「いやぁ……っ!!」
割れるような頭痛がして、目が覚めた。
空よりも高いのではと思うほど遠い天井に描かれた天女たち、上等すぎて寝心地の悪い絹の寝具、漏れ聞こえる鳥のさえずり、仕事に励む女官たちの足音。
どこに意識を向けても見慣れた光景が広がっているが、春鈴の心臓は別の生き物のように大きな音を立てて蠢いていた。騒ぐ心臓を押さえ、大きく深呼吸をする。
「いまのは、夢……?」
とっさに己の首を押さえる。寝台のそばに置いていた手鏡を手に取り、早鐘を打つ心臓を抑えながら覗き込むも、首を絞められたような痕はない。
あの優しい皓宇が、妃を手にかけるなんてありえない話だ。ほかの女ならそう笑い飛ばして気にも留めないだろう。
しかし、春鈴の胸騒ぎは一向に静まらない。
ちょうど昨日、この後宮から逃げようと計画を実行したばかりだったから。逃げる途中で皓宇に見つかり、問いただされたところまでは記憶にある。
――皓宇の様子がおかしかった。あの豹変っぷりはいったい……
そんなことを考えていると、部屋の外で物音がして扉が開く。
「どうしたんすか」
「空燕……」
入ってきたのは従者の空燕だった。
いつもの間延びした口調のままだが、腰に携えた短刀に手をかけ、目を丸くしている。少し癖のある黒髪と、金色に光る瞳は黒猫を彷彿とさせる。愛想はないし口も悪いが、意外と繊細なところがあるのも猫のようだ。
賢妃である春鈴に仕えるのは、この一つ年下の男しかいない。
賢妃などと聞こえはいいが、空燕以外の侍女や従者はここにはいない。いや、最初はいたのだが、春鈴にまつわる根拠のない噂を恐れて辞めるか、陰湿ないやがらせが絶えなかったのでこちらから解雇するかした結果、空燕しか残らなかったのだ。
空燕と春鈴は同郷の昔馴染み。春鈴の父の道場でしのぎを削った仲だ。地方貴族の三男のため成人後の職探しに苦労していたとかで、春鈴が後宮入りする際に従者として名乗りをあげた。
春鈴の実家である林家は貧しく、侍女も最低限しかいなかったため、わざわざ自分のために連れていってしまうのは申し訳なかった。いくら腐れ縁とはいえ後宮などという特殊な場所に連れていくのは気が引けたが、剣の腕が確かなのは本当なので、仕方なく従者を頼んだのだ。
ちなみに、妃が親戚などの若い男性を従者として連れてくることはときどきあるので、空燕の存在は問題なく許された。
見知った人間がやってきてほっとしたのも束の間、春鈴は置かれている状況を思い出した。
「って、許しもなしに寝所に入ってこないでよ。誰かに見られたらどうするの」
「いやだって、アンタの叫び声が聞こえたんで。外にもずいぶん響いてましたよ。なにかあったんですか」
「……いやな夢を見たの」
夢ではないかもしれないが、夢であってほしい。願いをこめてそう告げると、「夢見の悪いお転婆姫さまだこと」と笑われた。
いつもの調子の空燕に安心しつつも、最後に見た皓宇のほの暗い表情を思い出すと、途端に背筋に冷汗が伝う。
前皇帝の急逝にともない数年前に皇帝の座に就いた皓宇は、弱冠二十歳ながらも民からの信任が厚く、すでに賢帝と名高い。文武両道、公明正大、いつなんどきも穏やかに微笑んでいる美丈夫なのだ。
「ところで、午前中は陛下との茶会が予定されていますが、どうします?」
「そんな予定あったっけ。先週もしたばかりでしょう」
「先週、ですか?」
空燕の眉間にしわが寄る。まるで春鈴の言っていることの意味がわからないとでも言うようだ。空燕がぶっきらぼうなのはいつものこと。でも、たったそれだけの仕草で、なぜかいやな予感がして呼吸が浅くなる。
そんな春鈴の様子には気づかず、空燕は言葉を続ける。
「先週はアンタ、ずっと体調が悪いって臥せっていたじゃないですか。茶会の夢でも見てたんですか?」
「え……?」
具合が悪いと言って、皓宇や四夫人からの誘いを断っていたのは先々週までのこと。先週は、後宮脱走のために情報収集がしたくて、できるかぎり交流の場に出るようにしていた。
何かがおかしい。
「俺、なんかおかしなことを言いましたか」
「い、いえ……。ねえ空燕、今日って何日だっけ」
「今日は四月一日ですよ。って、日付も忘れちまうほど、まだ調子よくないんですか?」
違う。
後宮脱走計画は四月十四日、満月の夜に実行した。となれば今日は十五日のはずだが……
春鈴は手元に置いていた手鏡をおそるおそる覗き、再び首筋を見る。
――やっぱり痕はない。もしかして、時間が巻き戻っている……?
妙に生々しい夢だったのに、首を絞められた痕がないなんておかしいと思っていたのだ。にわかに信じられない事態だが、後宮を脱走する二週間前の日に時間が巻き戻っている。
いまのところ空燕の言動におかしなところはないから、なぜか春鈴だけ巻き戻る前の記憶を持っているようだ。
さっきまで動揺していた春鈴だったが、このおかしな現実を目の当たりにして急に冷静になってきていた。
――逃げなきゃ。
春鈴は早くこんな牢獄から逃げて、相棒の刀を一本携えて諸国を旅するという夢を実現したかったのだ。幼いころの縁を覚えていてくれた皓宇には感謝しているが、ここは春鈴にはあまりにも地獄だった。
大きく深呼吸して、己の置かれた状況とすべきことを整理する。
脱走計画を実行する満月の夜まであと二週間。あの日が脱走に最適な日なのは確かだった。皓宇の目をかいくぐって、ここから逃げなければならない。
巻き戻り前の今ごろは、淑妃にひどい暴言を吐かれて傷ついた結果、体調が悪いなどと適当な理由をつけて引きこもっていた。しかし、現状を探るためには皓宇との接触は不可欠。
「いえ、体はもう大丈夫。しばらく寝ていたから、時間の感覚がくるっちゃったみたい」
「しっかりしてください、そんなんじゃ陛下が悲しみますよ。桜の見ごろが終わる前に、二人きりで観賞したいと熱烈に口説かれていたじゃないすか」
「ああ、そうだったわ」
春鈴は苦笑いする。
皓宇は優しい人なのだ。後宮にまだ慣れない春鈴を気遣って、ことあるごとに茶会や観賞会に誘ってくれていた。
しかし、自分以外すべて敵のように感じてしまっていた春鈴は、そんな皓宇でさえいつしか恐怖の対象となっていた。本当は陰で自分の悪口を言っているのではないか、こんな女なら後宮に連れてこなければよかった、と。
「まだ本調子じゃないならお休みになっても――」
「行くわ。夢見が悪かっただけで体はすっかり健康になったのだから。いつまでも寝所にこもっていてはいけないもの」
「あ、そっすか。じゃあ、着替えとか化粧とか、ちゃっちゃとしちゃってください」
空燕はそう言い残して一度部屋から出て行くと、春鈴の衣装を手に再び戻ってくる。
男の従者が衣装を用意しているなどほかの妃が知ったら気絶してしまうかもしれないが、春鈴にとっては日常であった。なぜなら、侍女が一人もいないのだから。
「ありがとう。いつも悪いわね」
寝台から出て、空燕から衣装を受け取る。薄桃色を基調とした襦裙で、淡い水色のアクセントが洒落ている。桜の観賞にふさわしい衣装だ。
いつものことながら、空燕の見立てのよさには舌を巻く。家にいたころの空燕は女性の衣装なんて気にも留めていなかったはずだが、いったいいつ身につけたのだろうか。
そんなことを考えていると、空燕が見ていることに気づいた。
「なに?」
「今日のアンタ、妙に明るいっすね」
「おかしいかしら」
「いや、そっちのほうがいいよ。道場にいたころみたいで安心する」
「わたし以外の妃にそんな生意気な口を利いてごらんなさい。すぐに首を刎ねられるわよ」
「アンタにしかしませんよ」
空燕は舌を出して笑った。この年下の従者はいつまで経っても生意気だ。
しかし、先ほどまで動揺していた春鈴の心は、いつの間にか穏やかになっていた。
「……それはそれで腹が立つわ」
次の満月まであと一か月。
それまでに己の運命を変え、ここから逃げ出さなくてはならない。
割れるような頭痛がして、目が覚めた。
空よりも高いのではと思うほど遠い天井に描かれた天女たち、上等すぎて寝心地の悪い絹の寝具、漏れ聞こえる鳥のさえずり、仕事に励む女官たちの足音。
どこに意識を向けても見慣れた光景が広がっているが、春鈴の心臓は別の生き物のように大きな音を立てて蠢いていた。騒ぐ心臓を押さえ、大きく深呼吸をする。
「いまのは、夢……?」
とっさに己の首を押さえる。寝台のそばに置いていた手鏡を手に取り、早鐘を打つ心臓を抑えながら覗き込むも、首を絞められたような痕はない。
あの優しい皓宇が、妃を手にかけるなんてありえない話だ。ほかの女ならそう笑い飛ばして気にも留めないだろう。
しかし、春鈴の胸騒ぎは一向に静まらない。
ちょうど昨日、この後宮から逃げようと計画を実行したばかりだったから。逃げる途中で皓宇に見つかり、問いただされたところまでは記憶にある。
――皓宇の様子がおかしかった。あの豹変っぷりはいったい……
そんなことを考えていると、部屋の外で物音がして扉が開く。
「どうしたんすか」
「空燕……」
入ってきたのは従者の空燕だった。
いつもの間延びした口調のままだが、腰に携えた短刀に手をかけ、目を丸くしている。少し癖のある黒髪と、金色に光る瞳は黒猫を彷彿とさせる。愛想はないし口も悪いが、意外と繊細なところがあるのも猫のようだ。
賢妃である春鈴に仕えるのは、この一つ年下の男しかいない。
賢妃などと聞こえはいいが、空燕以外の侍女や従者はここにはいない。いや、最初はいたのだが、春鈴にまつわる根拠のない噂を恐れて辞めるか、陰湿ないやがらせが絶えなかったのでこちらから解雇するかした結果、空燕しか残らなかったのだ。
空燕と春鈴は同郷の昔馴染み。春鈴の父の道場でしのぎを削った仲だ。地方貴族の三男のため成人後の職探しに苦労していたとかで、春鈴が後宮入りする際に従者として名乗りをあげた。
春鈴の実家である林家は貧しく、侍女も最低限しかいなかったため、わざわざ自分のために連れていってしまうのは申し訳なかった。いくら腐れ縁とはいえ後宮などという特殊な場所に連れていくのは気が引けたが、剣の腕が確かなのは本当なので、仕方なく従者を頼んだのだ。
ちなみに、妃が親戚などの若い男性を従者として連れてくることはときどきあるので、空燕の存在は問題なく許された。
見知った人間がやってきてほっとしたのも束の間、春鈴は置かれている状況を思い出した。
「って、許しもなしに寝所に入ってこないでよ。誰かに見られたらどうするの」
「いやだって、アンタの叫び声が聞こえたんで。外にもずいぶん響いてましたよ。なにかあったんですか」
「……いやな夢を見たの」
夢ではないかもしれないが、夢であってほしい。願いをこめてそう告げると、「夢見の悪いお転婆姫さまだこと」と笑われた。
いつもの調子の空燕に安心しつつも、最後に見た皓宇のほの暗い表情を思い出すと、途端に背筋に冷汗が伝う。
前皇帝の急逝にともない数年前に皇帝の座に就いた皓宇は、弱冠二十歳ながらも民からの信任が厚く、すでに賢帝と名高い。文武両道、公明正大、いつなんどきも穏やかに微笑んでいる美丈夫なのだ。
「ところで、午前中は陛下との茶会が予定されていますが、どうします?」
「そんな予定あったっけ。先週もしたばかりでしょう」
「先週、ですか?」
空燕の眉間にしわが寄る。まるで春鈴の言っていることの意味がわからないとでも言うようだ。空燕がぶっきらぼうなのはいつものこと。でも、たったそれだけの仕草で、なぜかいやな予感がして呼吸が浅くなる。
そんな春鈴の様子には気づかず、空燕は言葉を続ける。
「先週はアンタ、ずっと体調が悪いって臥せっていたじゃないですか。茶会の夢でも見てたんですか?」
「え……?」
具合が悪いと言って、皓宇や四夫人からの誘いを断っていたのは先々週までのこと。先週は、後宮脱走のために情報収集がしたくて、できるかぎり交流の場に出るようにしていた。
何かがおかしい。
「俺、なんかおかしなことを言いましたか」
「い、いえ……。ねえ空燕、今日って何日だっけ」
「今日は四月一日ですよ。って、日付も忘れちまうほど、まだ調子よくないんですか?」
違う。
後宮脱走計画は四月十四日、満月の夜に実行した。となれば今日は十五日のはずだが……
春鈴は手元に置いていた手鏡をおそるおそる覗き、再び首筋を見る。
――やっぱり痕はない。もしかして、時間が巻き戻っている……?
妙に生々しい夢だったのに、首を絞められた痕がないなんておかしいと思っていたのだ。にわかに信じられない事態だが、後宮を脱走する二週間前の日に時間が巻き戻っている。
いまのところ空燕の言動におかしなところはないから、なぜか春鈴だけ巻き戻る前の記憶を持っているようだ。
さっきまで動揺していた春鈴だったが、このおかしな現実を目の当たりにして急に冷静になってきていた。
――逃げなきゃ。
春鈴は早くこんな牢獄から逃げて、相棒の刀を一本携えて諸国を旅するという夢を実現したかったのだ。幼いころの縁を覚えていてくれた皓宇には感謝しているが、ここは春鈴にはあまりにも地獄だった。
大きく深呼吸して、己の置かれた状況とすべきことを整理する。
脱走計画を実行する満月の夜まであと二週間。あの日が脱走に最適な日なのは確かだった。皓宇の目をかいくぐって、ここから逃げなければならない。
巻き戻り前の今ごろは、淑妃にひどい暴言を吐かれて傷ついた結果、体調が悪いなどと適当な理由をつけて引きこもっていた。しかし、現状を探るためには皓宇との接触は不可欠。
「いえ、体はもう大丈夫。しばらく寝ていたから、時間の感覚がくるっちゃったみたい」
「しっかりしてください、そんなんじゃ陛下が悲しみますよ。桜の見ごろが終わる前に、二人きりで観賞したいと熱烈に口説かれていたじゃないすか」
「ああ、そうだったわ」
春鈴は苦笑いする。
皓宇は優しい人なのだ。後宮にまだ慣れない春鈴を気遣って、ことあるごとに茶会や観賞会に誘ってくれていた。
しかし、自分以外すべて敵のように感じてしまっていた春鈴は、そんな皓宇でさえいつしか恐怖の対象となっていた。本当は陰で自分の悪口を言っているのではないか、こんな女なら後宮に連れてこなければよかった、と。
「まだ本調子じゃないならお休みになっても――」
「行くわ。夢見が悪かっただけで体はすっかり健康になったのだから。いつまでも寝所にこもっていてはいけないもの」
「あ、そっすか。じゃあ、着替えとか化粧とか、ちゃっちゃとしちゃってください」
空燕はそう言い残して一度部屋から出て行くと、春鈴の衣装を手に再び戻ってくる。
男の従者が衣装を用意しているなどほかの妃が知ったら気絶してしまうかもしれないが、春鈴にとっては日常であった。なぜなら、侍女が一人もいないのだから。
「ありがとう。いつも悪いわね」
寝台から出て、空燕から衣装を受け取る。薄桃色を基調とした襦裙で、淡い水色のアクセントが洒落ている。桜の観賞にふさわしい衣装だ。
いつものことながら、空燕の見立てのよさには舌を巻く。家にいたころの空燕は女性の衣装なんて気にも留めていなかったはずだが、いったいいつ身につけたのだろうか。
そんなことを考えていると、空燕が見ていることに気づいた。
「なに?」
「今日のアンタ、妙に明るいっすね」
「おかしいかしら」
「いや、そっちのほうがいいよ。道場にいたころみたいで安心する」
「わたし以外の妃にそんな生意気な口を利いてごらんなさい。すぐに首を刎ねられるわよ」
「アンタにしかしませんよ」
空燕は舌を出して笑った。この年下の従者はいつまで経っても生意気だ。
しかし、先ほどまで動揺していた春鈴の心は、いつの間にか穏やかになっていた。
「……それはそれで腹が立つわ」
次の満月まであと一か月。
それまでに己の運命を変え、ここから逃げ出さなくてはならない。



