杏後宮の巻き戻り妃 お転婆賢妃は完璧皇帝の執着心に気づかない


 その後、後宮脱走計画は順調に進んだ。
 ついでに四夫人の残りである(チャン)貴妃と()徳妃とも和解しておいた。そもそも苛烈な嫌がらせをしていたのは葉淑妃一派だけだったので、圧倒的な美貌と謎めいた雰囲気が魅力的な張貴妃と、本の虫で変わり者の才女である李徳妃にそこまで手こずることはなかった。
 どうせすぐにここを去るのだから、あと少し冷遇されている状況を辛抱することぐらいなんでもなかったのだが、残される藍藍と空燕のことを考えると、主の風当たりが強いままではかわいそうだと思ったのだ。
 ちなみに、自分がいなくなった後もどうにか二人が生きて行けるように、変わり者だが情に厚い李徳妃に藍藍を託し、空燕もよかったら護衛にでもしてやってほしいと頼んでいる。彼女ならどうにかしてくれるだろう。

 気がかりなことがあるといえば、皓宇がときどき意味深な瞳を向けてくることだが……なにはともあれすべての準備が整った。
 今日、満月の夜にここから逃げ出す。
 皆が寝静まった深夜、春鈴は物音を立てぬように身支度をしていた。

「身支度って言っても、持っていくものなんてこれしかないんだけどね……」

 愛刀は後宮に連れてくることが叶わなかった。
 その代わりに、空燕に頼んで鍛錬に使っていた木刀をこっそり持ってきてもらっていたのだ。春鈴の名前が刻まれているから普段は空燕に隠してもらっていたのだが、今日の昼に空燕の目を盗んで持ち出していた。握ると、長年使い込んだ感触と手がぴったり馴染む。
 あとは空燕の衣装をくすねるだけ。

 そう思って立ち上がり、寝所の扉を静かに開ける。
 いつもは立って警備してくれている空燕が、だらしなく扉にもたれかかって舟をこいていた。
 日中、めずらしく忙しそうな空燕を労うという体で、眠くなる成分の入った茶を飲ませた。体に害はないそうだが、遅効性で一度寝たら朝まで起きない強力な茶だ。試しに肩を叩いてみても起きる気配がない。

「……ごめんなさい。あなたには世話になったわね」

 そう呟いて、空燕のもとを去る。


   ◇ ◇ ◇


 静かな夜だった。
 昨日までうるさかった春風はぴたりと止み、夜空に雲はない。ただ満月が燦然と輝くのみ。
 巻き戻り前とはまるで違う光景だ。葉桜が一つも舞っていない。

 空燕の宦官風の衣装に着替えた春鈴は、後宮の廊下を足早に歩いていた。足音はできるだけ立てずに、しかし堂々と。
 あの日と同じ道を通ると、また皓宇と遭遇する可能性が高い。だから別の道を行く必要があるが、あの道が外に繋がる隠し通路に行く最短距離だったので、それ以外の道を進むとなると少なからず遠回りになってしまう。
 春鈴は、二週間かけて夜の警備が手薄になる別の道を見つけた。そこは、別の隠し通路に繋がっていた。書庫で禁書を読みふけったり、宦官たちの噂話に耳をそばだてたりしたところ、この後宮には有事に備えて隠し通路がいくつかあるらしい。元の道より少し時間がかかるが、皓宇と遭遇した場所と正反対に位置するこの道なら確実にいけるはず。
 ようやくこの牢獄から脱出できる高揚感と、誰かに会ったらどうしようという緊張感で高鳴る心臓を抑え、歩を進める。

 突き当りを右折したら、隠し通路に繋がる扉が出現するというところまで来た。
 今度こそ脱走計画が成功すると拳を握りしめたいところだが、前回はここで油断して皓宇と鉢合わせしてしまったのだから、気を緩めてはいけない。
 唇を真一文字に引き結び、廊下を曲がると――

「どこに行こうとしているのかな」

 そこには、皓宇が立っていた。

 ――どうして、またいるの。今回の計画は完璧だったはずなのに……!

「逃がさないよ」

 狼狽している春鈴を視界にとらえ、皓宇は優雅に微笑む。その瞳には、あの日見たほの暗い光が灯っていた。

「どうして!? こっちの道なら遭遇しないはずだったのに!」

 思わず我を忘れてそう叫んでしまう。すると、皓宇が「こっちの道?」と首を傾げる。

「ああ、そういうことか。あっちの道を通ろうと、こっちの道を進もうと、きみは私に捕まる運命なんだよ」
「皓宇、あなたもしかして……」

 ――巻き戻りのことを知ってるの?

 春鈴はそう問おうとしていた。
 しかし、春鈴の言葉よりも早く、皓宇が衝撃的なことを口にする。

「だって、巻き戻りは私が起こしたことなのだから」
「は?」

 春鈴は呆然と立ち尽くす。皓宇の言っていることがわからない。いや、言葉は通じているし、どういう意味なのかもわかるのだが、頭が理解することを拒絶している。

 ――巻き戻りを起こしたってどういうこと……?

「な、なぜ……」
「なぜというのは、『なぜ巻き戻りを起こしたのか』ということ? それとも、『なぜ巻き戻りなんてことを起こせる能力を持っているのか』ということだろうか」
「どっちもよ。意味がわからないわ!」

 目の前にいるのが皇帝だということも忘れて噛みつくと、皓宇は愉悦にまみれた笑みを滲ませた。

「ははっ、最高だよ。昔みたいに話してくれると興奮する」
「なっ……! この腹黒! 変態!」
「ああ、すばらしい」

 いまにも抱きついてきそうな様子にぞっとするが、そんな春鈴の内心を気にも留めずに皓宇は笑っていた。顔はいつもと同じ優しい皓宇のはずなのに、夜の闇の中で瞳がぎらぎらと光っている。
 思わず後ずさりすると、下がったぶんだけ皓宇が近づいてくる。気づけば廊下の壁まで追い詰められていて、春鈴は焦る。春の夜の肌寒い気温にさらされた土壁はひんやりとしていた。背中が冷たくて、余計に春鈴の焦燥感が募る。

「ちょ、ちょっと! 近づかないでよ」
「……春鈴は私の妃なのに?」