「おいっ、影よ、今すぐ助けよ。こやつの力は見たであろう」
首を後ろに回してありったけの声で叫ぶ兄宮。
さちはその時、渡殿の向こうの庭に片膝をついたままこちらを見守る男がいることに気がついた。
男は全身黒づくめの衣を身にまとっていた。
影と呼ばれたそいつはおそらく兄宮の護衛だろう。
しかし、彼の顔を凝視したさちは一瞬、息が止まるかと思った。
それは別れて7年、1日たりとも忘れることなどできなかった人物だ。
「よ、吉三兄さん」
会いたくてたまらなかった兄。面ざしは大人になっていたが確かに兄の吉三だった。
顔は同じだが、切れ長の瞳は冷ややかで唇は固く引き結ばれている。
どこかで退魔士として雇われているとばかり思っていた彼がなぜここに?
出来ることなら駆け出して行き、今すぐ問いただしたい。
「ど、どうした、影。早く助けるのだ」
兄宮は焦って声を荒げる。
「私はその方に勝てる気がいたしません。潔く謝られてはいかがでしょうか」
だが影の返事は思いのほか冷たい。
口調は丁寧だが、あまり正和親王を敬ってはいないように思えた。
「おのれ、なにが退魔士だ。この役立たずが」
天井高く吊り上げられた兄宮が、忌々しそうに叫ぶ。
「お言葉ですが、私は皇太子殿下お一人にのみ仕えるものです。あなたの命令に従う義務はありません」
「ぐ、ぐうっ、覚えておれ。後で後悔するぞ」
捨て台詞を吐く兄宮に影は薄く笑っただけだった。
「おまえもだ、十六夜。おまえの秘密はもうとっくに掴んでおるのだ。
帝をたばかった罪で死罪だ。
なにせ、おまえの正体は、おと」
しかし兄宮は最後まで言い終えることができなかった。
裂帛の気合いと共に姫君の手が勢いよく振り下ろされると兄君は文字通り吹き飛ばされてしまったのだ。
「うわーーー」
情けない声が遠ざかっていき、続いてドボンと水に落ちる音が響く。
しばらくして庭の池に落ちた兄の巨体が仰向けに浮かんだ。
白目を剥いて気絶しているようだ。
「ハハハ、水も滴るいい男になりましたな、兄上」
皮肉げに笑う姫君は、いきいきしているように見えた。
ともあれ、安堵したさちはへなへなと力が抜けてへたりこむ。
「さち、大丈夫か?」
「は、はい」
すがりつくさちを十六夜はひしと抱きしめると耳元で囁いた。
「さち、さっきのような無謀なことはもうしないでくれ。そなたに何かあったら私は」
その時だった。
ピューと口笛が鳴り響くと一陣の風が舞い込んできて御簾を乱暴に引き上げた。
「きゃー」
「鷹が、いやー」
部屋の隅で控えていた女房達の狂気じみた悲鳴。
姫が慌てて御簾の外に出ると、影と呼ばれた男が渡殿に立って印を結んでいる。
通常の3倍はあろうかという鷹が女房達の周りを飛び回って威嚇していた。
鷹の目は血のように赤く爪は鋭く長い。とても尋常な光景ではなかった。
だが、さちは知っていた。
この大鷹は兄、吉三の式神だと。
「や、やめろ。みなには手を出すな」
姫は吉三を睨みつけるが、反応は冷淡だった。
「ならば、抵抗はやめていただこう」
「卑怯だぞ」
姫は悔しそうに、拳を握り唇を噛む。
「あなたは強い。だが、そうやみくもに力を誇るのは命とりです。
甘すぎる、素晴らしい霊力をお持ちだが、人質を取られたら無力だ」
さちは混乱していた。あの優しかった兄が目の前の冷酷な男だとはどうしても信じられない。
「わかった、抵抗はしない。だから誰も傷つけないでくれ」
「あっぱれな姫だ。女子にしておくには惜しい。
まあ、男子であればこの国がひっくり返る一大事かもしれませんが」
「おまえ……皇太子に仕えていると言ったな。何者だ」
「名前などありません、影ですから」
言いながら影はゆっくりと姫に近寄る。
「……クッ」
影は、後ずさる姫の腹に素早く拳を打ち込み気絶させた。
そして姫の足と肩を掴み、御簾のうちに引きずっていく。
影は姫に馬乗りになると着物に手をかけ一気に胸元を開いた。
「やはりな」
続いて影が、袴の紐に手をかけようとした、その時。
「やめてー」
何ものかに体当たりをされた影は一瞬で後ろへ飛び退いた。
瞳に涙をいっぱいに溜めたさちが無我夢中で姫を抱きしめながら影を睨む。
目を閉じている姫は青白い顔をしていてまるで人形のようだ。
「姫様になんてことを」
咄嗟に姫の着物の合わせを整えてから、再び抱きしめる。
「兄さん、どうしてこんなことをするの?」
「……」
「これ以上姫様に何かしたら兄さんだって許さない」
悲痛に叫んだが、兄は無表情だった。
さちがここにいることに特に驚いているようでもない。
「確かめなくてはならなかったのだ」
「……」
「それが私のお役目だから」
その時、兄がほんの少しほろ苦い顔をしたような気がした。
「おまえはここにいてはいけない。すぐに後宮を出るんだ」
そう言って踵を返すと、池から正和親王を引き上げた。そのまま襟首を掴んで引きずっていった。
嵐が過ぎさった後には女房達のすすり泣く声が響いていた。
さちは、さっき自分が見た光景を思い出して身体中が震えるのを感じた。
自分の主人、十六夜姫の重すぎる秘密にさちは押し潰されそうになっていた。
首を後ろに回してありったけの声で叫ぶ兄宮。
さちはその時、渡殿の向こうの庭に片膝をついたままこちらを見守る男がいることに気がついた。
男は全身黒づくめの衣を身にまとっていた。
影と呼ばれたそいつはおそらく兄宮の護衛だろう。
しかし、彼の顔を凝視したさちは一瞬、息が止まるかと思った。
それは別れて7年、1日たりとも忘れることなどできなかった人物だ。
「よ、吉三兄さん」
会いたくてたまらなかった兄。面ざしは大人になっていたが確かに兄の吉三だった。
顔は同じだが、切れ長の瞳は冷ややかで唇は固く引き結ばれている。
どこかで退魔士として雇われているとばかり思っていた彼がなぜここに?
出来ることなら駆け出して行き、今すぐ問いただしたい。
「ど、どうした、影。早く助けるのだ」
兄宮は焦って声を荒げる。
「私はその方に勝てる気がいたしません。潔く謝られてはいかがでしょうか」
だが影の返事は思いのほか冷たい。
口調は丁寧だが、あまり正和親王を敬ってはいないように思えた。
「おのれ、なにが退魔士だ。この役立たずが」
天井高く吊り上げられた兄宮が、忌々しそうに叫ぶ。
「お言葉ですが、私は皇太子殿下お一人にのみ仕えるものです。あなたの命令に従う義務はありません」
「ぐ、ぐうっ、覚えておれ。後で後悔するぞ」
捨て台詞を吐く兄宮に影は薄く笑っただけだった。
「おまえもだ、十六夜。おまえの秘密はもうとっくに掴んでおるのだ。
帝をたばかった罪で死罪だ。
なにせ、おまえの正体は、おと」
しかし兄宮は最後まで言い終えることができなかった。
裂帛の気合いと共に姫君の手が勢いよく振り下ろされると兄君は文字通り吹き飛ばされてしまったのだ。
「うわーーー」
情けない声が遠ざかっていき、続いてドボンと水に落ちる音が響く。
しばらくして庭の池に落ちた兄の巨体が仰向けに浮かんだ。
白目を剥いて気絶しているようだ。
「ハハハ、水も滴るいい男になりましたな、兄上」
皮肉げに笑う姫君は、いきいきしているように見えた。
ともあれ、安堵したさちはへなへなと力が抜けてへたりこむ。
「さち、大丈夫か?」
「は、はい」
すがりつくさちを十六夜はひしと抱きしめると耳元で囁いた。
「さち、さっきのような無謀なことはもうしないでくれ。そなたに何かあったら私は」
その時だった。
ピューと口笛が鳴り響くと一陣の風が舞い込んできて御簾を乱暴に引き上げた。
「きゃー」
「鷹が、いやー」
部屋の隅で控えていた女房達の狂気じみた悲鳴。
姫が慌てて御簾の外に出ると、影と呼ばれた男が渡殿に立って印を結んでいる。
通常の3倍はあろうかという鷹が女房達の周りを飛び回って威嚇していた。
鷹の目は血のように赤く爪は鋭く長い。とても尋常な光景ではなかった。
だが、さちは知っていた。
この大鷹は兄、吉三の式神だと。
「や、やめろ。みなには手を出すな」
姫は吉三を睨みつけるが、反応は冷淡だった。
「ならば、抵抗はやめていただこう」
「卑怯だぞ」
姫は悔しそうに、拳を握り唇を噛む。
「あなたは強い。だが、そうやみくもに力を誇るのは命とりです。
甘すぎる、素晴らしい霊力をお持ちだが、人質を取られたら無力だ」
さちは混乱していた。あの優しかった兄が目の前の冷酷な男だとはどうしても信じられない。
「わかった、抵抗はしない。だから誰も傷つけないでくれ」
「あっぱれな姫だ。女子にしておくには惜しい。
まあ、男子であればこの国がひっくり返る一大事かもしれませんが」
「おまえ……皇太子に仕えていると言ったな。何者だ」
「名前などありません、影ですから」
言いながら影はゆっくりと姫に近寄る。
「……クッ」
影は、後ずさる姫の腹に素早く拳を打ち込み気絶させた。
そして姫の足と肩を掴み、御簾のうちに引きずっていく。
影は姫に馬乗りになると着物に手をかけ一気に胸元を開いた。
「やはりな」
続いて影が、袴の紐に手をかけようとした、その時。
「やめてー」
何ものかに体当たりをされた影は一瞬で後ろへ飛び退いた。
瞳に涙をいっぱいに溜めたさちが無我夢中で姫を抱きしめながら影を睨む。
目を閉じている姫は青白い顔をしていてまるで人形のようだ。
「姫様になんてことを」
咄嗟に姫の着物の合わせを整えてから、再び抱きしめる。
「兄さん、どうしてこんなことをするの?」
「……」
「これ以上姫様に何かしたら兄さんだって許さない」
悲痛に叫んだが、兄は無表情だった。
さちがここにいることに特に驚いているようでもない。
「確かめなくてはならなかったのだ」
「……」
「それが私のお役目だから」
その時、兄がほんの少しほろ苦い顔をしたような気がした。
「おまえはここにいてはいけない。すぐに後宮を出るんだ」
そう言って踵を返すと、池から正和親王を引き上げた。そのまま襟首を掴んで引きずっていった。
嵐が過ぎさった後には女房達のすすり泣く声が響いていた。
さちは、さっき自分が見た光景を思い出して身体中が震えるのを感じた。
自分の主人、十六夜姫の重すぎる秘密にさちは押し潰されそうになっていた。



