杏後宮の巻き戻り妃 お転婆賢妃は完璧皇帝の執着心に気づかない

 慌ただしく準備を済ませて予定の時刻ぴったりに庭園の東屋に向かうと、皓宇はすでに席についていた。日に当たると透ける茶色の長髪、色素の薄い肌、切れ長で優美な目。どこからどう見ても絶世の美丈夫だ。
 そんな皓宇は春鈴の姿が目に入ると、うれしさを隠さずに笑顔を見せた。巻き戻り直前のほの暗い笑みはいったいなんだったのだろうかと思うが、いまは目の前の彼に集中せねば。

 儀礼的に拝礼して、皓宇に勧められるがままに席に座る。
 空燕の前ではお転婆少女そのままにふるまっているが、皇帝の前では淑女でいなければならないことはさすがの春鈴も自覚している。巻き戻りのことを知ってしまったから、余計にぼろが出ないように気をつけなければならない。

「お待たせしてしまい申し訳ございません」
「いや、いま来たばかりだから問題ないよ」

 きっと少し前から待っていただろうが、そんなことは絶対に口にしないのが皓宇という男だ。まるで庶民が恋人にするような甘いことも平気で言う。
 後宮内でのいやがらせに耐えかねて消耗していた春鈴は、この優しい皓宇ですらもうずいぶん前から恐怖の対象だった。しかし、こうして見るとただの懐の広い男だ。いったいなにを怯えていたのか。緊張していた心がふっと軽くなる。

 しかし、穏やかなだけが皓宇のよいところではない。
 一国を治める主君としては若すぎるうえに優しすぎる。皓宇がそんなふうに市井の人々に噂されていたのは就任当初のみ。鮮やかな政治の手腕で民だけでなく歴戦の貴族たちも黙らせた。

「桜、満開でよかった。今年は例年よりだいぶ早いみたいだ」
「ええ、本当ですわね」

 厳しい寒さで有名な杏国だが、いつもより温暖な冬だったからか、今年の桜は早く咲きはじめたらしい。皓宇の見つめる先には、後宮の名物と言われる枝垂桜がそよ風に揺れている。昨日――正確には二週間後のことだが――起きたことが信じられないほど、穏やかな時間だ。

 茶と茶菓子を嗜んでいると、どこからか現れた侍女がひざ掛けをかけて去っていった。見知らぬ顔の侍女だったが、きっと皓宇が用意してくれたのだろう。
 心遣いに恐縮しながらちらりと正面の皓宇を見ると、微笑まれる。

「そういえば春鈴、あまり具合がよくないと聞いたけど大丈夫かい? 春とはいえまだ風が寒い。無理してまた体を壊してしまったら――」
「大丈夫です。ちょっといやな夢を見ただけですから。お心遣い、痛み入ります」
「夢?」

 枝垂桜から視線を戻すと、皓宇は心配そうに春鈴の様子をうかがっている。

「ええ。内容ははっきりと覚えていないのですが、起きたときに妙に胸がざわざわしたのです。よくあることです。陛下もご経験がございませんか?」
「ああ、わかるよ。それはつらかったな」
「でも、本日は陛下とお会いできてよかったです。おかげで気持ちが安らぎましたから」
「それならよかったが……」

 皓宇は眉を下げ、同情と心配の気持ちを示した。動揺した気配はないから、巻き戻りのことは知らないと見てよいか。
 目の前の皓宇は、寵愛する妃のことを心配しているように見える――一国の主にしては少々大げさなような気もするが。

「昔のように、名前で呼んでくれないのかな」
「あ……申し訳ございません、つい」
「皓宇」
「皓宇さま」
「うん」

 皓宇はうれしそうに頷く。
 皇帝を名前で呼ぶなど妃ですら許される行為ではない。宮中での慣習に疎い春鈴でもそのくらい理解しているが、二人きりのときは頑なに名前を呼ばせようとしてくる。だからこその、いつものやりとりだった。

「ここの枝垂桜は本当に綺麗ですわね」
「一年前の春鈴は後宮に来たばかりで、まともに桜を見る時間も取れなかっただろう。だから、今年こそ一緒に見たかった」
「まあ、ありがとうございます」
「……忙しない日々を過ごしていると、立ち止まって自然の美しさに目を向けることを忘れてしまうものだな」
「わたしもこうした機会をいただけてとてもうれしいです。でも桜なら、先日、四夫人のみなさまとご覧になりましたよね。毎年、桜の観賞会を開いているとうかがいましたが」
「春鈴と二人で見たかったのだ」

 皓宇がはにかみながら呟いたそのとき、風が吹き、枝垂桜が音を立ててなびく。前髪が乱れてしまい、慌てて手で直そうとすると、先に皓宇の手が伸びてきて整えられる。壊れ物に触れるような、優しい手つきだった。

 ――好かれているのだと思う。

 色恋沙汰に疎い春鈴の思い上がりなどではなく、皓宇が自分に向ける一挙手一投足が、己への好意を物語っていた。
 もちろん皓宇は皇帝として妃たちに常に誠実であり、平等に愛を与えている。妃たちも本心はわからないが表面上は扱いに満足しているようだし、春鈴へのいじめ以外では目立った諍いはなく、どの女も地位に見合った待遇を受けられるように制度が整えられており、後宮はそれなりに過ごしやすいところだった。

 しかし、皓宇が春鈴に向ける愛情は別だ。「皇帝の寵愛」という枠に収まるものなどではなく、もっと深い愛情を注がれている実感があった。
 いったいなぜなのだろうか。急に後宮入りの勅命が下ったことといい、皓宇から向けられる愛情の大きさの原因といい、考えても春鈴はぴんとこない。
 心当たりがあるといえば、幼少期に交流があったことくらい――


    ◇ ◇ ◇


 春鈴が剣に興味を持ったのは五つのころのことだった。
 父が運営する剣術道場を窓から覗いているうちに、自分も剣を握ってみたくなったのだ。自分もあの細長い棒を爽快にしならせ、相手を打ち負かしたい。そう父に打ち明けると、女だからと拒否することはなく、練習用の木刀を手渡してくれた。

 そうやって鍛錬に励むようになって五年ほど。
 同年代の男子が道場にやってきた。それが、皓宇だった。
 なぜ皇太子の皓宇が地方の道場を訪れたかというと、前皇帝の命令だったそうだ。弟妹たちに言い負かされては涙を見せるおとなしい長男を心配して、縁もゆかりもない道場に放ったのだとか。いなくなってずいぶん経ってから父から明かされたときには、驚いて言葉が出なかった。

 空燕以外は十以上離れた男たちに囲まれていた春鈴の目には、皓宇は新鮮に映った。
 鍛錬は手を抜かずいつも真剣だったが、どこからどう見ても剣が好きそうには見えない。空燕や春鈴に負けても曖昧に微笑み、悔しさを表に出さない。不思議な男の子だと思っていた。

 そんなある日。いつも勝てない老練の男にまたこてんぱんにされたのが悔しかった春鈴は、泣きわめいた挙句、道場から駆け出してしまった。

「もう、また手ぇ抜かれたっ! 悔しいっ! しかもまた負けたーっ! ありえない!」

 近所の小山を駆けあがり、頂上で思いのままに叫んでいると、ふと人影が視界に入った。

「誰!?」
「あ、ごめん。大きな声が聞こえたから、大丈夫かなって思って」

 声の主は皓宇だった。真ん丸の目をさらに丸くして、木陰から春鈴を見つめている。
 一人で騒いでいたことが負けたこと以上に恥ずかしくて、顔が熱くなる。

「……うるさくしてごめん」

 熱い顔のままつぶやくと、皓宇が近づいてきて指の腹で頬を撫でる。

「泣いてたの?」
「そうよ! 負けたのが悔しくて。というか、皓宇もどうせ泣いてたんじゃないの? 最近、空燕に負けるといっつもいなくなるじゃん。ここにいたんだね」
「えっ……まあ、そうだけど……」
「ねえ、なんで道場に来たの? 皓宇って剣が好きそうには見えない」

 思っていたことを尋ねると、皓宇は眉を下げて笑った。

「もし国を治める人――皇帝が弱かったら春鈴はいやだ?」
「え? 急に何? でもまあそうね、弱かったらちょっと頼りないって思っちゃうかも」
「やっぱりそっか……」

 よくわからない質問をされ、正直に答えると、皓宇は明らかに落胆していた。なにがなんだかわからないが、連日、空燕に負けていびられている皓宇がかわいそうで、少しだけでも味方をしてあげたくなる。

「あ、でも! 苦手なことに挑戦するのってすごいことだと思うよ。わたし、勉強とか大嫌いだし、やりたいとも思わないから」
「本当?」
「うん! あとね、弱くてもいいんじゃないかな。それよりも優しい人がいいな。みんなに優しくて、かっこよくて、お勉強ができて、えーっとそれから、まあ強かったら最高だよね。あと、方士さまみたいなこともできたらもっとかっこいいかも! でも、もし皇帝が弱いんなら、わたしが守ってあげる。わたし、剣はそこそこいい線いってるでしょ? 護衛とかできる気がする」

 励ましたくてあれこれと空想を述べていると、皓宇がぷっと噴き出した。

「なんで笑ってるの! わたしは真剣だよ」
「ごめんごめん。ちょっとうれしくて」

 あのとき皓宇がどうして笑っていたのか、笑顔にもかかわらずなぜまた泣きそうだったのか、後宮に来るまで春鈴はわからなかった。


    ◇ ◇ ◇


 ――懐かしい。いまから思うとわたし、次期皇帝になんてことを言っていたの。

 われながら無鉄砲な子どもだったと思う。皓宇との思い出だけでなく、いまでも昔のことを思い返すと穴に入りたいくらい恥ずかしくなることがよくある。
 優しいけど気弱な男の子は、誰もが認める完璧な皇帝になった。しかも、当時の優しさをしっかりと残して。

「ん、どうかした?」

 気づけば、皓宇の顔をじっくり眺めていたようだ。皓宇が困惑ぎみに首をかしげている。

「いいえ、なんでもございません」

 微笑むと、同じぶんの笑顔を返してくれる皓宇。
 そんな優しい人だからこそ、巻き戻り前の皓宇の様子が信じられない。寵愛する妃を手にかけるなんて、いったいなぜ――

 その後しばらく皓宇と茶を飲み雑談を楽しんでいると、どこからか女官の叫び声が聞こえた。