「三椏、その……傷の手当てをしてもいいだろうか?」
「あ、これですか? 自然に治りますよ」
華燐の式神につけられた肩口の切り傷は、もう渇きかけているように見えた。
「俺が舐めたら、すぐに治る」
「ええ!? 舐める?」
「あ、そうか。驚くよな。すまない」
しゅんと肩を落とした璃臣が少し気の毒に見え、少し舐めるくらいならいいか、と三椏は考え直した。
「あの、やっぱりお願いします」
「いいのか?」
着物の袖を捲り上げ、肩口を覗かせて三椏は頷いた。璃臣のきれいな顔が近づいてくる。伏せた目を彩るまつ毛が豊かなのを意識してしまい、三椏の胸がきゅんと高鳴った。
小さな唇が患部に触れ、肌が軽く吸われる。ピリッとした痛みを感じたのは最初だけで、傷とその周囲の肌がほんのりと熱を持った。
対して、青白かった璃臣の肌がほんのりピンクになっている。その様子を見ていると自分の頬も赤くなってきたように感じて、三椏はなんだか照れくさくなってしまった。
「治ったと思うが、どうだ?」
「……はい! もう痛くありません」
「良かった。それにしても、三椏の家族は、なんであんなに偉そうなんだ?」
「私が式神を呼べないから……」
「子供の頃は呼んでたじゃないか」
三椏は目を丸くした。
「どうして知っているんですか?」
「見れば分かる。あの式札に使われている紙は質が悪い。紙の質は扉の大きさだ。小さい扉では、三椏の式神は出てこられない」
「すごい、詳しいんですね」
「こんななりだけど日本國生まれだから、式神もそこそこ詳しいんだ」
「なるほど」
「それに、西洋でも紙の質は大事なんだ。俺たちも、紙を使って使い魔を呼ぶからな」
「使い魔?」
「三椏にとっての式神みたいなもんだ」
「そう! オイラみたいな!」
ヒャハハと楽しげな笑い声が響き、部屋の中を何かが羽ばたく音がした。三椏が天井を見上げると、一匹のコウモリが旋回している。
「俺が呼ぶまで出てくるなって言ったのに」
「呼ぶのが遅すぎる!!」
「……三椏、コイツが使い魔のコンパス。この通り常に騒がしい。式神と違って、使い魔は契約が解消されるまで具現化されたままだからな」
「うらやましいです。璃臣さんの言う通り、昔は私も式神が呼べたんです。だけど新しい紙を使うようになったら、どうしても呼べなくて。それでも、実力者ならどんな紙でも式神を呼べるはずだ、って……」
もともと、式札には三椏の母の出身である綴の里ですいた和紙を使用していた。しかし母が亡くなってから、より安い工場製の紙へ変更されたのだ。
「機械で作った紙か。いろいろ問題があるんだが、意外と知られていないんだな」
「問題、ですか」
「そう。それは置いといて、これで呼んでみたらいい」
「これは……お母さんの和紙! どうしてこれを?」
「三椏が喜ぶと思って取り寄せたんだ」
璃臣が差し出したのは、綴の里で作られた和紙だった。
(もしかして……また式神を呼べるのかも)
渡されたハサミで人形に切り、できた式札を手のひらに載せた。期待が大きいのか、手が震えてくる。深呼吸をひとつして「姿を見せよ」と三椏は唱えた。光り始めた式札がフクロウの形になり、やがて光が弾けると、握り拳大の白いフクロウが現れた。
「ホゥ」
笑うようにきゅっと両目を細め、両翼を広げて三椏の肩に止まった。わぁ、と三椏が声を弾ませる。
「クウちゃん。本当に……呼べた……!」
「クゥ!」
「お前ら、良かったなあ!」
喜ぶ三椏とクウを見たコンパスが、満足そうに頷いた。そこで何かに気づいたように三椏はハッとして、璃臣に頭を下げた。
「ありがとうございます。お陰さまで式神と再会できました」
「良かった」
クウはそのまましばらく部屋で三椏と璃臣の様子を見守り、まるで挨拶ををするように「ホホーゥ!」と鳴いてから、光の粒のようになって消えた。
ちぎれた式札がやわらかな毛足の絨毯に舞い落ちる。三椏が拾い集めて念を込めると、雪が溶けたように透明になった。いつもの式札は二度三度と念をこめてやっと消えるから、全てを処理した後はへとへとだ。だけど今は、力を使ったという感覚すらない。
「和紙のほうが、残滓の処理がしやすいですね」
「それが職人技だ。これからも好きに呼んだらいい」
「でも、貴重な和紙を私ばかり使うのは……」
「遠慮するな。俺が持っていてほしいだけだ」
「でも……」
「そんなに気を使わなくていい。俺は、三椏がここで安心して過ごしてくれたらいい」
「まさか、それが私に頼みたいことですか?」
「そうだ。あとは……俺を頼ってほしい。三椏が困った時、一番最初に思い浮かぶ人になりたいんだ」
返事に迷っていると、ソファから立ち上がった璃臣が「浴室に案内しよう。移動中の風で乾いたとはいえ、バケツの水をかぶったままは気分が良くないだろう?」と提案した。
(璃臣さんは見返りを求めなくても……私が、私に出来ることを考えないと)
渡された和紙を見つめ、何ができるだろうと三椏は考えた。
*
「エヴァン……あ、叔父さんが帰ってきたみたいだ」
「当主様ですね」
風呂で濡れた体を洗い、璃臣が用意してくれた新しい着物に三椏は着替えた。ツギハギどころかほつれもない、刺繍の美しい絹の着物に恐縮したが「これしかないから」と璃臣は譲らなかった。
璃臣の操る風で髪を乾かしてもらってから、邸の中を一通り案内してもらう。それが終わった頃、朔月家当主であるエヴァンが帰ってきた。三椏が璃臣のあとについて行くと、エヴァンは自室でコートを脱いだところだった。
「おかえり」
璃臣の声に「あぁ」とエヴァンは短く答えた。三椏の姿を認めると「連れてきたんだな」と璃臣へ確認した。
「お初にお目にかかります、三椏と申します」
頭を下げると、衣擦れの音が聞こえる。
「面を上げろ」
言われた通りにすると、頭ひとつ高い場所からエヴァンに見下されていた。あまりジロジロと見てはいけない、失礼だと三椏の心は叫ぶのに、目が離せない。少しだけ目を細め、エヴァンは呟くように言った。
「──お前は、どちらを選ぶのだろうな?」
(何のことだろう)
その真意が分からず、聞き返していいのか迷っているうちにエヴァンは立ち上がり、廊下の奥へ行ってしまった。
「叔父さんは物静かなタイプなんだ。でも、両親を亡くした俺を引き取ったり、俺が三椏を迎えに行きたいと言ったら賛成してくれた優しい人だよ」
「そうだったのですね」
家まで来て交渉してくれた時から、表情や声色から感情は分かりづらかったが、敵意の類を感じなかった。璃臣の言う通り優しい人なのだろう。それよりも、璃臣の話で気になることがあった。
(璃臣さんは、ご両親を亡くされているのね)
こんなに小さいのにと考えて、三椏はまたひとつ疑問に思う。
(璃臣さんが自分のことを18歳だと言っていたのは、本当かしら)
「璃臣さん」
「どうした?」
「璃臣さんの年齢と見た目の印象が違うのは、理由があるんでしょうか?」
「やっぱり、気になるよな」
「はい……」
「理由はあるけど……今は言いたくないっていうのが本音だな。でも、折を見てきちんと話したいとは思っているんだ。それを待って欲しい」
「はい。承知いたしました」
三椏はエヴァンの向かった先に向いていた体を、璃臣へ向き直して頷いた。
「璃臣さんのことも、当主様のことも、少しずつ教えてくださいね」
「三椏はそれでいいのか?」
「はい。話したくないことは誰にもあると思うので。ここに住まわせていただきますし、時間はたくさんありますし」
「そ、そうか」
璃臣の表情がパッと明るくなる。
「何から教えたらいい?」
「……好きな食べ物とか?」
「そうだな。カステラが好きだ」
「……カステラは、私も好きです」
「だったら、今度一緒に食べよう」
心から喜んでいるような、あどけない璃臣の笑顔に、三椏はしばらく見惚れてしまった。
*
三椏の部屋だと案内されたのは、部屋の一部に畳張りの小上がりがある洋室だった。この部屋にも歴史を感じる、丁寧に手入れされてきた家具が並んでいる。
一人きりになり、三椏はほっと息をついた。時計の針によればここに来てまだ数時間らしいが、目まぐるしい夜だった。
「また明日」
そう挨拶をしたときの、璃臣の幸せそうな笑顔を思い出す。
(やっぱり似てる……違うって分かっているのに重ねてしまうわ)
璃臣は、三椏が幼い頃に出会った少年と似ている。あれはたしか7歳のころだ。彼は三椏の母が入院していた病院の中庭にいた。
ありふれた黒い髪に黒い瞳だというのに、今まで見たことがないくらい美しい子で、三椏は初めて見惚れるという状態に陥った。
初対面の彼は、大きな瞳に涙をいっぱいに浮かべており、男児用の着物を着ていなければ女の子だと思っただろう。きっと、この子も家族が入院していて、大変なんだろうと思って声をかけたのだ。
「どうしたの?」
「おかあさんが、げんきないの」
「わたしもいっしょ。でもきっとだいじょうぶ。つるにおねがいしたらね、かなえてくれるから」
「つる?」
「そうよ。おりがみでつくるの」
そうして、二人で折り鶴をつくって互いの母が回復することを願った。泣きべそをかいていた少年が、その日の終わりに微笑んでくれた時の感動を、三椏はいまだに覚えている。関わった期間はそんなに長くない。三椏の母が亡くなり、病院に行く機会もなくなってしまったからだ。
「もう、あえないの?」
「そうなの。だからね、つるをこうかんしよう?」
そうして二人は、一番上手に折れた鶴を交換し合ったのだ。
三椏は着物の帯の間から小さな巾着袋を取り出した。中には油紙と白い懐紙に包まれた折り鶴が入っている。年月が経ち、鮮やかな朱色は少し黄色がかっているものの、少し歪な折り目は当時のままで愛しい。
少年との時間は大事な思い出であり、特別な思い入れもある。辛い目にあっても、この折り鶴を見たり存在を感じるだけで三椏は心強く、明日も頑張ろうという気力をもらっていた。
でもなぜか、璃臣に出会ってから妙に落ち着かない気分になり、チクチクと心が痛むようにも思えてくる。今までも、少年はどんな風に成長したのだろうと妄想することはあったが、それすら後ろめたく思う。
(この気持ちの正体が、そのうち分かるかしら)
折り鶴を何度か撫でてから、油紙と懐紙で丁寧に包み直し、巾着に戻した。それをベッドサイドに置かれたテーブルの引き出しに入れてみるが、今度は隙間風が吹くような心細さを感じる。元通り、帯の間にはさむとしっくりきた。
(悪いことをしているわけじゃないし、いいかな)
大事なお守りなのだ。もう少し、心の支えになってほしいと祈るような気持ちで、三椏は目を閉じた。
*
璃臣と書類上の結婚を済ませ、彼の家で過ごし始めてから数日が経った。三椏の中で璃臣の印象は少しずつ変化していた。
最初は涼やかで冷静沈着な印象だったのが、少しずつ笑顔のみられる回数が増えていく。そのたびに三椏は緊張し、鼓動が速くなるのだ。
「三椏、葉っぱがついてる」
庭掃除をしながら、ちりとりに入った小石をよけていると、璃臣が三椏の頭に触れた。
「ありが……」
見上げると、璃臣の銀髪が陽の光を受けて細い光の筋のように輝いている。木漏れ日よりもまっすぐに届く、真摯な光だ。いつも見下ろしていた顔面を見上げると、受ける印象が異なる。愛らしい面立ちとばかり思っていたのに、慈しむような視線を真正面から受けてしまい、三椏の胸は高鳴った。
「三椏? どうした?」
「綺麗だなって、見惚れちゃったの」
「見惚れた? 俺に?」
頬を赤らめて頷いた三椏に、璃臣は瞬きをくり返す。それからしばらく呆けていたが、しみじみと喜びを噛み締めるように、ゆっくりと破顔した。
「三椏が俺に……うれしい」
三椏の体温が、また少し上がった。
こうして、互いに歩み寄る穏やかな時間が、三椏には心地よかった。夫婦というよりきょうだいと呼ぶ方が近い距離感だが、恋を知らない三椏にとってはありがたいことだった。夫婦になるということ。結婚後に求められる役割。話には聞いていたものの、それを自分が担う覚悟は、まだできていない。
(でも、世間から見れば白い結婚だと、白い目で見られてしまうのかしら)
*
少しずつ距離を縮める二人だったが、夜の吸血鬼退治だけは、三椏が関わることを璃臣はよしとしなかった。それはエヴァンも同様で、夜更けに出ていく二人を見送るしかできないのは、三椏にはじれったい。
「悪霊祓いよりも血なまぐさいから、見せたくないんだ」
式神のクウが役に立てないかと提案したものの、璃臣は困ったように微笑むだけだった。璃臣たちは使い魔と、自分の能力で吸血鬼を対峙する。つまり屑掃除がいらないのだ。三椏が同行しても役に立たないどころか、足手まといになってしまう。
「……ここでも役立たずだわ」
ただでさえ広く静かな邸は、一人になると余計にがらんとして見える。いつもは璃臣の息遣いや気配があれば、孤独を感じることはない。邸で過ごすようになってほんの一週間ほどだが、璃臣と過ごす前の自分には戻れないのだろうなと三椏は思う。一人でいることがこんなに心細かったなんて。まるで自分が弱くなってしまったようだ。
寂しさを紛らわせるために式神を呼ぼうとするが、それは自分の弱さを認めることになりそうで躊躇する。普段から、式神を呼んでいいと璃臣には言われている。和紙はいくらでも取り寄せられる、とも。
けれど、父と義母が冷たい声で話していた内容が忘れられないのだ。
──綴の里からまた値上げの知らせだ。
──後妻である私への当てつけに違いないわ。自分の娘が死んだからって、私にはなんの関係もないのに。陰湿よ。
──ずっと足元を見られている気はしていたんだ。そうだ、荒熊家に頼んでみるのはどうだ。あそこは最近、紙を機械で大量生産していると聞く。安価な割に丈夫らしいし、そちらに乗り換えよう。時代の流れだ。
そうして、綴の里の和紙が家からなくなり、三椏は式神が呼べなくなってしまった。
──母子揃って私を馬鹿にして! ふん、そんな小細工しても、あの和紙はもう手に入らないのよ!
怒り狂った義母に、鞭で背中を叩かれたのだ。
「──っ」
もうすっかり治ったはずの背中に当時の痛みが蘇り、三椏は自分を抱きしめるようにしてしゃがみこむ。今は不安に思わなくていいはずなのに。脅威にさらされていないのに。冷や汗が止まらない。震える指で巾着袋を取り出し胸に抱きながら、浅く速い呼吸を繰り返す。呼吸しているはずなのに、苦しい。
巾着袋に頬を擦り寄せた。ちりめんの凸凹とした感触に混じり、中で油紙と懐紙がカサカサと擦れる音がして、折り鶴の存在を感じる。
(あぁ、良かった。まだここにいる。ここに、ある)
優しい記憶と、この折り鶴を持ち続ければ、また少年に会えるのではないかというわずかな望み。それが三椏の呼吸を浅く早いものから深いものへ戻していく。
「三椏? どうした!」
いつのまに帰っていたのだろう。暗い部屋でうずくまっていた三椏に異変を感じたのか、駆け寄った璃臣に背中を抱きしめられた。
「璃臣さん……」
「帰るのが遅くなってごめん。何かあった? 今夜は冷えるのに暖も取らないで……風邪を引いてしまう」
「ちょっと……寂しくて」
「式神は? 心細さが和らぐならいくらでも呼べばいい」
「式札を無駄遣いしたくなくて……」
「無駄じゃない。一人で苦しそうな三椏を見るほうが俺も心配になる。クウもきっとそうだ。呼んでやったらいい」
子供特有の高い体温に、少しだけ早く脈打つ心臓。それらはひどく三椏を安心させる。
「それ、何?」
三椏の持つ巾着袋を見つけた璃臣の目線が、わずかに鋭くなる。
「これは……小さな頃からお守り代わりにしている鶴が入っているの。しんどい時に見ると落ち着くのよ」
「鶴? そうなんだ。少し妬けるな」
「え?」
「言っただろう? 三椏がつらい時、呼ばれるような存在に俺はなりたいんだ。お守りもいいけど、今心配してる俺のことも意識してほしい」
「分かったわ」
「本当に? ここまで苦しくなる前にクウを呼ぶんだぞ。苦しくなってからじゃ呼びにくいし、呼ぶ余裕もなくなるからな」
「ええ。……次は、そうするわ」
お守りだけに頼らないでいいのはとても心強い。けれど心の何処かで、なぜ璃臣が三椏に親切なのだろうという疑問がわく。
理由が分からないから、三椏は心を許すのに躊躇してしまう。突然伸ばされた手が、急に離れてしまったらという不安が拭えない。
もしそんなことになったら、次は本当に、一人で立つことができなくなってしまいそうだった。
「あ、これですか? 自然に治りますよ」
華燐の式神につけられた肩口の切り傷は、もう渇きかけているように見えた。
「俺が舐めたら、すぐに治る」
「ええ!? 舐める?」
「あ、そうか。驚くよな。すまない」
しゅんと肩を落とした璃臣が少し気の毒に見え、少し舐めるくらいならいいか、と三椏は考え直した。
「あの、やっぱりお願いします」
「いいのか?」
着物の袖を捲り上げ、肩口を覗かせて三椏は頷いた。璃臣のきれいな顔が近づいてくる。伏せた目を彩るまつ毛が豊かなのを意識してしまい、三椏の胸がきゅんと高鳴った。
小さな唇が患部に触れ、肌が軽く吸われる。ピリッとした痛みを感じたのは最初だけで、傷とその周囲の肌がほんのりと熱を持った。
対して、青白かった璃臣の肌がほんのりピンクになっている。その様子を見ていると自分の頬も赤くなってきたように感じて、三椏はなんだか照れくさくなってしまった。
「治ったと思うが、どうだ?」
「……はい! もう痛くありません」
「良かった。それにしても、三椏の家族は、なんであんなに偉そうなんだ?」
「私が式神を呼べないから……」
「子供の頃は呼んでたじゃないか」
三椏は目を丸くした。
「どうして知っているんですか?」
「見れば分かる。あの式札に使われている紙は質が悪い。紙の質は扉の大きさだ。小さい扉では、三椏の式神は出てこられない」
「すごい、詳しいんですね」
「こんななりだけど日本國生まれだから、式神もそこそこ詳しいんだ」
「なるほど」
「それに、西洋でも紙の質は大事なんだ。俺たちも、紙を使って使い魔を呼ぶからな」
「使い魔?」
「三椏にとっての式神みたいなもんだ」
「そう! オイラみたいな!」
ヒャハハと楽しげな笑い声が響き、部屋の中を何かが羽ばたく音がした。三椏が天井を見上げると、一匹のコウモリが旋回している。
「俺が呼ぶまで出てくるなって言ったのに」
「呼ぶのが遅すぎる!!」
「……三椏、コイツが使い魔のコンパス。この通り常に騒がしい。式神と違って、使い魔は契約が解消されるまで具現化されたままだからな」
「うらやましいです。璃臣さんの言う通り、昔は私も式神が呼べたんです。だけど新しい紙を使うようになったら、どうしても呼べなくて。それでも、実力者ならどんな紙でも式神を呼べるはずだ、って……」
もともと、式札には三椏の母の出身である綴の里ですいた和紙を使用していた。しかし母が亡くなってから、より安い工場製の紙へ変更されたのだ。
「機械で作った紙か。いろいろ問題があるんだが、意外と知られていないんだな」
「問題、ですか」
「そう。それは置いといて、これで呼んでみたらいい」
「これは……お母さんの和紙! どうしてこれを?」
「三椏が喜ぶと思って取り寄せたんだ」
璃臣が差し出したのは、綴の里で作られた和紙だった。
(もしかして……また式神を呼べるのかも)
渡されたハサミで人形に切り、できた式札を手のひらに載せた。期待が大きいのか、手が震えてくる。深呼吸をひとつして「姿を見せよ」と三椏は唱えた。光り始めた式札がフクロウの形になり、やがて光が弾けると、握り拳大の白いフクロウが現れた。
「ホゥ」
笑うようにきゅっと両目を細め、両翼を広げて三椏の肩に止まった。わぁ、と三椏が声を弾ませる。
「クウちゃん。本当に……呼べた……!」
「クゥ!」
「お前ら、良かったなあ!」
喜ぶ三椏とクウを見たコンパスが、満足そうに頷いた。そこで何かに気づいたように三椏はハッとして、璃臣に頭を下げた。
「ありがとうございます。お陰さまで式神と再会できました」
「良かった」
クウはそのまましばらく部屋で三椏と璃臣の様子を見守り、まるで挨拶ををするように「ホホーゥ!」と鳴いてから、光の粒のようになって消えた。
ちぎれた式札がやわらかな毛足の絨毯に舞い落ちる。三椏が拾い集めて念を込めると、雪が溶けたように透明になった。いつもの式札は二度三度と念をこめてやっと消えるから、全てを処理した後はへとへとだ。だけど今は、力を使ったという感覚すらない。
「和紙のほうが、残滓の処理がしやすいですね」
「それが職人技だ。これからも好きに呼んだらいい」
「でも、貴重な和紙を私ばかり使うのは……」
「遠慮するな。俺が持っていてほしいだけだ」
「でも……」
「そんなに気を使わなくていい。俺は、三椏がここで安心して過ごしてくれたらいい」
「まさか、それが私に頼みたいことですか?」
「そうだ。あとは……俺を頼ってほしい。三椏が困った時、一番最初に思い浮かぶ人になりたいんだ」
返事に迷っていると、ソファから立ち上がった璃臣が「浴室に案内しよう。移動中の風で乾いたとはいえ、バケツの水をかぶったままは気分が良くないだろう?」と提案した。
(璃臣さんは見返りを求めなくても……私が、私に出来ることを考えないと)
渡された和紙を見つめ、何ができるだろうと三椏は考えた。
*
「エヴァン……あ、叔父さんが帰ってきたみたいだ」
「当主様ですね」
風呂で濡れた体を洗い、璃臣が用意してくれた新しい着物に三椏は着替えた。ツギハギどころかほつれもない、刺繍の美しい絹の着物に恐縮したが「これしかないから」と璃臣は譲らなかった。
璃臣の操る風で髪を乾かしてもらってから、邸の中を一通り案内してもらう。それが終わった頃、朔月家当主であるエヴァンが帰ってきた。三椏が璃臣のあとについて行くと、エヴァンは自室でコートを脱いだところだった。
「おかえり」
璃臣の声に「あぁ」とエヴァンは短く答えた。三椏の姿を認めると「連れてきたんだな」と璃臣へ確認した。
「お初にお目にかかります、三椏と申します」
頭を下げると、衣擦れの音が聞こえる。
「面を上げろ」
言われた通りにすると、頭ひとつ高い場所からエヴァンに見下されていた。あまりジロジロと見てはいけない、失礼だと三椏の心は叫ぶのに、目が離せない。少しだけ目を細め、エヴァンは呟くように言った。
「──お前は、どちらを選ぶのだろうな?」
(何のことだろう)
その真意が分からず、聞き返していいのか迷っているうちにエヴァンは立ち上がり、廊下の奥へ行ってしまった。
「叔父さんは物静かなタイプなんだ。でも、両親を亡くした俺を引き取ったり、俺が三椏を迎えに行きたいと言ったら賛成してくれた優しい人だよ」
「そうだったのですね」
家まで来て交渉してくれた時から、表情や声色から感情は分かりづらかったが、敵意の類を感じなかった。璃臣の言う通り優しい人なのだろう。それよりも、璃臣の話で気になることがあった。
(璃臣さんは、ご両親を亡くされているのね)
こんなに小さいのにと考えて、三椏はまたひとつ疑問に思う。
(璃臣さんが自分のことを18歳だと言っていたのは、本当かしら)
「璃臣さん」
「どうした?」
「璃臣さんの年齢と見た目の印象が違うのは、理由があるんでしょうか?」
「やっぱり、気になるよな」
「はい……」
「理由はあるけど……今は言いたくないっていうのが本音だな。でも、折を見てきちんと話したいとは思っているんだ。それを待って欲しい」
「はい。承知いたしました」
三椏はエヴァンの向かった先に向いていた体を、璃臣へ向き直して頷いた。
「璃臣さんのことも、当主様のことも、少しずつ教えてくださいね」
「三椏はそれでいいのか?」
「はい。話したくないことは誰にもあると思うので。ここに住まわせていただきますし、時間はたくさんありますし」
「そ、そうか」
璃臣の表情がパッと明るくなる。
「何から教えたらいい?」
「……好きな食べ物とか?」
「そうだな。カステラが好きだ」
「……カステラは、私も好きです」
「だったら、今度一緒に食べよう」
心から喜んでいるような、あどけない璃臣の笑顔に、三椏はしばらく見惚れてしまった。
*
三椏の部屋だと案内されたのは、部屋の一部に畳張りの小上がりがある洋室だった。この部屋にも歴史を感じる、丁寧に手入れされてきた家具が並んでいる。
一人きりになり、三椏はほっと息をついた。時計の針によればここに来てまだ数時間らしいが、目まぐるしい夜だった。
「また明日」
そう挨拶をしたときの、璃臣の幸せそうな笑顔を思い出す。
(やっぱり似てる……違うって分かっているのに重ねてしまうわ)
璃臣は、三椏が幼い頃に出会った少年と似ている。あれはたしか7歳のころだ。彼は三椏の母が入院していた病院の中庭にいた。
ありふれた黒い髪に黒い瞳だというのに、今まで見たことがないくらい美しい子で、三椏は初めて見惚れるという状態に陥った。
初対面の彼は、大きな瞳に涙をいっぱいに浮かべており、男児用の着物を着ていなければ女の子だと思っただろう。きっと、この子も家族が入院していて、大変なんだろうと思って声をかけたのだ。
「どうしたの?」
「おかあさんが、げんきないの」
「わたしもいっしょ。でもきっとだいじょうぶ。つるにおねがいしたらね、かなえてくれるから」
「つる?」
「そうよ。おりがみでつくるの」
そうして、二人で折り鶴をつくって互いの母が回復することを願った。泣きべそをかいていた少年が、その日の終わりに微笑んでくれた時の感動を、三椏はいまだに覚えている。関わった期間はそんなに長くない。三椏の母が亡くなり、病院に行く機会もなくなってしまったからだ。
「もう、あえないの?」
「そうなの。だからね、つるをこうかんしよう?」
そうして二人は、一番上手に折れた鶴を交換し合ったのだ。
三椏は着物の帯の間から小さな巾着袋を取り出した。中には油紙と白い懐紙に包まれた折り鶴が入っている。年月が経ち、鮮やかな朱色は少し黄色がかっているものの、少し歪な折り目は当時のままで愛しい。
少年との時間は大事な思い出であり、特別な思い入れもある。辛い目にあっても、この折り鶴を見たり存在を感じるだけで三椏は心強く、明日も頑張ろうという気力をもらっていた。
でもなぜか、璃臣に出会ってから妙に落ち着かない気分になり、チクチクと心が痛むようにも思えてくる。今までも、少年はどんな風に成長したのだろうと妄想することはあったが、それすら後ろめたく思う。
(この気持ちの正体が、そのうち分かるかしら)
折り鶴を何度か撫でてから、油紙と懐紙で丁寧に包み直し、巾着に戻した。それをベッドサイドに置かれたテーブルの引き出しに入れてみるが、今度は隙間風が吹くような心細さを感じる。元通り、帯の間にはさむとしっくりきた。
(悪いことをしているわけじゃないし、いいかな)
大事なお守りなのだ。もう少し、心の支えになってほしいと祈るような気持ちで、三椏は目を閉じた。
*
璃臣と書類上の結婚を済ませ、彼の家で過ごし始めてから数日が経った。三椏の中で璃臣の印象は少しずつ変化していた。
最初は涼やかで冷静沈着な印象だったのが、少しずつ笑顔のみられる回数が増えていく。そのたびに三椏は緊張し、鼓動が速くなるのだ。
「三椏、葉っぱがついてる」
庭掃除をしながら、ちりとりに入った小石をよけていると、璃臣が三椏の頭に触れた。
「ありが……」
見上げると、璃臣の銀髪が陽の光を受けて細い光の筋のように輝いている。木漏れ日よりもまっすぐに届く、真摯な光だ。いつも見下ろしていた顔面を見上げると、受ける印象が異なる。愛らしい面立ちとばかり思っていたのに、慈しむような視線を真正面から受けてしまい、三椏の胸は高鳴った。
「三椏? どうした?」
「綺麗だなって、見惚れちゃったの」
「見惚れた? 俺に?」
頬を赤らめて頷いた三椏に、璃臣は瞬きをくり返す。それからしばらく呆けていたが、しみじみと喜びを噛み締めるように、ゆっくりと破顔した。
「三椏が俺に……うれしい」
三椏の体温が、また少し上がった。
こうして、互いに歩み寄る穏やかな時間が、三椏には心地よかった。夫婦というよりきょうだいと呼ぶ方が近い距離感だが、恋を知らない三椏にとってはありがたいことだった。夫婦になるということ。結婚後に求められる役割。話には聞いていたものの、それを自分が担う覚悟は、まだできていない。
(でも、世間から見れば白い結婚だと、白い目で見られてしまうのかしら)
*
少しずつ距離を縮める二人だったが、夜の吸血鬼退治だけは、三椏が関わることを璃臣はよしとしなかった。それはエヴァンも同様で、夜更けに出ていく二人を見送るしかできないのは、三椏にはじれったい。
「悪霊祓いよりも血なまぐさいから、見せたくないんだ」
式神のクウが役に立てないかと提案したものの、璃臣は困ったように微笑むだけだった。璃臣たちは使い魔と、自分の能力で吸血鬼を対峙する。つまり屑掃除がいらないのだ。三椏が同行しても役に立たないどころか、足手まといになってしまう。
「……ここでも役立たずだわ」
ただでさえ広く静かな邸は、一人になると余計にがらんとして見える。いつもは璃臣の息遣いや気配があれば、孤独を感じることはない。邸で過ごすようになってほんの一週間ほどだが、璃臣と過ごす前の自分には戻れないのだろうなと三椏は思う。一人でいることがこんなに心細かったなんて。まるで自分が弱くなってしまったようだ。
寂しさを紛らわせるために式神を呼ぼうとするが、それは自分の弱さを認めることになりそうで躊躇する。普段から、式神を呼んでいいと璃臣には言われている。和紙はいくらでも取り寄せられる、とも。
けれど、父と義母が冷たい声で話していた内容が忘れられないのだ。
──綴の里からまた値上げの知らせだ。
──後妻である私への当てつけに違いないわ。自分の娘が死んだからって、私にはなんの関係もないのに。陰湿よ。
──ずっと足元を見られている気はしていたんだ。そうだ、荒熊家に頼んでみるのはどうだ。あそこは最近、紙を機械で大量生産していると聞く。安価な割に丈夫らしいし、そちらに乗り換えよう。時代の流れだ。
そうして、綴の里の和紙が家からなくなり、三椏は式神が呼べなくなってしまった。
──母子揃って私を馬鹿にして! ふん、そんな小細工しても、あの和紙はもう手に入らないのよ!
怒り狂った義母に、鞭で背中を叩かれたのだ。
「──っ」
もうすっかり治ったはずの背中に当時の痛みが蘇り、三椏は自分を抱きしめるようにしてしゃがみこむ。今は不安に思わなくていいはずなのに。脅威にさらされていないのに。冷や汗が止まらない。震える指で巾着袋を取り出し胸に抱きながら、浅く速い呼吸を繰り返す。呼吸しているはずなのに、苦しい。
巾着袋に頬を擦り寄せた。ちりめんの凸凹とした感触に混じり、中で油紙と懐紙がカサカサと擦れる音がして、折り鶴の存在を感じる。
(あぁ、良かった。まだここにいる。ここに、ある)
優しい記憶と、この折り鶴を持ち続ければ、また少年に会えるのではないかというわずかな望み。それが三椏の呼吸を浅く早いものから深いものへ戻していく。
「三椏? どうした!」
いつのまに帰っていたのだろう。暗い部屋でうずくまっていた三椏に異変を感じたのか、駆け寄った璃臣に背中を抱きしめられた。
「璃臣さん……」
「帰るのが遅くなってごめん。何かあった? 今夜は冷えるのに暖も取らないで……風邪を引いてしまう」
「ちょっと……寂しくて」
「式神は? 心細さが和らぐならいくらでも呼べばいい」
「式札を無駄遣いしたくなくて……」
「無駄じゃない。一人で苦しそうな三椏を見るほうが俺も心配になる。クウもきっとそうだ。呼んでやったらいい」
子供特有の高い体温に、少しだけ早く脈打つ心臓。それらはひどく三椏を安心させる。
「それ、何?」
三椏の持つ巾着袋を見つけた璃臣の目線が、わずかに鋭くなる。
「これは……小さな頃からお守り代わりにしている鶴が入っているの。しんどい時に見ると落ち着くのよ」
「鶴? そうなんだ。少し妬けるな」
「え?」
「言っただろう? 三椏がつらい時、呼ばれるような存在に俺はなりたいんだ。お守りもいいけど、今心配してる俺のことも意識してほしい」
「分かったわ」
「本当に? ここまで苦しくなる前にクウを呼ぶんだぞ。苦しくなってからじゃ呼びにくいし、呼ぶ余裕もなくなるからな」
「ええ。……次は、そうするわ」
お守りだけに頼らないでいいのはとても心強い。けれど心の何処かで、なぜ璃臣が三椏に親切なのだろうという疑問がわく。
理由が分からないから、三椏は心を許すのに躊躇してしまう。突然伸ばされた手が、急に離れてしまったらという不安が拭えない。
もしそんなことになったら、次は本当に、一人で立つことができなくなってしまいそうだった。
