皇帝の謁見の間は広く、静かだった。
刃は跪いて、皇帝の言葉を待った。謁見の間に来たのは、処刑人として命令を受け取るためだけだった。跪く理由が命令の受領ではなく、命令への背反の説明であることは、十六年間で初めてだった。石畳の冷たさが膝に伝わってきた。いつもと同じ石畳の冷たさだったが、今日は重さが違った。
「命令に背いた理由を述べよ」と皇帝は言った。声に怒りはなく、ただ確認するような口調だった。
「対象者の罪状に、疑義があります」と刃は言った。
「罪状は主人への不敬とのことでしたが、内容を確認したところ、筆頭女官の不正を指摘したことへの報復である可能性があります」
「筆頭女官の不正とは」
「帳簿の改ざんです。対象者が目撃し、別の女官に話したところ、柊に伝わり処刑命令が出ました。処刑の前に調査が必要と判断しました」
皇帝は沈黙した。長い沈黙だった。謁見の間の静けさの中に、刃の声だけが残っていた。
「お前が十六年間、命令に背いたことは一度もなかった」と皇帝はやがて言った。
「はい」
「なぜ今回だけ」
刃は答えられなかった。帳簿の改ざんは理由になる。だがそれだけが理由ではないことを、自分でも知っていた。謁見の間の床が、視界の端に見えた。石畳の冷たさが続いていた。
「調査を許可する」と皇帝は言った。
「ただし、対象者の処遇は調査結果次第だ。不正が証明されなければ、命令は執行される」
「承知しました」と刃は言って、頭を下げた。
謁見の間を出て、廊下を歩きながら、刃はなぜ今回だけ、という問いを繰り返した。帳簿の改ざんだけが理由ではないことを、皇帝も知っていたはずだった。知った上で、追及しなかった。なぜ追及しなかったのかを考えながら、刃は廊下を歩いた。皇帝は十六年間の忠誠を、一度の背反で消すほど薄くは見ていないのかもしれなかった。あるいは、今この瞬間に刃を処分することの損失を計算しているのかもしれなかった。どちらであっても、刃には関係なかった。調査の許可が出た。それで十分だった。
だが廊下の途中で、刃は一度足を止めた。なぜ今回だけ、という問いが、まだ頭の中にあった。皇帝への答えを出せなかっただけでなく、自分への答えも出ていなかった。廊下の石畳が、謁見の間と同じ冷たさで続いていた。足を止めた理由はなかった。ただ、止まった。答えが出ないまま、刃は歩き始めた。
詰め所に戻ると、澪は銀河と向き合って座っていた。
銀河が何かを話しかけていて、澪は静かに聞いていた。二人の間の空気は、刃が出ていく前と変わっていなかった。処刑人の詰め所に下女が座っているという状況を、銀河はすでに受け入れ始めていた。
「帳簿の改ざんを、どうやって知った」と刃は澪に聞いた。
「見ただけです」と澪は言った。
「翠妃様の膳の費用と、実際の品の価格が合っていなかった。差額が柊様の個人的な記録に入っていた。一度見たら忘れられないので」
「数字を覚えているのか」
「見たものは全部覚えています。帳簿も、人の顔も、話した内容も」
刃は澪を見た。後宮の下女がそういう能力を持っていることの意味を、刃は処刑人としての目で考えた。そういう能力は、後宮では危険だ。正確に記憶する人間は、見てはいけないものを見たとき、消される。それが後宮の論理だった。澪が処刑命令を受けた理由も、同じ論理だった。
「他に何を覚えている」と刃は聞いた。
澪は少し考えた。
「後宮に入ってからの三ヶ月で、不審な動きをした人間の顔と行動を全員覚えています。柊様だけでなく、他の女官や妃嬪の方々も含めて」
「全員か」
「はい。一度見れば忘れません。後宮の廊下で誰かとすれ違うたびに、その人間の動きと時刻が記録されていく感じがします。意図してそうしているわけではないんですが、気づくとそうなっています」
刃は銀河を見た。銀河は「これ、かなり大事なやつですよね」と言った。
「調査に協力しろ」と刃は澪に言った。
「協力したら、私はどうなりますか」と澪は聞いた。視線が刃に向いていた。怯えていなかった。ただ確認していた。この女はいつも確認する。感情ではなく、事実を確かめる。
「生きる」と刃は言った。
澪はしばらく刃を見ていた。視線が刃の顔の上で止まって、何かを読んでいた。表情を読んでいるのか、それとも別の何かを読んでいるのか、刃にはわからなかった。
「わかりました」と澪は言った。
調査は一週間かかった。
その間、澪は刃の詰め所に滞在した。処刑人の詰め所に下女が住んでいるという状況を、銀河は困惑しながら受け入れた。詰め所の外では、後宮の女官たちが刃の詰め所の前を通るたびに足を速めた。血刃の詰め所に女が匿われているという話は、後宮の中でも外でも広まっていた。
刃は澪に対して、必要なことしか話さなかった。食事は出した。寝る場所を確保した。調査に必要な質問はした。それ以外は関わらなかった。澪が何かを求めたとき以外、刃から澪に話しかけることはなかった。それが澪のためかどうかは、刃にはわからなかった。ただ、距離を保つことが自然だった。
澪は不満を言わなかった。静かに与えられた空間にいて、求められたことに答えた。調査の質問には正確に答えた。覚えている数字を一つも間違えずに答えた。覚えている顔と行動を、時刻まで含めて正確に答えた。その精度が高すぎて、銀河が「これ全部本当に覚えているんですか」と聞いた。「はい」と澪は言った。それだけだった。
ただ一度だけ、刃が夜遅くまで命令書を読んでいるのを見て、「眠らないんですか」と澪は聞いた。
「必要ない」と刃は言った。
「それは嘘ですね」と澪は言った。
「目が赤いです」
刃は何も言わなかった。目が赤いという事実に、反論できなかった。反論するつもりもなかった。ただ、澪がそれに気づいたことが、刃の頭の中に残った。
翌朝、澪が目を覚ますと、刃は机で眠っていた。澪はその様子を見て、しばらく動かなかった。処刑人が眠れないのは、処刑の前だけではないのかもしれないと思った。この男は詰め所でも眠れない夜がある。眠れない夜に机で過ごして、気づかないうちに眠る。そういう夜を、何年間続けてきたのか。澪は刃の眠っている顔を見た。起こさないようにして、静かに水を汲みに行った。
調査の三日目、柊が詰め所に来た。
扉を開けて入ってきた柊は、詰め所の中を一度見渡した。澪が机の前に座って書き物をしていた。銀河が隅に立ち、刃が正面に立った。
「処刑人が後宮の女を匿うことは、規律違反だ」と柊は言った。
「皇帝の許可がある」と刃は言った。
「調査が終われば、その娘は処刑される。それは変わらない」
「調査が終わってから考える」
柊は刃を見た。四十二年間、後宮の規律の中で生きてきた人間の顔だった。
「十六年間、あなたは命令通りに動いてきた。なぜ今回だけ」
刃は答えなかった。
「あの娘が何を言ったか知らないが」と柊は続けた。
「後宮の規律は、感情で曲げていいものじゃない。あなたはそれを一番わかっているはずだ。処刑人として十六年間、それを体で知っているはずだ」
「俺が曲げているのは感情ではない」と刃は言った。
「では何だ」
「まだわからない」と刃は言った。正直な答えだった。嘘をつく理由がなかった。
柊は刃を見た。何かを言おうとして、止めた。刃の答えが嘘ではないことを、柊も読んだのかもしれなかった。制度を信じている人間と、制度の外に踏み出した人間が、詰め所の中で向き合っていた。どちらも正しいと思っていた。どちらも間違っていないと思っていた。それだけに、話が続かなかった。
柊は詰め所を出た。扉が閉まって、部屋の中に沈黙が戻った。
刃は澪を見た。澪が机の前で手を止めていた。柊が来た間、ずっと手を止めていたことに、刃は気づいた。書き物の途中で手が止まったまま、紙の上に置かれていた。柊の言葉を聞いていたのだ。調査が終われば処刑される、という言葉を。その言葉を受け取った澪の手が、紙の上で静止していた。
刃は何も言わなかった。言うべき言葉がわからなかった。調査が終われば処刑される、という柊の言葉は正しかった。皇帝の許可は調査のためであり、澪の保護のためではなかった。その事実を、澪はすでに知っていた。知っていて、今その手が止まっていた。
澪はやがて手を動かした。書き物を再開した。何事もなかったように、紙の上で筆が動き始めた。だが刃には、その動きが少し違って見えた。柊が来る前と、来た後では、筆の動きの何かが変わっていた。何が変わったかを、刃は言葉にできなかった。言葉にできないまま、視線を外した。
調査の四日目の夜、澪は銀河から刃の過去を聞いた。
刃が外に出ている間、銀河と澪は詰め所の中に残っていた。銀河が何かを話したくなったのか、それとも澪が何かを聞いたのか、どちらが先だったかはわからなかった。
刃は十二歳のとき、下層街から処刑人に選ばれた。選ばれた基準は感情が薄いことで、刃は幼い頃から笑ったり泣いたりすることが少なかった。家族はいなかった。下層街で一人で生きていた子どもが、処刑人という役割を与えられた。
「刃さんは、最初から望んでいたわけじゃないんですよ」と銀河は言った。
「でも十六年間、一度も命令に背かなかった。それがあの人の誇りだったと思います。誰かに認められるためじゃなくて、自分の中で決めていたことだと思います」
澪はその話を聞きながら、刃が自分を処刑しなかった理由を考えた。感情が薄い人間として選ばれた。感情がないから十六年間続けられた。その人間が、十六年間守ってきた誇りを破った。破ったことに対して、後悔がないと言った。その事実の重さが、澪には少しわかった気がした。
「刃さんは今、怒っていますか」と澪は銀河に聞いた。
「怒っている、というより」と銀河は少し考えた。
「何かを決めた、という感じがします。あの人がそういう顔をしているのは、初めて見ます」
翌日、刃が詰め所に戻ったとき、澪は「昨日、銀河さんから話を聞きました」と言った。
刃は何も言わなかった。何を聞いたかは、だいたいわかった。銀河が話せる刃の過去は、銀河が知っている範囲のものだ。それが澪に伝わった。
「あなたが私を処刑しなかったことで、十六年間守ってきたものを壊したんですね」と澪は言った。声は静かだった。責めていなかった。ただ確かめていた。
「なぜそうしたのか、まだわからないと言っていましたね」
「そうだ」
澪はしばらく黙っていた。机の上の文書に視線を落として、それから顔を上げた。
「私にもわかりません」と言った。
「なぜあなたがそうしたのか、私には理由がわからない。でも」と澪は続けた。
「感謝しています。あなたが十六年間守ってきたものを壊したおかげで、私が生きている。それは、感謝という言葉しかないです」
刃は澪から目を逸らした。目を逸らした、という動作が自分の中で起きたことに、刃は気づいた。目を逸らす必要はなかった。澪の感謝を受け取ることは、難しくないはずだった。だが目が逸れた。逸れた後、机の上の文書に視線が落ちた。文書の内容は頭に入らなかった。澪が「感謝しています」と言った声だけが、頭の中に残っていた。
一週間の調査で、澪の記憶した数字と実際の取引記録を照合した結果、柊の帳簿改ざんが証明された。
改ざんの額は小さくなかった。後宮の食料費と衣料費の一部が、三年間にわたって柊の関係者に流れていた。一回一回の額は目立たないが、三年分を合算すると、後宮の年間予算の一割近くになった。
さらに澪は、改ざんが始まった時期と、過去三年間に理由不明で後宮を去った女官の数を照合した。改ざんを知っていた可能性のある女官が、着任から短期間で消えていた。転属、病気、実家の事情。理由はそれぞれ違ったが、時期が柊の改ざん記録と一致していた。
「これは私だけじゃない」と澪は言った。机の上に広げた記録を見ながら、静かに言った。
「柊様が不正を知った人間を、ずっと消してきた。私の前にも何人もいた。三年間、ずっと」
刃はその言葉を聞いて、澪の顔を見た。怒っていなかった。怒りとは違う何かが、顔の奥にあった。静かな、確認するような表情だった。三年間続いてきたことを、今この机の上で初めて全体として見た顔だった。澪は今、記憶の中にある数字と顔と出来事を、一つの線として見ている。その線の長さが三年分あることを、今初めて知った。その重さを、澪は感情ではなく事実として受け取っていた。
刃はその報告書を皇帝に提出した。
皇帝は報告書を読んで、柊の処分を命じた。
三年間の不正が証明されたため、柊は後宮を追われた。柊が後宮の門を出るとき、刃はその場にいなかった。報告書を提出して、詰め所に戻っていた。
澪の処刑命令は取り消された。
刃が詰め所に戻ると、澪が「これで、私は後宮に戻るんですか」と聞いた。
刃は少し間を置いた。後宮に戻す。それが筋だった。澪の罪状は消えた。後宮の下女として、元の場所に戻す。それが正しい手順だった。一週間前なら、そうすることに迷わなかったはずだった。
「戻りたいか」と刃は聞いた。
澪は答えなかった。答えが「戻りたくない」であることは、顔を見ればわかった。後宮は澪を下女四番と呼んだ場所だった。本当の名前を奪った場所だった。柊がいなくなっても、後宮の構造は変わらない。澪がそれを知っていることは、顔に出ていた。
「もう少し、ここにいろ」と刃は言った。
理由は言わなかった。澪も聞かなかった。澪は小さく頷いて、机の上の文書の片付けを続けた。その手が動いているのを、刃は少しの間見ていた。見ていることに気づいて、視線を外した。
その夜、刃は詰め所の椅子に座っていた。
澪が眠りにつくまでの時間を、刃は椅子で過ごした。待っているつもりはなかった。ただ座っていた。しかし澪の寝息が聞こえてきたとき、刃は自分が何かを待っていたことを知った。寝息が聞こえるまで、自分の呼吸が少し浅かったことにも気づいた。なぜ浅かったのか、なぜ寝息を待っていたのか、刃にはわからなかった。
澪が眠っている。今夜、澪は安全だ。それだけの事実が、椅子に座った刃の中で、静かに収まっていた。
処刑人になって十六年間、誰かが安全でいることを確かめたことはなかった。命令書の対象者が生きているかどうかを確かめることはあった。だが誰かが今夜安全に眠っているかどうかを、確かめたことはなかった。今夜、自分はそれをしている。していることの意味が、刃にはまだわからなかった。名前のつかない何かが、椅子の上にあった。行燈の光が揺れた。澪の寝息が続いていた。刃はしばらくその音を聞いてから、机に向かった。
柊の処分から十日後、刃の元に新しい命令書が届いた。
夕刻、詰め所の机の上に置かれた命令書を、刃は読んだ。
対象:下女四番(澪)。
罪状:後宮外での不法滞在、処刑人との不正な関係。
処刑日時:三日後。執行場所:後宮東門前。
刃は命令書を読んで、机に置いた。置いた後、しばらく命令書を見ていた。
柊の不正を暴いた澪を、後宮に戻すことができなくなった人間が、別の形で消そうとしている。柊の背後にいる何者かが、皇帝を動かした。柊が去った後も、後宮の中で柊の利益を守ろうとしている人間がいる。その人間が、澪を危険だと判断した。澪の記憶する能力が、今度は別の命令書を呼んだ。
「どうするんですか」と銀河が言った。命令書を見て、顔が青ざめていた。
刃は答えなかった。
その夜、刃は澪のいる部屋に入った。澪は机の前に座って、書き物をしていた。刃が命令書を澪の前に置いた。澪は読んだ。読みながら、顔色を変えなかった。読み終えてから、少し間があった。
澪の顔を、刃は見ていた。命令書を読む澪の顔の変化を、刃は記録した。最初の一行を読んだとき、目が少し動いた。中ほどを読んだとき、手が止まった。最後まで読んでから、顔が上がった。その顔は、収監室で初めて会った夜と同じだった。怯えていなかった。ただ、事実を確認していた。
「今度は、執行しますか」と澪は聞いた。
「しない」と刃は言った。
「また命令に背くんですか」
「そうだ」
澪はしばらく刃を見ていた。刃の顔の上で、澪の視線が止まった。一週間一緒にいた間に、澪は刃の顔の変化を記憶していた。感情を出さない顔の中で、どの瞬間に何が動いているか。目の奥の変化。口元の緊張。肩の位置。その細かい変化を、澪は一度見たら忘れなかった。今この瞬間の刃の顔を、澪は記憶した。
「なぜ、そこまで」と澪は聞いた。
刃は答えられなかった。十六年間使ってこなかった言葉が、喉の奥にあった。でも出てこなかった。言葉の形になる前に、喉の手前で止まった。
「わからない」とまた言った。
澪は少し俯いた。机の上の命令書を見た。それから顔を上げて、「ありがとうございます」と言った。
刃は澪を見た。感謝の言葉を、澪から聞くのは二度目だった。一度目は「感謝しています」という形だった。今夜は「ありがとうございます」だった。言い方が違っていた。澪が自分のどこかに向けて言っているという感触が、今夜の方が強かった。その感触の名前を、刃はまだ持っていなかった。
部屋を出て、刃は銀河を呼び、「一つだけ頼む」と言った。
刃が銀河に頼んだのは、後宮の外への道の確保だった。
瑞華国の外、別の土地へ出るための手配だ。国境を越えるための道と、馬の確保。銀河は刃の顔を見て、何が起きているかを理解した。困惑したが、断らなかった。
「刃さんは、どうなるんですか」と銀河は聞いた。
「処刑人でなくなる」と刃は言った。
「それは……」と銀河は言いかけて、止まった。
「わかってる」と刃は言った。
「お前は来なくていい。俺だけの話だ」
銀河はしばらく黙った。部屋の中の空気が静かだった。銀河が何かを考えている時間が、沈黙の中にあった。それから銀河は顔を上げて、「俺も行きます」と言った。
「来なくていいと言った」
「刃さん一人じゃ、澪さんを守りながら国境を越えるのは無理です」と銀河は言った。
「俺、まだ処刑人見習いだから、制度上は刃さんほど罪が重くない。足手まといかもしれないけど、いないよりはマシだと思います。使ってください」
刃は銀河を見た。二十三歳の、まだ一度も執行していない見習いが、刃の前に立っていた。困惑した顔だったが、迷っている顔ではなかった。決心した顔だった。
刃は何かを言おうとして、言わなかった。ただ「わかった」とだけ言った。
銀河が部屋を出てから、刃は少しの間立ったままでいた。銀河が来ると言った。澪が感謝すると言った。自分の周りに、こういうことが起きている。十六年間、こういうことは起きなかった。処刑人には誰も近づかなかった。今、近づいてきている人間がいる。その事実が、刃には今夜まだ遠かった。遠いのに、確かにそこにあった。遠くにあるものが確かにある、という感触が、刃にはまだ名前がなかった。
刃は部屋の中を見た。銀河が出ていった扉がある。その向こうに銀河がいる。別の部屋に澪がいる。この詰め所に、今夜、三人がいる。処刑人の詰め所に三人がいたことは、十六年間で一度もなかった。刃と、命令書と、行燈の光だけがあった場所だった。今夜はそれが違う。
刃は行燈の光を見た。いつもと同じ光だった。同じ光が、今夜は違う部屋を照らしていた。同じ光が照らす部屋が、今夜は違った。その違いの名前を、刃はまだ持っていなかった。持っていないまま、椅子に座った。今夜も夜は長かった。だが今夜の長さは、昨日までの長さと少し違った。昨日までの夜は、ただ朝が来るのを待つ時間だった。今夜は違った。待っているものが、朝ではなかった。何を待っているのかは、まだわからなかった。ただ、この詰め所の夜が、昨日までとは別の種類の夜になっていた。
刃は跪いて、皇帝の言葉を待った。謁見の間に来たのは、処刑人として命令を受け取るためだけだった。跪く理由が命令の受領ではなく、命令への背反の説明であることは、十六年間で初めてだった。石畳の冷たさが膝に伝わってきた。いつもと同じ石畳の冷たさだったが、今日は重さが違った。
「命令に背いた理由を述べよ」と皇帝は言った。声に怒りはなく、ただ確認するような口調だった。
「対象者の罪状に、疑義があります」と刃は言った。
「罪状は主人への不敬とのことでしたが、内容を確認したところ、筆頭女官の不正を指摘したことへの報復である可能性があります」
「筆頭女官の不正とは」
「帳簿の改ざんです。対象者が目撃し、別の女官に話したところ、柊に伝わり処刑命令が出ました。処刑の前に調査が必要と判断しました」
皇帝は沈黙した。長い沈黙だった。謁見の間の静けさの中に、刃の声だけが残っていた。
「お前が十六年間、命令に背いたことは一度もなかった」と皇帝はやがて言った。
「はい」
「なぜ今回だけ」
刃は答えられなかった。帳簿の改ざんは理由になる。だがそれだけが理由ではないことを、自分でも知っていた。謁見の間の床が、視界の端に見えた。石畳の冷たさが続いていた。
「調査を許可する」と皇帝は言った。
「ただし、対象者の処遇は調査結果次第だ。不正が証明されなければ、命令は執行される」
「承知しました」と刃は言って、頭を下げた。
謁見の間を出て、廊下を歩きながら、刃はなぜ今回だけ、という問いを繰り返した。帳簿の改ざんだけが理由ではないことを、皇帝も知っていたはずだった。知った上で、追及しなかった。なぜ追及しなかったのかを考えながら、刃は廊下を歩いた。皇帝は十六年間の忠誠を、一度の背反で消すほど薄くは見ていないのかもしれなかった。あるいは、今この瞬間に刃を処分することの損失を計算しているのかもしれなかった。どちらであっても、刃には関係なかった。調査の許可が出た。それで十分だった。
だが廊下の途中で、刃は一度足を止めた。なぜ今回だけ、という問いが、まだ頭の中にあった。皇帝への答えを出せなかっただけでなく、自分への答えも出ていなかった。廊下の石畳が、謁見の間と同じ冷たさで続いていた。足を止めた理由はなかった。ただ、止まった。答えが出ないまま、刃は歩き始めた。
詰め所に戻ると、澪は銀河と向き合って座っていた。
銀河が何かを話しかけていて、澪は静かに聞いていた。二人の間の空気は、刃が出ていく前と変わっていなかった。処刑人の詰め所に下女が座っているという状況を、銀河はすでに受け入れ始めていた。
「帳簿の改ざんを、どうやって知った」と刃は澪に聞いた。
「見ただけです」と澪は言った。
「翠妃様の膳の費用と、実際の品の価格が合っていなかった。差額が柊様の個人的な記録に入っていた。一度見たら忘れられないので」
「数字を覚えているのか」
「見たものは全部覚えています。帳簿も、人の顔も、話した内容も」
刃は澪を見た。後宮の下女がそういう能力を持っていることの意味を、刃は処刑人としての目で考えた。そういう能力は、後宮では危険だ。正確に記憶する人間は、見てはいけないものを見たとき、消される。それが後宮の論理だった。澪が処刑命令を受けた理由も、同じ論理だった。
「他に何を覚えている」と刃は聞いた。
澪は少し考えた。
「後宮に入ってからの三ヶ月で、不審な動きをした人間の顔と行動を全員覚えています。柊様だけでなく、他の女官や妃嬪の方々も含めて」
「全員か」
「はい。一度見れば忘れません。後宮の廊下で誰かとすれ違うたびに、その人間の動きと時刻が記録されていく感じがします。意図してそうしているわけではないんですが、気づくとそうなっています」
刃は銀河を見た。銀河は「これ、かなり大事なやつですよね」と言った。
「調査に協力しろ」と刃は澪に言った。
「協力したら、私はどうなりますか」と澪は聞いた。視線が刃に向いていた。怯えていなかった。ただ確認していた。この女はいつも確認する。感情ではなく、事実を確かめる。
「生きる」と刃は言った。
澪はしばらく刃を見ていた。視線が刃の顔の上で止まって、何かを読んでいた。表情を読んでいるのか、それとも別の何かを読んでいるのか、刃にはわからなかった。
「わかりました」と澪は言った。
調査は一週間かかった。
その間、澪は刃の詰め所に滞在した。処刑人の詰め所に下女が住んでいるという状況を、銀河は困惑しながら受け入れた。詰め所の外では、後宮の女官たちが刃の詰め所の前を通るたびに足を速めた。血刃の詰め所に女が匿われているという話は、後宮の中でも外でも広まっていた。
刃は澪に対して、必要なことしか話さなかった。食事は出した。寝る場所を確保した。調査に必要な質問はした。それ以外は関わらなかった。澪が何かを求めたとき以外、刃から澪に話しかけることはなかった。それが澪のためかどうかは、刃にはわからなかった。ただ、距離を保つことが自然だった。
澪は不満を言わなかった。静かに与えられた空間にいて、求められたことに答えた。調査の質問には正確に答えた。覚えている数字を一つも間違えずに答えた。覚えている顔と行動を、時刻まで含めて正確に答えた。その精度が高すぎて、銀河が「これ全部本当に覚えているんですか」と聞いた。「はい」と澪は言った。それだけだった。
ただ一度だけ、刃が夜遅くまで命令書を読んでいるのを見て、「眠らないんですか」と澪は聞いた。
「必要ない」と刃は言った。
「それは嘘ですね」と澪は言った。
「目が赤いです」
刃は何も言わなかった。目が赤いという事実に、反論できなかった。反論するつもりもなかった。ただ、澪がそれに気づいたことが、刃の頭の中に残った。
翌朝、澪が目を覚ますと、刃は机で眠っていた。澪はその様子を見て、しばらく動かなかった。処刑人が眠れないのは、処刑の前だけではないのかもしれないと思った。この男は詰め所でも眠れない夜がある。眠れない夜に机で過ごして、気づかないうちに眠る。そういう夜を、何年間続けてきたのか。澪は刃の眠っている顔を見た。起こさないようにして、静かに水を汲みに行った。
調査の三日目、柊が詰め所に来た。
扉を開けて入ってきた柊は、詰め所の中を一度見渡した。澪が机の前に座って書き物をしていた。銀河が隅に立ち、刃が正面に立った。
「処刑人が後宮の女を匿うことは、規律違反だ」と柊は言った。
「皇帝の許可がある」と刃は言った。
「調査が終われば、その娘は処刑される。それは変わらない」
「調査が終わってから考える」
柊は刃を見た。四十二年間、後宮の規律の中で生きてきた人間の顔だった。
「十六年間、あなたは命令通りに動いてきた。なぜ今回だけ」
刃は答えなかった。
「あの娘が何を言ったか知らないが」と柊は続けた。
「後宮の規律は、感情で曲げていいものじゃない。あなたはそれを一番わかっているはずだ。処刑人として十六年間、それを体で知っているはずだ」
「俺が曲げているのは感情ではない」と刃は言った。
「では何だ」
「まだわからない」と刃は言った。正直な答えだった。嘘をつく理由がなかった。
柊は刃を見た。何かを言おうとして、止めた。刃の答えが嘘ではないことを、柊も読んだのかもしれなかった。制度を信じている人間と、制度の外に踏み出した人間が、詰め所の中で向き合っていた。どちらも正しいと思っていた。どちらも間違っていないと思っていた。それだけに、話が続かなかった。
柊は詰め所を出た。扉が閉まって、部屋の中に沈黙が戻った。
刃は澪を見た。澪が机の前で手を止めていた。柊が来た間、ずっと手を止めていたことに、刃は気づいた。書き物の途中で手が止まったまま、紙の上に置かれていた。柊の言葉を聞いていたのだ。調査が終われば処刑される、という言葉を。その言葉を受け取った澪の手が、紙の上で静止していた。
刃は何も言わなかった。言うべき言葉がわからなかった。調査が終われば処刑される、という柊の言葉は正しかった。皇帝の許可は調査のためであり、澪の保護のためではなかった。その事実を、澪はすでに知っていた。知っていて、今その手が止まっていた。
澪はやがて手を動かした。書き物を再開した。何事もなかったように、紙の上で筆が動き始めた。だが刃には、その動きが少し違って見えた。柊が来る前と、来た後では、筆の動きの何かが変わっていた。何が変わったかを、刃は言葉にできなかった。言葉にできないまま、視線を外した。
調査の四日目の夜、澪は銀河から刃の過去を聞いた。
刃が外に出ている間、銀河と澪は詰め所の中に残っていた。銀河が何かを話したくなったのか、それとも澪が何かを聞いたのか、どちらが先だったかはわからなかった。
刃は十二歳のとき、下層街から処刑人に選ばれた。選ばれた基準は感情が薄いことで、刃は幼い頃から笑ったり泣いたりすることが少なかった。家族はいなかった。下層街で一人で生きていた子どもが、処刑人という役割を与えられた。
「刃さんは、最初から望んでいたわけじゃないんですよ」と銀河は言った。
「でも十六年間、一度も命令に背かなかった。それがあの人の誇りだったと思います。誰かに認められるためじゃなくて、自分の中で決めていたことだと思います」
澪はその話を聞きながら、刃が自分を処刑しなかった理由を考えた。感情が薄い人間として選ばれた。感情がないから十六年間続けられた。その人間が、十六年間守ってきた誇りを破った。破ったことに対して、後悔がないと言った。その事実の重さが、澪には少しわかった気がした。
「刃さんは今、怒っていますか」と澪は銀河に聞いた。
「怒っている、というより」と銀河は少し考えた。
「何かを決めた、という感じがします。あの人がそういう顔をしているのは、初めて見ます」
翌日、刃が詰め所に戻ったとき、澪は「昨日、銀河さんから話を聞きました」と言った。
刃は何も言わなかった。何を聞いたかは、だいたいわかった。銀河が話せる刃の過去は、銀河が知っている範囲のものだ。それが澪に伝わった。
「あなたが私を処刑しなかったことで、十六年間守ってきたものを壊したんですね」と澪は言った。声は静かだった。責めていなかった。ただ確かめていた。
「なぜそうしたのか、まだわからないと言っていましたね」
「そうだ」
澪はしばらく黙っていた。机の上の文書に視線を落として、それから顔を上げた。
「私にもわかりません」と言った。
「なぜあなたがそうしたのか、私には理由がわからない。でも」と澪は続けた。
「感謝しています。あなたが十六年間守ってきたものを壊したおかげで、私が生きている。それは、感謝という言葉しかないです」
刃は澪から目を逸らした。目を逸らした、という動作が自分の中で起きたことに、刃は気づいた。目を逸らす必要はなかった。澪の感謝を受け取ることは、難しくないはずだった。だが目が逸れた。逸れた後、机の上の文書に視線が落ちた。文書の内容は頭に入らなかった。澪が「感謝しています」と言った声だけが、頭の中に残っていた。
一週間の調査で、澪の記憶した数字と実際の取引記録を照合した結果、柊の帳簿改ざんが証明された。
改ざんの額は小さくなかった。後宮の食料費と衣料費の一部が、三年間にわたって柊の関係者に流れていた。一回一回の額は目立たないが、三年分を合算すると、後宮の年間予算の一割近くになった。
さらに澪は、改ざんが始まった時期と、過去三年間に理由不明で後宮を去った女官の数を照合した。改ざんを知っていた可能性のある女官が、着任から短期間で消えていた。転属、病気、実家の事情。理由はそれぞれ違ったが、時期が柊の改ざん記録と一致していた。
「これは私だけじゃない」と澪は言った。机の上に広げた記録を見ながら、静かに言った。
「柊様が不正を知った人間を、ずっと消してきた。私の前にも何人もいた。三年間、ずっと」
刃はその言葉を聞いて、澪の顔を見た。怒っていなかった。怒りとは違う何かが、顔の奥にあった。静かな、確認するような表情だった。三年間続いてきたことを、今この机の上で初めて全体として見た顔だった。澪は今、記憶の中にある数字と顔と出来事を、一つの線として見ている。その線の長さが三年分あることを、今初めて知った。その重さを、澪は感情ではなく事実として受け取っていた。
刃はその報告書を皇帝に提出した。
皇帝は報告書を読んで、柊の処分を命じた。
三年間の不正が証明されたため、柊は後宮を追われた。柊が後宮の門を出るとき、刃はその場にいなかった。報告書を提出して、詰め所に戻っていた。
澪の処刑命令は取り消された。
刃が詰め所に戻ると、澪が「これで、私は後宮に戻るんですか」と聞いた。
刃は少し間を置いた。後宮に戻す。それが筋だった。澪の罪状は消えた。後宮の下女として、元の場所に戻す。それが正しい手順だった。一週間前なら、そうすることに迷わなかったはずだった。
「戻りたいか」と刃は聞いた。
澪は答えなかった。答えが「戻りたくない」であることは、顔を見ればわかった。後宮は澪を下女四番と呼んだ場所だった。本当の名前を奪った場所だった。柊がいなくなっても、後宮の構造は変わらない。澪がそれを知っていることは、顔に出ていた。
「もう少し、ここにいろ」と刃は言った。
理由は言わなかった。澪も聞かなかった。澪は小さく頷いて、机の上の文書の片付けを続けた。その手が動いているのを、刃は少しの間見ていた。見ていることに気づいて、視線を外した。
その夜、刃は詰め所の椅子に座っていた。
澪が眠りにつくまでの時間を、刃は椅子で過ごした。待っているつもりはなかった。ただ座っていた。しかし澪の寝息が聞こえてきたとき、刃は自分が何かを待っていたことを知った。寝息が聞こえるまで、自分の呼吸が少し浅かったことにも気づいた。なぜ浅かったのか、なぜ寝息を待っていたのか、刃にはわからなかった。
澪が眠っている。今夜、澪は安全だ。それだけの事実が、椅子に座った刃の中で、静かに収まっていた。
処刑人になって十六年間、誰かが安全でいることを確かめたことはなかった。命令書の対象者が生きているかどうかを確かめることはあった。だが誰かが今夜安全に眠っているかどうかを、確かめたことはなかった。今夜、自分はそれをしている。していることの意味が、刃にはまだわからなかった。名前のつかない何かが、椅子の上にあった。行燈の光が揺れた。澪の寝息が続いていた。刃はしばらくその音を聞いてから、机に向かった。
柊の処分から十日後、刃の元に新しい命令書が届いた。
夕刻、詰め所の机の上に置かれた命令書を、刃は読んだ。
対象:下女四番(澪)。
罪状:後宮外での不法滞在、処刑人との不正な関係。
処刑日時:三日後。執行場所:後宮東門前。
刃は命令書を読んで、机に置いた。置いた後、しばらく命令書を見ていた。
柊の不正を暴いた澪を、後宮に戻すことができなくなった人間が、別の形で消そうとしている。柊の背後にいる何者かが、皇帝を動かした。柊が去った後も、後宮の中で柊の利益を守ろうとしている人間がいる。その人間が、澪を危険だと判断した。澪の記憶する能力が、今度は別の命令書を呼んだ。
「どうするんですか」と銀河が言った。命令書を見て、顔が青ざめていた。
刃は答えなかった。
その夜、刃は澪のいる部屋に入った。澪は机の前に座って、書き物をしていた。刃が命令書を澪の前に置いた。澪は読んだ。読みながら、顔色を変えなかった。読み終えてから、少し間があった。
澪の顔を、刃は見ていた。命令書を読む澪の顔の変化を、刃は記録した。最初の一行を読んだとき、目が少し動いた。中ほどを読んだとき、手が止まった。最後まで読んでから、顔が上がった。その顔は、収監室で初めて会った夜と同じだった。怯えていなかった。ただ、事実を確認していた。
「今度は、執行しますか」と澪は聞いた。
「しない」と刃は言った。
「また命令に背くんですか」
「そうだ」
澪はしばらく刃を見ていた。刃の顔の上で、澪の視線が止まった。一週間一緒にいた間に、澪は刃の顔の変化を記憶していた。感情を出さない顔の中で、どの瞬間に何が動いているか。目の奥の変化。口元の緊張。肩の位置。その細かい変化を、澪は一度見たら忘れなかった。今この瞬間の刃の顔を、澪は記憶した。
「なぜ、そこまで」と澪は聞いた。
刃は答えられなかった。十六年間使ってこなかった言葉が、喉の奥にあった。でも出てこなかった。言葉の形になる前に、喉の手前で止まった。
「わからない」とまた言った。
澪は少し俯いた。机の上の命令書を見た。それから顔を上げて、「ありがとうございます」と言った。
刃は澪を見た。感謝の言葉を、澪から聞くのは二度目だった。一度目は「感謝しています」という形だった。今夜は「ありがとうございます」だった。言い方が違っていた。澪が自分のどこかに向けて言っているという感触が、今夜の方が強かった。その感触の名前を、刃はまだ持っていなかった。
部屋を出て、刃は銀河を呼び、「一つだけ頼む」と言った。
刃が銀河に頼んだのは、後宮の外への道の確保だった。
瑞華国の外、別の土地へ出るための手配だ。国境を越えるための道と、馬の確保。銀河は刃の顔を見て、何が起きているかを理解した。困惑したが、断らなかった。
「刃さんは、どうなるんですか」と銀河は聞いた。
「処刑人でなくなる」と刃は言った。
「それは……」と銀河は言いかけて、止まった。
「わかってる」と刃は言った。
「お前は来なくていい。俺だけの話だ」
銀河はしばらく黙った。部屋の中の空気が静かだった。銀河が何かを考えている時間が、沈黙の中にあった。それから銀河は顔を上げて、「俺も行きます」と言った。
「来なくていいと言った」
「刃さん一人じゃ、澪さんを守りながら国境を越えるのは無理です」と銀河は言った。
「俺、まだ処刑人見習いだから、制度上は刃さんほど罪が重くない。足手まといかもしれないけど、いないよりはマシだと思います。使ってください」
刃は銀河を見た。二十三歳の、まだ一度も執行していない見習いが、刃の前に立っていた。困惑した顔だったが、迷っている顔ではなかった。決心した顔だった。
刃は何かを言おうとして、言わなかった。ただ「わかった」とだけ言った。
銀河が部屋を出てから、刃は少しの間立ったままでいた。銀河が来ると言った。澪が感謝すると言った。自分の周りに、こういうことが起きている。十六年間、こういうことは起きなかった。処刑人には誰も近づかなかった。今、近づいてきている人間がいる。その事実が、刃には今夜まだ遠かった。遠いのに、確かにそこにあった。遠くにあるものが確かにある、という感触が、刃にはまだ名前がなかった。
刃は部屋の中を見た。銀河が出ていった扉がある。その向こうに銀河がいる。別の部屋に澪がいる。この詰め所に、今夜、三人がいる。処刑人の詰め所に三人がいたことは、十六年間で一度もなかった。刃と、命令書と、行燈の光だけがあった場所だった。今夜はそれが違う。
刃は行燈の光を見た。いつもと同じ光だった。同じ光が、今夜は違う部屋を照らしていた。同じ光が照らす部屋が、今夜は違った。その違いの名前を、刃はまだ持っていなかった。持っていないまま、椅子に座った。今夜も夜は長かった。だが今夜の長さは、昨日までの長さと少し違った。昨日までの夜は、ただ朝が来るのを待つ時間だった。今夜は違った。待っているものが、朝ではなかった。何を待っているのかは、まだわからなかった。ただ、この詰め所の夜が、昨日までとは別の種類の夜になっていた。



