偽りの皇子と身代わりの姫宮

「姫様、あまり遠くへ行かれませんように」

「わかったわ、すぐに戻るから」

都の端にある小さな尼寺に内親王、十六夜は母に会うために訪れていた。

季節は何度も巡り、あの夜から3年の時が流れていた。

新しい御代になりしばらくして、後宮の主人としてそのまま残るつもりだった皇太后は、なぜか正和親王と共に出家させられた。
おかげで、十六夜姫にしてみれば後宮は以前よりもずっと住みやすくなった。

寺の庭を散策すると、春の清涼な空気を胸いっぱいに吸い込む。   

数ヶ月に一度、母の暮らす尼寺へ行くことは楽しかった。

十六夜姫は数年前からすっかり姫らしくおとなしくなったと評判だ。

花の盛りを過ぎたという年になったが、都の公達からの文がひっきりなしに寄越される。

姫は文を一通も読むことはなかったし、新帝から勧められる縁談も全て拒絶している。

身体が弱いので仏門に入りたい、出家したいの一点張りだ。

「わぁ、綺麗」

ぶわりと風が吹くと薄い色の花びらが踊るように舞う。

「桜がお好きですか?」

背後で凛とした男の声がしたので、姫君はさっと袖で顔を隠す。

振り返らずに恐る恐る言う。

「どちら様?」

「失礼いたしました。私は五条院篤宏と申します。この寺に親類のものがおります。庭に花の精がおられたので惹かれて参りました」

花の精?とは自分のことだろうか。気障な物言いだと思った。

しかしながら、その名前には聞き覚えがある。

「え、五条院?」

「はい、そうです。少しは名前が知れてきているようで喜ばしい限りです」

「あの退魔士の一族ですか?」

「はい」

最近、特に勢力を伸ばしてきた有名な退魔士の家系で、かつて一強と言われた東大路家をも凌ぐそうだ。

確か、有名になったもうひとつの理由が、五条院家の末息子が飛び抜けた美貌の青年であるからという話だった。

見た目ばかりがもてはやされるが、実力もなかなかのものだとか。

彼を主人公にした絵物語が後宮でも流行っているため、姫君も知っていたのだ。

「どうかお顔を見せてくださいませんか?」

「い、いえ。私は」

知らない男と面と向かって話すなど、貴族の女性のすることではない。

慌てて逃げようかと思ったその時、男が口を開いた。

「私の話をいたしましょう。
17歳の時、こんな桜の綺麗な日に、私は1人の少女に恋をしました。一目惚れです」

姫はついつい歩き出そうとした足を止めた。

「兄姉からも見捨てられた不遇な生まれだと聞いて私は気になって会いに行きました。私と似ていると感じたから。
だけど、その子はとても綺麗な目をしていて純粋で真面目で優しくて。私の暗い道を明るく照らしてくれた」

胸の奥がトクンと鳴り頬が上気する。

「私は、その子に好きだと告げる資格がなかった。それが悔しく情けなかった」

男の声は切なげだった。

姫君は口元に手をあて、息を整えて、ゆっくりと振り返った。

桜の花びらがくるくると弧を描くように踊り狂う。

青年の伸ばした腕が揺れるたびに花びらが楽しげに跳ねた。

青年と目が合った。

恐ろしく整った顔立ちには懐かしい面影がある。

背も以前よりもずっと高く伸びている。

姫君は袴の裾を蹴る勢いで駆け出していた。

すっーと、姫君の人形のように整った顔がさちの顔へと戻っていく。

「十六夜さまー」

これは夢だろうかとさちは思った。

夢ならば永遠に覚めないで欲しい。

「さち」

胸に飛び込んできたさちを十六夜は強く抱きしめる。

「会いたかった」

「私も」

十六夜は爽やかな白色の直衣を身につけていた。

どこから見ても立派な公達だ。

「十六夜様、十六夜様、よくご無事で」

とめどなく溢れ出る涙を十六夜は優しく拭っていく。

「ああ、全部さちのおかげだ」

「兄さんは?」

「今は私の師匠だよ。とても厳しいけれど優しい方だ。元気にしているよ」

十六夜の表情は明るく艶やかだったから、さちは彼の夢が叶ったのだと思い嬉しかった。

「一緒に生きよう、さち。私はさちを愛している」

「はい、十六夜様。私もです」

信じられないくらい幸せで、胸が痛いくらいに愛おしい。

桜の舞う庭で一対の夫婦が永遠の愛を手に入れた瞬間だった。