杏後宮の巻き戻り妃 お転婆賢妃は完璧皇帝の執着心に気づかない

 葉桜が舞う晩春の夜。
 妃や女官、宦官が寝静まる(シン)国の後宮に一人、林春鈴(リンシュンリン)は息をひそめて歩いていた。
 万が一、誰かに遭遇してもごまかせるように、たった一人の従者からくすねてきた身軽な衣装に身を包み、腰に短刀を差し、少年風に髪を結っている。どこからどう見ても年若い宦官のような風貌。皇帝の寵愛を一身に受ける賢妃だとはわかるまい。
 変装は完璧だと思いたいが、それでも心臓は鳴りやまなかった。

 春鈴は勅旨により、一年前に急遽後宮入りを果たした。
 青天の霹靂だった。
 貴族と言えども、地方の下級貴族。やせた土地を治め、趣味で剣術道場を運営する変わり者が当主を務める林家の娘がなぜ。そういった声があちこちから聞こえたのを覚えている。当の本人が一番心当たりがなかったのだから。
 だが、妃に指名された理由をのんびり考えている暇はなかった。あれよあれよという間に後宮という名の牢獄に連れてこられ、賢妃という高すぎる地位を与えられた。

 ここに来てから今日に至るまでを思い返す。女たちの陰湿ないやがらせが絶えない、鬱屈とした日々だった。
 だがそれも最後だ。
 春鈴は今日、後宮から逃げ出す。

 幼いころから父の道場で剣を習ってきた春鈴は、政治的なしがらみや男女の肉欲にはまるで興味がない。女たちの浅ましい欲望が渦巻く後宮は窮屈で仕方がなかった。
 身に余る地位のせいで四夫人からは苛烈ないじめを受け、下位の女官からも直接的な暴言こそないものの、陰でなにかを言われたり物を隠されたりするのが日常茶飯事。剣を愛する快活な少女は、次第に塞ぎ込んでいった。

 真夜中に宦官の警備が手薄になる通路を、今日まで時間をかけて調査した。この道なら、あと半刻は人が来ないはず。さらに皇帝の夜伽がなく、早めに就寝するであろう日を慎重に探り、満月の今日が最適という結論を出した。

 そのとき、ひときわ強い風が吹いて春鈴は足を止めた。葉桜がぶわっと舞い上がり、春鈴の視界を遮る。
 外に繋がる隠し通路まであと少しというところだった。誰にも会わず、なんの障害もなく、ここまで進んでこられた。計画どおりにいきすぎていた。だから気を抜いていたのだと思う。
 このぶんだと明日は嵐になるだろうなどと考えごとをしながらふと振り返ると、後宮の真赤の建物が満月に照らされて春鈴を見下ろしていた。

 ――さようなら、陛下。いえ、皓宇(ハオユー)

 そう呟いて進路に体を戻すと、男の影が立ちはだかった。
 どくり。
 心臓がいやな音を立てる。

 反射的に、春鈴はその場に叩頭した。
 いま、自分は一介の宦官。目の前の人間が誰かわからないが、このまま通り過ぎるのを待っていれば大丈夫――

「春鈴」

 凛とした中低音。慣れ親しんだ声が呼んだのは、自分の名前だった。
 この後宮で、妃である自分の名を気軽に呼べるのはたった一人――皇帝のみ。
 顔をあげると、いつもどおりの穏やかな表情をした皇帝がいた。寝所で女と過ごそうと、男どもと政治の話をしていようと、この人はいつもこの顏を崩さない。完璧な優しさと強さを体現する男。それが、現皇帝の皓宇だ。

 今日の夜はどこの妃とも予定はなかったはずだが、なぜこんなところにいるのだろうか。ゆったりとした服を着ていて、うしろに控える従者も少ない。寝る前の散歩か何かか。運がない。春鈴は心の中で舌打ちをした。
 そんな春鈴の内心などおかまいなしに、皓宇はにこやかに口を開く。

「めずらしい格好をしているね。こんな夜更けに、いったいどこに行くつもりなんだい」
「陛下……あ、いえ、これはその……」
「皓宇でいいと言っていたはずだが。きみは頑なだ。どうしてあのころのように話してくれない」
「……申し訳ございません、皓宇さま」

 自分に気に入らないことがあっても、皓宇はけっして笑顔を崩さない。いつもは好意的に感じているその笑顔が、満月の下では威圧的に感じる。
 皓宇の視線から逃れたくて俯くと、「楽にしていい」と言われてしまう。すごすごと立ち上がり、正面から皓宇を見据えた。皓宇は自分の服装がめずらしいのか、上から下までまじまじと見ている。

「それで、どこに行こうとしていたんだ」
「今夜は満月が綺麗でしたので、どうしても見に行きたくて」
「ああ、なるほど」

 皓宇は呟きながら空を見上げている。納得してもらえたかと安心しそうになったのも束の間。皓宇は「従者も付けずに?」と微笑んだ。

「たった一人のきみの従者は何をやっているんだろうね」
空燕(コンイェン)には何も伝えておりません。お咎めでしたらわたくしのみで」
「……そう」

 皓宇は考えごとをしているようだった。上の空を好機だと思い、春鈴は早口でまくしたてる。

「勝手に出歩いてしまい申し訳ございませんでした。それでは、わたくしはそろそろ――」
「で、どうして脱走しようと思ったんだ。何か不便でもあった?」

「脱走」の二文字が皓宇の口から出てきて、心臓をひとつかみにされたような心持ちになる。
 皓宇の声音は冷たい。春鈴は息をするのもやっとだった。
 動揺を悟られるな。何か話さなければ。そう自分を鼓舞してやっと口から出たのは、か細く震えた声だった。

「脱走だなんて……」
「おや、違うのかい」
「ええ。皓宇さまはどうしてそんなことをお考えになるのです」

 寝所で軽口を言うような口調を意識したものの、皓宇の表情は硬い。しばしの間、沈黙が流れる。時折、春の生温い風が春鈴の頬を撫でるのみ。

「――私のことを嫌いになったか」

 いっそう強い風が吹きすさんだとき、皓宇のつぶやきがぽつりと落ちた。

「え?」
「私のことを嫌いになったのか」
「ま、まさか……! わたくしの心も体も、後宮入りしたときから皓宇さまに捧げております」
「本当に?」
「ええ」

 真剣に頷くと、羽織の長い裾を踏むのもおかまいなしに皓宇が一歩近づいた。視線から逃れようと俯いた瞬間、顎をすくわれる。手が冷たくて思わず目をぎゅっと閉じそうになるが、皓宇の全身から発せられる圧が強くて否が応でも目をそらせない。
 うつろな瞳が春鈴を見つめている。

「きみは目を離した隙にすぐにどこかへ行こうとしてしまう。ここに閉じ込めてしまえばよいと思っていたが……」
「皓宇さま……?」

 ぶつぶつと呟く皓宇は目の焦点があっていない。恐怖を感じながら名を呼ぶと、顎から手が離れた。
 一安心したその瞬間、皓宇の両手が首にかかる。冷たい感触に喉がヒュッと鳴る。

「それすら叶わないのなら、私の手で永遠にすればよかったんだ」

 首を絞める手の力が強くなる。苦しいと思う暇すらなく、春鈴は意識を失った。