「……た……けて……」
どこからか声が聞こえてきた。
てっきり入口に置かれた壺をあらためている空燕が話しかけてきたのかと思い、近寄って「何か言った?」と問うと、「は?」と言われる。
「アンタの独り言じゃないんですか」
「わたしは何もしゃべってないわよ」
沈黙ののち、二人で顔を見合わせて頷く。
空燕は太刀に手をかけ、春鈴の前に立つと「俺より前に出ないでくださいよ」とつぶやいた。
「おい、誰かいるのか? それとも幽霊か? 名乗りをあげろ」
「ちょ、ちょっと、そんな真正面から尋ねなくても……!」
「だったらなんて聞くんです? 危ないやつが潜んでいたら大変じゃないですか」
「まあそうだけど……」
置かれた状況を忘れてそんな言い争いをしていると、再び声が聞こえてくる。
「あ、あの……! どなたかいらっしゃるんですか……?」
女の声。しかもかなり若い。
震える声からは敵意はなさそうに思えるが、正体が見えないうちには判断できない。春鈴も太ももに差している短刀に手をかけ、いつでも対処できるように低く構える。
「どこにいるんだ。姿を見せろ」
「掛け軸のうしろです。た、たぶん、入口から見て右手側にあったと思います。めくるとちょうど人が一人分入れる隙間があるんですけど、縄で縛られているので出られなくて……」
言われたとおりのところに目を向けると、たしかに水墨画の掛け軸が垂れさがっていた。立派な画だが、妙に古びていて最近使ったものではなさそうだ。それに、掛け軸のちょうど下に衣服が積み重なっているせいで、用がなければ近寄ってまじまじと見ようとは思わないかもしれない。
空燕が掛け軸に近づき、手をかける。その様子を春鈴は固唾をのんで見守る。
勢いよくめくると、縄で両手両足を縛られた女官が窮屈そうに体育座りをしていた。春鈴と空燕の姿を認めると、ぼろぼろと泣き出す。
害をなす相手ではないと理解した空燕が縄を斬る。
駆け寄って彼女のそばにしゃがみ、「怪我をしていない?」と問うと、ふるふると首を振った。薄暗い室内ではよくわからないが、見たところは擦り傷程度しかなさそうだ。
落ちつくまで待っていると、ふと彼女に見覚えがあることに思い当たる。
「あなた、葉淑妃のところの侍女じゃない」
「……覚えていてくださったなんて光栄です。いつも葉淑妃がご迷惑をおかけしており、申し訳ございません」
「あなたの咎ではないわ」
まだ混乱しているだろうに、侍女ははきはきとしゃべると頭を下げた。
派手好きの葉淑妃のところにいる侍女はみな華美な服装に身を包んでいたが、なぜかこの侍女だけは落ちついた衣装を着ていた。それに、葉淑妃は己の侍女を使って春鈴にいやがらせをしてくることが多々あったが、この侍女だけは絶対に関わってこなかったのだ。だから、印象に残っていた。
「それで、なんでこんなところにいたのかしら。見たところ、好きで閉じこもっていたようには見えないけれど」
「はい。いろいろとありまして……」
それから侍女は簡潔に説明をしてくれた。
曰く、葉淑妃にいじめられて倉庫に閉じ込められていたとか。仕事ができる彼女は葉淑妃に重用されていたが、曲がったことが嫌いなせいである日、春鈴をいびる淑妃を諫めてしまった。
「ちなみになんて言ったの?」
興味があってそう問うと、侍女は顔を青くしたり赤くしたりしてからためらいがちに口を開いた。
「いい加減にしなさい……と申しました」
「最高! あなた、いいわね!」
思わず、手をたたいて笑ってしまう。うしろの空燕は噴き出していた。
縮こまっていた侍女は、あ然とした様子でそんな二人を見つめた。
きっと彼女はいま、「林賢妃ってこんな明るい人だっただろうか」などと疑問に思っているはずだ。たしかに巻き戻りのことに気づくまでは、春鈴は後宮の人間関係に疲弊して内にこもっていたから、そう思うのも無理はない。
「ところで、葉淑妃に解雇されたも同然のあなたは、ここを出ても行くところがないのではないかしら」
正直にそう聞くと、侍女はびくっと肩を震わせた。
「は、はい……ですが、実家に帰っても肩身の狭い思いをするのは必然でしょうし、どうしようかと考えていました……」
「それならわたしのところに来ない? 自分で言うのもなんだけど、主人としてはあの人よりはだいぶましだと思うわよ。ね、空燕?」
「変わり者ですけど悪い人じゃないっすね」
振り返ると、いつもの無愛想で生意気な表情が見下ろしていた。むかつく回答だが、空燕の「悪い人じゃない」は褒め言葉なので我慢することにする。
「よ、よいのですか……仮にも私は、あなたさまに嫌がらせをしている妃を主としていた身ですが……」
「あなたの咎ではないと言ったでしょう? 気にしないわ。それよりも、こんなところに閉じ込められて怖かったでしょう。その節は悪かったわね。まあ、わたしのせいではないんだけど、わたしのせいみたいなものだから」
「あ、ありがとうございます……ありがとうございます……!」
侍女は床に伏せて泣き出してしまった。曲がったことが嫌いだと自分で言うくらいだから、あの倫理観の乏しい葉淑妃のもとではつらかったのではないか。
そんな同情を寄せてしんみりしていると、空燕がふと口を開いた。
「なんで泣いてるんですか、コイツ」
「コイツって、失礼な!」
泣いていたのが嘘かと思うほどの鋭さで、侍女は空燕を睨んだ。
たしかにこの気の強さでは女社会でうまく協調して生きていくのは厳しそうだ。まるで自分を見ているようで、いたたまれなくなる。
「そうよ、初対面の相手に失礼よ。ところであなた、お名前を聞いていなかったわ」
「はい、申し遅れました。藍藍と申します。これからよろしくお願いいたします」
「藍藍ね。わたしのことは春鈴って呼んでちょうだい」
「はい! 春鈴さま!」
倉庫を出て、月明かりの下で見る藍藍はかなり幼く見えた。
受け答えがしっかりしているから成人していると思っていたが、かなり若そうな娘だ。助けただけで過剰に慕われてしまったような気がして困惑しないでもないが、かわいいので悪くない。
……うしろを歩く空燕は、なんだか気に入らない様子だが。
どうせ人見知りを発揮して気配を隠しているだけだろう。皓宇が道場に来たときも最初はじっと様子をうかがっていたが、一週間もしたらすぐにちょっかいをかけていた。
後宮脱走計画と巻き戻りの件にはまるで関係がなかったものの、人助けできたので春鈴の心は軽かった。それに、侍女が増えたことは素直にうれしい。
自室に戻る道中は、行きとは異なり軽い足取り。
しかし、ずっとうしろで二人が言い争っているせいで、春鈴は気づかなかった。
「……やっぱり空燕とまだ仲がいいんだ」
月明かりを避け、物陰から春鈴たちをじっと見つめる暗い双眸に。
どこからか声が聞こえてきた。
てっきり入口に置かれた壺をあらためている空燕が話しかけてきたのかと思い、近寄って「何か言った?」と問うと、「は?」と言われる。
「アンタの独り言じゃないんですか」
「わたしは何もしゃべってないわよ」
沈黙ののち、二人で顔を見合わせて頷く。
空燕は太刀に手をかけ、春鈴の前に立つと「俺より前に出ないでくださいよ」とつぶやいた。
「おい、誰かいるのか? それとも幽霊か? 名乗りをあげろ」
「ちょ、ちょっと、そんな真正面から尋ねなくても……!」
「だったらなんて聞くんです? 危ないやつが潜んでいたら大変じゃないですか」
「まあそうだけど……」
置かれた状況を忘れてそんな言い争いをしていると、再び声が聞こえてくる。
「あ、あの……! どなたかいらっしゃるんですか……?」
女の声。しかもかなり若い。
震える声からは敵意はなさそうに思えるが、正体が見えないうちには判断できない。春鈴も太ももに差している短刀に手をかけ、いつでも対処できるように低く構える。
「どこにいるんだ。姿を見せろ」
「掛け軸のうしろです。た、たぶん、入口から見て右手側にあったと思います。めくるとちょうど人が一人分入れる隙間があるんですけど、縄で縛られているので出られなくて……」
言われたとおりのところに目を向けると、たしかに水墨画の掛け軸が垂れさがっていた。立派な画だが、妙に古びていて最近使ったものではなさそうだ。それに、掛け軸のちょうど下に衣服が積み重なっているせいで、用がなければ近寄ってまじまじと見ようとは思わないかもしれない。
空燕が掛け軸に近づき、手をかける。その様子を春鈴は固唾をのんで見守る。
勢いよくめくると、縄で両手両足を縛られた女官が窮屈そうに体育座りをしていた。春鈴と空燕の姿を認めると、ぼろぼろと泣き出す。
害をなす相手ではないと理解した空燕が縄を斬る。
駆け寄って彼女のそばにしゃがみ、「怪我をしていない?」と問うと、ふるふると首を振った。薄暗い室内ではよくわからないが、見たところは擦り傷程度しかなさそうだ。
落ちつくまで待っていると、ふと彼女に見覚えがあることに思い当たる。
「あなた、葉淑妃のところの侍女じゃない」
「……覚えていてくださったなんて光栄です。いつも葉淑妃がご迷惑をおかけしており、申し訳ございません」
「あなたの咎ではないわ」
まだ混乱しているだろうに、侍女ははきはきとしゃべると頭を下げた。
派手好きの葉淑妃のところにいる侍女はみな華美な服装に身を包んでいたが、なぜかこの侍女だけは落ちついた衣装を着ていた。それに、葉淑妃は己の侍女を使って春鈴にいやがらせをしてくることが多々あったが、この侍女だけは絶対に関わってこなかったのだ。だから、印象に残っていた。
「それで、なんでこんなところにいたのかしら。見たところ、好きで閉じこもっていたようには見えないけれど」
「はい。いろいろとありまして……」
それから侍女は簡潔に説明をしてくれた。
曰く、葉淑妃にいじめられて倉庫に閉じ込められていたとか。仕事ができる彼女は葉淑妃に重用されていたが、曲がったことが嫌いなせいである日、春鈴をいびる淑妃を諫めてしまった。
「ちなみになんて言ったの?」
興味があってそう問うと、侍女は顔を青くしたり赤くしたりしてからためらいがちに口を開いた。
「いい加減にしなさい……と申しました」
「最高! あなた、いいわね!」
思わず、手をたたいて笑ってしまう。うしろの空燕は噴き出していた。
縮こまっていた侍女は、あ然とした様子でそんな二人を見つめた。
きっと彼女はいま、「林賢妃ってこんな明るい人だっただろうか」などと疑問に思っているはずだ。たしかに巻き戻りのことに気づくまでは、春鈴は後宮の人間関係に疲弊して内にこもっていたから、そう思うのも無理はない。
「ところで、葉淑妃に解雇されたも同然のあなたは、ここを出ても行くところがないのではないかしら」
正直にそう聞くと、侍女はびくっと肩を震わせた。
「は、はい……ですが、実家に帰っても肩身の狭い思いをするのは必然でしょうし、どうしようかと考えていました……」
「それならわたしのところに来ない? 自分で言うのもなんだけど、主人としてはあの人よりはだいぶましだと思うわよ。ね、空燕?」
「変わり者ですけど悪い人じゃないっすね」
振り返ると、いつもの無愛想で生意気な表情が見下ろしていた。むかつく回答だが、空燕の「悪い人じゃない」は褒め言葉なので我慢することにする。
「よ、よいのですか……仮にも私は、あなたさまに嫌がらせをしている妃を主としていた身ですが……」
「あなたの咎ではないと言ったでしょう? 気にしないわ。それよりも、こんなところに閉じ込められて怖かったでしょう。その節は悪かったわね。まあ、わたしのせいではないんだけど、わたしのせいみたいなものだから」
「あ、ありがとうございます……ありがとうございます……!」
侍女は床に伏せて泣き出してしまった。曲がったことが嫌いだと自分で言うくらいだから、あの倫理観の乏しい葉淑妃のもとではつらかったのではないか。
そんな同情を寄せてしんみりしていると、空燕がふと口を開いた。
「なんで泣いてるんですか、コイツ」
「コイツって、失礼な!」
泣いていたのが嘘かと思うほどの鋭さで、侍女は空燕を睨んだ。
たしかにこの気の強さでは女社会でうまく協調して生きていくのは厳しそうだ。まるで自分を見ているようで、いたたまれなくなる。
「そうよ、初対面の相手に失礼よ。ところであなた、お名前を聞いていなかったわ」
「はい、申し遅れました。藍藍と申します。これからよろしくお願いいたします」
「藍藍ね。わたしのことは春鈴って呼んでちょうだい」
「はい! 春鈴さま!」
倉庫を出て、月明かりの下で見る藍藍はかなり幼く見えた。
受け答えがしっかりしているから成人していると思っていたが、かなり若そうな娘だ。助けただけで過剰に慕われてしまったような気がして困惑しないでもないが、かわいいので悪くない。
……うしろを歩く空燕は、なんだか気に入らない様子だが。
どうせ人見知りを発揮して気配を隠しているだけだろう。皓宇が道場に来たときも最初はじっと様子をうかがっていたが、一週間もしたらすぐにちょっかいをかけていた。
後宮脱走計画と巻き戻りの件にはまるで関係がなかったものの、人助けできたので春鈴の心は軽かった。それに、侍女が増えたことは素直にうれしい。
自室に戻る道中は、行きとは異なり軽い足取り。
しかし、ずっとうしろで二人が言い争っているせいで、春鈴は気づかなかった。
「……やっぱり空燕とまだ仲がいいんだ」
月明かりを避け、物陰から春鈴たちをじっと見つめる暗い双眸に。



