ドンッと大きな音が鳴る。皓宇が壁に片手をついたのだと理解するよりも前に、もう片方の手で顎をすくわれてしまう。
無理やり上を向かされて、視線を合わせられる。拗ねた顔はいつもと同じでちょっとだけ幼く、愛らしい。
――ってそうじゃなくて!
「どうしてこんなことしたのよ!」
「それは、きみが逃げようとするからだよ」
「はい?」
さも当然のように断言され、春鈴は間抜けな声で聞き返すことしかできない。
「離れ離れになってからずっと会いたかったんだ。でも、私はこういった立場だし、きみが自分から後宮にやってくるなんてありえないだろう? だから妃に指名した」
「それはすっごくありがたいし恐れ多いことなんだけど……」
春鈴は目の前の男を皇帝として敬うことをもはややめていた。いつものようにぶっきらぼうに呟くと、皓宇は片方の口角をあげる。
「そう思ってもらえていたのならうれしい。だが、ならばどうして逃げるなんて真似をしようと思ったんだい。悲しくて悲しくて、きみが逃げない世界が来るまでやり直そうと考えたんだ。まったく、あのころと変わらずお転婆で困ったよ」
核心をつかれて返事に困る。
女社会に嫌気がさしただの、いじめがつらかっただの、刀一本持って旅に出たいだの、いまのこの男に言っても伝わるわけがない。動揺した春鈴は話題を変えることにする。
「そんなことより、時間を巻き戻らせるなんてありえないことができるのはどうしてなの?」
「それは、きみが言ったからだ」
「は?」
気の抜けた返事が口をつく。
そんなこと言った覚えはない。少々変わり者なのは自覚しているが、さすがの自分でも「皓宇! 時間が巻き戻せたらすっごく素敵だと思わない?」なんて言っただろうか。いや、言っていないはずだ。
あれこれと考えていると、皓宇が「春鈴は忘れてしまったんだ」と寂しさを滲ませた声音で呟く。
「一国を治める主たるもの、みんなに優しくて、かっこよくて、勉強ができて、強くて、方士の真似事もできてほしい、と言ったのは春鈴じゃないか。おかげで全部できるようになった」
「あ」
――言ったわ。言った覚えがある。
昔、たまたま二人きりになったときに、落ち込んでいる皓宇を励ましたくてあることないことを適当に言ったのだった。春鈴にとってはつい最近思い出すまですっかり記憶から抜け落ちていたくらいの思い出だったが、この男はずっと覚えていたというのか。しかも律儀に実行していたなんて、正気の沙汰ではない。
「お父上の剣術道場を去ったあとも、私は苦手分野から目を背けなかった。皇帝には必要のない方士の力も手に入れた」
「は……? 方士!?」
「おかげで、時間を巻き戻す術を手にすることができたのだから、結果的にはよかったよ。春鈴との未来のために力を使えてうれしい。あ、もしかして、きみはこうなることを予言して、あのときああ言ってくれたのだろうか」
「まさかそんなわけ。というかわたし、あなたが何を言っているのかまったくわからないのだけど……」
皓宇が真面目で――正直、真面目すぎてちょっと怖いが――、自分のことを幼いころから好いてくれていることはわかった。恋情が育ちすぎて拗らせた結果、執着心が膨れあがっているのだと理解はできたが、いったいいつここまで好感度が上がるようなことをしたのか。まったく覚えにない。
過去のことに思いを巡らせてうんうんと唸っていると、見かねた皓宇が口を開いた。
「私の愛がまだ伝わらないというのかい」
皓宇はすっと目を細めると、春鈴の頬をするりと撫でた。
「……もう逃がさないよ」
呟きと同時に抱きしめられる。慣れ親しんだ香りがふわっと舞い、ほんのり心が高揚しそうになるが、そんなのんきなことを考えている場合ではない。
「ちょっ! どきなさい! 前々から言いたかったのだけど、皓宇、あなた重いのよ!」
「ああ! 昔のように皓宇と呼んでくれるのかい?」
「うるさいわね! この腹黒皇帝!」
精一杯力を込めて胸を叩くも、皓宇からしたらただじゃれているようにしか見えないらしい。体を少し離すとうっとりするほど美しい顔で見つめられ、居心地が悪くなる。
「もう逃がさないよ。誰かのものになるくらいなら、この後宮に閉じ込めてしまえばよいと思っていたが……はっ、もしや男か?」
皓宇の声が急に低くなる。己の妄想で勝手に機嫌が悪くなるなんて質が悪い。
「何言ってるのよ! わたしは別に誰のものになろうともしていないわ」
「そうか。それならよかった」
「ちょっと冷静になってちょうだい。賢帝と名高いあなたらしくないじゃない」
「……すまない」
ようやく話が通じたのをこれ幸いとぴしゃりと言ってのけると、皓宇は我に返ったようでしゅんとした。
皇帝と妃とはいえ、いつまでも夜更けの廊下で話しているのは非常識だ。少し落ち着いた皓宇もそれに気づいたらしく、続きは彼の私室で話すことになった。



