次の朝、いつものように三椏は朝の支度を済ませ、使用人に混ざって朝ごはんの準備をする。香ばしく焼けた魚、ふんわり層を重ねただし巻き卵、温かな味噌汁や粒の際立ったご飯……どれも三椏の口に入ることはない。
野菜の切れ端や葉っぱや料理の焦げた部分……使用人も手を付けない余り物が三椏の食事だった。しかも洗濯や外の掃除が終わってからのため、いつも冷えて固い。
そんないつも通りの朝から始まり、一日がかりで全ての家事をこなし、今日も疲れたと夜空を見上げた頃だった。
来客だと三椏が呼ばれたのは。
*
「三椏です」
入れと父の声がして障子を開け、客間に入る。新しい畳の敷き詰められた部屋の中央には、欅の一枚板で設えた座卓が鎮座している。その下座で、三椏の父が苦虫を噛んだように顔をしかめた。横に並ぶ義母と華燐も似たような表情だ。
「こちらが……三椏です」
上座に向かい正座のまま礼をして、頭を上げた三椏は驚きの余り目を見開いた。そこには璃臣と、彼をそのまま大人にしたような、美しい男性が座っていたからだ。二人とも皺ひとつない黒い着物に身を包んでおり、それがまたこの上なく似合っている。
どういう状況だろう、と三椏は両親と華燐に目を向けるが、誰とも目が合わない。探るように、ゆっくりと父が尋ねた。
「あの……やはり何かの間違いでは? 三椏が朔月様に嫁ぐなど」
「間違いではない」
璃臣の隣りに座る、美しい男性は静かに、けれども否定を許さない強さのこもった声で言った。美しい人は声までそうなのか、と思うくらい、耳に心地の良い凛とした声だ。そんな彼の視界に映るようになのか、華燐が身を乗り出して小首をかしげると、甘えるような声を出した。
「僭越ながら……私はいかがでしょう。きっとお役に立ってみせます」
「こら華燐! 勝手なことを言わないの」
「はぁい」
母にたしなめられ、華燐は背筋を伸ばして座り直した。
華燐は美しいものが好きだ。素直で人懐っこく、式神遣いとしての力もある。両親は華燐の望むものを望むまま、当たり前のように与えてきた。けれどもさすがに朔月様へ結婚をお願いするのは、気が引けるらしい。
(朔月様……吸血鬼退治が唯一できる方たち)
人々が恐れているのは、吸血衝動という吸血鬼の本能だ。死ぬまで血を求めて彷徨う上に普通の武器では倒せない。式神でも刃が立たない。純血の吸血鬼である朔月家の者しか、倒せないのだ。
だから政府のお偉方は、朔月家に多大なる信頼を置いて重用している。その証拠に、式神遣いのどの家系よりも高い位と、新月を意味する朔月の家名まで与えた。古くからの歴史がある式神遣いの家はみな──三椏の両親も、ぽっと出の朔月家に対抗意識を燃やしているのだ。
「何か勘違いをしているようだが、用があるのは三椏という娘だけだ。それから、婚姻を結ぶのは私ではない。甥の璃臣だ」
「え?」
朔月家当主の言葉に、三椏は思わず声が出た。反射的に璃臣へ視線を向けると、目が合って優しく微笑まれる。
(婚姻? 璃臣さんと? どういうこと?)
「なぜ三椏なのでしょう? 恐れながら三椏は何も……それこそ屑拾いしかできないような娘で」
混乱する三椏を代弁するように、父が恐る恐る尋ねた。理由が欠片ほども想像できないという様子だ。座卓に片肘をついた朔月の当主が面倒そうに息をつき、璃臣を一瞥する。小さく頷いてから、璃臣は口を開いた。
「三椏殿の、自分が傷つくのも構わずに他者を守ろうとする姿。そこに惹かれたのです」
「この子が、守る?」
「式神を呼んだあとの残滓を拾うことは、一番大事な仕事ではないでしょうか。それを軽視する家に未来はないと思いますが」
「……多少の屑が残り、それに惹かれる悪霊がいたとしても、倒せば良いのです。攻撃は防御を兼ねるものですから」
「そうですか。まぁ、月の力を借りなければ何もできない貴方がたと、僕らは相容れないのですから、方針の違いも当然でしょう」
父親の額に筋が浮く。「小僧が……」と呻くような声が漏れ出ているのを聞き、冷や汗が出る。
三椏たち飄風家は月齢三位という高位だ。
式神遣いたちの誇りである、式神を呼ぶということ。それは自身の念で式札を用いるのと同時に、月の力が大きく関係する。新月の夜は悪霊祓いが捗らない一方、満月はその何倍も力がみなぎると言われているのだ。
それに対し、朔月家が吸血鬼退治をするのに、月の力はいらないと言われている。そもそも悪霊相手の式神遣いと吸血鬼相手の璃臣たちでは、官位の種類が違うのではないか、というのが式神遣いの言い分だ。
けれど政府は同じ夜の安全を守る者として、璃臣たちの地位を定めた。しかもどの式神遣いたちよりも高位な──これまで式神遣いには与えられなかった、新月を──。
璃臣を品定めするように見据えたまま、父は言った。
「失礼ですが、璃臣様は結婚が可能な年齢といえないのでは?」
「これでも最近18になった。問題はないだろう」
「じゅ……」
父が言葉を失ったように、三椏も驚いた。吸血鬼は純血に近いほど若々しい姿でいる期間が長いという噂はあるものの、子供時代が長いというのは初耳だった。
「失礼ですが、本当に成人されているのですか?」
なおも食い下がる父を、朔月家の当主はジロリと睨みつけた。
「くどい。璃臣が決めたのだから、三椏には嫁いでもらう。持参金などはいらん。金はあっても使う当てがなくて持て余しているからな」
「……それならば、ふつつかな娘ですが、よろしくお願いいたします」
渋々といった様子で頭を下げた父だったが、声色は明るい。
三椏の知る限り、この家は金銭に困っていない。ただ、両親は三椏に対して金をかけることを極端に嫌がる。
タダで、しかもいけすかないとはいえ、月齢零位という最上位官位との関わりを持つことができる。厄介払いと同時に他家への牽制もできることを、父は内心喜んでいるに違いなかった。
*
婚姻届を記入し終え、璃臣たちは帰っていった。あまりにもトントン拍子に話が進んだことに、三椏は頭がついていかない。書類一枚──朔月家が政府に提出してくれるのだと言っていた──だけで、もう三椏と璃臣は夫婦となるのだ。
(数日後にまたいらっしゃると言っていたから、璃臣さんとゆっくり話せる時間があればいいわ)
璃臣がなぜ三椏を伴侶に指名したのか、全く心当たりがない。けれど三椏を視界に入れるたび、優しく目を細めてくれたから、人違いの類ではないような気がしている。……たぶん。
(確信が持てないからこそ、聞いてみたい)
目が冴えてしまい、縁側に座りながら三椏は思いふけっていた。ふいに、近づいてくる足音があった。誰だろうと振り返った瞬間、頭上から冷たい水がふってきた。どうやら、華燐がバケツいっぱいの水を三椏にかけたらしい。
「華燐? どうしてこんな……」
「どうして? 私が聞きたいわ」
三椏の言葉に被せ、華燐が一気にまくし立てた。
「別に羨ましいなんて思わないわ。当主様ならともかく、子供の面倒なんてごめんだもの。でも……でも! いらない者みたいに扱われたのは気分が悪いのよ! きっと、お姉様が小汚い格好で目立つせいね!」
だから、と華燐は着物の懐から式札を数枚取り出した。
「もっと汚してあげる! もういらないって言われるくらい! お姉様は一生この家にいて、屑拾いするのがお似合いなの! どうせ背中には醜い痕があるのだし、増えたって構わないでしょう?」
光を発し始めた式札は、くちばしの鋭い鳥の形に変化していく。
まさかここで式神を呼ぶつもりだろうか。驚いて腰が抜けたまま動けない体を叱咤して、三椏は無理やり後ずさる。それを嘲笑うように式神の鳥が飛んできて、三椏の左肩を掠めた。
「うっ……」
鋭い痛みが走る。着物と一緒に肌も切れてしまったらしい。
式神は術者の念力によって動く。三椏を憎らしいと思う華燐の念が強いのか、まるで火傷をした時のようなジクジクとした痛みが、傷口から腕全体に広がっていく。
「次は顔よ」
「や、やめて」
両腕で守るように顔を隠す。式神の鳥が羽ばたく音が近づき、三椏は覚悟を決めて目を閉じた。しかし後少しというところで、式神の鳥はふいと急旋回して華燐の元へ戻った。
「何で戻ってきてるのよ! もう一度!」
指示通りに飛んできた鳥が今度こそ三椏に触れる、という時だった。
どこに潜んでいたのか、四方八方から黒いものが飛んできた。大きさは握り拳ほど。華燐のくり出した式神の鳥に比べればずっと小さいものの、羽を大きく広げて集まりながら飛び、三椏の盾のようになる。羽ばたきの音に混ざり、キィキィと鳴く声が三椏にも聞こえてきた。
「コウモリ……?」
三椏にも何が何だか分からない。その隙に式神の鳥が体勢を立て直し、また三椏を目掛けて急降下する。流石にこれはコウモリでも対抗できないと三椏が再び目を閉じた瞬間、黒く渦を巻いた風が外から入り込んだ。それは三椏の隣で大きな一塊になる。それが一気に弾け、中から人が現れた。
「璃臣さん!?」
先ほど帰路に着いたはずの、璃臣がそこにいた。燃えるような赤色の瞳で、華燐とその式神を睨みつけている。
「何をしている?」
剥き出しの怒りが声に乗っているようだ。
「っ、式神!」
華燐が式神の鳥を振り仰ぎ、璃臣を指差す。怯んでいた式神が大きく羽ばたき、天井まで上昇した勢いのまま璃臣へ向けて滑空する。
「──失せろ」
先ほどよりも低い声で璃臣が見据えると、式神は「キィ!」と一声鳴いてから姿を消した。
「三椏は大事な花嫁だ。傷つけることは俺が許さない」
「な、……でも!」
「言い訳は聞いていない」
「申し訳ございません!」
騒ぎを聞きつけたのか、両親が駆けつけると、華燐を庇うように立った。父親に至っては璃臣に向かって土下座をしている。怒りを抑え込むように握った拳を震わせたまま、璃臣は言った。
「少し様子を伺っていたが、ここは三椏が安息できる場所ではないようだ。急ではあるが、今から朔月家へ招くことにする」
「華燐は……三椏を監督していたに違いありません。嫁ぐにあたって粗相があってはいけませんから」
「未婚の妹に嫁入りの指導を受けるなんて、聞いたことがないぞ」
母の言い訳を璃臣が一蹴する。父親の額には脂汗が浮き始めた。
「いや、しかし、婚前の男女が……」
「さっきは俺を子供扱いしていたというのに、婚前の男女だと? 叔父もいる家で手を出すような真似はしない。それよりこんな傷を負わせて、この家が安全だとまだ言い張るのか?」
三椏の肩の傷を指さして尋ねた璃臣に、両親は何も言い返せない。子供だと侮っていた璃臣の力が予想以上だったことに平伏している。ため息をついた璃臣が三椏に視線を移し、初めて目元を和らげた。
「三椏、俺と一緒に来てほしい」
「あの、でも……」
「安全な場所で、傷の手当をしよう。それに、三椏にしか頼めないこともあるんだ。だから一緒に来てほしい」
じっと見つめてくる璃臣の瞳は、真剣そのものだった。
(私が、璃臣さんの助けになる?)
いつも役立たずと罵られていたが、三椏も誰かの役に立ち、感謝されたいとずっと思っていた。それが果たせるというのなら──。
(私が有効活用できるなら、璃臣さんと一緒に行きたい……)
三椏が頷くのを確認した璃臣は腰をかがめ、座りこんだままの三椏を抱きしめた。
「少しの間、目を閉じていてくれないか」
自分より高い体温に安心した三椏は、小さく頷いて瞳を閉じた。
周囲で風が吹いているようだと思った瞬間、体がふわりと浮く気配がした。
*
「もう平気だ。目を開けていい」
耳元で璃臣の声を聞き、そっと目を開けた三椏は、洋館の一室と思われる部屋にいた。日本家屋とは違う、高い天井に圧倒される。柱や家具には繊細な彫刻がされていた。
「ここは……迎賓館ですか?」
華燐が両親と共に迎賓館へ呼ばれたことがあり、そこがどんなに美しく先進的であったか、留守番だった三椏に自慢していたのを思い出す。
「いいや。俺と叔父さんの家だ。今日から三椏の家にもなる」
「私……?」
目を丸くしたまま、三椏は部屋の中を改めて見渡す。見慣れない洋風の家具ばかりだが、不思議とよそよそしさは感じない。おそらく、長く大事に使われてきたのだろう。懐っこいと言いたくなるような、独特の親しみやすさをまとっている。毛足の長い絨毯は畳とは違う柔らかさで心地よい。異国情緒あふれる室内を流れる空気は、からりと晴れた冬の朝のような清々しい香りがして呼吸がしやすい。
「こちらへ」
応接間と思われる部屋に案内され、ソファという椅子に座るよう促される。その座面の柔らかさに、煎餅座布団しか知らない三椏は息を飲んだ。その様子に璃臣が微笑む。
「珍しい?」
「は、はい。こんなに座り心地がいいのは初めてで」
「それは良かった。──攫うように連れてきてしまって、悪かった。でも、俺はもう嫌だったんだ。あの家に三椏を置いていくのは」
三椏は首を横に振った。
「……私のために、怒ってくださったんですね」
「っ、だってあいつら、三椏のことを傷つけるのに、あまりにも躊躇がない!」
膝のうえで組んだ璃臣の両手がわずかに震えている。
「お気遣いありがとうございます。私が不甲斐ないだけなのに、璃臣さんにご迷惑をかけてしまいました」
「不甲斐ない? 違う。三椏は何も悪くない」
「……どうして璃臣さんは、そんなに親切なんですか?」
自分たちの接点は、池で出会うまでなかったはずだ。しかし、璃臣はまるでずっと昔から知っているかのような、懐かしそうな瞳で三椏を見つめている。
「三椏が好きだからだよ」
「す、……え?」
「俺、三椏の愛しいところ、たくさん言えるよ」
その言葉が本当だと言わんばかりの、とろけるような笑顔だった。三椏は目を瞬いた。
(もう、私を慈しんでくれる人なんていないと思っていたのに)
無条件で愛された記憶は、実の母だけ。あたたかな好意を向けてくれたのは、折り鶴を交換し合った少年だけだった。
どちらも、もう会えない。母は早くに亡くしてしまった。少年は生きているだろうが、もうすっかり大人になり、すれ違っても彼だと分からないだろう。
大人びた物言いや態度が思いのほかしっくりくる、見た目よりも成熟している璃臣。そんな彼は、三椏のことが好きだと言う。
(お母さんやあの男の子には、感謝を返せないままになってしまったから……璃臣さんには、ちゃんと返していきたい。そのために、もっと璃臣さんについて知りたい)
そう三椏は心に決めた。
野菜の切れ端や葉っぱや料理の焦げた部分……使用人も手を付けない余り物が三椏の食事だった。しかも洗濯や外の掃除が終わってからのため、いつも冷えて固い。
そんないつも通りの朝から始まり、一日がかりで全ての家事をこなし、今日も疲れたと夜空を見上げた頃だった。
来客だと三椏が呼ばれたのは。
*
「三椏です」
入れと父の声がして障子を開け、客間に入る。新しい畳の敷き詰められた部屋の中央には、欅の一枚板で設えた座卓が鎮座している。その下座で、三椏の父が苦虫を噛んだように顔をしかめた。横に並ぶ義母と華燐も似たような表情だ。
「こちらが……三椏です」
上座に向かい正座のまま礼をして、頭を上げた三椏は驚きの余り目を見開いた。そこには璃臣と、彼をそのまま大人にしたような、美しい男性が座っていたからだ。二人とも皺ひとつない黒い着物に身を包んでおり、それがまたこの上なく似合っている。
どういう状況だろう、と三椏は両親と華燐に目を向けるが、誰とも目が合わない。探るように、ゆっくりと父が尋ねた。
「あの……やはり何かの間違いでは? 三椏が朔月様に嫁ぐなど」
「間違いではない」
璃臣の隣りに座る、美しい男性は静かに、けれども否定を許さない強さのこもった声で言った。美しい人は声までそうなのか、と思うくらい、耳に心地の良い凛とした声だ。そんな彼の視界に映るようになのか、華燐が身を乗り出して小首をかしげると、甘えるような声を出した。
「僭越ながら……私はいかがでしょう。きっとお役に立ってみせます」
「こら華燐! 勝手なことを言わないの」
「はぁい」
母にたしなめられ、華燐は背筋を伸ばして座り直した。
華燐は美しいものが好きだ。素直で人懐っこく、式神遣いとしての力もある。両親は華燐の望むものを望むまま、当たり前のように与えてきた。けれどもさすがに朔月様へ結婚をお願いするのは、気が引けるらしい。
(朔月様……吸血鬼退治が唯一できる方たち)
人々が恐れているのは、吸血衝動という吸血鬼の本能だ。死ぬまで血を求めて彷徨う上に普通の武器では倒せない。式神でも刃が立たない。純血の吸血鬼である朔月家の者しか、倒せないのだ。
だから政府のお偉方は、朔月家に多大なる信頼を置いて重用している。その証拠に、式神遣いのどの家系よりも高い位と、新月を意味する朔月の家名まで与えた。古くからの歴史がある式神遣いの家はみな──三椏の両親も、ぽっと出の朔月家に対抗意識を燃やしているのだ。
「何か勘違いをしているようだが、用があるのは三椏という娘だけだ。それから、婚姻を結ぶのは私ではない。甥の璃臣だ」
「え?」
朔月家当主の言葉に、三椏は思わず声が出た。反射的に璃臣へ視線を向けると、目が合って優しく微笑まれる。
(婚姻? 璃臣さんと? どういうこと?)
「なぜ三椏なのでしょう? 恐れながら三椏は何も……それこそ屑拾いしかできないような娘で」
混乱する三椏を代弁するように、父が恐る恐る尋ねた。理由が欠片ほども想像できないという様子だ。座卓に片肘をついた朔月の当主が面倒そうに息をつき、璃臣を一瞥する。小さく頷いてから、璃臣は口を開いた。
「三椏殿の、自分が傷つくのも構わずに他者を守ろうとする姿。そこに惹かれたのです」
「この子が、守る?」
「式神を呼んだあとの残滓を拾うことは、一番大事な仕事ではないでしょうか。それを軽視する家に未来はないと思いますが」
「……多少の屑が残り、それに惹かれる悪霊がいたとしても、倒せば良いのです。攻撃は防御を兼ねるものですから」
「そうですか。まぁ、月の力を借りなければ何もできない貴方がたと、僕らは相容れないのですから、方針の違いも当然でしょう」
父親の額に筋が浮く。「小僧が……」と呻くような声が漏れ出ているのを聞き、冷や汗が出る。
三椏たち飄風家は月齢三位という高位だ。
式神遣いたちの誇りである、式神を呼ぶということ。それは自身の念で式札を用いるのと同時に、月の力が大きく関係する。新月の夜は悪霊祓いが捗らない一方、満月はその何倍も力がみなぎると言われているのだ。
それに対し、朔月家が吸血鬼退治をするのに、月の力はいらないと言われている。そもそも悪霊相手の式神遣いと吸血鬼相手の璃臣たちでは、官位の種類が違うのではないか、というのが式神遣いの言い分だ。
けれど政府は同じ夜の安全を守る者として、璃臣たちの地位を定めた。しかもどの式神遣いたちよりも高位な──これまで式神遣いには与えられなかった、新月を──。
璃臣を品定めするように見据えたまま、父は言った。
「失礼ですが、璃臣様は結婚が可能な年齢といえないのでは?」
「これでも最近18になった。問題はないだろう」
「じゅ……」
父が言葉を失ったように、三椏も驚いた。吸血鬼は純血に近いほど若々しい姿でいる期間が長いという噂はあるものの、子供時代が長いというのは初耳だった。
「失礼ですが、本当に成人されているのですか?」
なおも食い下がる父を、朔月家の当主はジロリと睨みつけた。
「くどい。璃臣が決めたのだから、三椏には嫁いでもらう。持参金などはいらん。金はあっても使う当てがなくて持て余しているからな」
「……それならば、ふつつかな娘ですが、よろしくお願いいたします」
渋々といった様子で頭を下げた父だったが、声色は明るい。
三椏の知る限り、この家は金銭に困っていない。ただ、両親は三椏に対して金をかけることを極端に嫌がる。
タダで、しかもいけすかないとはいえ、月齢零位という最上位官位との関わりを持つことができる。厄介払いと同時に他家への牽制もできることを、父は内心喜んでいるに違いなかった。
*
婚姻届を記入し終え、璃臣たちは帰っていった。あまりにもトントン拍子に話が進んだことに、三椏は頭がついていかない。書類一枚──朔月家が政府に提出してくれるのだと言っていた──だけで、もう三椏と璃臣は夫婦となるのだ。
(数日後にまたいらっしゃると言っていたから、璃臣さんとゆっくり話せる時間があればいいわ)
璃臣がなぜ三椏を伴侶に指名したのか、全く心当たりがない。けれど三椏を視界に入れるたび、優しく目を細めてくれたから、人違いの類ではないような気がしている。……たぶん。
(確信が持てないからこそ、聞いてみたい)
目が冴えてしまい、縁側に座りながら三椏は思いふけっていた。ふいに、近づいてくる足音があった。誰だろうと振り返った瞬間、頭上から冷たい水がふってきた。どうやら、華燐がバケツいっぱいの水を三椏にかけたらしい。
「華燐? どうしてこんな……」
「どうして? 私が聞きたいわ」
三椏の言葉に被せ、華燐が一気にまくし立てた。
「別に羨ましいなんて思わないわ。当主様ならともかく、子供の面倒なんてごめんだもの。でも……でも! いらない者みたいに扱われたのは気分が悪いのよ! きっと、お姉様が小汚い格好で目立つせいね!」
だから、と華燐は着物の懐から式札を数枚取り出した。
「もっと汚してあげる! もういらないって言われるくらい! お姉様は一生この家にいて、屑拾いするのがお似合いなの! どうせ背中には醜い痕があるのだし、増えたって構わないでしょう?」
光を発し始めた式札は、くちばしの鋭い鳥の形に変化していく。
まさかここで式神を呼ぶつもりだろうか。驚いて腰が抜けたまま動けない体を叱咤して、三椏は無理やり後ずさる。それを嘲笑うように式神の鳥が飛んできて、三椏の左肩を掠めた。
「うっ……」
鋭い痛みが走る。着物と一緒に肌も切れてしまったらしい。
式神は術者の念力によって動く。三椏を憎らしいと思う華燐の念が強いのか、まるで火傷をした時のようなジクジクとした痛みが、傷口から腕全体に広がっていく。
「次は顔よ」
「や、やめて」
両腕で守るように顔を隠す。式神の鳥が羽ばたく音が近づき、三椏は覚悟を決めて目を閉じた。しかし後少しというところで、式神の鳥はふいと急旋回して華燐の元へ戻った。
「何で戻ってきてるのよ! もう一度!」
指示通りに飛んできた鳥が今度こそ三椏に触れる、という時だった。
どこに潜んでいたのか、四方八方から黒いものが飛んできた。大きさは握り拳ほど。華燐のくり出した式神の鳥に比べればずっと小さいものの、羽を大きく広げて集まりながら飛び、三椏の盾のようになる。羽ばたきの音に混ざり、キィキィと鳴く声が三椏にも聞こえてきた。
「コウモリ……?」
三椏にも何が何だか分からない。その隙に式神の鳥が体勢を立て直し、また三椏を目掛けて急降下する。流石にこれはコウモリでも対抗できないと三椏が再び目を閉じた瞬間、黒く渦を巻いた風が外から入り込んだ。それは三椏の隣で大きな一塊になる。それが一気に弾け、中から人が現れた。
「璃臣さん!?」
先ほど帰路に着いたはずの、璃臣がそこにいた。燃えるような赤色の瞳で、華燐とその式神を睨みつけている。
「何をしている?」
剥き出しの怒りが声に乗っているようだ。
「っ、式神!」
華燐が式神の鳥を振り仰ぎ、璃臣を指差す。怯んでいた式神が大きく羽ばたき、天井まで上昇した勢いのまま璃臣へ向けて滑空する。
「──失せろ」
先ほどよりも低い声で璃臣が見据えると、式神は「キィ!」と一声鳴いてから姿を消した。
「三椏は大事な花嫁だ。傷つけることは俺が許さない」
「な、……でも!」
「言い訳は聞いていない」
「申し訳ございません!」
騒ぎを聞きつけたのか、両親が駆けつけると、華燐を庇うように立った。父親に至っては璃臣に向かって土下座をしている。怒りを抑え込むように握った拳を震わせたまま、璃臣は言った。
「少し様子を伺っていたが、ここは三椏が安息できる場所ではないようだ。急ではあるが、今から朔月家へ招くことにする」
「華燐は……三椏を監督していたに違いありません。嫁ぐにあたって粗相があってはいけませんから」
「未婚の妹に嫁入りの指導を受けるなんて、聞いたことがないぞ」
母の言い訳を璃臣が一蹴する。父親の額には脂汗が浮き始めた。
「いや、しかし、婚前の男女が……」
「さっきは俺を子供扱いしていたというのに、婚前の男女だと? 叔父もいる家で手を出すような真似はしない。それよりこんな傷を負わせて、この家が安全だとまだ言い張るのか?」
三椏の肩の傷を指さして尋ねた璃臣に、両親は何も言い返せない。子供だと侮っていた璃臣の力が予想以上だったことに平伏している。ため息をついた璃臣が三椏に視線を移し、初めて目元を和らげた。
「三椏、俺と一緒に来てほしい」
「あの、でも……」
「安全な場所で、傷の手当をしよう。それに、三椏にしか頼めないこともあるんだ。だから一緒に来てほしい」
じっと見つめてくる璃臣の瞳は、真剣そのものだった。
(私が、璃臣さんの助けになる?)
いつも役立たずと罵られていたが、三椏も誰かの役に立ち、感謝されたいとずっと思っていた。それが果たせるというのなら──。
(私が有効活用できるなら、璃臣さんと一緒に行きたい……)
三椏が頷くのを確認した璃臣は腰をかがめ、座りこんだままの三椏を抱きしめた。
「少しの間、目を閉じていてくれないか」
自分より高い体温に安心した三椏は、小さく頷いて瞳を閉じた。
周囲で風が吹いているようだと思った瞬間、体がふわりと浮く気配がした。
*
「もう平気だ。目を開けていい」
耳元で璃臣の声を聞き、そっと目を開けた三椏は、洋館の一室と思われる部屋にいた。日本家屋とは違う、高い天井に圧倒される。柱や家具には繊細な彫刻がされていた。
「ここは……迎賓館ですか?」
華燐が両親と共に迎賓館へ呼ばれたことがあり、そこがどんなに美しく先進的であったか、留守番だった三椏に自慢していたのを思い出す。
「いいや。俺と叔父さんの家だ。今日から三椏の家にもなる」
「私……?」
目を丸くしたまま、三椏は部屋の中を改めて見渡す。見慣れない洋風の家具ばかりだが、不思議とよそよそしさは感じない。おそらく、長く大事に使われてきたのだろう。懐っこいと言いたくなるような、独特の親しみやすさをまとっている。毛足の長い絨毯は畳とは違う柔らかさで心地よい。異国情緒あふれる室内を流れる空気は、からりと晴れた冬の朝のような清々しい香りがして呼吸がしやすい。
「こちらへ」
応接間と思われる部屋に案内され、ソファという椅子に座るよう促される。その座面の柔らかさに、煎餅座布団しか知らない三椏は息を飲んだ。その様子に璃臣が微笑む。
「珍しい?」
「は、はい。こんなに座り心地がいいのは初めてで」
「それは良かった。──攫うように連れてきてしまって、悪かった。でも、俺はもう嫌だったんだ。あの家に三椏を置いていくのは」
三椏は首を横に振った。
「……私のために、怒ってくださったんですね」
「っ、だってあいつら、三椏のことを傷つけるのに、あまりにも躊躇がない!」
膝のうえで組んだ璃臣の両手がわずかに震えている。
「お気遣いありがとうございます。私が不甲斐ないだけなのに、璃臣さんにご迷惑をかけてしまいました」
「不甲斐ない? 違う。三椏は何も悪くない」
「……どうして璃臣さんは、そんなに親切なんですか?」
自分たちの接点は、池で出会うまでなかったはずだ。しかし、璃臣はまるでずっと昔から知っているかのような、懐かしそうな瞳で三椏を見つめている。
「三椏が好きだからだよ」
「す、……え?」
「俺、三椏の愛しいところ、たくさん言えるよ」
その言葉が本当だと言わんばかりの、とろけるような笑顔だった。三椏は目を瞬いた。
(もう、私を慈しんでくれる人なんていないと思っていたのに)
無条件で愛された記憶は、実の母だけ。あたたかな好意を向けてくれたのは、折り鶴を交換し合った少年だけだった。
どちらも、もう会えない。母は早くに亡くしてしまった。少年は生きているだろうが、もうすっかり大人になり、すれ違っても彼だと分からないだろう。
大人びた物言いや態度が思いのほかしっくりくる、見た目よりも成熟している璃臣。そんな彼は、三椏のことが好きだと言う。
(お母さんやあの男の子には、感謝を返せないままになってしまったから……璃臣さんには、ちゃんと返していきたい。そのために、もっと璃臣さんについて知りたい)
そう三椏は心に決めた。
