季節は流れて冬、睦月。
十六夜とさちは揃って18歳になった。
この頃、朝晩はめっきり肌寒くなり庭にも薄く雪が積もるようになってきた。
十六夜が湯浴みをしている時にその知らせはもたらされた。
さちは、十六夜の湯浴みを手伝う役目を担っている。
主人の秘密を知る貴重な存在になっていたので、乳母からの信頼も厚くなり身の回りの世話も任されるようになっていた。
十六夜は湯浴みの際に湯帷子(ゆかたびら)という薄物の着物をまとってはいるが、男らしい体つきにさちはどきまぎしてしまうこともあった。
ここ半年くらいで、十六夜の背はさらに伸び体格も以前よりたくましくなっている気がする。
しかし、恥ずかしがる仕草をしては不敬になると思い必死で平気な顔を取り繕っていた。
「姫様、大変です」
それは乳母の萩尾の声だ。
さちは心臓が飛び出そうなくらいにギクリとした。
いつだったか正和親王が突然会いに来た時も萩尾はこんな風に慌てふためいていたのだ。
「どうされましたか、萩尾様」
十六夜が口を開く前にさちは問いただしていた。
これは正和親王どころでは無いだろうと、直感した。
「帝、帝が、ああ、どうして……」
見れば萩尾は蒼白な顔を歪ませたまま目には涙を溜めているではないか。
「萩尾様、落ちついてください。今上陛下がどうされたのですか」
さちは背中がすうっと冷たくなるのを感じて次の言葉を待った。
「ほ、崩御されました」
「な、なぜですか?あんなにお元気でしたのに」
たしか帝は御年、40歳のはず。まだ充分お若いというのに。
「わ、わかりません。急なことで、まだ原因が」
「そんな」
しかし、悠長になぜかなどと考えている暇などない。
さちは頭の中でいくつかの道筋を考えだしていた。そのどれもが悪い方向を示している気がしてならない。
「さくら様と舟様をお呼びください。今すぐに」
「は、はい」
「十六夜様は、お早く身支度を」
そう言って振り返ると十六夜は湯殿の床板に膝を折りうなだれていてた。
「十六夜様、お早く。今は悲しんでいる時ではありません。今だけは」
「私のせいだ、きっと私が」
「違います、絶対にそうではありません」
さちは十六夜の美しい顔を両手で挟み込むようにして上を向かせる。
「しっかりしてください、十六夜様。あなたは私の主人です。このようなことで、駄目になる方では無いのです」
「さち、でも私は」
十六夜の瞳から一筋の涙が滑り落ちる。
「十六夜様」
「やはり生まれてくるべきではなかったんだ、私は」
「そんなこと、あるわけないっ」
さちは泣きながら首を振り、十六夜の衣をはぎとる。
大急ぎで体を拭き新しい着物を着せて、部屋まで引っ張っていった。
その間、十六夜は放心したようにされるがままになっていた。
彼は明らかに、自分のせいで父が暗殺されたのだと思っており、その衝撃で動けなくなっているのだ。
部屋ではさくら、舟、萩尾が神妙な面持ちで待っていた。
さちは、十六夜を脇息にもたれかかるように座らせた。
そして、自分の部屋に戻ると一通の文と小太刀、その他必要と思われるものを着物の下に隠し持ちすぐに部屋を出た。
渡殿ですれ違った馴染みの女房に文を渡して使いを頼む。
「急いでね」
「はい」
そうしておいて、すぐに十六夜の部屋へ戻る。
いつのまにかあたりは暗くなっていたが部屋の中では明かりもつけていない有様だった。
みな一様にこの世の終わりのように肩を落としている。
さくらは涙も枯れ果てた顔をしていたが、十六夜も先程とあまり変化はなかった。
「あかりをつけますね」
この場で落ちついていたのはさちだけかもしれない。
彼女はいざという時のために備えて淡々と準備をすすめてきた。
(きっと、私にしか出来ないことがある。私がみなさまを導かなければ)
後宮で長年生きてきたさくら達にとっては帝の崩御は天地がひっくり返るほどのことなのだろう。
あまりの衝撃にみな立ち直れないのも無理はない。
そう思っていると、外から低い声がした。
「あやめ、いるのか?」
はい、と返事をしてそのまま庭先に降りていく。
そうか、私の本当の名前はあやめだったのかとさちは思う。
けれど、もうその名は自分にはしっくりこない気がした。
「兄さん、来てくれてありがとう」
そこには兄、吉三が憮然として立っていた。
「どうしてまだおまえはここにいるんだ。早く後宮から出ろと言っただろう」
「ごめんなさい。でも、私はお役目を果たさなければいけないから」
「何を言ってるんだ。そんな命をかけてまで雇い主に従う必要などない」
「いいえ、雇い主のためじゃないの。私のためなの。私が、十六夜様を助けたいから」
「馬鹿な」
兄は訳がわからないという顔をして絶句する。
「兄さん、一生のお願いがあります。もし聞いてくれなければ」
さちは小太刀を鞘から引き出す。
刀身がキラリと闇夜に光ると兄は眉を寄せた。
「よせ、おまえが俺にかなうわけなどないだろう」
「それはどうでしょうか」
さちはそう言うと刀の切先を自分の喉に刺さる寸前のところまで突きつけた。
「よせ、はやまるな」
「私は本気です」
自分の主人である十六夜の命を守るためならさちはどんなことでもするつもりだった。
秋の日、十六夜と焚き火をしながら誓った言葉は嘘ではない。
全てを投げ打つ覚悟はもうとっくに出来ていたのだ。
「兄さん、早く返事を」
「どうしてそこまでする?」
「あの方は私に名前をくださいました。はきだめと呼ばれていた私の心を救ってくれたんです。私はさちです。もうあやめでは無いんです」
この時初めて無表情だった兄の顔が苦痛に歪んだ。
冷徹な仮面の下にはただ妹を思う兄の表情だけがのこる。
「やめろ、危ない。落ちつくんだ」
さちの手は震えていたがその表情には、寸分の迷いもなかった。
兄は知っていたのかもしれない。
妹が誰よりも一途で愛情深い娘であることを。
「おまえは昔から言い出したらきかない子だったよ」
兄は苦々しく言った。
完敗である。
十六夜とさちは揃って18歳になった。
この頃、朝晩はめっきり肌寒くなり庭にも薄く雪が積もるようになってきた。
十六夜が湯浴みをしている時にその知らせはもたらされた。
さちは、十六夜の湯浴みを手伝う役目を担っている。
主人の秘密を知る貴重な存在になっていたので、乳母からの信頼も厚くなり身の回りの世話も任されるようになっていた。
十六夜は湯浴みの際に湯帷子(ゆかたびら)という薄物の着物をまとってはいるが、男らしい体つきにさちはどきまぎしてしまうこともあった。
ここ半年くらいで、十六夜の背はさらに伸び体格も以前よりたくましくなっている気がする。
しかし、恥ずかしがる仕草をしては不敬になると思い必死で平気な顔を取り繕っていた。
「姫様、大変です」
それは乳母の萩尾の声だ。
さちは心臓が飛び出そうなくらいにギクリとした。
いつだったか正和親王が突然会いに来た時も萩尾はこんな風に慌てふためいていたのだ。
「どうされましたか、萩尾様」
十六夜が口を開く前にさちは問いただしていた。
これは正和親王どころでは無いだろうと、直感した。
「帝、帝が、ああ、どうして……」
見れば萩尾は蒼白な顔を歪ませたまま目には涙を溜めているではないか。
「萩尾様、落ちついてください。今上陛下がどうされたのですか」
さちは背中がすうっと冷たくなるのを感じて次の言葉を待った。
「ほ、崩御されました」
「な、なぜですか?あんなにお元気でしたのに」
たしか帝は御年、40歳のはず。まだ充分お若いというのに。
「わ、わかりません。急なことで、まだ原因が」
「そんな」
しかし、悠長になぜかなどと考えている暇などない。
さちは頭の中でいくつかの道筋を考えだしていた。そのどれもが悪い方向を示している気がしてならない。
「さくら様と舟様をお呼びください。今すぐに」
「は、はい」
「十六夜様は、お早く身支度を」
そう言って振り返ると十六夜は湯殿の床板に膝を折りうなだれていてた。
「十六夜様、お早く。今は悲しんでいる時ではありません。今だけは」
「私のせいだ、きっと私が」
「違います、絶対にそうではありません」
さちは十六夜の美しい顔を両手で挟み込むようにして上を向かせる。
「しっかりしてください、十六夜様。あなたは私の主人です。このようなことで、駄目になる方では無いのです」
「さち、でも私は」
十六夜の瞳から一筋の涙が滑り落ちる。
「十六夜様」
「やはり生まれてくるべきではなかったんだ、私は」
「そんなこと、あるわけないっ」
さちは泣きながら首を振り、十六夜の衣をはぎとる。
大急ぎで体を拭き新しい着物を着せて、部屋まで引っ張っていった。
その間、十六夜は放心したようにされるがままになっていた。
彼は明らかに、自分のせいで父が暗殺されたのだと思っており、その衝撃で動けなくなっているのだ。
部屋ではさくら、舟、萩尾が神妙な面持ちで待っていた。
さちは、十六夜を脇息にもたれかかるように座らせた。
そして、自分の部屋に戻ると一通の文と小太刀、その他必要と思われるものを着物の下に隠し持ちすぐに部屋を出た。
渡殿ですれ違った馴染みの女房に文を渡して使いを頼む。
「急いでね」
「はい」
そうしておいて、すぐに十六夜の部屋へ戻る。
いつのまにかあたりは暗くなっていたが部屋の中では明かりもつけていない有様だった。
みな一様にこの世の終わりのように肩を落としている。
さくらは涙も枯れ果てた顔をしていたが、十六夜も先程とあまり変化はなかった。
「あかりをつけますね」
この場で落ちついていたのはさちだけかもしれない。
彼女はいざという時のために備えて淡々と準備をすすめてきた。
(きっと、私にしか出来ないことがある。私がみなさまを導かなければ)
後宮で長年生きてきたさくら達にとっては帝の崩御は天地がひっくり返るほどのことなのだろう。
あまりの衝撃にみな立ち直れないのも無理はない。
そう思っていると、外から低い声がした。
「あやめ、いるのか?」
はい、と返事をしてそのまま庭先に降りていく。
そうか、私の本当の名前はあやめだったのかとさちは思う。
けれど、もうその名は自分にはしっくりこない気がした。
「兄さん、来てくれてありがとう」
そこには兄、吉三が憮然として立っていた。
「どうしてまだおまえはここにいるんだ。早く後宮から出ろと言っただろう」
「ごめんなさい。でも、私はお役目を果たさなければいけないから」
「何を言ってるんだ。そんな命をかけてまで雇い主に従う必要などない」
「いいえ、雇い主のためじゃないの。私のためなの。私が、十六夜様を助けたいから」
「馬鹿な」
兄は訳がわからないという顔をして絶句する。
「兄さん、一生のお願いがあります。もし聞いてくれなければ」
さちは小太刀を鞘から引き出す。
刀身がキラリと闇夜に光ると兄は眉を寄せた。
「よせ、おまえが俺にかなうわけなどないだろう」
「それはどうでしょうか」
さちはそう言うと刀の切先を自分の喉に刺さる寸前のところまで突きつけた。
「よせ、はやまるな」
「私は本気です」
自分の主人である十六夜の命を守るためならさちはどんなことでもするつもりだった。
秋の日、十六夜と焚き火をしながら誓った言葉は嘘ではない。
全てを投げ打つ覚悟はもうとっくに出来ていたのだ。
「兄さん、早く返事を」
「どうしてそこまでする?」
「あの方は私に名前をくださいました。はきだめと呼ばれていた私の心を救ってくれたんです。私はさちです。もうあやめでは無いんです」
この時初めて無表情だった兄の顔が苦痛に歪んだ。
冷徹な仮面の下にはただ妹を思う兄の表情だけがのこる。
「やめろ、危ない。落ちつくんだ」
さちの手は震えていたがその表情には、寸分の迷いもなかった。
兄は知っていたのかもしれない。
妹が誰よりも一途で愛情深い娘であることを。
「おまえは昔から言い出したらきかない子だったよ」
兄は苦々しく言った。
完敗である。



