後宮に入って十日後の朝、翠妃付きの女官が監察官室を訪ねた。
小夜がその事実を知ったのは、昼前に突然呼び出しを受けたためだ。女官に連れていかれた先は翠妃棟で、廊下に入った瞬間、空気の質が変わった。他の妃嬪棟より静かで、余計な装飾がなく、行き交う侍女たちの表情が一様に硬かった。笑顔がない。愛想もない。生き延びることに全員が集中しているような空気が、廊下の端まで漂っていた。
翠妃の居室に通されると、二十四歳とは思えない疲れた目をした女が書き物をしていた。顔を上げることなく、「文字が読めると聞いた」と言った。
「はい」と小夜は答えた。
「帳簿も読めるか」
「読めます」
翠妃はそこで初めて小夜を見た。値踏みする目だったが、敵意ではなかった。疲れた人間が、使えるかどうかを確認している目だった。
「毒見役を命じる。帳簿の管理も兼ねてもらう」と言って、また書き物に戻った。
小夜は断れないことを理解した上で、「承りました」と答えた。廊下に出てから、毒見役の平均在籍期間が三ヶ月だということを、帳簿の人事記録の中で読んでいたことを思い出した。三ヶ月。後宮に入ってまだ十日の自分には、長いとも短いとも判断できなかった。
翠妃が小夜に求めていたのが、毒見という盾だけではなかったと理解したのは、数日後のことだ。翠妃棟の帳簿を整理し始めると、そこには他の棟とは比較にならない量の情報が蓄積されていた。翠妃は後宮の権力闘争に疲弊しながらも、生き延びるために情報を集め続けていた。ただ、集めた情報を読んで整理する人間がいなかった。小夜はその欠けていた部分を埋める役割として、ここに置かれたのだと気づいた。
毒見役になって最初の一週間で、小夜は三度命を狙われた。
一度目は膳への毒の混入だった。夕食の膳が運ばれてきたとき、小夜は器の蓋を開ける前に匂いで気づいた。白梅の香りに似た、しかし微かに違う何かが混じっていた。三年前に父の屋敷で一度嗅いだことのある匂いで、そのときは何の匂いかわからなかったし、今も種類はわからなかった。ただ、異常があることだけは確かで、小夜は翠妃に告げた。女官を呼んで検分すると、白い粉が膳の隅に混入していた。翠妃は表情を変えなかった。
「よく気づいた」とだけ言った。翌朝、毒を仕込んだ女官の姿が翠妃棟から消えていた。誰も理由を説明しなかった。
二度目は夜の水への細工だった。就寝前に翠妃に運ばれた水の器を、小夜は受け取った瞬間に光の角度を変えて見た。透明なはずの水が、行燈の光の向きによって黄みがかって見えた。ほんの僅かな違いで、注意して見なければわからない程度だった。小夜は替えさせた。検分はしなかったが、翌朝その水を器に残して置いておくと、近くに来た鼠が一口飲んで間もなく動かなくなった。翠妃は報告を聞いて、今度は少し長く小夜を見た。
「何で気づく」と聞いた。
「光の角度が変わると、水の色が違って見えました」と小夜は答えた。翠妃はそれ以上聞かなかった。その夜も、細工をした人間の姿が翌朝には消えていた。
三度目は小夜自身を狙ったものだった。翠妃棟から帳簿を返しに行く廊下で、後ろから肩を強く押された。階段の上だった。小夜は咄嗟に壁に手をついて転落を防いだが、手首を石の壁で擦って血が滲んだ。振り返ると廊下には誰もいなかったが、曲がり角に消えていく背中を一瞬だけ見た。翠妃付きの女官の一人だと、その後ろ姿でわかった。翌朝、その女官の姿がなかった。監察官室に連行されたと、他の女官が小声で話しているのを聞いた。
三度の危機を経て、小夜は気づいた。後始末が異様に速い。毒を仕込んだ者が翌朝には消え、細工をした者も気づけばいなくなり、小夜を突き飛ばした女官も即日連行されていた。翠妃が処置を命じた様子はなく、女官たちも誰も指示を受けた形跡がなかった。誰かが、小夜の周囲で起きた危険の後始末を、素早く処理している。その誰かが誰なのか、小夜には見当がついていたが、確認する方法がなかった。
翠妃棟に移って三週間が経った夜、暁玄は机の上に積まれた報告書を見ていた。
後宮監察官として、全ての人間の動向を把握するのは通常業務だ。妃嬪、女官、下女、宦官、出入りする商人に至るまで、後宮内の全ての人間の行動が部下を通じて報告される。暁玄はその報告書を毎晩読んでいた。七年間続けてきた習慣で、特に意識することなく続けていた。
水無月小夜の報告書が、他の誰のものより厚くなっていることに気づいたのは、三週間後だった。報告書には小夜が何時にどこにいたかだけでなく、誰と何を話したか、何を食べたか、いつ帳簿を読んでいたかまで記録されていた。ここまで詳細な報告書は、後宮内で暗殺対象として指定された人間に対してのみ作成されるものだった。暁玄は部下を呼んで確認した。
「誰がこの指示を出した」
「監察官様の指示書がございます」と部下は言った。困惑した顔をしていた。
指示書を見ると、確かに暁玄の筆跡だった。暁家の家紋入りの紙に、暁玄の文字で詳細な監視の指示が書かれていた。書いた覚えがなかった。いや、正確には、覚えが薄かった。言われてみれば書いたかもしれないという感触が、記憶の端にあった。
部下を下がらせてから、暁玄は一週間の自分の行動を振り返った。小夜に危険が及ぶ情報が入るたびに、処置を命じていた。毒を仕込んだ女官、水に細工した者、廊下で突き飛ばした女官、全員を即日監察官室に連行し、翌朝には後宮の外へ送り出していた。処置の速さは通常業務の範囲を超えていた。
これは計算の誤差ではない。呪術の綻びだ、と暁玄は認識した。感情を封じた呪術は完全ではなく、特定の対象に向かって滲み出ることがあると、術師から聞いていた。七年間、それは一度も起きなかった。起きていないと思っていた。机の引き出しを開けた。七年前の命令書の写しが入っていた。麗華の署名がある。復讐が終われば、呪術を解く。その前に感情が滲み出ることは、計画の外だった。感情は封じたままでいなければならない。暁玄は引き出しを閉めた。
一ヶ月が経った夜、小夜は帳簿の整理を終えて翠妃棟から出た。夜の後宮は昼より静かで、足音が廊下の石畳に吸い込まれるように消えた。次の角を曲がれば下女部屋の棟に続く廊下だという場所で、後ろから声をかけられた。
「すみません」と男の声がした。
振り返ると、白い官服を着た若い男が立っていた。二十代前半で、腰に黒い牌がなかった。宦官ではなく、新任の官吏だとわかった。
「翠妃棟への道を教えていただけますか。迷ってしまって」と男は言った。困った顔をしていたが、他意のある様子はなかった。小夜は来た道を説明した。角を二つと、棟の入口の目印になる白い石柱のことを告げると、男は礼を言って歩き去った。一分もかからない、事務的なやり取りだった。
廊下の角から暁玄が現れたのは、男の背中が見えなくなった直後だった。
「その男と、何を話した」
声はいつも通り低かった。ただ、何かが違った。気配の密度が違う。普段、暁玄はどこにいても存在を希薄にしているような印象があった。廊下を歩いていても、空気に溶けているような、そういう男だった。今は違った。廊下の石畳に両足でしっかりと立って、空気を変えていた。
「道を聞かれました。翠妃棟への行き方を」と小夜は答えた。
暁玄はしばらく何も言わなかった。沈黙が続いて、小夜は暁玄の目を見た。感情のない目だったが、記憶する能力がその目の奥で何かを捉えた。動いているものがある。怒りとは違う、形容のしようがない何かが、感情のない目の奥で揺れていた。
「……次は、その喉を潰す」と暁玄は言った。
「道を聞かれただけです」と小夜は言った。
「後宮の男が女に声をかける理由は、一つではない」
「それはそうかもしれませんが」と小夜は言い、少し考えてから続けた。
「あなたが人の喉を潰す理由にはならないと思います」
暁玄は小夜を見た。その視線が少し長かった。何かを言いかけて、止めた。止めた、という動作が小夜には見えた。口元が動いて、止まった。
「命が惜しいなら、俺の後ろから離れるな」と暁玄は言い、踵を返した。
小夜はその背中を見送りながら、帳簿を両腕で抱え直した。この男は自分に触れない。手当ての場面だけ、最小限で触れた。それ以外は常に一定の距離を保っている。宦官だからという理由とは違う気がした。宦官であることを理由に距離を保つなら、もっと無関心な距離の取り方になるはずだった。この男の距離の取り方は、無関心とは違う。触れたくないのではなく、触れることを自分に許していないような、そういう距離だった。
その距離が、なぜか小夜には痛かった。自分でも理由がわからなかった。痛いという感触が自分の中にあることに気づいて、小夜は少し驚いた。後宮に入る前、誰かのことを痛いと思ったことはなかった。父が処刑されたときも、母が死んだときも、悲しみはあったが痛みとは違った。これは違う種類の何かで、名前がなかった。
翌日、小夜は翠妃棟の奥の書庫で帳簿を整理していた。翠妃が使わせてくれた書庫で、過去十年分の記録が棚に並んでいた。翠妃棟の記録だけでなく、後宮全体の古い記録も保管されていて、その中に七年前の後宮の人事記録があった。
最初は通常の整理作業として読み始めた。名前と日付と役職の変遷を追いながら、数字を頭に入れていった。七年前という年の記録を開いたとき、暁という家名が繰り返し出てくることに気づいた。暁家の人間が後宮に出入りしていたことを示す記録で、それ自体は珍しくない。問題は、その記録が同じ年の後半から突然途切れることだった。名前が消える前後の記録を追うと、後宮の外の記録に「暁家粛清」という文字があった。
別の棚の奥に、命令書の写しが挟まれていた。七年前の日付で、麗華妃の署名があった。小夜は命令書を手に取って、ゆっくりと読んだ。内容は暁家の処分を命じるもので、謀反の疑いを理由にしていた。皇帝の名はなく、麗華妃の署名だけがあった。後宮の妃嬪が皇帝の名なしに一族の処分を命じる文書を持っていたことの意味を、小夜はすぐに理解した。麗華妃は後宮の内側で、皇帝の権限を使わずに人を消していた。命令書を閉じて、小夜は棚の奥をさらに調べた。同じ時期の記録が他にもあるはずだという感触があった。書庫の空気は埃っぽく、行燈の光が弱かった。紙を一枚ずつ確かめながら、指先で年代を確認していった。
さらに小夜は、その記録の中に母の名前を見つけた。
水無月雪乃。証言者として記載されていた。
小夜は手を止めた。母の名前が、暁家粛清の証言者として記録されている。しばらく、その文字を見つめたまま動けなかった。証言の内容は記録されていなかったが、同じ棚の奥に挟まれた別の記録に、証言内容と実際の事実の齟齬を示す数字の記録があった。小夜はそれを照合した。息を吸って、もう一度吸って、それから一行ずつ確かめた。母の証言とされている内容と、当時の記録が示す実際の事実が、複数の箇所で一致しなかった。意図的に一致しないのか、記録の誤りなのか、今の段階では判断できなかった。ただ、矛盾は確かにあった。目の奥が熱くなったが、小夜は唇を引き結んだ。今は読み続けることだけを考えた。
強制されたのか、それとも自らの意思だったのか。記録からはわからなかった。
書庫を出たのは夜が深くなってからだった。帳簿を棚に戻して、行燈を消して、書庫の重い扉を両手で引いた。廊下に出ると、夜の静けさが体を包んだ。小夜は記憶した内容を頭の中で整理しながら歩いた。父の処刑、母の後宮入りと死、暁家の滅亡、麗華妃の署名、そして自分がここにいること。これらが全て繋がっているとしたら。そして暁玄が母の名前を聞いた瞬間に指の動きを止めたとしたら。暁玄は全てを知っている。最初から知っていた。
その夜、小夜は監察官室を訪ねた。帳簿の写しを持って、廊下に立って、扉を叩いた。
「入れ」と声がした。
暁玄は机の前に立っていた。小夜が入ってきたのを見て、何も言わなかった。何も言わないことが、この男の通常の状態だと小夜はすでに理解していた。
「あなたは、私を復讐に使うつもりですか」と小夜は言った。
暁玄は答えなかった。
「母が、何かをしたんですね」と小夜は続けた。声を平らに保つことに集中した。
「教えてください。私には知る権利があります」
暁玄はしばらく机の前に立っていた。部屋の中に沈黙が広がり、灯りが揺れた。暁玄が口を開くまで、小夜は動かなかった。動かないことが今できる唯一のことだった。
「座れ」と暁玄は言った。
小夜は椅子に座った。暁玄は机の引き出しから紙を二枚取り出した。一枚は小夜が書庫で見た命令書の写しで、もう一枚は小夜が見たことのない文書だった。折り畳まれた紙で、年季が入っていた。折り目が何度も開かれた跡があり、端が少し擦り切れていた。暁玄はその紙を机の上に置いた。広げなかった。
「お前の母が俺に渡した文書だ」と暁玄は言った。
暁玄が語ったのは短かった。
七年前、暁家は麗華妃の権力拡大の障害となり、謀反の濡れ衣を着せられて滅ぼされた。証言者が複数用意されたが、その中の一人が水無月雪乃だった。雪乃は証言台に立った。その事実は変わらない。だが同時に、暁玄だけが逃げられるよう、密かに逃げ道の情報を流した。何者かが手を回して暁玄一人が逃げられたのは、雪乃が動いたためだと、後に暁玄は調べて知った。
「なぜ動いたのか、俺にはわからない」と暁玄は言った。声は低く、感情がなかった。ただ、その低さの中に何かが混じっていた。七年間、答えが出なかった問いを、それでも保持し続けてきた人間の重さのようなものが、短い言葉の中にあった。
「確認する前に、雪乃は後宮で死んだ」
「麗華妃が」と小夜は言った。
「気づいて消したのだと思っている。証言の後に暁玄が逃げたことで、雪乃が情報を流したと麗華は判断した。そうでなければ、雪乃が後宮で一年も経たずに衰弱死する理由がない」
小夜は膝の上で手を組んだ。部屋の中が静かだった。暁玄は机の傍に立ったまま、小夜を見ていなかった。壁を見ていた。七年間、この男はどこを見ていたのだろうと小夜は思った。答えのない問いを抱えたまま、感情を封じて、後宮の内側で復讐だけを積み上げてきた。その時間の重さを、今の暁玄の立ち方の中に小夜は見た。背筋が真っすぐで、どこにも寄りかかっていなかった。七年間、ずっとそうして立っていたのだと思った。
「母は、あなたを助けたんですね」と小夜は言った。
「俺の一族を滅ぼすことに加担した」と暁玄は言った。
「それは事実だ」
「でも助けた」
しばらく間があった。灯りが揺れた。
「……そうだ」と暁玄は言った。
小夜は机の上の折り畳まれた紙を見た。折り目が何度も開かれた跡。七年間、暁玄はこの紙を何度も開いて、何度も閉じた。母が何を伝えようとしていたのかを、その紙に確かめながら、それでも答えが出なかった。そういうことだと小夜は理解した。聞こうとして、今は聞かないことにした。聞けることと聞けないことがある。
「私を復讐に使うつもりですか」と小夜は再び聞いた。
「麗華を追い詰めるために、お前の記憶の能力が必要だ」と暁玄は言った。今度は間を置いてから答えた。
「断ったら」
「後宮から出す」
小夜は少し考えた。後宮から出ることは、父の冤罪を晴らすための情報から遠ざかることを意味する。書庫で見た記録の中に、父の名前がまだ出てきていない部分があった。麗華妃と父の処刑が繋がっているとしたら、その証拠もここにある可能性があった。
「協力します」と小夜は言った。
「ただし、父の冤罪の証拠も探させてください」
暁玄は小夜を見た。感情のない目だったが、小夜はその目の奥を記憶していた。一ヶ月かけて記憶してきた、この男の目の変化を。今、その目の奥に何かがあった。名前のつけられない何かが、感情のない表面の下で動いていた。
「わかった」と暁玄は言った。
小夜は立ち上がり、礼を言って扉に向かった。扉を開ける前に振り返った。
「一つだけ聞いてもいいですか」
暁玄は答えなかったが、立ったままでいた。それが答えだと小夜は判断した。
「最初から、私を後宮に入れるよう仕組んだんですか」
長い沈黙があった。灯りが揺れた。暁玄は小夜から目を逸らして、机の上の紙を見ながら「そうだ」と言った。
小夜はその答えを聞いて、廊下に出た。扉が閉まった後、廊下の石畳に立ったまま少し考えた。怒る気持ちがあるかどうかを確認した。あった。ただ、怒りより先に、別の何かがあった。この男は七年間復讐のために動いてきた。その復讐の最終段階で、自分を必要とした。それが全てだとしたら、怒るのが正しい。でも書庫で見た折り畳まれた紙を暁玄が手元に持ち続けていたことを、小夜は記憶していた。母が渡した文書を、七年間捨てずにいた。それだけのことで何かを判断するのは早い。でも、それだけのことが、今の小夜には重かった。
それから桜妃の動きが変わった。
翌朝、翠妃棟に向かう廊下で桜妃の侍女とすれ違ったとき、侍女が小夜を見て何かを確認するような目をした。記憶する能力が、その目の動きを捉えた。敵意ではなく、確認だった。誰かに頼まれて、小夜の顔を改めて確認した、という目だった。三日後、翠妃棟の帳簿の中に不自然な数字があることに気づいた。翠妃への食材の献上記録で、特定の日付だけ量が倍になっていた。倍になった日付は、翠妃が体調を崩した日と一致していた。小夜は翠妃に報告した。翠妃は記録を見て、「桜妃の侍女の署名がある」と言った。
五日後、監察官室から通達があった。桜妃が後宮内の規律違反を理由に処分される、という内容だった。処分の詳細は記されていなかったが、翌朝から桜妃棟が封鎖された。廊下を歩く桜妃の姿を、それ以降小夜は見なかった。
翠妃はその知らせを聞いて、小夜を見た。
「監察官が動いたね」と言った。
「はい」と小夜は答えた。
「お前に何かあったのか」
「特に何も」
翠妃はしばらく小夜を見てから、「嘘が下手だね」と言って書き物に戻った。
その夜、小夜は書庫で帳簿の整理を続けながら、桜妃棟が封鎖されたことを考えた。桜妃が処分されたのは小夜への嫌がらせの証拠が出たためではなく、もっと前から積み上げられていた証拠が使われたためだろうと小夜は判断した。監察官室には七年分の記録がある。桜妃が麗華の傀儡として動いていた記録も、その中に含まれていたはずだった。暁玄はそれを今使った。タイミングを計っていた、ということだ。この男は全てを計算している。小夜への危険因子を素早く排除したことも、桜妃の処分のタイミングも、全て計算の上だ。そう考えると、一ヶ月前に廊下で男官吏に話しかけられたとき暁玄が現れた場面が、別の意味を持って記憶の中で動いた。計算の上で動いているはずの男が、廊下の空気を変えていた。あの密度は、計算から出るものではない気がした。
帳簿を棚に戻し、行燈を消して書庫の扉を引いた。廊下に出たとき、夜の空気が頬に触れた。埃と古い紙の匂いが体に残っていて、小夜は一度だけ深く息を吸った。それから暁玄が机の上に置いた折り畳まれた紙のことを、もう一度考えた。七年間持ち続けて、今夜も広げなかった。広げなかったのは、答えを確かめることを恐れていたのか、それとも答えなどないとわかっていて、それでも手放せなかったのか。小夜には判断できなかった。ただ、どちらであっても、その紙を持ち続けてきた時間の重さだけは、確かだった。
廊下を歩きながら、石畳を踏む自分の足音が静かな夜に吸い込まれていくのを聞いた。後宮の夜はいつもこれほど静かだったのに、今夜は静けさの質が違う気がした。小夜は明日も書庫に来ようと思った。まだ読んでいない記録が、棚に残っていた。
小夜がその事実を知ったのは、昼前に突然呼び出しを受けたためだ。女官に連れていかれた先は翠妃棟で、廊下に入った瞬間、空気の質が変わった。他の妃嬪棟より静かで、余計な装飾がなく、行き交う侍女たちの表情が一様に硬かった。笑顔がない。愛想もない。生き延びることに全員が集中しているような空気が、廊下の端まで漂っていた。
翠妃の居室に通されると、二十四歳とは思えない疲れた目をした女が書き物をしていた。顔を上げることなく、「文字が読めると聞いた」と言った。
「はい」と小夜は答えた。
「帳簿も読めるか」
「読めます」
翠妃はそこで初めて小夜を見た。値踏みする目だったが、敵意ではなかった。疲れた人間が、使えるかどうかを確認している目だった。
「毒見役を命じる。帳簿の管理も兼ねてもらう」と言って、また書き物に戻った。
小夜は断れないことを理解した上で、「承りました」と答えた。廊下に出てから、毒見役の平均在籍期間が三ヶ月だということを、帳簿の人事記録の中で読んでいたことを思い出した。三ヶ月。後宮に入ってまだ十日の自分には、長いとも短いとも判断できなかった。
翠妃が小夜に求めていたのが、毒見という盾だけではなかったと理解したのは、数日後のことだ。翠妃棟の帳簿を整理し始めると、そこには他の棟とは比較にならない量の情報が蓄積されていた。翠妃は後宮の権力闘争に疲弊しながらも、生き延びるために情報を集め続けていた。ただ、集めた情報を読んで整理する人間がいなかった。小夜はその欠けていた部分を埋める役割として、ここに置かれたのだと気づいた。
毒見役になって最初の一週間で、小夜は三度命を狙われた。
一度目は膳への毒の混入だった。夕食の膳が運ばれてきたとき、小夜は器の蓋を開ける前に匂いで気づいた。白梅の香りに似た、しかし微かに違う何かが混じっていた。三年前に父の屋敷で一度嗅いだことのある匂いで、そのときは何の匂いかわからなかったし、今も種類はわからなかった。ただ、異常があることだけは確かで、小夜は翠妃に告げた。女官を呼んで検分すると、白い粉が膳の隅に混入していた。翠妃は表情を変えなかった。
「よく気づいた」とだけ言った。翌朝、毒を仕込んだ女官の姿が翠妃棟から消えていた。誰も理由を説明しなかった。
二度目は夜の水への細工だった。就寝前に翠妃に運ばれた水の器を、小夜は受け取った瞬間に光の角度を変えて見た。透明なはずの水が、行燈の光の向きによって黄みがかって見えた。ほんの僅かな違いで、注意して見なければわからない程度だった。小夜は替えさせた。検分はしなかったが、翌朝その水を器に残して置いておくと、近くに来た鼠が一口飲んで間もなく動かなくなった。翠妃は報告を聞いて、今度は少し長く小夜を見た。
「何で気づく」と聞いた。
「光の角度が変わると、水の色が違って見えました」と小夜は答えた。翠妃はそれ以上聞かなかった。その夜も、細工をした人間の姿が翌朝には消えていた。
三度目は小夜自身を狙ったものだった。翠妃棟から帳簿を返しに行く廊下で、後ろから肩を強く押された。階段の上だった。小夜は咄嗟に壁に手をついて転落を防いだが、手首を石の壁で擦って血が滲んだ。振り返ると廊下には誰もいなかったが、曲がり角に消えていく背中を一瞬だけ見た。翠妃付きの女官の一人だと、その後ろ姿でわかった。翌朝、その女官の姿がなかった。監察官室に連行されたと、他の女官が小声で話しているのを聞いた。
三度の危機を経て、小夜は気づいた。後始末が異様に速い。毒を仕込んだ者が翌朝には消え、細工をした者も気づけばいなくなり、小夜を突き飛ばした女官も即日連行されていた。翠妃が処置を命じた様子はなく、女官たちも誰も指示を受けた形跡がなかった。誰かが、小夜の周囲で起きた危険の後始末を、素早く処理している。その誰かが誰なのか、小夜には見当がついていたが、確認する方法がなかった。
翠妃棟に移って三週間が経った夜、暁玄は机の上に積まれた報告書を見ていた。
後宮監察官として、全ての人間の動向を把握するのは通常業務だ。妃嬪、女官、下女、宦官、出入りする商人に至るまで、後宮内の全ての人間の行動が部下を通じて報告される。暁玄はその報告書を毎晩読んでいた。七年間続けてきた習慣で、特に意識することなく続けていた。
水無月小夜の報告書が、他の誰のものより厚くなっていることに気づいたのは、三週間後だった。報告書には小夜が何時にどこにいたかだけでなく、誰と何を話したか、何を食べたか、いつ帳簿を読んでいたかまで記録されていた。ここまで詳細な報告書は、後宮内で暗殺対象として指定された人間に対してのみ作成されるものだった。暁玄は部下を呼んで確認した。
「誰がこの指示を出した」
「監察官様の指示書がございます」と部下は言った。困惑した顔をしていた。
指示書を見ると、確かに暁玄の筆跡だった。暁家の家紋入りの紙に、暁玄の文字で詳細な監視の指示が書かれていた。書いた覚えがなかった。いや、正確には、覚えが薄かった。言われてみれば書いたかもしれないという感触が、記憶の端にあった。
部下を下がらせてから、暁玄は一週間の自分の行動を振り返った。小夜に危険が及ぶ情報が入るたびに、処置を命じていた。毒を仕込んだ女官、水に細工した者、廊下で突き飛ばした女官、全員を即日監察官室に連行し、翌朝には後宮の外へ送り出していた。処置の速さは通常業務の範囲を超えていた。
これは計算の誤差ではない。呪術の綻びだ、と暁玄は認識した。感情を封じた呪術は完全ではなく、特定の対象に向かって滲み出ることがあると、術師から聞いていた。七年間、それは一度も起きなかった。起きていないと思っていた。机の引き出しを開けた。七年前の命令書の写しが入っていた。麗華の署名がある。復讐が終われば、呪術を解く。その前に感情が滲み出ることは、計画の外だった。感情は封じたままでいなければならない。暁玄は引き出しを閉めた。
一ヶ月が経った夜、小夜は帳簿の整理を終えて翠妃棟から出た。夜の後宮は昼より静かで、足音が廊下の石畳に吸い込まれるように消えた。次の角を曲がれば下女部屋の棟に続く廊下だという場所で、後ろから声をかけられた。
「すみません」と男の声がした。
振り返ると、白い官服を着た若い男が立っていた。二十代前半で、腰に黒い牌がなかった。宦官ではなく、新任の官吏だとわかった。
「翠妃棟への道を教えていただけますか。迷ってしまって」と男は言った。困った顔をしていたが、他意のある様子はなかった。小夜は来た道を説明した。角を二つと、棟の入口の目印になる白い石柱のことを告げると、男は礼を言って歩き去った。一分もかからない、事務的なやり取りだった。
廊下の角から暁玄が現れたのは、男の背中が見えなくなった直後だった。
「その男と、何を話した」
声はいつも通り低かった。ただ、何かが違った。気配の密度が違う。普段、暁玄はどこにいても存在を希薄にしているような印象があった。廊下を歩いていても、空気に溶けているような、そういう男だった。今は違った。廊下の石畳に両足でしっかりと立って、空気を変えていた。
「道を聞かれました。翠妃棟への行き方を」と小夜は答えた。
暁玄はしばらく何も言わなかった。沈黙が続いて、小夜は暁玄の目を見た。感情のない目だったが、記憶する能力がその目の奥で何かを捉えた。動いているものがある。怒りとは違う、形容のしようがない何かが、感情のない目の奥で揺れていた。
「……次は、その喉を潰す」と暁玄は言った。
「道を聞かれただけです」と小夜は言った。
「後宮の男が女に声をかける理由は、一つではない」
「それはそうかもしれませんが」と小夜は言い、少し考えてから続けた。
「あなたが人の喉を潰す理由にはならないと思います」
暁玄は小夜を見た。その視線が少し長かった。何かを言いかけて、止めた。止めた、という動作が小夜には見えた。口元が動いて、止まった。
「命が惜しいなら、俺の後ろから離れるな」と暁玄は言い、踵を返した。
小夜はその背中を見送りながら、帳簿を両腕で抱え直した。この男は自分に触れない。手当ての場面だけ、最小限で触れた。それ以外は常に一定の距離を保っている。宦官だからという理由とは違う気がした。宦官であることを理由に距離を保つなら、もっと無関心な距離の取り方になるはずだった。この男の距離の取り方は、無関心とは違う。触れたくないのではなく、触れることを自分に許していないような、そういう距離だった。
その距離が、なぜか小夜には痛かった。自分でも理由がわからなかった。痛いという感触が自分の中にあることに気づいて、小夜は少し驚いた。後宮に入る前、誰かのことを痛いと思ったことはなかった。父が処刑されたときも、母が死んだときも、悲しみはあったが痛みとは違った。これは違う種類の何かで、名前がなかった。
翌日、小夜は翠妃棟の奥の書庫で帳簿を整理していた。翠妃が使わせてくれた書庫で、過去十年分の記録が棚に並んでいた。翠妃棟の記録だけでなく、後宮全体の古い記録も保管されていて、その中に七年前の後宮の人事記録があった。
最初は通常の整理作業として読み始めた。名前と日付と役職の変遷を追いながら、数字を頭に入れていった。七年前という年の記録を開いたとき、暁という家名が繰り返し出てくることに気づいた。暁家の人間が後宮に出入りしていたことを示す記録で、それ自体は珍しくない。問題は、その記録が同じ年の後半から突然途切れることだった。名前が消える前後の記録を追うと、後宮の外の記録に「暁家粛清」という文字があった。
別の棚の奥に、命令書の写しが挟まれていた。七年前の日付で、麗華妃の署名があった。小夜は命令書を手に取って、ゆっくりと読んだ。内容は暁家の処分を命じるもので、謀反の疑いを理由にしていた。皇帝の名はなく、麗華妃の署名だけがあった。後宮の妃嬪が皇帝の名なしに一族の処分を命じる文書を持っていたことの意味を、小夜はすぐに理解した。麗華妃は後宮の内側で、皇帝の権限を使わずに人を消していた。命令書を閉じて、小夜は棚の奥をさらに調べた。同じ時期の記録が他にもあるはずだという感触があった。書庫の空気は埃っぽく、行燈の光が弱かった。紙を一枚ずつ確かめながら、指先で年代を確認していった。
さらに小夜は、その記録の中に母の名前を見つけた。
水無月雪乃。証言者として記載されていた。
小夜は手を止めた。母の名前が、暁家粛清の証言者として記録されている。しばらく、その文字を見つめたまま動けなかった。証言の内容は記録されていなかったが、同じ棚の奥に挟まれた別の記録に、証言内容と実際の事実の齟齬を示す数字の記録があった。小夜はそれを照合した。息を吸って、もう一度吸って、それから一行ずつ確かめた。母の証言とされている内容と、当時の記録が示す実際の事実が、複数の箇所で一致しなかった。意図的に一致しないのか、記録の誤りなのか、今の段階では判断できなかった。ただ、矛盾は確かにあった。目の奥が熱くなったが、小夜は唇を引き結んだ。今は読み続けることだけを考えた。
強制されたのか、それとも自らの意思だったのか。記録からはわからなかった。
書庫を出たのは夜が深くなってからだった。帳簿を棚に戻して、行燈を消して、書庫の重い扉を両手で引いた。廊下に出ると、夜の静けさが体を包んだ。小夜は記憶した内容を頭の中で整理しながら歩いた。父の処刑、母の後宮入りと死、暁家の滅亡、麗華妃の署名、そして自分がここにいること。これらが全て繋がっているとしたら。そして暁玄が母の名前を聞いた瞬間に指の動きを止めたとしたら。暁玄は全てを知っている。最初から知っていた。
その夜、小夜は監察官室を訪ねた。帳簿の写しを持って、廊下に立って、扉を叩いた。
「入れ」と声がした。
暁玄は机の前に立っていた。小夜が入ってきたのを見て、何も言わなかった。何も言わないことが、この男の通常の状態だと小夜はすでに理解していた。
「あなたは、私を復讐に使うつもりですか」と小夜は言った。
暁玄は答えなかった。
「母が、何かをしたんですね」と小夜は続けた。声を平らに保つことに集中した。
「教えてください。私には知る権利があります」
暁玄はしばらく机の前に立っていた。部屋の中に沈黙が広がり、灯りが揺れた。暁玄が口を開くまで、小夜は動かなかった。動かないことが今できる唯一のことだった。
「座れ」と暁玄は言った。
小夜は椅子に座った。暁玄は机の引き出しから紙を二枚取り出した。一枚は小夜が書庫で見た命令書の写しで、もう一枚は小夜が見たことのない文書だった。折り畳まれた紙で、年季が入っていた。折り目が何度も開かれた跡があり、端が少し擦り切れていた。暁玄はその紙を机の上に置いた。広げなかった。
「お前の母が俺に渡した文書だ」と暁玄は言った。
暁玄が語ったのは短かった。
七年前、暁家は麗華妃の権力拡大の障害となり、謀反の濡れ衣を着せられて滅ぼされた。証言者が複数用意されたが、その中の一人が水無月雪乃だった。雪乃は証言台に立った。その事実は変わらない。だが同時に、暁玄だけが逃げられるよう、密かに逃げ道の情報を流した。何者かが手を回して暁玄一人が逃げられたのは、雪乃が動いたためだと、後に暁玄は調べて知った。
「なぜ動いたのか、俺にはわからない」と暁玄は言った。声は低く、感情がなかった。ただ、その低さの中に何かが混じっていた。七年間、答えが出なかった問いを、それでも保持し続けてきた人間の重さのようなものが、短い言葉の中にあった。
「確認する前に、雪乃は後宮で死んだ」
「麗華妃が」と小夜は言った。
「気づいて消したのだと思っている。証言の後に暁玄が逃げたことで、雪乃が情報を流したと麗華は判断した。そうでなければ、雪乃が後宮で一年も経たずに衰弱死する理由がない」
小夜は膝の上で手を組んだ。部屋の中が静かだった。暁玄は机の傍に立ったまま、小夜を見ていなかった。壁を見ていた。七年間、この男はどこを見ていたのだろうと小夜は思った。答えのない問いを抱えたまま、感情を封じて、後宮の内側で復讐だけを積み上げてきた。その時間の重さを、今の暁玄の立ち方の中に小夜は見た。背筋が真っすぐで、どこにも寄りかかっていなかった。七年間、ずっとそうして立っていたのだと思った。
「母は、あなたを助けたんですね」と小夜は言った。
「俺の一族を滅ぼすことに加担した」と暁玄は言った。
「それは事実だ」
「でも助けた」
しばらく間があった。灯りが揺れた。
「……そうだ」と暁玄は言った。
小夜は机の上の折り畳まれた紙を見た。折り目が何度も開かれた跡。七年間、暁玄はこの紙を何度も開いて、何度も閉じた。母が何を伝えようとしていたのかを、その紙に確かめながら、それでも答えが出なかった。そういうことだと小夜は理解した。聞こうとして、今は聞かないことにした。聞けることと聞けないことがある。
「私を復讐に使うつもりですか」と小夜は再び聞いた。
「麗華を追い詰めるために、お前の記憶の能力が必要だ」と暁玄は言った。今度は間を置いてから答えた。
「断ったら」
「後宮から出す」
小夜は少し考えた。後宮から出ることは、父の冤罪を晴らすための情報から遠ざかることを意味する。書庫で見た記録の中に、父の名前がまだ出てきていない部分があった。麗華妃と父の処刑が繋がっているとしたら、その証拠もここにある可能性があった。
「協力します」と小夜は言った。
「ただし、父の冤罪の証拠も探させてください」
暁玄は小夜を見た。感情のない目だったが、小夜はその目の奥を記憶していた。一ヶ月かけて記憶してきた、この男の目の変化を。今、その目の奥に何かがあった。名前のつけられない何かが、感情のない表面の下で動いていた。
「わかった」と暁玄は言った。
小夜は立ち上がり、礼を言って扉に向かった。扉を開ける前に振り返った。
「一つだけ聞いてもいいですか」
暁玄は答えなかったが、立ったままでいた。それが答えだと小夜は判断した。
「最初から、私を後宮に入れるよう仕組んだんですか」
長い沈黙があった。灯りが揺れた。暁玄は小夜から目を逸らして、机の上の紙を見ながら「そうだ」と言った。
小夜はその答えを聞いて、廊下に出た。扉が閉まった後、廊下の石畳に立ったまま少し考えた。怒る気持ちがあるかどうかを確認した。あった。ただ、怒りより先に、別の何かがあった。この男は七年間復讐のために動いてきた。その復讐の最終段階で、自分を必要とした。それが全てだとしたら、怒るのが正しい。でも書庫で見た折り畳まれた紙を暁玄が手元に持ち続けていたことを、小夜は記憶していた。母が渡した文書を、七年間捨てずにいた。それだけのことで何かを判断するのは早い。でも、それだけのことが、今の小夜には重かった。
それから桜妃の動きが変わった。
翌朝、翠妃棟に向かう廊下で桜妃の侍女とすれ違ったとき、侍女が小夜を見て何かを確認するような目をした。記憶する能力が、その目の動きを捉えた。敵意ではなく、確認だった。誰かに頼まれて、小夜の顔を改めて確認した、という目だった。三日後、翠妃棟の帳簿の中に不自然な数字があることに気づいた。翠妃への食材の献上記録で、特定の日付だけ量が倍になっていた。倍になった日付は、翠妃が体調を崩した日と一致していた。小夜は翠妃に報告した。翠妃は記録を見て、「桜妃の侍女の署名がある」と言った。
五日後、監察官室から通達があった。桜妃が後宮内の規律違反を理由に処分される、という内容だった。処分の詳細は記されていなかったが、翌朝から桜妃棟が封鎖された。廊下を歩く桜妃の姿を、それ以降小夜は見なかった。
翠妃はその知らせを聞いて、小夜を見た。
「監察官が動いたね」と言った。
「はい」と小夜は答えた。
「お前に何かあったのか」
「特に何も」
翠妃はしばらく小夜を見てから、「嘘が下手だね」と言って書き物に戻った。
その夜、小夜は書庫で帳簿の整理を続けながら、桜妃棟が封鎖されたことを考えた。桜妃が処分されたのは小夜への嫌がらせの証拠が出たためではなく、もっと前から積み上げられていた証拠が使われたためだろうと小夜は判断した。監察官室には七年分の記録がある。桜妃が麗華の傀儡として動いていた記録も、その中に含まれていたはずだった。暁玄はそれを今使った。タイミングを計っていた、ということだ。この男は全てを計算している。小夜への危険因子を素早く排除したことも、桜妃の処分のタイミングも、全て計算の上だ。そう考えると、一ヶ月前に廊下で男官吏に話しかけられたとき暁玄が現れた場面が、別の意味を持って記憶の中で動いた。計算の上で動いているはずの男が、廊下の空気を変えていた。あの密度は、計算から出るものではない気がした。
帳簿を棚に戻し、行燈を消して書庫の扉を引いた。廊下に出たとき、夜の空気が頬に触れた。埃と古い紙の匂いが体に残っていて、小夜は一度だけ深く息を吸った。それから暁玄が机の上に置いた折り畳まれた紙のことを、もう一度考えた。七年間持ち続けて、今夜も広げなかった。広げなかったのは、答えを確かめることを恐れていたのか、それとも答えなどないとわかっていて、それでも手放せなかったのか。小夜には判断できなかった。ただ、どちらであっても、その紙を持ち続けてきた時間の重さだけは、確かだった。
廊下を歩きながら、石畳を踏む自分の足音が静かな夜に吸い込まれていくのを聞いた。後宮の夜はいつもこれほど静かだったのに、今夜は静けさの質が違う気がした。小夜は明日も書庫に来ようと思った。まだ読んでいない記録が、棚に残っていた。



