「姫様、また文(ふみ)が届いております。こんなにたくさん」
「へぇ、そう」
盆いっぱいに載せた文を、さちは主人に差し出そうとしたが気の無い返事が返ってきた。
脇息にもたれかかって座る姫は山積みの文を見て心底、嫌そうな顔をする。
尊い身分の姫君は男兄弟に会う時でさえ御簾のうちにいるため、宮中の公達も実際に会うことは難しい。
だが、宮中でも三の姫の美しさが噂になっていて求婚者が後を絶たないらしい。
もっともとうの姫君本人は、全く嬉しくなさそうだが。
姫付きの侍女になったさちは、あちこちから文の返事を催促されていた。
「あの。お返事はどういたしましょう?」
「何も返さなくていい」
「はあ、ですが」
「放っておいたら、そのうち来なくなるだろうから」
「そういうものでしょうか」
「どうせ他の女人にも文を送っているだろうし」
「他のお方にもですか?でもそんな方ばかりでは無いかもしれませんよ」
「いや、貴族の男なんてみんなそんなものだよ」
諦めている、というよりうんざりしているような口ぶりで姫は言う。
そして、聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で呟く。
「男に好かれたって嬉しくもなんともない」
「え、何か言いました?」
「ううん、なんでも無い。それより、侍女の仕事はどう?」
さちが、姫君の侍女になってから一月が過ぎていた。
仕事と言うのは主に姫君の身の回りの世話である。
覚えることは多いが、これまで実家でやらされていた下働きよりもずっと楽だしやりがいがある。
それに表立ってさちをいじめる者などここにはいない。
それは周りからさちが姫君のお気に入りと思われているからのようだ。
以前と比べると信じられないくらいに、毎日穏やかな暮らしをおくっていた。
「あ、はい。皆さまのおかげで少しづつですが慣れてきました」
「それは良かった。困ったことがあればいつでも言ってね」
輝くような笑顔で言われて、さちは思わずほうっとため息をついた。
自分のお仕えする十六夜姫は本当になんて美しいのだろうと思う。
いつぞや物語で読んだ竹取の姫のように月に帰ってしまったらどうしょうと本気で心配になってしまうことさえある、さちである。
都の貴族の御曹司達が競って文を送ってくるのも当然だと思う。
姫君にしばし見惚れていたさちだが、ふいに重要な要件を思い出した。
「あの、それと宴のお誘いが来ております」
「行きたく無い」
即答だった。
まだ誰からの誘いかも告げていないというのに。
「でも、皇太子様や皇后陛下からのお誘いですし毎回断るわけには行かないと萩尾さまが言っておられました」
姫君は宴があまり好きでは無いようだった。
それと言うのも、後宮をとりしきる皇后から疎んじられていてしょっちゅう嫌がらせを受けているらしいのだ。
三の姫の母、さくらは側室だが帝の熱い寵愛を受けている。
そのせいで、三の姫までが皇后に疎んじられているようだ。
「頭痛がするからと言って断っておいてもらえるかな」
「はい、かしこまりました」
姫の気がすすまないのなら仕方がないかと思っていると、姫君の乳母である萩尾が足早に部屋に入ってきた。
「姫様、大変でございます」
「どうした萩尾、そんなに慌てて」
いつもは落ちついた雰囲気の乳母にしては珍しく肩で息をしている。
どこかから走ってきたのだろうか。
「正和親王がこちらへお渡りになられるそうです」
「……え、兄上が?」
「あのれいの術師を引き連れて来られるようです。どういたしましょう」
「落ちついて、萩尾。まずは御簾の準備を。それから母上にも心配なさらないようにと連絡をいれておいて」
姫君はてきぱきと指示を出してはいるが、その顔は緊張感で強張っていた。
「は、はい。ですが、どういたしましょう。またあの時のようなひどい真似をされたら」
「もしそうなってもあまり騒ぎたてないように」
「ですがっ」
萩尾が泣きそうな顔になっていることに気がついたさちは、大変なことが起きようとしている気がした。
いてもたってもいられず口を開いた。
「あの正和親王と言うお方は姫様の兄宮でしょうか?」
「うん、そうだよ。2番目の兄だ。でも、少しだけ過激な方でね。皇后陛下の意を汲んで私をいびってくることがあるんだ。まあ、面倒なお人だよ」
そこで口を挟んできたのは萩尾だった。
「いびるなどと、生やさしいものではありません。この間など姫様に殴りかかってきたではありませんか。あの時は肝が冷えました」
「大袈裟だな、萩尾は。
兄上は私に口で勝てないとなると、すぐに手を出すけれど、今回はせいぜい口答えしないでおくよ」
「姫様っ、お気をつけください。
ささ、どうぞお早く御簾へお入りください」
「わかった。さち、おまえは私の隣にいなさい」
「は、はい」
それからすぐに、三の姫付きの女房達が集まってきてあたふたと客人を迎える準備を始めた。
みな一様に固い表情だったので、さちは胸騒ぎがする。
一体、正和親王とはどんなお方なのだろう。
妹姫に向かって殴りかかってきたことがあると聞いてしまっては平静ではいられない。
もしもまた、自分の主人に横暴なことをしょうとしたらどうしょう。
ハラハラしながら、姫の隣に座しているととうの姫君が心配そうにこちらを覗きこんでくる。
「さち、大丈夫だよ。怖かったら私の後ろにいなさい」
「い、いえ、姫様」
さちは震える手を必死に握り込んだ。
もしかしたら、こんな時のために自分は雇われたのかもしれない。
(姫の身を守ることが私の役目なのだわ)
そう悟ったさちは心を決めた。
「わ、私がいざとなれば、身代わりになります。隙を見てお逃げください」
「身代わり?ああ、そうか。さちは幻術が使えるんだったね」
「知っておられたのですか?」
「うん、母上に聞いた。さち、気持ちは嬉しいけれど、その術は使わないでおくれ」
姫は懇願するように言って、ふうっと息を吐く。
「おまえに全てを押し付けて逃げる気など、私にはないよ」
「姫様」
「私はそんな卑怯者にはなりたくない」
辛そうに眉根を寄せる姫に、さちは何も言えなかった。
(ああ、この方はおそらく母上様の思惑をわかった上で私を庇おうとしてくれているんだ)
思えば、いち早く自分を迎えに来て侍女にしたのもそういうつもりだったからかもしれない。
さちは確かに姫の身代わりにするために、さくらによって雇われた。
でも、姫本人は誰の犠牲も望んではいないということだろう。
きっとこの優しい方ならば、そう思うだろう。でも、そうだとしたら私はどうすればいいの。
さちが考えをめぐらせていた、その時だった。
渡殿の向こうから荒々しい足音が近づいてきた。
「十六夜、十六夜はいるかー?兄上様のおなりであるぞ」
ガハハハと品の無い笑いを浮かべながら部屋に入ってきた男にさちは度肝を抜かれた。
正和親王は後宮には似つかわしく無い野暮な狩装束だった。
身の丈が恐ろしく高く横幅もある。
巨体を揺らすさまは親王というより武人のようだ。
十六夜姫とは似ても似つかない粗野な面差しだ。
腹違いとはいえ、本当に血の繋がった兄妹なのかと疑いたくなるさちだった。
「今朝、父上と狩にでていたのだ、ほうれ、みやげだ」
そう言って右手にかかげた茶色い塊を御簾に向かって投げつけてきた。
「ひいっ」「きゃー」
女房達が怯えたように声を上げる。
それは鳥の死骸だった。
畳にはまだらに血が飛び散っている。
「キジだ、キジ鍋にしたら美味いぞ」
三の姫は美しい顔をしかめて扇を強く握る。
「兄上、相変わらず無粋ななさりようでございますね」
「おう?なんと言った?御簾の中にいては聞こえないぞ」
兄宮は妹をなぶるように言って、にやりと笑う。
それに対して姫は冷たく低い声で答えた。
「いつ見ても品性のかけらも感じられないこんな男が兄だとは嘆かわしい」
「ああ?なんだと、妹の分際で生意気な」
「敬ってほしければ、兄らしくしてはどうか?」
剣呑な空気をものともせず姫は兄を冷ややかに見据える。
「きっ、貴様のような妾腹の娘にはこれで充分だ」
「なるほど、側室の子を見下してこいと誰かに言われてきましたか?」
「だ、誰にも何も言われてなどおらぬわ」
「ほう、では兄上の独断でここに来ていると?」
「そうだ、私の意志でだ」
「ではいつものように誰かに泣きつくつもりはないとおっしゃるか」
「な、いつ私が母上に泣きついたというのだっ」
兄宮は顔を真っ赤にして怒鳴った。
しかし、姫は兄を煽るようにククッと笑う。
「おや、皇后陛下のことでしたか。それはそれは」
「な、なんだ、何がおかしい」
「では、全ての責任は兄上が1人で引き受けるということでよろしいのですね」
「は?責任だと?
私は思い上がったそなたを諌めに来てやっただけだ」
幼子のように地団駄を踏む兄を嘲るように姫は言った。
「へえ。私が?どう思い上がっているのです?わかるようにご説明ください」
口答えはしないと先程姫は言っていたはずだが、これではまるで喧嘩を売っているように見える。
さちはハラハラしながらやりとりを見ていた。
兄宮の方が姫の言葉でどんどん追い詰められているようだが、このままではきっと良く無い方へ向かうだろう。
頭に血が昇った兄宮の怒声が響いた。
「貴様、恐れ多くも皇后陛下の宴の誘いを断り続けているそうでは無いか。不敬にもほどがあるぞ」
「それは私の体調が良くないからです。仕方がないではないですか」
感情が抜け落ちた声で返す姫君。
「ふん、そのような言い訳が通じるわけはない。どれ、顔色を見てやろうか」
言うが早いか、なんと御簾を蹴り上げて中へ入ってくるではないか。
さちは蒼白になったが、すかさず姫の背中に庇われた。
「なんだ、元気そうでは無いか。やはり仮病か」
兄宮は姫を見てにやりと満足げに笑う。
女房達の悲鳴があちこちから起こったが、誰も制止することはできないようだ。
さちは震えながらも精一杯考えた。
(姫はああ言ってくれたけれど、私が身代わりにならなくては)
だが、こうなっては入れ替わるのも難しいだろう。
もっと早く姫の代わりになっていればよかった、と後悔した。
姫が激怒した兄宮に暴力を振るわれたら取り返しがつかない。
そんなことになるくらいなら自分が、殴られた方がよっぽどいい。
さちは本気でそう思った。
そして、事態は最悪な方向へすすんだ。
「なんだその目は?」
見れば姫宮は扇で顔を隠すこともせず、兄を睨み上げている。
恐れる様子など微塵もない。
「さち、みんなの方へ行きなさい」
「姫様」
振り返り言った姫にさちは震えながら首を振る。
「わ、私が代わりになります」
「駄目だ、早く逃げなさい」
2人のやりとりを聞いていた兄宮はふんと鼻を鳴らしてさちに視線を移す。
「なんだ?そのものは、新しい女房か?
代わりに何をすると言うのだ?あ?」
嘲笑を浮かべた兄宮は得体が知れなくて、恐ろしいと思った。
だが、気がつけばさちは姫をおしのけていた。
姫を背に庇うようにして兄宮と相対すと、精一杯背筋を伸ばし口を開いた。
「あ、あの、おやめください。こんなこと。ご兄弟で争いあうなんてよくないです」
そう言うさちこそ、かつては兄姉達からはきだめと呼ばれ蔑まれいじめられてきたのだ。
血をわけた肉親にそんな扱いをされてどんなに辛かったろう。
さちには、姫宮が気の毒でならなかった。
だが、兄宮はさちの言うことなど意に介さず、下卑た笑いを浮かべる。
「なら貴様が代わりにひん剥かれてもいいと言うか?」
「え?」
さちは何を言われているかわからずに立ち尽くす。
すると突然、兄宮はさちの肩をむんずと掴みもう一方の手で胸ぐらを掴んできた。
うぐっと喉が締め上げられて息苦しくなる。
「まずはおまえからだ」
「うっ」
足が床につかないくらいに持ち上げられて苦しくてもがく。
「やめろ、兄上」
姫は鋭く叫ぶと平手で、兄の頬を打った。
パシンと二度、乾いた音が鳴り響く。
一瞬、シンと静まりかえるが次の瞬間怒号が飛んだ。
「おのれ、なんと無礼な」
憤怒の形相で姫を見た兄宮はさちの身体を無造作に放り投げた。
「さち、大丈夫か?」
すかさず、さちは姫に抱き止められたが意識が飛びそうになっていてぐったりしている。
「ひ、めさま、逃げ……て」
さちは懇願するように声を絞りだして言う。
「さち、おまえ、どうして」
姫君は苦悶に満ちた顔でさちを見つめる。
しかし、この間にも怒り狂った兄君は容赦することがなかった。
「次は、おまえだ、十六夜」
兄君の大きな手が姫の細い肩を掴む。
姫は一瞬だけ、痛みに顔をしかめたがその手を振りはらうとギッと兄を見据えた。
「私の侍女に手を出したな。
兄上といえど、もう手加減はしないぞ」
姫が低い声ですごんだ次の瞬間、さちにはあたりの空気がぶるっと震えたように感じた。
見れば、姫の右手は白い炎をまとっている。
「あ」
さちは、この光景に見覚えがあった。
東大路家にいた時、さちの長兄が父から教えを受けていた古の術。
だが兄はここまではっきりとした炎をだせはしなかった。
姫に異能の力があるとは聞いていなかったが、これはどういうことだろう。
「ぐっ、うっ、や、やめろ」
驚愕に目を見開き悲鳴を上げる兄宮。
先程のさちのように身体が宙に浮いているが、誰も触れているわけではい。
さちには姫君がやっていることだと、すぐにわかった。
姫は青白い顔になっているが、目は異様な光を放っている。
姫が右手を高く掲げると同時に、兄宮の巨体もさらに上昇する。
「ひいっ、おろせ、早くおろさんか」
「兄上、あなたもいい加減懲りない人ですね。この間来た時も私に吊し上げられたのをお忘れですか?」
足をばたつかせてもがく兄宮はしかし、急にニヤリと笑った。
「はは、馬鹿ものめが。同じ手は二度も通用せぬわ」
虚勢をはっているにしては、自信ありげな顔だ。
「へぇ、そう」
盆いっぱいに載せた文を、さちは主人に差し出そうとしたが気の無い返事が返ってきた。
脇息にもたれかかって座る姫は山積みの文を見て心底、嫌そうな顔をする。
尊い身分の姫君は男兄弟に会う時でさえ御簾のうちにいるため、宮中の公達も実際に会うことは難しい。
だが、宮中でも三の姫の美しさが噂になっていて求婚者が後を絶たないらしい。
もっともとうの姫君本人は、全く嬉しくなさそうだが。
姫付きの侍女になったさちは、あちこちから文の返事を催促されていた。
「あの。お返事はどういたしましょう?」
「何も返さなくていい」
「はあ、ですが」
「放っておいたら、そのうち来なくなるだろうから」
「そういうものでしょうか」
「どうせ他の女人にも文を送っているだろうし」
「他のお方にもですか?でもそんな方ばかりでは無いかもしれませんよ」
「いや、貴族の男なんてみんなそんなものだよ」
諦めている、というよりうんざりしているような口ぶりで姫は言う。
そして、聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で呟く。
「男に好かれたって嬉しくもなんともない」
「え、何か言いました?」
「ううん、なんでも無い。それより、侍女の仕事はどう?」
さちが、姫君の侍女になってから一月が過ぎていた。
仕事と言うのは主に姫君の身の回りの世話である。
覚えることは多いが、これまで実家でやらされていた下働きよりもずっと楽だしやりがいがある。
それに表立ってさちをいじめる者などここにはいない。
それは周りからさちが姫君のお気に入りと思われているからのようだ。
以前と比べると信じられないくらいに、毎日穏やかな暮らしをおくっていた。
「あ、はい。皆さまのおかげで少しづつですが慣れてきました」
「それは良かった。困ったことがあればいつでも言ってね」
輝くような笑顔で言われて、さちは思わずほうっとため息をついた。
自分のお仕えする十六夜姫は本当になんて美しいのだろうと思う。
いつぞや物語で読んだ竹取の姫のように月に帰ってしまったらどうしょうと本気で心配になってしまうことさえある、さちである。
都の貴族の御曹司達が競って文を送ってくるのも当然だと思う。
姫君にしばし見惚れていたさちだが、ふいに重要な要件を思い出した。
「あの、それと宴のお誘いが来ております」
「行きたく無い」
即答だった。
まだ誰からの誘いかも告げていないというのに。
「でも、皇太子様や皇后陛下からのお誘いですし毎回断るわけには行かないと萩尾さまが言っておられました」
姫君は宴があまり好きでは無いようだった。
それと言うのも、後宮をとりしきる皇后から疎んじられていてしょっちゅう嫌がらせを受けているらしいのだ。
三の姫の母、さくらは側室だが帝の熱い寵愛を受けている。
そのせいで、三の姫までが皇后に疎んじられているようだ。
「頭痛がするからと言って断っておいてもらえるかな」
「はい、かしこまりました」
姫の気がすすまないのなら仕方がないかと思っていると、姫君の乳母である萩尾が足早に部屋に入ってきた。
「姫様、大変でございます」
「どうした萩尾、そんなに慌てて」
いつもは落ちついた雰囲気の乳母にしては珍しく肩で息をしている。
どこかから走ってきたのだろうか。
「正和親王がこちらへお渡りになられるそうです」
「……え、兄上が?」
「あのれいの術師を引き連れて来られるようです。どういたしましょう」
「落ちついて、萩尾。まずは御簾の準備を。それから母上にも心配なさらないようにと連絡をいれておいて」
姫君はてきぱきと指示を出してはいるが、その顔は緊張感で強張っていた。
「は、はい。ですが、どういたしましょう。またあの時のようなひどい真似をされたら」
「もしそうなってもあまり騒ぎたてないように」
「ですがっ」
萩尾が泣きそうな顔になっていることに気がついたさちは、大変なことが起きようとしている気がした。
いてもたってもいられず口を開いた。
「あの正和親王と言うお方は姫様の兄宮でしょうか?」
「うん、そうだよ。2番目の兄だ。でも、少しだけ過激な方でね。皇后陛下の意を汲んで私をいびってくることがあるんだ。まあ、面倒なお人だよ」
そこで口を挟んできたのは萩尾だった。
「いびるなどと、生やさしいものではありません。この間など姫様に殴りかかってきたではありませんか。あの時は肝が冷えました」
「大袈裟だな、萩尾は。
兄上は私に口で勝てないとなると、すぐに手を出すけれど、今回はせいぜい口答えしないでおくよ」
「姫様っ、お気をつけください。
ささ、どうぞお早く御簾へお入りください」
「わかった。さち、おまえは私の隣にいなさい」
「は、はい」
それからすぐに、三の姫付きの女房達が集まってきてあたふたと客人を迎える準備を始めた。
みな一様に固い表情だったので、さちは胸騒ぎがする。
一体、正和親王とはどんなお方なのだろう。
妹姫に向かって殴りかかってきたことがあると聞いてしまっては平静ではいられない。
もしもまた、自分の主人に横暴なことをしょうとしたらどうしょう。
ハラハラしながら、姫の隣に座しているととうの姫君が心配そうにこちらを覗きこんでくる。
「さち、大丈夫だよ。怖かったら私の後ろにいなさい」
「い、いえ、姫様」
さちは震える手を必死に握り込んだ。
もしかしたら、こんな時のために自分は雇われたのかもしれない。
(姫の身を守ることが私の役目なのだわ)
そう悟ったさちは心を決めた。
「わ、私がいざとなれば、身代わりになります。隙を見てお逃げください」
「身代わり?ああ、そうか。さちは幻術が使えるんだったね」
「知っておられたのですか?」
「うん、母上に聞いた。さち、気持ちは嬉しいけれど、その術は使わないでおくれ」
姫は懇願するように言って、ふうっと息を吐く。
「おまえに全てを押し付けて逃げる気など、私にはないよ」
「姫様」
「私はそんな卑怯者にはなりたくない」
辛そうに眉根を寄せる姫に、さちは何も言えなかった。
(ああ、この方はおそらく母上様の思惑をわかった上で私を庇おうとしてくれているんだ)
思えば、いち早く自分を迎えに来て侍女にしたのもそういうつもりだったからかもしれない。
さちは確かに姫の身代わりにするために、さくらによって雇われた。
でも、姫本人は誰の犠牲も望んではいないということだろう。
きっとこの優しい方ならば、そう思うだろう。でも、そうだとしたら私はどうすればいいの。
さちが考えをめぐらせていた、その時だった。
渡殿の向こうから荒々しい足音が近づいてきた。
「十六夜、十六夜はいるかー?兄上様のおなりであるぞ」
ガハハハと品の無い笑いを浮かべながら部屋に入ってきた男にさちは度肝を抜かれた。
正和親王は後宮には似つかわしく無い野暮な狩装束だった。
身の丈が恐ろしく高く横幅もある。
巨体を揺らすさまは親王というより武人のようだ。
十六夜姫とは似ても似つかない粗野な面差しだ。
腹違いとはいえ、本当に血の繋がった兄妹なのかと疑いたくなるさちだった。
「今朝、父上と狩にでていたのだ、ほうれ、みやげだ」
そう言って右手にかかげた茶色い塊を御簾に向かって投げつけてきた。
「ひいっ」「きゃー」
女房達が怯えたように声を上げる。
それは鳥の死骸だった。
畳にはまだらに血が飛び散っている。
「キジだ、キジ鍋にしたら美味いぞ」
三の姫は美しい顔をしかめて扇を強く握る。
「兄上、相変わらず無粋ななさりようでございますね」
「おう?なんと言った?御簾の中にいては聞こえないぞ」
兄宮は妹をなぶるように言って、にやりと笑う。
それに対して姫は冷たく低い声で答えた。
「いつ見ても品性のかけらも感じられないこんな男が兄だとは嘆かわしい」
「ああ?なんだと、妹の分際で生意気な」
「敬ってほしければ、兄らしくしてはどうか?」
剣呑な空気をものともせず姫は兄を冷ややかに見据える。
「きっ、貴様のような妾腹の娘にはこれで充分だ」
「なるほど、側室の子を見下してこいと誰かに言われてきましたか?」
「だ、誰にも何も言われてなどおらぬわ」
「ほう、では兄上の独断でここに来ていると?」
「そうだ、私の意志でだ」
「ではいつものように誰かに泣きつくつもりはないとおっしゃるか」
「な、いつ私が母上に泣きついたというのだっ」
兄宮は顔を真っ赤にして怒鳴った。
しかし、姫は兄を煽るようにククッと笑う。
「おや、皇后陛下のことでしたか。それはそれは」
「な、なんだ、何がおかしい」
「では、全ての責任は兄上が1人で引き受けるということでよろしいのですね」
「は?責任だと?
私は思い上がったそなたを諌めに来てやっただけだ」
幼子のように地団駄を踏む兄を嘲るように姫は言った。
「へえ。私が?どう思い上がっているのです?わかるようにご説明ください」
口答えはしないと先程姫は言っていたはずだが、これではまるで喧嘩を売っているように見える。
さちはハラハラしながらやりとりを見ていた。
兄宮の方が姫の言葉でどんどん追い詰められているようだが、このままではきっと良く無い方へ向かうだろう。
頭に血が昇った兄宮の怒声が響いた。
「貴様、恐れ多くも皇后陛下の宴の誘いを断り続けているそうでは無いか。不敬にもほどがあるぞ」
「それは私の体調が良くないからです。仕方がないではないですか」
感情が抜け落ちた声で返す姫君。
「ふん、そのような言い訳が通じるわけはない。どれ、顔色を見てやろうか」
言うが早いか、なんと御簾を蹴り上げて中へ入ってくるではないか。
さちは蒼白になったが、すかさず姫の背中に庇われた。
「なんだ、元気そうでは無いか。やはり仮病か」
兄宮は姫を見てにやりと満足げに笑う。
女房達の悲鳴があちこちから起こったが、誰も制止することはできないようだ。
さちは震えながらも精一杯考えた。
(姫はああ言ってくれたけれど、私が身代わりにならなくては)
だが、こうなっては入れ替わるのも難しいだろう。
もっと早く姫の代わりになっていればよかった、と後悔した。
姫が激怒した兄宮に暴力を振るわれたら取り返しがつかない。
そんなことになるくらいなら自分が、殴られた方がよっぽどいい。
さちは本気でそう思った。
そして、事態は最悪な方向へすすんだ。
「なんだその目は?」
見れば姫宮は扇で顔を隠すこともせず、兄を睨み上げている。
恐れる様子など微塵もない。
「さち、みんなの方へ行きなさい」
「姫様」
振り返り言った姫にさちは震えながら首を振る。
「わ、私が代わりになります」
「駄目だ、早く逃げなさい」
2人のやりとりを聞いていた兄宮はふんと鼻を鳴らしてさちに視線を移す。
「なんだ?そのものは、新しい女房か?
代わりに何をすると言うのだ?あ?」
嘲笑を浮かべた兄宮は得体が知れなくて、恐ろしいと思った。
だが、気がつけばさちは姫をおしのけていた。
姫を背に庇うようにして兄宮と相対すと、精一杯背筋を伸ばし口を開いた。
「あ、あの、おやめください。こんなこと。ご兄弟で争いあうなんてよくないです」
そう言うさちこそ、かつては兄姉達からはきだめと呼ばれ蔑まれいじめられてきたのだ。
血をわけた肉親にそんな扱いをされてどんなに辛かったろう。
さちには、姫宮が気の毒でならなかった。
だが、兄宮はさちの言うことなど意に介さず、下卑た笑いを浮かべる。
「なら貴様が代わりにひん剥かれてもいいと言うか?」
「え?」
さちは何を言われているかわからずに立ち尽くす。
すると突然、兄宮はさちの肩をむんずと掴みもう一方の手で胸ぐらを掴んできた。
うぐっと喉が締め上げられて息苦しくなる。
「まずはおまえからだ」
「うっ」
足が床につかないくらいに持ち上げられて苦しくてもがく。
「やめろ、兄上」
姫は鋭く叫ぶと平手で、兄の頬を打った。
パシンと二度、乾いた音が鳴り響く。
一瞬、シンと静まりかえるが次の瞬間怒号が飛んだ。
「おのれ、なんと無礼な」
憤怒の形相で姫を見た兄宮はさちの身体を無造作に放り投げた。
「さち、大丈夫か?」
すかさず、さちは姫に抱き止められたが意識が飛びそうになっていてぐったりしている。
「ひ、めさま、逃げ……て」
さちは懇願するように声を絞りだして言う。
「さち、おまえ、どうして」
姫君は苦悶に満ちた顔でさちを見つめる。
しかし、この間にも怒り狂った兄君は容赦することがなかった。
「次は、おまえだ、十六夜」
兄君の大きな手が姫の細い肩を掴む。
姫は一瞬だけ、痛みに顔をしかめたがその手を振りはらうとギッと兄を見据えた。
「私の侍女に手を出したな。
兄上といえど、もう手加減はしないぞ」
姫が低い声ですごんだ次の瞬間、さちにはあたりの空気がぶるっと震えたように感じた。
見れば、姫の右手は白い炎をまとっている。
「あ」
さちは、この光景に見覚えがあった。
東大路家にいた時、さちの長兄が父から教えを受けていた古の術。
だが兄はここまではっきりとした炎をだせはしなかった。
姫に異能の力があるとは聞いていなかったが、これはどういうことだろう。
「ぐっ、うっ、や、やめろ」
驚愕に目を見開き悲鳴を上げる兄宮。
先程のさちのように身体が宙に浮いているが、誰も触れているわけではい。
さちには姫君がやっていることだと、すぐにわかった。
姫は青白い顔になっているが、目は異様な光を放っている。
姫が右手を高く掲げると同時に、兄宮の巨体もさらに上昇する。
「ひいっ、おろせ、早くおろさんか」
「兄上、あなたもいい加減懲りない人ですね。この間来た時も私に吊し上げられたのをお忘れですか?」
足をばたつかせてもがく兄宮はしかし、急にニヤリと笑った。
「はは、馬鹿ものめが。同じ手は二度も通用せぬわ」
虚勢をはっているにしては、自信ありげな顔だ。



