冷血宦官は、復讐の夜にだけ甘くなる

 瑞華国の後宮に入る朝、小夜は自分の着物が三か所破れていることを確認した。継ぎ接ぎだらけの灰色の布で、没落する前は絹を身につけていたが、今は麻の端切れで作った服しかない。それでも前夜のうちに洗って干しておいた。母が言っていた。どんな場所でも、清潔でいることだけは守りなさいと。母はその言葉を守ったまま死に、小夜はその言葉だけを引き継いでここまで来た。
 後宮の門は重く、音もなく開いた。先導する女官は小夜の名前を呼ばなかった。「三番、ついてこい」とだけ言い、振り返ることもなく歩き始めた。これが後宮での自分の名前になるのだと、小夜はすぐに理解した。名前ではなく番号で呼ばれることの意味を、長く考えるのはやめた。考えても変わらないことは、素早く受け入れてしまうほうがいい。それも、後宮に来る前から決めていたことだった。
 門をくぐりながら、小夜は後宮の構造を記憶し始めた。左手に妃嬪たちの居室が並ぶ棟、正面に皇帝が訪れる謁見の間、右手に女官と下女の詰め所。そしてその奥、他とは空気の違う一画に、白い官服の男たちが歩いていた。宦官棟だ。小夜はその中の一人と一瞬だけ目が合った。顔に表情がなく、黒い牌を帯に下げた男で、目が合っても相手は何も変わらなかった。まるで小夜が存在していないかのように、視線が通り過ぎた。
 後から知ることになるが、それが暁玄との最初の接触だった。
  
 後宮の下女部屋は六人部屋で、布団は薄く、壁に小さな窓が一つあるだけだった。一日目の夕方、部屋に案内されたとき、先に暮らしていた五人の下女たちがそれぞれ小夜を一瞥して、それから何事もなかったように自分の仕事に戻った。新入りを歓迎する者もなく、警戒する者もなく、ただ存在を確認して終わり、という反応だった。ここではそれが普通なのだと、小夜はすぐに理解した。歓迎されないことより、値踏みされないことのほうが、かえって安心できた。
 夕食の後、最も年かさの下女が小夜の隣に座って、後宮の序列を教えた。妃嬪の前では目を伏せ、女官の前では頭を下げ、他の下女の前では何も見せるな、と。声は低く、説明というより確認するような口ぶりだった。後宮では弱みを見せた者が消えると、その下女は最後に言い、他の女たちが無言でうなずいた。
「消えるというのは」と小夜は聞いた。
 下女は小夜を見た。値踏みするような目だったが、敵意ではなかった。
「聞かないほうがいい」と言って、立ち上がった。

 その夜、他の下女たちが眠りについた後も、小夜はしばらく天井を見ていた。消えるという言葉が、頭の中で繰り返された。理解したくない部分は今は保留にしておいたほうがいいと判断したが、保留にするということは、いつか向き合わなければならないということでもあった。ここにいる理由は持っている。父の冤罪を晴らすための手がかりが後宮のどこかにある可能性があると、処刑された父の元部下が教えてくれた。その部下が今どこにいるかも、後宮のどこを探せばいいかも、今は何もわからない。わからないことを数えるより、わかることを増やすほうがいいと小夜は思い、目を閉じた。壁の向こうから風の音がした。後宮の夜は外よりずっと静かで、静かすぎて、音のなさが圧のように感じられた。まず、生き延びることだ。それだけを決めて、小夜は眠りについた。

 二日目、小夜は帳簿の整理を任された。下女の仕事としては珍しい役割で、文字が読めることが女官に知れたためだ。連れていかれた部屋は薄暗く狭かったが、一人で座っていられる時間が確保されたことを、小夜は素直に有難く思った。帳簿は重く、ここ五年分が綴じられていた。最初のひと綴りを開いて、数字と名前を追い始めた。
 後宮の物資の出入り、妃嬪ごとの割り当て、女官の異動記録、下女の配置換え。記録するまでもないと思われるような細かな数字まで書き込まれていて、これを管理してきた人間の几帳面さと、あるいは何かへの恐怖が、数字の密度に滲んでいた。目に映るものが、そのまま頭の中に残った。幼い頃からそうで、記憶することに疲れを感じたことがなく、むしろ忘れたいと思ったときに忘れられないことのほうが、ずっと不便だった。父が処刑される場面も、母が後宮に入る朝に交わした最後の会話も、記憶の中では鮮明なまま動かない。
 帳簿の数字を追いながら、小夜はいくつかのことに気づいた。第一側室の麗華妃への物資が他の妃嬪と比較して突出して多く、しかもその内訳が、他の妃嬪のものと比べて異様なほど細かく管理されていた。他の妃嬪への割り当ては大まかな品目と数量だけが記されているのに、麗華妃のものだけは品目ごとに入手経路と保管場所まで書かれている。この帳簿を作成した人間は、何かを隠すために記録しているのか、あるいは何かを守るために記録しているのか、どちらかだという感触があった。そしてその感触は、ページをめくるたびに確信に近いものへと変わっていった。
 薄暗い部屋の中で、小夜は黙って数字を追い続けた。窓のない部屋だったから、外が何時になったかも途中からわからなくなったが、手を止めようとは思わなかった。帳簿を読み進めるほど、後宮という場所の輪郭が少しずつ見えてきた。ここは妃嬪たちが暮らす場所であると同時に、膨大な記録によって支えられた権力の器だった。誰がどこにいて、何を持っていて、誰と繋がっているかが、全てこの数字の中に刻まれている。その数字を読める人間と読めない人間では、後宮での生き延び方が根本から違ってくる。そのことに気づいたとき、小夜は知らず知らず帳簿を持つ手に力を込めていた。薄暗い部屋で、重い帳簿を膝に載せたまま、この場所で自分が持てる唯一の武器の重さを、両手でゆっくりと確かめるように。
 夕方、帳簿を返しに行くとき、その日記憶したことを頭の中で一度整理した。まだ何も証明できるものはない。ただ、積み重ねれば何かになるかもしれないものが、確かにここにある。

 三日目の朝、小夜は道に迷った。後宮の構造は複雑で、妃嬪棟の区画が一部似た造りになっていた。廊下の角を一つ間違えて、気づけば第三側室、桜妃の居室前の廊下に出ていた。引き返そうとしたとき、侍女たちに囲まれた。
「後宮の規律を知らないのか」と侍女の一人が言った。
「桜妃様の居室前を、許可なく通ることは禁じられている」
 道に迷っただけだと小夜は説明しようとした。しかし侍女たちはすでに四方を塞いでいて、その中の一人が帯の内側から刃を取り出した。後宮では規律違反を現場で処罰できるという慣例があることを、小夜は二日目の帳簿の注記の中で読んでいた。読んでいたが、三日目の朝に自分に適用されるとは思っていなかった。
 肩を掴まれて膝をつかされ、首に刃が当てられた。金属の冷たさが皮膚に触れた。怖かった。ただ、声は出なかった。声を出すことで状況が変わるとは思えなかったし、叫んで誰かが来たとしても、その誰かが自分に有利な方向で動くとは限らなかった。後宮に入ってから三日で、そのくらいのことは理解していた。目を伏せて、呼吸だけを整えた。膝の下の石の床が冷たく、その冷たさだけが妙に鮮明だった。首に当てられた刃の感触が、じりじりと皮膚に食い込んでいた。このまま終わるかもしれないという考えが頭をよぎり、小夜はそれを静かに追い払った。まだ何も終わっていない。父の冤罪はまだ晴れていない。
 廊下の奥から足音が来たのは、そのときだった。一つの足音で、速くもなく遅くもなく、ただ均一に近づいてくる。侍女たちが振り返った気配があった。誰かが息を呑む音がした。刃が首から離れなかったが、それを持つ手の力が、わずかに変わった。怖れているのか、それとも別の何かなのか、小夜には判断できなかった。足音は止まらなかった。廊下の空気が、少しずつ変わっていく。誰も何も言わなかった。言えなかったのかもしれない。足音だけが、均一なまま近づいてきた。
 小夜は顔を上げた。廊下の角に白い官服の男が立っていた。黒い牌、後宮監察官の証だ。後宮に入った朝、一瞬だけ目が合った、あの表情のない男だった。廊下の端に立っているだけで何もしていないのに、その場の空気が変わっていた。侍女たちが動けなくなっているのは、男が何かをしたからではなく、この男が次に何をするかわからないからだと、小夜は咄嗟に理解した。
「その娘は、俺の管轄だ」
 声は低く、感情がなかった。命令というより、事実を述べるような言い方だった。それだけで侍女たちは散り、刃を持っていた侍女も音もなく後退した。首から金属の感触が消えた。桜妃が居室の入口から顔を出して「規律違反を見逃すおつもりですか」と言いかけたが、暁玄の視線が一瞬そちらへ向いた瞬間に言葉が途切れた。廊下がしんと静まり返り、誰も動かなかった。暁玄も動かなかった。ただそこに立っているだけで、場を支配していた。そのときの桜妃の表情を、小夜はしっかりと記憶した。怒りではなく、恐怖だった。この男に対して、後宮の人間は誰もが同じ顔をするらしかった。
「立て」と暁玄は小夜に言った。
 小夜は立ち上がりながら、この人も何かの目的のために自分を動かそうとしているのだろうと思った。後宮の人間は全員、目的のために動いている。それは三日間で充分に学んだことで、だとすれば今自分を助けたこの男にも、当然理由がある。その理由が何かはまだわからないが、今は礼を言って従うしかない。
「ありがとうございます」と小夜は言った。
 暁玄は返事をしなかった。踵を返して歩き始めた。ついてこいとも言わなかったが、ついてくることを前提にしている背中だった。小夜はその後を歩きながら、首に刃が当たっていた場所を、指先でそっと確認した。皮膚が薄く切れていた。
  
 監察官室は後宮の他の場所とは空気が違った。余計なものが何もない。机と椅子と書棚だけで、書棚の本は全て背表紙が揃えられており、机の上には何も置かれていなかった。整頓されているというより、最初からここには何も置かれていない、というような部屋だった。人が長い時間を過ごしている気配が薄く、道具が管理されているだけの場所のように感じた。この部屋の主は、ここを生活の場所だと思っていない。そういう気配が、何もない机の上から漂っていた。
 暁玄が棚から薬箱を取り出したとき、小夜は初めて自分の首の傷をはっきりと意識した。浅い切り傷から血が滲んでいた。さほどの傷ではないとわかっていたが、薬箱を出されるまでそれを確認する余裕がなかったことに、自分でも少し驚いた。小夜が自分で手当てしようと手を伸ばすと、暁玄は無言でその手を制した。拒絶というより、当然のように制した。
 それから無言で傷に薬を塗った。触れ方は最小限だった。乱暴ではなく、傷を広げないように慎重に、指の腹で薬をなじませていく。この男が誰かに対してこんなに丁寧に触れることがあるのかと、小夜は思った。と同時に、丁寧であることと、触れることを惜しんでいることは、別のことだとも気づいた。最小限しか触れない。その意思が動作のひとつひとつから伝わってきて、指の位置も掌の向きも、必要以上に肌に触れないよう、どこかで計算されているように見えた。宦官だからという理由とは、少し違う気がした。もっと別の、この男自身の理由で、触れることを自分に禁じているような距離の取り方だった。
「名前」と暁玄は言った。
「小夜、と申します。家名は……」
「水無月小夜」と暁玄は先に言った。
 小夜は目を上げた。なぜ知っているのか。没落した家の、名もない下女の名前を。三日前に後宮に入ったばかりの、誰も名前を呼ばない存在の名前を、なぜこの男が知っているのか。表情を変えないよう気をつけながら、暁玄の顔を見た。こちらを見ていなかった。薬を塗る作業だけを見ていた。
「母親の名は」と暁玄は続けた。
「雪乃、と……」
 暁玄の手が止まった。ほんの一瞬、薬を塗る指の動作が一呼吸分だけ静止した。それからすぐに動き出したが、小夜はその停止を見逃さなかった。記憶する能力が、こういう瞬間にも正確に働いた。この男は母を知っている。それだけは確かだった。どこで、どのように知っているのかはまだわからないが、名前を聞いた瞬間に動きが止まる程度には、この男の中に雪乃という名前が刻まれている。
「用が済んだら出ろ」と暁玄は言い、背を向けた。
 小夜は薬の礼を言って立ち上がり、扉に向かいながら、一つだけ聞いた。
「私がここにいる理由を、あなたは知っていますか」
 暁玄は答えなかった。沈黙が、部屋に残った。
 廊下に出てから、小夜は自分の手が微かに震えていることに気づいた。怖かったためなのか、それとも別の何かのためなのか、判断がつかなかった。首の傷よりも、あの男の指先が止まった一瞬のほうが、ずっと鮮明に残っていた。記憶の中で、その一瞬がくっきりと輪郭を持って、動かなかった。
  
 小夜が出ていった後、暁玄は机の前に立って動かなかった。
 水無月雪乃の娘。七年間、頭の中で存在だけを確認し続けてきた名前が、顔を持って現れた。予想通りの時期に、予想通りの形で、自分が仕組んだ通りに駒は動いた。それだけのことだ、と暁玄は思った。
 思ったが、指先に薬の感触が残っていた。最小限しか触れなかった。それでも残った。七年間、誰かに触れてそういうものが残ったことはなかった。呪術が感情を封じているからだ。宦官の呪術を自ら受けたのは、復讐のためだった。感情を持たない人間は動じない、動じない人間は判断を誤らない、という計算の上で、七年間ここにいた。感情がないことを不便だと思ったことは一度もなかった。呪術を施した術師は、封じた感情は消えるのではなく、特定の対象に向かって歪んだ形で滲み出ることがあると言った。七年間、それは一度も起きなかった。それでも今、指先に何かがある。熱でも痛みでもなく、形容のしようがない何かが指の腹にとどまっていて、暁玄は自分の右手を見た。薬の染みが、指先にわずかに残っていた。それだけのことだ、ともう一度思った。
 机の引き出しから一枚の紙を取り出した。暁家の家紋が押された、七年前の命令書の写しだ。麗華の署名がある。七年間、何度見ても変わらない文字が、今夜も変わらずそこにあった。一族が滅んだ夜のことを、暁玄はまだ覚えている。呪術が感情を封じても、記憶まで封じることはできない。あの夜、暁家の屋敷は半刻もかからずに燃え落ちた。炎が梁を舐め、柱が折れ、声を上げる間もなく人が消えていった。暁玄だけが逃げられたのは、誰かが逃げ道を開けておいたからだった。誰が、なぜそうしたのかを知ったのは、ずっと後のことだ。あの夜から七年間、暁玄は感情の代わりに記憶だけを燃料にして動いてきた。悲しみも怒りも、呪術が封じている。それでも記憶は残る。炎の色も、煙の重さも、最後に聞いた声も、全て残っている。記憶が薄れないことを、不便だと思ったことはなかった。薄れてしまえば、動く理由も消えてしまうからだ。
 もうすぐ終わる。駒は揃いつつある。水無月小夜という駒が、最後のものになるはずだった。
 引き出しを閉めて、暁玄は灯りを落とした。三時間も眠れば充分で、七年間それで足りていた。指先の感触は、眠りにつく前に消えるはずだった。
 消えなかった。
  
 その夜、小夜は与えられた部屋で帳簿の続きを読んだ。他の下女たちが眠った後、灯りを小さく絞って、膝の上に帳簿を広げた。女官に持ち出しを許可された、過去三年分の人事記録だ。
 名前と日付と役職の変遷が延々と続く中で、小夜は一つのパターンに気づいた。麗華妃に関係する女官は、着任から二年以内に後宮を出る者が多い。自らの意思で出るのか、出させられるのかは記録から読めないが、数が多すぎた。通常の異動や退職という数ではなく、一定の周期で、麗華の周辺から人が消えていた。消えるという言葉が、一日目の夜に年かさの下女から聞いた言葉と重なった。
 さらに小夜は、三年前の記録の中に父の名前を見つけた。
 水無月左近。
 指先が止まった。冤罪で処刑された父の名前が、後宮の人事記録の参考資料として添付されていた。小夜はしばらく、その文字を見つめたまま動けなかった。後宮の記録に父の名があることの意味を、すぐには整理できなかった。息を吸って、もう一度吸って、それからゆっくりと紙を読み直した。内容は父の財産目録で、後宮への献上品の一覧だった。特に不自然な記述ではないが、日付が父の逮捕される二か月前で、その二か月後に父は冤罪で処刑されていた。
 献上品の目録の中に、一点だけ他と質の異なる項目があった。反物や食器の中に混じって、文書の束と記されている。他の品目にはすべて内容の詳細が書かれているのに、その項目だけ中身の記録がなかった。意図的に省かれているとしか思えなかった。父がその文書で何かを伝えようとしていたとしたら、後宮の誰かに何かを届けようとしていたとしたら。そう考え始めると、止まらなくなった。
 灯りが揺れた。風が壁の隙間から入り込んでいた。小夜は帳簿を閉じて、膝の上に置いたまましばらく動けなかった。胸の奥が、じわじわと熱くなっていた。帳簿を読み続けているあいだは数字を追うことに集中できていたのに、ページを閉じた途端に、父の名前を見つけた瞬間の衝撃が戻ってきた。冤罪だと信じていたが、証明する方法がなかった。その後母が後宮に入り、一年後に衰弱死した。母がなぜ後宮に入ったのかを、小夜は正確には知らない。そして今日、暁玄は母の名前を知っていた。名前を聞いた瞬間に指の動きを止めるほど、深く知っていた。目の奥が熱くなり、小夜は唇を引き結んだ。泣くつもりはなかった。泣いても何も変わらないし、泣く場所でもない。ただ、父の名前を見つけたという事実が、体のどこかにゆっくりと染み込んでいくのを、止めることができなかった。
 点と点が、線になろうとしていた。父のこと、母のこと、暁玄が母の名前を聞いた瞬間に指の動きを止めたこと、自分がここにいることの意味。それらがどこかで繋がっているという予感が、否定できないくらい強くなっていた。

 翌朝、小夜は暁玄に報告しようとして、廊下の途中で足を止めた。監察官室の方角に向いたまま、帳簿を両腕で抱え直した。昨夜記憶したことを、今すぐ渡してしまいたい気持ちがあった。でも、その気持ちと同じ強さで、まだ早いという感触が胸の内にあった。暁玄が自分の名前を最初から知っていたこと、母の名前に指の動きを止めたこと、それらは全てこの男が何かを知っているという証拠だったが、この男が何を目的としているかは、まだわからない。その目的が自分と同じ方向を向いているとは限らないし、渡した情報が思わぬ形で使われる可能性もある。小夜は帳簿を抱えたまま踵を返して、監察官室とは反対の方向へ歩き始めた。石畳を踏む足音が廊下に響いた。後宮に入って四日目の朝の空気は冷たく、帳簿の重さだけが両腕に確かだった。今持っているものを、手放す前にもう少しだけ確かめなければならない。
 朝の後宮は、夜とは違う静けさをしていた。妃嬪棟の方角から女官たちの足音が聞こえ、遠くで誰かが水を運ぶ音がした。どこかの居室から、線香の匂いが漂ってきた。廊下を歩きながら、小夜は昨夜記憶した数字と名前を頭の中でゆっくりとなぞった。それらはまだ別々の点として浮いているが、同じ場所に向かって収束しようとしている気配がある。その収束点が何なのか、今はまだわからない。ただ、廊下の先に答えがあるとしたら、自分の足で歩いていくしかなかった。たとえ誰かの駒として動かされているとしても、自分の目で見て自分の記憶に刻んだものは、誰にも奪われない。帳簿の重さを両腕に感じながら、小夜は後宮の朝の中を歩き続けた。