杏後宮の巻き戻り妃 お転婆賢妃は完璧皇帝の執着心に気づかない


 葉淑妃の宮から帰ってすぐ、皓宇付きの女官がやってきて「本日の夜に陛下が訪れます」と告げた。今度は巻き戻り前には確実になかった出来事だ。
 警戒心は高まるが、皇帝の誘いを断ることはできないので、春鈴は承諾の意を伝える。

 そこからは大忙しだった。
 藍藍に全身くまなく磨かれ、いい匂いのする香油を塗りこまれる。豪奢な衣装を着せられ、痛いぐらいに白粉をはたかれる。髪飾りや装飾品が重たくて仕方がない。
 どうせ乱れるのだからなんでもよいのではないかと思うが、それを言ったら藍藍の仕事がなくなってしまうので黙っていることにする。藍藍は「春鈴さまは華奢でいらっしゃるから、布が余ってしまうわ! どうしましょう!」「大変! 桃色の頬がかわいらしすぎますわ!」などと鼻息荒くはしゃいでいる。楽しそうで何よりだ。


   ◇ ◇ ◇


「久しぶり、かな?」

 月が頂上に昇ったころ、皓宇はやってきた。
 寝所に入るなりそうそう相好を崩し、そう問いかけてくる。

「桜を見た日以来ですね。そこまで経っていないかと思いますが」
「会いたかった」

 入室早々抱きしめられ、耳元でそう囁かれる。
 子どものころは春鈴のほうが少し背が高かったのだが、いまでは皓宇のほうが圧倒的に大きい。上から抱きしめられると身動きが取れないうえに成人男性の体重が降りかかってきて、正直苦しい。

「へ、陛下……重いです……」
「皓宇」

 むすっとした声が上から降ってきて、つい顔をあげようと身じろぎすると、腕により強い力をこめられる。

「皓宇さま……お力を弱めていただけませんか。このままではわたくし、潰れてしまいます」
「ああ、すまない。うれしくて、つい」

 ようやく離してくれた皓宇と目が合う。つい先ほどのいじけた声音はなんだったのかと思うくらい、うれしそうに微笑んでいる。
 寝台に二人で腰かけ、とりとめのない話をする。そのうち、皓宇が幽霊騒ぎについて話しはじめた。

「解決してよかったよ。でもまさか、女官が迷い込んでしまったとはね……」
「ええ、驚きましたわ」

 皓宇には「新人の女官が迷い込み、女一人の力では抜け出せないところに入り込んでしまっていた」と伝えていた。
 春鈴としては、葉淑妃の女官への横暴なふるまいを告げ口するいい機会だと思っていたし、ついでに左降処分でも下ればいいと考えていたが、藍藍に止められたのだ。「ご恩がございますから」と言われてしまったら何も言えない。春鈴からしたら最低な女以外の何者でもないが、どうやらいいところもあったらしい。

「春鈴が幽霊騒ぎのあった倉庫に向かったと聞いたとき、息が止まるかと思った」
「ご心配をおかけして申し訳ございませんでした」
「無事だったからいいけど……今度からは事前に私に相談してくれないか」

 目の前の皓宇は本心から心配しているようだ。
 空燕もいるし、春鈴自身もそこらへんの護衛なら倒せるくらいの実力の持ち主だから、そんなに心配する必要はないのだが。悪いことをしてしまったな、などと考えていると手を握られ、「聞いてる?」と少し強い調子で問われる。

「あ、はい。じゃあ考えておきます」

 そう返事をすると、皓宇はぽかんとして目を瞬かせた。
 沈黙が流れる。

 ――ん?

 何か変なことを言ってしまったかと振り返る。

 ――えーっと。事前に相談してほしいって皓宇に言われて、わたし、なんて答えたんだっけ。

 ……まずい。
 ついいつもの気安い調子でしゃべってしまった。
 剣術道場出身の妃など、後宮の人間からしたら珍獣もいいところ。だから、うまく馴染むために、皓宇をはじめとして後宮の人間の前では妃らしく振る舞うように心がけていたのだが……巻き戻りのことや、空燕や藍藍と話す機会が増えて、つい素が出てしまった。
「女たるもの!」と母の叱責が飛んでくるのが目に見えて、頭を抱えそうになる。

「も、申し訳ございませんっ! 最近、茶会や散歩でいろんなところに行っておりましたから、疲れているのかもしれません……! 皓宇さまとお話し中にもかかわらず、ぼうっとしてしまいました」

 なるべくしおらしく、そしてかわいらしく上目づかいでそう言いながら、皓宇の袖を掴む。いまとなっては正直、珍獣と思われてもいいのだが、後宮脱走計画のためにはあまり目立ちたくはない。
 内心焦っている春鈴とは正反対に、皓宇は穏やかに微笑んでいる。

「なんだか、昔の春鈴に戻ったみたいだ」
「えっと……そうでしょうか?」
「ああ。一生懸命妃らしく振る舞う春鈴はとても愛らしいが、幼い私が好いていたあの頃の春鈴を思い出すと懐かしい気持ちになる」
「そ、そうですか……」

 ――必死だってことがばれてる! 恥ずかしいったらありゃしないわ!

 皓宇の瞳が妙に生温かくて、いたたまれない気持ちになる。穴があったら入りたい。きっといま、自分の顔は真っ赤になっているだろう。
 内心で身悶えていると、皓宇の手が伸びてきて頬に触れる。

「小さいころから風邪なんてまったく引かなかった春鈴が、後宮に来てからは体調を崩すことが増えて心配だったんだ。最近は元気そうでよかった」

 皓宇と剣術道場で過ごしたのはせいぜい二週間程度だ。やけに小さいころの事情に詳しいなと一瞬疑問に思ったが、どうせ過去の自分がべらべらとしゃべったのだろう。「わたしには風邪なんて敵じゃないの!」なんて、いかにも言いそうだ。

「それに、前のように明るくなったし。何かいいことでもあったんだろうか」
「あ、それは……」

 時間が巻き戻っていることを知り、ありえない現状に吹っ切れただけとは口が裂けても言えない。それに、皓宇に殺される未来を変えて、後宮から逃げ出すのが目標なんてことも。答えに窮し、春鈴は話を逸らそうとする。

「あ、でも、同じようなことを空燕にも言われました」
「へえ?」

 含みのある返事が飛んできて驚き、皓宇の顔をぬすみ見る。先ほどから変わらずいつものように微笑んではいるものの、目がまったく笑っていない。

「皓宇さま?」
「あ……いや……そういえば、空燕とは長らく話をしていなかったなと思って」
「おかげさまで元気ですよ」

 歯切れの悪い様子を不思議に思っていると、ようやくぴんときた。寝所でほかの男の名前を出すのは無礼だったか。

「へえ、やっぱりまだあいつと仲がいいんだ。まさか、恋仲なんてことは……」
「まさか! わたくしの心も体も、後宮入りしたときから皓宇さまに捧げております」

 なんだか最近似たようなことを口にした気がするが、いつのことか思い出せない。
 とにかく今日の自分はだめだ。気まずさに耐え切れず愛想笑いをしていると、皓宇が意味ありげに微笑んだ。その表情はまるであの夜のようで、背中に冷たいものが流れる春鈴であった。