「春鈴さま、本日のお召し物はいかがなさいますか?」
葉淑妃の侍女だった娘――藍藍を引き取ってから数日。藍藍は侍女が自分一人しかいないというありえない現状にも音をあげずに、非常に真面目に働いてくれていた。
「そうね、全部おまかせするわ。藍藍、衣装を選ぶのも化粧も上手なんだもの」
「まあ! うれしいお言葉、ありがとうございます」
――懐かれすぎてしまっているのがやや気になるが。
少し褒めただけで、頬を紅潮させ満面の笑顔でお礼を言ってくる。尻尾をぶんぶん振って近寄ってくる子犬のように見えてきた。
なにはともあれ、藍藍が来てくれたのはありがたかった。
化粧など身のまわりのことは自分一人でできるように母にしごかれていたおかげで、侍女がいなくなってからもどうにかできていたが、得意ではないし好きでもないことを毎朝毎朝義務感でこなすのは疲れる。本音を言えば、たいして美しくもない自分をよく見せるために膨大な時間を費やすくらいなら、刀を振るっていたかった。
そういうわけで、ようやくこの宮にも侍女がやってきて、春鈴は楽しい日々を過ごしていた。これでようやく後宮脱走計画を進められるはずだったのだが……
問題が一つ残っていた。
「今日は葉淑妃と茶会をする予定なの」
「えっ!? 葉淑妃とですか……?」
「ええ。たまにはあの方とも腹を割ってお話ししたいと思って、お誘いしてみたのよ」
「こんなことを申し上げるのはよくないとは思いますが……大丈夫でしょうか……?」
「わたしなら心配いらないわ、ありがとう。それで、よかったら藍藍にもついてきてもらえないかしら。いつも空燕に来てもらってたんだけど、退屈そうでかわいそうで」
「お妃サマの雑談なんて興味ないっすからねー」
扉越しに話を聞いていたのか、空燕の間延びした声が聞こえてきた。
「ぜひ! と申し上げたいところですが、その……」
葉淑妃といろいろあった自分が出ていくのはまずいのではないか。
不安そうに春鈴をうかがう藍藍はそう言いたげだった。
「大丈夫よ。わたしにいい作戦があるの」
不敵に笑う自分と、鏡越しに目があった。
◇ ◇ ◇
葉淑妃の住まう桃華宮に着くと、いつもの侍女たちが意地の悪い笑みをたたえて迎えた。
「ようこそいらっしゃいました」
「今日はいつもの従者じゃなくて侍女を一人連れてきたのだけど、問題ないかしら」
格下である彼女たちに拒否する権限はない。ただ、何も言わないのも無礼かと思い一応そう尋ねてやると、それこそ幽霊でも見たような顔で春鈴を見つめた。
「だめなら従者を連れてくるけれど」
「い、いえ……! 問題ございません。ご案内いたします」
侍女たちはあの嫌われ者の林賢妃のもとに侍女が増えたことに驚いているだけで、うしろで黙って俯いている藍藍に気づいた様子はない。
――さて、一泡吹かせてやりましょうか。
春鈴は扇子の下で笑いをこらえながら、長い廊下を歩いて葉淑妃の待つ部屋へと入室した。
「林賢妃、ようこそいらっしゃい」
「本日は急なお誘いにもかかわらず、ありがとうございます」
林賢妃が身にまとう燃えるような赤の襦裙は、豊満な体つきを見せつけるように胸元が大きく開いている。合わせる髪飾りや装飾品はすべて金。相変わらず目に悪い派手な装いで眉根を寄せてしまいそうになるが、葉淑妃の華やかな顔立ちが衣装に負けていないことには素直に感心する。
「病み上がりでいらっしゃるのに、お越しいただいて申し訳ございませんわ」
席に案内しながら、葉淑妃はしおらしくそう言った。
わかっているのであれば、わざわざ呼び寄せるのではなくてこちらの宮に来ればよいのに。文句が喉から出そうになるがなんとかこらえる。急に茶会をしたいと申し出たのはこちらなのだ。それに、いまの関係性を考えると、腹は立つものの下手に出ておいたほうが面倒が起きない。
遠回しの嫌みが三十秒に一回飛んでくる世間話をやりすごしてから、春鈴は本題に切り込むことにする。
「そういえば葉淑妃、よくお側につけていた侍女が一人見られませんが、どうされたのですか」
「ああ、藍藍のことかしら? あの子、勝手に逃げたのよ」
葉淑妃は目を光らせ、意地悪く笑う。
「逃げた、とは?」
「ほら、つい先日、尚服局の倉庫で幽霊騒ぎがあったでしょう? 彼女は幽霊の類が本当に苦手だそうで、耐え切れなくて後宮を出て行ったそうなの。ほかの侍女に書き置きを残していったから確かよ」
何を白々しいことを言っているのだと鼻で笑いそうになるが、どうにか我慢して同情を滲ませる。
「そうですか。それは葉淑妃も大変でしたわね」
「ええ、大切な侍女が一人いなくなってしまって悲しいわ」
葉淑妃は眉尻を下げた。憂いを帯びた顔も非常に美しいが、本性を知っている身としては心に響くものは何もない。
適当に相槌を打って調子を合わせていると、葉淑妃は気をよくしたのか話を続ける。
「でも、こんなことを言ってはなんだけども、後宮の生活がいやになった女官が消息不明になることなんて日常茶飯事じゃない。一人くらいいなくなっても誰も気にも留めていないし、私もいちいち気にしていられないわ」
「では、お許しになるとおっしゃるのですか」
「ええ。悲しいけれど、詮ないことよ。本人の意思を尊重するわ」
「……それは本当ですか」
「え、ええ。何よ、やけに真剣ね」
言質はとった。
いますぐ拳を握りしめて勝利を高らかに宣言したいところだが、まだ一泡吹かせられていない。我慢して、うしろを振り返る。
「だそうです、藍藍」
「はい」
ずっと俯いて気配を殺していた藍藍は、おずおずと顔をあげた。葉淑妃と藍藍の視線が交差する。すると、葉淑妃が大きな音を立てて椅子から立ち上がった。
「ちょ、ちょっと、どういうことよ! なんで、閉じ込めておいたはずのあんたが!」
「閉じ込めておいた?」
「い、いえ、間違えたわ! 逃げたはずのあんたがどうして林賢妃といるのよ!?」
「そ、それは……」
藍藍は困惑していた。こうなるとわかっていたのにどうして連れてきたのかとでも言いたげに、春鈴に助けを求めている。
しかし春鈴としては計画どおりだ。藍藍のために口を挟んでやることにする。
「わたくしから説明いたしますね。葉淑妃がおっしゃるとおり藍藍は幽霊が大の苦手で、先日の騒動の際には怖くて仕方がなかったそうです。お世話になった葉淑妃に非礼なことをしようとしているとは重々承知していたものの、怖いものは怖い。後宮を逃げ出そうとしていたところでちょうど出会いまして、話を聞いてわたくしのもとで働いてもらうことにしたのです。聞けば、書き置きも残してしまったからもう葉淑妃のもとには戻れないとのことでしたので」
「なっ……!」
葉淑妃が言っていたことをうまくつなげて話をでっちあげたが、われながらいい筋書きだ。絶句している葉淑妃が新鮮で、思わず頬が緩んでしまう。
「寛大な葉淑妃のおかげで、藍藍はこれからも後宮で働くことができますわ。感謝申し上げます」
いまとなっては、巻き戻り前の自分がしょうもないいやがらせにひたすら耐えていたのが信じられない。それほどこの後宮という魔窟が恐ろしかったのだと思うが、蓋を開ければこんな簡単なことではないが。
「そろそろお暇いたしますわ。お忙しいなかお時間を取ってくださり、ありがとうございました」
せいせいした気持ちで席を立ち、優雅に拱手をする。藍藍を伴って部屋を出ようとしたところで、葉淑妃のどすの利いた声が響く。
「お待ちなさい! ……許しませんよ」
「いったいなんのことでしょうか?」
「侍女を横取りするなんて、そんな非礼な真似は許さないと言ったの」
振り返るといやみったらしい顔の葉淑妃と目が合う。どうせこのあと、「林賢妃に侍女を横取りされた」などと噂を流そうと算段を立てているのだろう。
思わず、ため息が出そうになる。情けをかけて言わないでおこうと思っていた最後の切り札を告げることにした。
「陛下のご許可も得ていますが」
「ぐっ……」
「失礼いたしますわ」
訳あって葉淑妃のもとにいられなくなった侍女を引き取ってもいいかと、皓宇にうかがいを立てておいてよかった。これで藍藍にこれ以上手出しはできまい。
妃らしい優美な笑みを残して、春鈴は去った。



