学生でございます。どうぞご容赦願えればと思います」
尚、と。水をぶっ掛けられて呆けてる俺の腕を掴んで、北坂は続けた。
「彼は大分酔っているようですので、私が宅まで送りたいと思います。この場に同席致しませんことを重ねてご容赦願います」
堅苦しくも柔らかさを孕む声でそう告げた北坂は俺の腕を引いて店の外に連れ出した。
「ふざけるな!」
店外で開口一番怒鳴られる。
ついでに頬をはたかれた。
「今回は学生という身分を盾にしてやったが、もう大学生だろうっ!」
「…………」
「いい加減責任を取れる行動と発言をしろ!」
手の平で打たれた頬に手を当てながら、ぼんやりと北坂を見下ろす。
「聞いているのか!」
「……聞いてる……」
「なら今夜はもう帰って寝ろ」
そうして酒を抜けと云われて、北坂はどうするの、と思わず問う。
「お前を送ると云った手前戻る訳にもいかないし、俺も帰る」
「じゃあ、」
濡れた顔を袖で拭いながら、もう片手で北坂のジャケットの裾を掴む。
「一緒に飲んでよ」
「お前は、人の話を聞いて、」
「聞いてたよ。でも今帰って一人になりたくないんだ」
「…………」
さっきまでの俺とは正反対の態度で北坂を見下ろす俺に、北坂は仄かな狼狽。
「夢を、見たくないから……」
「……夢?」
「そう……」
頷いたら、お前は子供か、と呆れたような溜息。
「金糸雀界隈でなら飲んでやる」
燕界隈では誰が見ているか判らないからなと言ちて、北坂はまた俺の腕を引いた。
北坂気に入りの店で、北坂はバーボンのロック。俺はウイスキーの水割りを振られた。
水割りなんかじゃなくてロックかストレートが飲みたいと云ったら、取り敢えずはそれを飲めと強制された。
何を喋るでもなく北坂とカウンターに並んでちびちびと水割りを飲んだ。
ちらり、横目に見た北坂に、ふと視界がブレるよう萌黄色が一瞬重なって息を飲んだ。
「……? どうした?」
「いや、何でも……ない」
どうして北坂に萌黄色が重なったのだろう?
何故だか、肌が粟立った。
「つーか、夢見たくないとか何なの、餓鬼なのお前は」
「……餓鬼じゃないけど……」
「けど?」
「嫌な夢なんだ……」
何回、何十回、何百回見たか知れない。
「昔からたまに見てたけど、ここ最近頻繁に見るようになって……」
紅と萌黄色が俺の胸を潰すんだ。
絞り出すような声で呟く。
水割りを飲み干して、次はロックで良いかと伺いを立てれば、仕方ないなと北坂がウイスキーのロックを頼んでくれた。
「紅も、萌黄色も、嫌な思い出しかない色なのに」
否、嫌な思い出しかないから、か。夢に見るのは。
「心理的外傷、ってやつか」
「そんな綺麗なモンだったら良いね」
肩を竦め……新しいグラスに口を付ける。
「夢を見たくなくて酒を飲む。夢を見てむしゃくしゃして女を抱く」
そーゆーくだらない人生歩んでるんだよ俺は。
自嘲で肩を揺らしたら、確かにそれは良い生き方じゃないな、なんて正義言。鬱陶しい。でも北坂に対してはその鬱陶しさを跳ね除ける気にはならないのが不思議。
「男は夢を見たくなくて女を抱く。逆に女は夢を見たくて男に抱かれる」
自然の摂理に適った需要と供給の合致じゃない?
なんてグラスを目の高さに掲げる。
「需要と供給ね……」
「北坂、女に興味ないの」
「は?」
「初めて会った時、香水の匂い嫌そうにしてたから」
「……そりゃあんだけ色んな匂い混じってたら嫌だろ」
「まぁ、確かに好き嫌いもあるしね」
「女は石鹸の匂いがするくらいが良い」
「うわ、いかにも清楚系しか受け付けませんみたいな潔癖感」
「香水臭いより良いだろ」
「俺は香水臭い方が良い」
ウイスキーを呷って、けたけた笑いカウンターにぺたりと頬をつける。
「一人の女に縛られてるなんて馬鹿らしいよ」
紅とか、萌黄色、とか。
「馬鹿らしくはないだろ」
どちらかと云えばそれが普通だろうと云われて、じゃあ俺は普通じゃないねと嫌味っぽく返す。
「真っ直ぐ過ぎる人間は視野が狭いから嫌だ」
「真っ直ぐに愛された方が幸せじゃねーか」
「幸せの尺度は人それぞれだよ」
ふっと吐息を洩らして瞼を落とす。
「真っ直ぐ過ぎる愛は怖い……」
「…………」
「ねぇ、北坂。俺はさ……」
人殺しなんだよ。
最後の言葉は音になる前に寝息に溶けた。
北坂紀久という男は単純明快、だけど気持ちの良い男だった。
彼が翳す正義感にはうんざりするが、喜怒哀楽がハッキリしている分感情が読みやすく扱いも簡単だった。
大人の男を手の平で転がしているような感覚は俺を優越感に浸らせるには充分。
まぁそれを度外視しても北坂とぽつぽつ交わす会話はそこそこ楽しめるのだけれど。
再会を約束した燕四条の社交純喫茶は落ち着いた、密談なんかにももってこいの店。
薄暗い間接照明は北坂の金茶色の髪の毛を甘い蜂蜜色に見せていた。
「軍って厳しいの?」
「そりゃあな」
「嫌にならないの?」
「別に……規律とか、手本に習倣えば良いだけの話だし」
「息が詰まりそう」
「慣れればそうでもないけど」
カラン、グラスの中の氷を鳴らす北坂。
「北坂の話聞いてる限り、北坂って自分の正義感で身を滅ぼしそう」
「女に溺れて夜道に背後から刺されそうな奴に云われたくはないね」
嫌味を投げたら嫌味が返ってきてすこしむすっとする。
「いっそ刺し殺して欲しいよ」
「……は?」
「俺なんか、早く死ねば良いんだ」
だって俺は間接的な犯罪者だ。
裁かれるべきことをして裁かれずに生きているのだから。
いつ殺されても文句は云えないし、云う気もない。
「自分の命を大切にしない奴は嫌いだな」
「別に北坂に好かれようなんて思ってないから問題ないよ」
クスクスと肩を揺らしてロックのウイスキーをひと息に呷った。
結局その日も既視感の謎は解けないまま。
「ねぇ北坂、次……」
「春宮」
「ん……?」
「感情的になった人間は怖い」
「……だから?」
「だから、本当に刺されないように気を付けた方が良いぞ」
「……ご忠告どーも」
これまた出たよ、正義漢面。
こういうところ、嫌いだな。
次の約束は取り付けなくても良いや。
どうせ同じ町に居たらその内どこかの飲み屋で一緒になるだろう。
話がしたくなったらその時すれば良い。
じゃ、今夜は俺が先に帰るから、と。一杯分多めの酒代をカウンターに置いて、俺は純喫茶を出た。
「……春宮……」
仄かな怨恨が混じった声音は俺の鼓膜を震わせるに至らなかった。
「…………っ!」
音にならない悲鳴を上げて飛び起きる。
「……最近こんなんばっかじゃねぇか……」
瞼の裏に張り付いて剥がれないのは、モノクロの中の赤と、また別の場面での萌黄色。
忘れるな、と云いたいのか。
云われずとも忘れることなど出来やしないのに。
「あー、ホント……やってらんないわ……」
壁時計を見て、長針と短針の位置が示す時間にげんなりしつつも大学に行く支度をして家を出た。
一応講義に出るも、教授の声は右から左。
気分は最悪だと午前を終えて購買でパンを買って大学を出た。
もう今日は講義に出ても意味がない。
町中をふらふらして埠頭に赴く。
大昔、まだおかしくなる前の母親とよく来ていた場所だ。
何でこんな所に足を運んだのか判らない。ただ、足に任せた結果が其処だった。
石造りの堤防によじ登り、天辺の平たい石に腰を落ち着ける。
ざん、ざざん……。
波の音は穏やか。
購買で買ったパンを齧りながら、引いては寄せる波をぼんやりと眺めていた。
暫くそうしていてちらりと流した視線の先には軍艦。
嗚呼、昔はあの軍艦に乗ってみたいと思ったものだ……なんて遠い過去を懐かしんでいたら、軍艦から降りてきた隊列の中に記憶に新しい色を見付けてぱちぱちと目をしばたたいた。
金茶色の頭なんて珍しい。
その持ち主はきっと北坂で。
「本当に海軍将校だったのか……」
疑っていた訳ではないけれど、改めて目の当たりにすると何だか新しい発見をしたような気になった。
先日少し話をした時、北坂は普段金糸雀一条の社交純喫茶で飲むことが多いと云っていた。
今夜其処に行ったら彼に会えるだろうか。
何となく、会いたい、と思った。
彼と話をしたら、このむしゃくしゃした気分も軽くなるんじゃないかって、そんな幻想を抱いて。俺は水平線に夕陽が沈み切るのを待ってから、金糸雀一条の社交純喫茶に足を運んだ。
絡んでくる女が居ない酒の場は些か退屈。
二時間、キスチョコを肴にちまちま洋酒を舐めて、今日は外れかな、と会計に立とうとした時。
「春宮……?」
待ち人来たれり。
「北坂」
「どうして此処に?」
「ん、気分転換」
いつも同じ場所じゃ飽きるからさ、なんて。さも北坂のことを待っていた訳じゃないと匂わす。
「もう帰るのか?」
「一緒に居て欲しい?」
「気色の悪いことを云うな」
口をへの字に曲げる北坂にくすくすと笑う。
「北坂が飲むならもう一杯飲んで行こうかな」
「俺は頼んでないぞ」
「俺の意思だよ」
勘違いしないでと肩を揺らし、一度浮かせた腰をまた落ち着けた。
「ねぇ、ずっと聞きそびれてたけど、北坂の髪の毛、何でそんな色してんの」
「母親が欧米人だから」
「じゃあ在日って訳じゃないんだ」
「あぁ、生まれも育ちもこの町だ」
「前から思ってたけど、間接照明の下だと蜂蜜みたいな色に見えるよね」
美味しそう、と手を伸ばして髪の毛をひと掬いすれば、ゆるりと跳ね除けられた手。
「お前の女の口説き方がよく判った」
「何それ。こんな髪の毛の女に出会ったことないから初めて云ったのに」
「それも常套句だろ」
呆れたように言ちる北坂に、どうかなと肩を竦めて見せる。
「この店、居心地良いね」
「静かなところは気に入ってる」
「金糸雀一条なんて上品な所だもんね」 燕界隈は歓楽街とでも云えば良いだろうか。それに対して金糸雀界隈はしっとりとした大人の町だ。
「いつも一人なの」
「上官に連れ回される以外は」
「友達居ないんだ」
「居るよ。失礼な奴だなお前」
「だって皆で飲む酒の方が美味いじゃん」
「それはあるけど一人が良い時もあんの」
「ふぅん」
大人振ってて何かムカつく。
「何で一人が良いの」
「考え事したいから」
「考え事って例えば」
「お前、割と無作法に踏み込んでくるのな」
「……別に踏み込んだ訳じゃないけど」 何だろう。つい、足が一歩、二歩と出てしまった。
「考え事なんて色々だよ。昔のこととか今のこととか、将来のこととか」
カランと氷が鳴く。
「そういうの、整理つくモン?」
「どちらかと云えば」
「そっか……」
じゃあ俺もたまに此処に来て考え事しようかな、なんて北坂に向かって飛ばしたウインクは逸らされた視線で撃ち落とされた。
北坂は明日もあるから、と一杯だけ飲んで席を立った。
俺も北坂に会いたいなと思っただけだったから同時に席を立って、店の戸口で別れた。
「また」の挨拶はこの日もなかった。
その晩、また夢を見た。鮮やかな紅と、萌黄色。
「……何でこんなに頻繁に……」
荒くなった呼吸を整えながらベッドを降りた。
戸棚から洋酒の瓶を取り出してソファでそのまま口を付ける。
どうして最近こんなにも嫌な夢を見るんだろう。
原因は判らない。
壁時計を見れば、眠りに就いてからまだ二時間しか経っていない。
社交喫茶は朝まで明かりを灯している。
喧騒と纏わり付く甘い香りが恋しくなって、俺はさっと着替えると家を出た。
まだまだ賑わっている社交喫茶でブランデーを飲みながらボックス席で辺りを見回す。
良い女は居ないだろうか。
この場合の良い女、は質の良い女、という意味じゃない。
都合良く扱える、阿婆擦れ女のことだ。
フロアをふらふらしていた女を目に留め、こちらを向いた瞬間に人差し指でくいくいと呼んでやる。
恐らくエタノール焼けした赤茶の髪は癖っ毛で、長さは肩に届くか届かないか。
目はくりっとしているが、鼻は低い。
似合っていない真っ赤な口紅が俺を誘った。
「ねぇ、誰か待ってるの?」
横に座らせてグラスをかち合わせる。
「ううん、待ってた人が今来たみたい」
「それって俺のこと?」
「他に居たら今アタシは此処に座ってないわ」
悪くない。口の端を舌先で舐めてグラスを空にする。
「行こ」
どこへ、なんて野暮な質問は飛んでこなかった。
立ち上がれば女もゆっくりと腰を上げて俺の後をついてきた。
安価な待合茶屋にしけ込んで女を貪った。
ただ憂さを晴らすだけの行為に優しさも何もあったもんじゃない。
それでも女は不満を抱くどころか善がって啼くのだから、利害は一致していると結論付ける。
一通りのコトを終えると網膜に焼き付いていた紅と萌黄色は大分薄れていた。
薄っすら陽の射し込む部屋。俺は女を放ってそのまま茶屋を出た。
満足するには至らなかったが、それでも気晴らしにはなった。
帰ったら寝直そう。今日は自主休講だ。そう決めて、俺は家路を辿った。
そんな俺をふたつの瞳が見詰めていたことなど知らずに。
いつもの社交喫茶。
「おい春宮、最近遊び方激しくねぇ?」
燕界隈で有名になり始めてるぞ、と囁いてきたのはいつも連んでる友人の一人。
「そんなんじゃ祖父さんに勘当されんじゃねぇか?」
また別の、面白がるような声に、はっと鼻で笑う。
「いっそして欲しいね。別に俺は跡取りなんてこれっぽっちも興味ないし」
養子でもなんでも取って、もっと家に貢献する奴を教育した方がずっと建設的だと思うけど。
云って、グラスの中身を一気に呷る。
「うわ、ストレートで一気とか飲み方えげつな……」
「酔っ払ってなきゃやってらんないよ」
相変わらず紅と萌黄色は瞼の裏でちかちかと瞬く。
煩わしいことこの上ない。
ふと、賑やかしい声が鼓膜を騒つかせた。
座った目で入口の方を見れば、大柄な男の後ろに何人かの男。
「あ……」
その中に金茶色を見付けて俺は思わず腰を浮かせた。
ボックス席に落ち着いたのは恐らく海軍将校たちで。
居心地悪そうにしている金茶色を見ていたら揶揄ってやりたくなった俺はもう大分酔っ払っていた。
ふらりと立ち上がり将校たちの席まで足を運んでいく。
おいこら、とか、待てよ、とか。友人たちの声は耳に入らなかった。
「どうも、北坂大尉、お久し振りですね」
にこり、浮かべた笑みは紛い物。
「…………」
「何だ、北坂。知り合いか?」
低い声に北坂はええまぁと言葉を濁す。それが気に食わなかった。
「女が苦手な北坂大尉はこのような場所はさぞかし苦痛でしょうね」
わざと誤解を招くような云い方をすれば、面白い程簡単に騒ついたテーブル。
「北坂、そうなのか?」
「いえ、そのようなことは決して」
「良い子ちゃんするのも大変だね、きたさ、」
名前を最後まで呼ばせてもらえなかったのは、ピッチャーの水を真正面からぶっ掛けられたからだった。
「少佐、礼を失して申し訳ありません。彼は私の知人ではありますがまだ確たる分別のつかぬ学生でございます。どうぞご容赦願えればと思います」
尚、と。水をぶっ掛けられて呆けてる俺の腕を掴んで、北坂は続けた。
「彼は大分酔っているようですので、私が宅まで送りたいと思います。この場に同席致しませんことを重ねてご容赦願います」
堅苦しくも柔らかさを孕む声でそう告げた北坂は俺の腕を引いて店の外に連れ出した。
「ふざけるな!」
店外で開口一番怒鳴られる。
ついでに頬をはたかれた。
「今回は学生という身分を盾にしてやったが、もう大学生だろうっ!」
「…………」
「いい加減責任を取れる行動と発言をしろ!」
手の平で打たれた頬に手を当てながら、ぼんやりと北坂を見下ろす。
「聞いているのか!」
「……聞いてる……」
「なら今夜はもう帰って寝ろ」
そうして酒を抜けと云われて、北坂はどうするの、と思わず問う。
「お前を送ると云った手前戻る訳にもいかないし、俺も帰る」
「じゃあ、」
濡れた顔を袖で拭いながら、もう片手で北坂のジャケットの裾を掴む。
「一緒に飲んでよ」
「お前は、人の話を聞いて、」
「聞いてたよ。でも今帰って一人になりたくないんだ」
「…………」
さっきまでの俺とは正反対の態度で北坂を見下ろす俺に、北坂は仄かな狼狽。
「夢を、見たくないから……」
「……夢?」
「そう……」
頷いたら、お前は子供か、と呆れたような溜息。
「金糸雀界隈でなら飲んでやる」
燕界隈では誰が見ているか判らないからなと言ちて、北坂はまた俺の腕を引いた。
北坂気に入りの店で、北坂はバーボンのロック。俺はウイスキーの水割りを振られた。
水割りなんかじゃなくてロックかストレートが飲みたいと云ったら、取り敢えずはそれを飲めと強制された。
何を喋るでもなく北坂とカウンターに並んでちびちびと水割りを飲んだ。
ちらり、横目に見た北坂に、ふと視界がブレるよう萌黄色が一瞬重なって息を飲んだ。
「……? どうした?」
「いや、何でも……ない」
どうして北坂に萌黄色が重なったのだろう?
何故だか、肌が粟立った。
「つーか、夢見たくないとか何なの、餓鬼なのお前は」
「……餓鬼じゃないけど……」
「けど?」
「嫌な夢なんだ……」
何回、何十回、何百回見たか知れない。
「昔からたまに見てたけど、ここ最近頻繁に見るようになって……」
紅と萌黄色が俺の胸を潰すんだ。
絞り出すような声で呟く。
水割りを飲み干して、次はロックで良いかと伺いを立てれば、仕方ないなと北坂がウイスキーのロックを頼んでくれた。
「紅も、萌黄色も、嫌な思い出しかない色なのに」
否、嫌な思い出しかないから、か。夢に見るのは。
「心理的外傷、ってやつか」
「そんな綺麗なモンだったら良いね」
肩を竦め……新しいグラスに口を付ける。
「夢を見たくなくて酒を飲む。夢を見てむしゃくしゃして女を抱く」
そーゆーくだらない人生歩んでるんだよ俺は。
自嘲で肩を揺らしたら、確かにそれは良い生き方じゃないな、なんて正義言。鬱陶しい。でも北坂に対してはその鬱陶しさを跳ね除ける気にはならないのが不思議。
「男は夢を見たくなくて女を抱く。逆に女は夢を見たくて男に抱かれる」
自然の摂理に適った需要と供給の合致じゃない?
なんてグラスを目の高さに掲げる。
「需要と供給ね……」
「北坂、女に興味ないの」
「は?」
「初めて会った時、香水の匂い嫌そうにしてたから」
「……そりゃあんだけ色んな匂い混じってたら嫌だろ」
「まぁ、確かに好き嫌いもあるしね」
「女は石鹸の匂いがするくらいが良い」
「うわ、いかにも清楚系しか受け付けませんみたいな潔癖感」
「香水臭いより良いだろ」
「俺は香水臭い方が良い」
ウイスキーを呷って、けたけた笑いカウンターにぺたりと頬をつける。
「一人の女に縛られてるなんて馬鹿らしいよ」
紅とか、萌黄色、とか。
「馬鹿らしくはないだろ」
どちらかと云えばそれが普通だろうと云われて、じゃあ俺は普通じゃないねと嫌味っぽく返す。
「真っ直ぐ過ぎる人間は視野が狭いから嫌だ」
「真っ直ぐに愛された方が幸せじゃねーか」
「幸せの尺度は人それぞれだよ」
ふっと吐息を洩らして瞼を落とす。
「真っ直ぐ過ぎる愛は怖い……」
「…………」
「ねぇ、北坂。俺はさ……」
人殺しなんだよ。
最後の言葉は音になる前に寝息に溶けた。



