処刑人は、後宮で花を拾う

 処刑命令書が届いたのは、夕刻だった。
 刃は詰め所の机で命令書を読んだ。
 対象:下女四番。
 罪状:主人への不敬、後宮規律違反。
 処刑日時:翌朝。執行場所:後宮東門前。
 命令書はいつも通りだった。名前のない対象、簡潔な罪状、日時と場所。刃はこれまでに何十枚も同じ形式の命令書を受け取り、全て執行してきた。今回も同じはずだった。
「また下女か」と銀河が言った。
「最近多いですね」
「関係ない」と刃は言って、命令書を机に置いた。
 翌朝の執行に向けて、刃は道具を確認した。それだけのことだった。
  
 執行前日の夜、刃は後宮に入った。
 慣例として、刃は処刑前日に対象者の収監状況を確認する。処刑人の義務ではなく、刃が十六年前に自分で始めた手順だった。対象者の顔を一度見ておく。それが何のためかは、自分でもわからなかった。見ておかなければ、という感覚だけがあって、理由は十六年間、一度も言語化できなかった。
 後宮の夜は静かだった。昼間の喧騒が嘘のように、廊下に人影がない。刃は収監区画に向かった。石造りの小部屋が並ぶ場所で、ここに連れてこられた者は翌朝処刑されることがほとんどだった。廊下に行燈の光が並んでいて、石畳が黄色く照らされていた。足音が響かないように歩く方法を、刃は知っていた。十六年間、この廊下を歩いてきた。歩くたびに何かを感じたことはなかった。今夜も同じはずだった。
 収監室の前に立って、刃は格子の向こうを見た。
 小さな女が壁際に座っていた。膝を抱えて、目を開けたまま壁を見ていた。眠っていなかった。泣いていなかった。ただ静かに、翌朝が来るのを待っているような座り方だった。処刑前夜の収監者は、たいてい泣くか眠るかのどちらかだった。泣き疲れて眠る者も多かった。この女はどちらでもなかった。
 刃は声をかけるつもりがなかった。確認だけして立ち去るつもりだった。でも女が顔を上げて、刃を見た。
 怯えていなかった。
 処刑人の顔を見て怯えない人間に、刃は会ったことがなかった。
「あなたが処刑人ですか」と女は言った。
 刃は答えなかった。処刑人であることは、血染めの官服が示している。
「明日、私を殺しに来るんですね」と女は続けた。質問ではなく、確認だった。声が震えていなかった。
「そうだ」と刃は言った。
 女は少し頷いた。
「罪状を聞いてもいいですか。主人への不敬と書かれていると聞きましたが、内容を知らないので」
 刃は命令書の内容を思い出した。罪状の詳細は記されていなかった。
「知らない」と刃は言った。
「そうですか」と女は言って、少し考えた。膝の上に両手を重ねて、壁から視線を刃に移した。
「私は、筆頭女官の柊様が帳簿を改ざんしていることを、別の女官に話しました。それが不敬に当たるとされたようです。でも話した相手が柊様の耳に入るとは思っていなかった」
 刃は黙って聞いていた。格子越しに、女の顔が行燈の光で照らされていた。色の白い顔で目が大きかった。その目が、今、刃を見ていた。怯えていない目だった。刃を見て、刃が何者かを知った上で、それでも怯えていない。その事実が、刃の中で何かに触れていた。
「嘘はついていません」と女は言った。
「ただ、見たことを話しただけです。それが、明日死ぬ理由になるんですね」
 その言い方が、刃には引っかかった。怒っていなかった。諦めてもいなかった。ただ、事実を事実として言っていた。感情を整理して、確認しているような言い方だった。
「見たこととは何だ」と刃は聞いた。命令書の調査は自分の役割ではない。だが聞いていた。自分が聞いていることに、聞いてから気づいた。
「帳簿の数字です」と女は言った。
「翠妃様の膳の費用と、実際の品の価格が合っていなかった。差額がどこかに消えていた」
 刃はしばらく格子の向こうを見ていた。帳簿の不正を目撃した人間が、それを話した相手が不正をした当事者に近かった。結果として処刑命令が出た。その筋道が、刃の中で一本の線になった。普段、命令書を受け取るとき、筋道を考えることはなかった。命令書があれば十分だったが、今夜は違った。
「あなたは怖くないんですか」と女は言った。刃を見たまま、静かに聞いた。
「私は処刑人を目の前にして、怖いのかと思っていたけれど、あなたの顔を見ていたら、別のことを考えてしまって」
「何を考えた」と刃は聞いた。
「なぜ来たんだろうと」と女は言った。
「処刑は明日なのに、今夜ここに来る理由がわからない。義務ではないと思うので。でも来た。それが気になって、怖いのを忘れました」
 刃は答えなかった。答えられなかった。理由を言語化する言葉を、刃は持っていなかった。十六年間、自分でもわからないまま続けてきた手順の理由を、今夜初めて問われた。
 格子の前に立ったまま、刃は動かなかった。立ち去るつもりだった。確認が終わった。手順は完了した。足を動かそうとしたが、動かなかった。ただ、格子の向こうの女が自分を見ていて、その目が怯えていなくて、なぜ来たんだろうと言った声が、頭の中に残っていた。
 十六年間、対象者の声が残ったことはなかったが、今夜は残っていた。声だけではなかった。顔が残っていた。目が残っていた。膝の上に重ねた手が残っていた。翌朝が来るのを待っているような座り方が残っていた。残っているものが多すぎて、刃は自分がどこに立っているかを一瞬忘れた。収監区画の廊下に立っている。行燈の光がある。格子がある。その向こうに女がいる。それだけのことだった。それだけのことが、今夜は違った。
 沈黙が続いた。女も何も言わなかった。刃が動かないことを、ただ見ていた。責めていなかった。不思議そうでもなかった。ただ、見ていた。
「名前は」と刃は聞いた。自分でも、なぜ聞いたかわからなかった。名前を聞く必要はなかった。命令書には「下女四番」と書いてある。それだけがあればいい。
「澪です。今は四番ですが、本当の名前は澪です」と女は言った。
「あなたの名前は」
「刃だ」と刃は言った。
「刃」と澪は繰り返した。
「明日、刃さんが来るんですね」
 確認するような言い方だった。怖がっていなかった。ただ確かめていた。刃はその繰り返し方を、頭の中に記録した。記録する、という感触が自分の中にあることに、刃は気づいた。澪という名前が残っていた。格子越しの顔が残っていた。行燈の光に照らされた、怯えていない目が残っていた。
 何も言わずに立ち去った。格子から離れながら、刃は自分の足音を聞いた。来た道と同じ廊下を歩いているのに、何かが違った。廊下の石畳が同じで、行燈の光が同じで、夜の静けさが同じなのに、今夜は来たときと何かが違った。来たとき、この廊下は収監区画に向かう道だった。帰るとき、この廊下は詰め所に戻る道だった。道は同じだったが、歩いている自分が違った。何がどう違うのか、刃には言葉がなかった。言葉がないまま、廊下を歩いた。行燈の光が一つずつ後ろに流れていった。その違いの名前が、刃にはわからなかった。
  
 詰め所に戻って、刃は椅子に座ったまま夜を過ごした。
 眠れなかったのではない。眠ろうとしなかった。十六年間、処刑前夜に眠れなかったことはなかった。命令書を確認して、道具を準備して、翌朝執行する。その繰り返しだった。感情が動いたことはなかった。処刑人に選ばれたのは、感情が薄かったからだ。十二歳のとき、下層街の子どもたちの中から選ばれた。泣かない子ども、怒らない子ども、ただそこにいる子どもだった。感情がないから選ばれた。感情がないから十六年間続けられた。それが自分の存在理由だった。
 では今夜、何が動いているのか。
 刃は澪の顔を思い出した。怯えていなかった。泣いていなかった。嘘はついていません、と言った声が残っていた。名前が残っていた。澪。格子越しに見た顔が、部屋の暗がりの中に浮かんだ。なぜ来たんだろう、と澪は言った。刃には答えがなかった。今もない。
 残っていることへの意味を考えようとして、考え方がわからなかった。感情を分析する言葉を、刃は持っていなかった。感情がないから選ばれたのだから、当然だった。
 だが今夜、何かがある。名前がついていない何かが、椅子に座ったまま動いていた。動いている、という感触が確かにあった。十六年間、この椅子に座って翌朝の執行を待ったことが何度もあった。その夜と今夜は、同じ椅子に座っているのに違った。部屋の空気が違うのではない。行燈の光が違うのでもない。この椅子に座っている自分が、違った。その違いが何かを、刃は夜の間ずっと考えた。答えは出なかった。

 夜が明けた。窓の外が白み始めて、行燈の光が薄くなった。詰め所の壁が、夜の暗さから朝の灰色に変わっていった。刃はその変化を、椅子に座ったまま見ていた。十六年間、夜明けを見たことは何度もあった。処刑前夜に眠れなかったことはなかったから、夜明けを見るのはいつも執行の朝だった。東門前に向かう前に、この窓から朝の光が入ってくるのを見た。今朝も同じ光だった。同じ光が、今朝は違う意味を持って窓から入ってきた。今朝、自分は何かをする。十六年間してきたことと、違う何かをする。その予感が、朝の光の中にあった。
 刃は立ち上がって、道具を手に取った。十六年間、毎朝繰り返してきた動作だった。手の中の重さを、刃は知っていた。この重さで、この感触で、十六年間執行してきた。今朝も同じ重さだった。同じ感触だった。だが、手の中にある道具が今朝は違って見えた。昨日まで、道具は命令を執行するためのものだった。今朝、この道具を東門前に持っていく。持っていくが、使わない。十六年間、持っていけば必ず使ってきた。今朝は使わない。そのことが、手の中の重さの意味を変えていた。道具の重さは同じだった。重さの意味だけが、今朝は違った。
  
 翌朝、東門前に人が集まった。
 後宮の公開処刑は、見せしめの意味を持つため、一定数の女官が立ち会いを命じられる。朝の光の中に、女官たちが整列していた。誰も声を出さなかった。公開処刑の場での私語は禁じられている。静かな朝に、足音だけが聞こえた。風もなかった。東門の石畳が、朝の光を反射していた。
 柊が正面に立っていた。四十代の、背筋の伸びた女だった。後宮の秩序を体現しているような立ち方をしていた。顔に感情がなかった。処刑を命じた者の顔としては、珍しくない顔だった。柊の両側に上位の女官が並び、その後ろに下位の女官たちが続いた。全員が刃の方を見ていなかった。処刑人の方を見ないのが、後宮の作法だった。
 刃は定位置に立った。東門の前、処刑台と呼ばれる石畳の区画だ。十六年間、ここに立ってきた。立ち方を知っていた。どこに視線を向ければいいかを知っていた。手順を頭の中で繰り返した。確認して、手順を踏んで、執行する。今回も同じだ。
 澪が連れてこられた。昨夜と同じ顔だった。怯えていなかった。連行する女官に両腕を掴まれながら、それでも足を止めずに歩いていた。東門前に連れてこられて、整列した女官たちの視線を受けながら、澪は俯かなかった。処刑前の対象者が俯かないことは、珍しかった。
 刃を見た。一瞬だけ目が合った。昨夜と同じ目だった。
 刃は命令書を確認した。手順を頭の中でもう一度繰り返した。十六年間、変わらない手順だ。足を一歩踏み出そうとした。
 しかし、踏み出さなかった。
 体が命令に従わなかった。十六年間で初めて、体と命令が一致しなかった。足が石畳に張りついているような感触があった。動けないのではなく、動こうとしていなかった。自分の体が、刃の知らない判断をしていた。
 一呼吸。東門前の空気が変わった。女官たちの整列が微かに乱れた。隣の者と視線を交わす動きが、列の中で起きた。誰も声を出さなかったが、何かがおかしいという空気が広がっていた。
 二呼吸。刃はまだ動かなかった。手順の続きが頭の中にある。あとは一歩踏み出すだけだ。十六年間、踏み出してきた一歩だ。だが足が動かなかった。昨夜、格子の前で動けなかったときと同じ感触だった。自分の体が、自分の知らない場所で何かを決めていた。
 三呼吸。女官の列の端で、誰かが小さく咳をした。その音が、静寂の中で聞こえた。柊の体が微かに動いた。顔が刃に向き始めていた。東門前の全員が、刃を見ていなかった。処刑人を見ないのが作法だからだ。だが今、全員が刃の方を意識していた。見てはいないが、意識している。その空気が、石畳の上に広がっていた。
 柊の顔が刃に向いた。最初は視線だけだった。それが、顔全体になった。
「何をしている」と柊は言った。声に苛立ちが混じっていた。
 刃は澪を見た。澪は刃を見ていた。昨夜と同じ目だった。昨夜、明日刃さんが来るんですね、と言った。今、刃は来ている。来て、動いていない。澪の目が、その事実を確認していた。怯えていなかった。ただ見ていた。
「この処刑は、執行しない」と刃は言った。
 後宮の東門前が、静止した。
 女官の一人が息を飲んだ。その音が、静寂の中で聞こえた。柊の顔から表情が消えた。消えた後に、何かが浮かんだ。怒りではなく、理解できないという顔だった。処刑人が命令を拒否することは、制度上存在しない。前例がない。刃が命令書を読んで、頭を下げて、執行する。それだけが十六年間続いてきた。それが覆った。
 柊は何も言わなかった。言葉を探しているようだった。東門前の沈黙が続いた。女官たちは動かなかった。誰も動き方がわからなかった。前例のない場面で、どう振る舞うかを知っている人間が、ここにはいなかった。風が一度だけ吹いて、止んだ。朝の光が石畳を照らしていた。誰も動かない東門前で、光だけが動いていた。
「今、何と言った」と柊はやがて言った。声が低かった。
「命令に従えない理由がある」と刃は言った。
「詳細は皇帝に申し上げる」
 柊は刃を睨んだ。何かを言おうとして、でも処刑人に逆らう権限が自分にないことを思い出した。処刑人は皇帝直属だ。筆頭女官の権限は及ばない。柊の顔に、初めて感情が出た。怒りと、それを抑えている力が、同時に顔に出ていた。長い沈黙があった。東門前の空気が固まっていた。
「皇帝に報告する」と柊は言った。
「そうしてくれ」と刃は言って、澪の腕を掴んだ。連行していた女官が反射的に手を離した。
「この娘は俺が預かる」
 東門前がまた静止した。今度は長かった。誰も動かなかった。刃は澪の腕を掴んだまま、その場を離れた。後ろから声はかからなかった。柊が何かを言う音が遠くに聞こえたが、刃は振り返らなかった。
  
 後宮の門を出て、詰め所に向かう間、澪は何も言わなかった。刃も何も言わなかった。
 朝の光の中を歩きながら、刃は自分が何をしたかを確認していた。命令に従えない理由がある、と言った。その理由が何かは、自分でもわからなかった。昨夜から続いているこの感触の名前がわからないまま、体が先に動いた。処刑人としての自分が、今朝壊れた。その事実を、刃は歩きながら繰り返し確認した。確認しても、後悔という感触はなかった。
 澪の足音が、刃の足音と並んでいた。刃より少し軽い足音だった。石畳の上で、二つの足音が朝の空気の中を進んでいた。刃はその音を聞きながら、昨夜の収監室の格子の前に立っていたことを思い出した。怯えていない目。嘘はついていません、という声。なぜ来たんだろう、という問い。その全てが、今朝の体の動きに繋がっていた気がした。気がした、というだけで、確信はなかった。

 詰め所の扉を開けて、二人は中に入った。銀河が驚いた顔で立ち上がった。刃の顔を見て、それから澪を見て、また刃を見た。何かを言おうとして、口を閉じた。また開こうとして、また閉じた。銀河が言葉を持てないでいることが、刃にはわかった。処刑を終えずに対象者を連れて戻ってきた処刑人に、何を言えばいいかを銀河は知らなかった。当然だった。前例がないのだから。
 部屋の中の空気が、いつもと違った。処刑を終えて戻った朝の空気を、刃は知っていた。道具を片付けて、命令書に執行済みの印を押して、次の命令を待つ。その朝の空気だった。今朝はそれがなかった。道具は使っていない。命令書に印は押していない。対象者が、今自分の背後に立っている。何もかもが今朝は違った。銀河はその違いの中に立って、どこに視線を向けるかを決めかねていた。刃と澪を交互に見て、それから天井を見て、また刃を見た。
「座れ」と刃は澪に言った。
 澪は椅子に座った。しばらく沈黙があった。
「なぜ」と澪は聞いた。声は静かだった。昨夜と同じ声で、責めていなかった。ただ確かめていた。
「わからない」と刃は言った。
「助けたかったわけじゃないの」と澪は言った。
 刃は答えられなかった。
 澪は少し考えた。刃の顔を見て、それから視線を床に落として、また刃を見た。
「正直ですね」と言った。
 刃は澪を見た。今朝、処刑されかけた女が「正直ですね」と言った。怒ることも、泣くことも、礼を言うこともなく、「正直ですね」と言う。その言い方が昨夜の収監室と同じだった。事実を事実として受け取る人間の言い方だった。昨夜からずっと、この女はそういう言い方をしている。
「ここにいろ」と刃は言った。
「皇帝への説明が終わるまで、出るな」
「どう説明するんですか」と澪は聞いた。
「まだ決めていない」と刃は言って、部屋を出た。

 廊下に出てから、刃は一度立ち止まった。背後の扉の向こうに澪がいる。今朝、処刑するはずだった対象者が、自分の詰め所にいる。処刑人として十六年間守ってきた誇りが、今朝の一言で終わった。それがわかっていた。
 後悔はなかった。後悔という感触がどこにもなかった。その事実が、刃には一番理解できなかった。十六年間守ってきたものを壊して、後悔がない。後悔があるはずだった。十六年間積み上げてきたものを一言で壊したのだから、後悔があって当然だった。だがどこを探しても、後悔という感触が見つからなかった。代わりにあるのは、扉の向こうに澪がいるという事実だけだった。今朝、処刑しなかった。澪は生きている。その事実が、後悔のあるべき場所に、静かに収まっていた。
 では自分は今朝、何を守ったのか。
 皇帝への説明を考えなければならなかった。命令に従えない理由がある、と言った。その理由を、言葉にしなければならない。帳簿の改ざん。罪状への疑義。調査の必要性。言葉を並べれば、説明の形にはなる。だがそれが全てではないことを、刃は知っていた。説明の形になる言葉の裏に、言葉にならない何かがあった。昨夜から続いているこの感触が、説明の言葉の下に静かにあった。その感触に名前をつける方法を、刃は持っていなかった。持っていないまま、皇帝の前に立たなければならなかった。
 廊下は静かだった。詰め所の扉が閉まって、足音もなく、後宮の朝の空気だけがあった。刃はしばらくそこに立っていた。立っている理由はなかった。ただ、すぐに動けなかった。扉の向こうに澪がいる。廊下の向こうに皇帝がいる。その二つの事実の間に、刃は今立っていた。
 刃は歩き始めた。足音が廊下に響いた。十六年間、この廊下を歩いてきた。今日から、この廊下の意味が変わる。