権一郎が稽古場に顔を出すことはなかった。輝久雄は術師たちの実力を測りたいというが、奴に試されるなんて真っ平だからだ。
それにそもそも、自分はただの術師ではない。本家の長男。つまり、術師を束ねる立場なのだ。分家の田舎者に指図されるだなんて我慢ならない。
だから顔合わせの日以来、権一郎は私室にこもりきりだった。しかしここが心地良い場所かというと、そうでもない。
「権一郎さんッ!早くあの田舎者を追い出してくださいなッ!」
母の寛子が、ヒステリックに叫ぶからだ。
「私の権一郎さんが当主じゃないだなんて、有り得ないわッ!早くこの家を正さなければ……!」
それはごもっともだ。由緒正しい永守家が、分家の人間に当主の座を譲るだなんて間違っている。しかし──当主の御標は輝久雄の手にある。それは間違いようのない事実だった。
「ううっ……。まさかあの人が死んで、こんな惨めな思いをするだなんてッ……!」
母は父が死んだときは涙の一つも見せなかった。それなのに最近はこうしめメソメソ泣いてみせる。それも権一郎のストレスに拍車をかけた。
まったく、俺にどうしろっていうんだ。
そんな悩みが消え失せたのは、夕餉も終わってからのことだった。
「権一郎様、お家のためにどうか立ち上がってくださいませ!」
権一郎の部屋には数名の術師が集まっていた。
「当主に相応しいのは、権一郎様ただ一人です」
術師の一人がきっぱりと言い切る。
「……なんだお前達。あの田舎者におもねっていたんじゃないのか」
「まさか!」
術師たちから、異口同音に不満が溢れ出す。
「あれは野蛮人です!実力を測るだの訓練だと言って……我々をいたぶって遊んでいる」
輝久雄がここに来てから、術師たちの数名には実力不足のレッテルが貼られた。以来、稽古場での基礎訓練が義務付けられている。
体力・霊力を使った訓練は過酷なものだった。しかも手を抜けば容赦なく雷が降ってくる。不満が噴き出すのは、当然の流れだった。
「そもそも!私たちには現場で妖を祓ってきた実績があります!今更、田舎者の指導なぞ不要ですのに……!」
現場では、妖に困る人々に「術師様」と敬われ、崇められてきた。それなのに、今まで侮ってきた田舎の術師に頭を垂れなければならないなんて。彼らのプライドはズタズタに引き裂かれ、怒りの炎に燃えていた。
権一郎は彼らの不満を面倒くさそうに聞き流した。「権一郎さまでなければ」とは言うが、ただ自分の待遇に不満なだけではないか。
自分だって、当主の座を奪い返せるのならさっさとやっている。それなのに、何もしない連中が自分をせっつこうとするのは、なんとも虫のいい話だ。
「咲子様のことだって──!」
さっさと追い出してしまおう。そう思っていた権一郎の耳に、咲子の名前が引っかかる。
「咲子、様?」
「あ、あの、これは……」
術師は言い訳をするように話し始めた。
「あの田舎者が……咲子、様、の……、待遇を改善するように……。呼び方も改めるように、と……」
すべてが納得できなかった。
あれは、世話係として使い潰すのではないのか? あんな痩せっぽちでは慰み者にも使えまい。どうせまた使用人以下に差し戻されると思っていた。それなのに……待遇を、改善だと?
「流行りの着物を与えて、自分と同じ食事まで……。ずっとそばに置いて、力仕事など一切させず……」
あの、咲子に?
一般人以下の女に、なぜ?
「最近、あの田舎者は朝礼の時間を設けるようになりました……。その場にもあの女を同席させ……あまつさえ、自分の隣に座らせているのです」
それは、ありえないことだった。食事の場なら、気に入った娘を隣席させることがあるだろう。しかし術師の朝礼の場で、それを?
信用がなければ、尊重の気持ちがなければ、そんなことはしないはずだ。
いや、待て。
ろくな霊力も持たない女を、信用?あの娘の霊力は、わずかに揺蕩う程度のものだ。霊力が見えない常人にも敵いはしない。あんな娘が妹で、俺はどれだけ恥ずかしい思いをしたか。
それに、尊重だと?本家の長男である俺を、並の術師と同じ扱いをしておいて?取るにも足らぬ妹を、姫のように扱っているだと?
あれは、木偶だ。気まぐれに殴ってもいいただの人形。あれが不幸になるのは構わない。だが、俺を差し置くなど。
恥だ。恥。恥。恥。この状況を放っておくなんて、末代までの恥だ。霊力も持たない妹が永守家で大きな顔をするなんて、おかしい。俺が当主でないなんて、間違っている。
「……あの田舎者が死ねば、御標は俺の手に降りるだろうな」
口から出た言葉は、思ったよりも静かだった。当然だ。俺が正しい当主なのだから、迂闊に感情を表に出したりはしない。
しかし、術師たちはこの言葉に希望を見出したようだった。
「だが、こちらが術を発動させようとすれば、すぐさま感知される。どうすれば……」
「私に良い伝手がございます。以前、依頼のあった工場に──」
「……ほう」
権一郎と術師たちは声をひそめる。いつしか、月は中空に差し掛かっていた。
「くくッ。これで当主の座を──俺の手に奪い返せる──!」
権一郎は口の端を歪めて昏く笑った。
◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎
奪われながら生きてきた。
輝久雄は分家の八人兄弟の末っ子だ。
兄たちに食事を横取りされるのは当たり前で、稽古と称しては殴られた。五つを過ぎた頃には妖退治に駆り出された。
戦わなければ、奪われる。食事も、命すらも。だから輝久雄は強くなった。
生まれ持った霊力は多くなかった。しかし戦いのなかで、それはより重く、早く、鋭く磨かれていった。
妖も、兄たちも屈服させてきた。そしてある日、彼の手には当主の御標が降りた。別に野心はなかった。ちゃんと飯が食えて、自分の仕事が全うできれば満足だった。
それなのに──咲子を一目見て、欲しいと思った。
顔合わせの座敷に場違いな着物に、疲れ切った青白い顔。そして身体にまとう霊力は並の人間より弱々しい。だけれどどこか春の若葉のような瑞々しさを感じさせた。
それだけではない。
「なぜ……隠している……?」
思わず呟く。そうしているのには、訳があるのだろう。自分だって生きるために強さを求めた。この娘も生きるためにそうしているのだろうとは、検討がつくけれど。
「永守咲子を、俺の世話係とする」
そう言ったとき、咲子の淡い霊力が揺らめいた。
きれいだ。そう思った。
ずっと眺めていたい。そんな気持ちで部屋に連れ帰った。
咲子のアザだらけの腕を見て、腹が立った。そして、そんな自分に驚いた。
弱いものには興味がなかった。弱者が奪われるのは世の常だ。弱いものから死んでいくのは、術者にとって当然のことだ。それなのに。
薬を塗る。強張っていた霊力が解けていき、やがて春風のように輝久雄の頬を撫でた。その優しさに、自分が癒されるのを感じた。
咲子の口に菓子を放り込んだり、膝枕をさせたり。そのたびに咲子の霊力に触れる。生まれて初めて感じる心地の良さに、当主の仕事の憂鬱も忘れそうになった。
そして──咲子は少しずつ、笑うようになった。控えめで、すぐに消えてしまいそうな儚げな笑み。
これはなかなか、悪くない。
しかし当人は笑うことが罪悪だとでも思っているのか、すぐに表情を引っ込めてしまう。だから猫を拾ったり、珍しい菓子を用意したりもした。
しかし、それだけでは駄目なのだと思い知らされる。
「へ、へぇ。ちょいとした躾でございやして」
下男の言葉に額の血管が切れそうになる。このまま殺してしまおうか?下男の一人がいなくなっても、誰も騒ぎはしない。
しかし咲子に害をなすのは、どうやらコイツらだけではないようだ。
「この屋敷の使用人すべてに躾をせねばならんと思うと──お前たちをまたいじめたくなってしまう」
咲子を大切に扱うよう、他にも十分、周知しておけ──そう脅しておく。
使用人をすべて辞めさせてもよかったが、当主に就任したばかりでそれは悪手だ。永守をこれ以上、混乱させるわけにはいかない。
じゃあ──俺はこいつの笑顔を守るために、何をしたらいい?
俺はこいつを──俺だけのものにしたい。
他の人間に触られて──あんなに腹が立つとは思わなかった。
奥歯が、軋む。
眺めているだけでは──足りない──。
まずは咲子を外に引き摺り出すことにした。常に自分の側に置き、自分が大事にしているのだと他の人間たちに理解させる。使用人でも術師でも、咲子に舐めた態度を取る者は許さない。
俺だけのものだ。
笑顔も涙も──誰にも奪わせはしない。
◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎
「あの……お菓子でもお持ちしますか?」
難しい顔をした輝久雄を、咲子が覗き込む。
「……いや。お前はただそばにいろ」
輝久雄がごろりと、咲子の膝に寝転がる。
「あっ……。もう……」
この頃は膝枕をさせても、咲子が逃げようとすることはなくなった。
開け放たれた障子からは、春の柔らかな日差しが注いでいる。
梅吉が傍らで伸びをする。
咲子の膝に頭を乗せたまま、輝久雄は庭へと目をやった。
術師は任務や鍛錬へと出払い、最低限の使用人以外はここに近づかぬよう命じてある。二人きりの時間。だけど、咲子にはどうしようもなく寂しい。
輝久雄は時折、どこか遠くを見つめる。そんなとき、庭の花も、青い空も輝久雄の瞳には映っていない。もちろん、咲子の姿すら。
(何をお考えなのかしら)
そっと輝久雄の髪を撫でる。反応はない。
こんなに近くにいるのに、とても遠くにいるような。こうして触れているのに、届かない場所にいるような。
孤高──。
厳しく、冷たく……恐れられ、誰も寄せ付けぬ孤独な当主。
(私も分家の人たちと同じかしら。そばにいるようで、本当は近づけてなどいないのかしら)
輝久雄の瞳の奥──そこには何があるのだろう。何を考えているのだろう。
気になる。
なにより──輝久雄の瞳に映りたい。自分だけを映してほしい。
でも、自分はただの世話係。そんなことは許されていない。
期待しない。夢を見ない。咲子は心で小さく繰り返す。
庭に紋白蝶が飛ぶのが見えて、輝久雄をなでる咲子の手が止まる。
輝久雄は目を細めると、止まってしまった咲子の手に頭を擦り付けた。もっとなでろ、と主張する猫のように。
「仕事をしろ、世話係」
咲子は小さく微笑んだ。
「はい、失礼をいたしました」
再び咲子が手を動かすと、輝久雄は満足気に目を閉じた。
それにそもそも、自分はただの術師ではない。本家の長男。つまり、術師を束ねる立場なのだ。分家の田舎者に指図されるだなんて我慢ならない。
だから顔合わせの日以来、権一郎は私室にこもりきりだった。しかしここが心地良い場所かというと、そうでもない。
「権一郎さんッ!早くあの田舎者を追い出してくださいなッ!」
母の寛子が、ヒステリックに叫ぶからだ。
「私の権一郎さんが当主じゃないだなんて、有り得ないわッ!早くこの家を正さなければ……!」
それはごもっともだ。由緒正しい永守家が、分家の人間に当主の座を譲るだなんて間違っている。しかし──当主の御標は輝久雄の手にある。それは間違いようのない事実だった。
「ううっ……。まさかあの人が死んで、こんな惨めな思いをするだなんてッ……!」
母は父が死んだときは涙の一つも見せなかった。それなのに最近はこうしめメソメソ泣いてみせる。それも権一郎のストレスに拍車をかけた。
まったく、俺にどうしろっていうんだ。
そんな悩みが消え失せたのは、夕餉も終わってからのことだった。
「権一郎様、お家のためにどうか立ち上がってくださいませ!」
権一郎の部屋には数名の術師が集まっていた。
「当主に相応しいのは、権一郎様ただ一人です」
術師の一人がきっぱりと言い切る。
「……なんだお前達。あの田舎者におもねっていたんじゃないのか」
「まさか!」
術師たちから、異口同音に不満が溢れ出す。
「あれは野蛮人です!実力を測るだの訓練だと言って……我々をいたぶって遊んでいる」
輝久雄がここに来てから、術師たちの数名には実力不足のレッテルが貼られた。以来、稽古場での基礎訓練が義務付けられている。
体力・霊力を使った訓練は過酷なものだった。しかも手を抜けば容赦なく雷が降ってくる。不満が噴き出すのは、当然の流れだった。
「そもそも!私たちには現場で妖を祓ってきた実績があります!今更、田舎者の指導なぞ不要ですのに……!」
現場では、妖に困る人々に「術師様」と敬われ、崇められてきた。それなのに、今まで侮ってきた田舎の術師に頭を垂れなければならないなんて。彼らのプライドはズタズタに引き裂かれ、怒りの炎に燃えていた。
権一郎は彼らの不満を面倒くさそうに聞き流した。「権一郎さまでなければ」とは言うが、ただ自分の待遇に不満なだけではないか。
自分だって、当主の座を奪い返せるのならさっさとやっている。それなのに、何もしない連中が自分をせっつこうとするのは、なんとも虫のいい話だ。
「咲子様のことだって──!」
さっさと追い出してしまおう。そう思っていた権一郎の耳に、咲子の名前が引っかかる。
「咲子、様?」
「あ、あの、これは……」
術師は言い訳をするように話し始めた。
「あの田舎者が……咲子、様、の……、待遇を改善するように……。呼び方も改めるように、と……」
すべてが納得できなかった。
あれは、世話係として使い潰すのではないのか? あんな痩せっぽちでは慰み者にも使えまい。どうせまた使用人以下に差し戻されると思っていた。それなのに……待遇を、改善だと?
「流行りの着物を与えて、自分と同じ食事まで……。ずっとそばに置いて、力仕事など一切させず……」
あの、咲子に?
一般人以下の女に、なぜ?
「最近、あの田舎者は朝礼の時間を設けるようになりました……。その場にもあの女を同席させ……あまつさえ、自分の隣に座らせているのです」
それは、ありえないことだった。食事の場なら、気に入った娘を隣席させることがあるだろう。しかし術師の朝礼の場で、それを?
信用がなければ、尊重の気持ちがなければ、そんなことはしないはずだ。
いや、待て。
ろくな霊力も持たない女を、信用?あの娘の霊力は、わずかに揺蕩う程度のものだ。霊力が見えない常人にも敵いはしない。あんな娘が妹で、俺はどれだけ恥ずかしい思いをしたか。
それに、尊重だと?本家の長男である俺を、並の術師と同じ扱いをしておいて?取るにも足らぬ妹を、姫のように扱っているだと?
あれは、木偶だ。気まぐれに殴ってもいいただの人形。あれが不幸になるのは構わない。だが、俺を差し置くなど。
恥だ。恥。恥。恥。この状況を放っておくなんて、末代までの恥だ。霊力も持たない妹が永守家で大きな顔をするなんて、おかしい。俺が当主でないなんて、間違っている。
「……あの田舎者が死ねば、御標は俺の手に降りるだろうな」
口から出た言葉は、思ったよりも静かだった。当然だ。俺が正しい当主なのだから、迂闊に感情を表に出したりはしない。
しかし、術師たちはこの言葉に希望を見出したようだった。
「だが、こちらが術を発動させようとすれば、すぐさま感知される。どうすれば……」
「私に良い伝手がございます。以前、依頼のあった工場に──」
「……ほう」
権一郎と術師たちは声をひそめる。いつしか、月は中空に差し掛かっていた。
「くくッ。これで当主の座を──俺の手に奪い返せる──!」
権一郎は口の端を歪めて昏く笑った。
◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎
奪われながら生きてきた。
輝久雄は分家の八人兄弟の末っ子だ。
兄たちに食事を横取りされるのは当たり前で、稽古と称しては殴られた。五つを過ぎた頃には妖退治に駆り出された。
戦わなければ、奪われる。食事も、命すらも。だから輝久雄は強くなった。
生まれ持った霊力は多くなかった。しかし戦いのなかで、それはより重く、早く、鋭く磨かれていった。
妖も、兄たちも屈服させてきた。そしてある日、彼の手には当主の御標が降りた。別に野心はなかった。ちゃんと飯が食えて、自分の仕事が全うできれば満足だった。
それなのに──咲子を一目見て、欲しいと思った。
顔合わせの座敷に場違いな着物に、疲れ切った青白い顔。そして身体にまとう霊力は並の人間より弱々しい。だけれどどこか春の若葉のような瑞々しさを感じさせた。
それだけではない。
「なぜ……隠している……?」
思わず呟く。そうしているのには、訳があるのだろう。自分だって生きるために強さを求めた。この娘も生きるためにそうしているのだろうとは、検討がつくけれど。
「永守咲子を、俺の世話係とする」
そう言ったとき、咲子の淡い霊力が揺らめいた。
きれいだ。そう思った。
ずっと眺めていたい。そんな気持ちで部屋に連れ帰った。
咲子のアザだらけの腕を見て、腹が立った。そして、そんな自分に驚いた。
弱いものには興味がなかった。弱者が奪われるのは世の常だ。弱いものから死んでいくのは、術者にとって当然のことだ。それなのに。
薬を塗る。強張っていた霊力が解けていき、やがて春風のように輝久雄の頬を撫でた。その優しさに、自分が癒されるのを感じた。
咲子の口に菓子を放り込んだり、膝枕をさせたり。そのたびに咲子の霊力に触れる。生まれて初めて感じる心地の良さに、当主の仕事の憂鬱も忘れそうになった。
そして──咲子は少しずつ、笑うようになった。控えめで、すぐに消えてしまいそうな儚げな笑み。
これはなかなか、悪くない。
しかし当人は笑うことが罪悪だとでも思っているのか、すぐに表情を引っ込めてしまう。だから猫を拾ったり、珍しい菓子を用意したりもした。
しかし、それだけでは駄目なのだと思い知らされる。
「へ、へぇ。ちょいとした躾でございやして」
下男の言葉に額の血管が切れそうになる。このまま殺してしまおうか?下男の一人がいなくなっても、誰も騒ぎはしない。
しかし咲子に害をなすのは、どうやらコイツらだけではないようだ。
「この屋敷の使用人すべてに躾をせねばならんと思うと──お前たちをまたいじめたくなってしまう」
咲子を大切に扱うよう、他にも十分、周知しておけ──そう脅しておく。
使用人をすべて辞めさせてもよかったが、当主に就任したばかりでそれは悪手だ。永守をこれ以上、混乱させるわけにはいかない。
じゃあ──俺はこいつの笑顔を守るために、何をしたらいい?
俺はこいつを──俺だけのものにしたい。
他の人間に触られて──あんなに腹が立つとは思わなかった。
奥歯が、軋む。
眺めているだけでは──足りない──。
まずは咲子を外に引き摺り出すことにした。常に自分の側に置き、自分が大事にしているのだと他の人間たちに理解させる。使用人でも術師でも、咲子に舐めた態度を取る者は許さない。
俺だけのものだ。
笑顔も涙も──誰にも奪わせはしない。
◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎
「あの……お菓子でもお持ちしますか?」
難しい顔をした輝久雄を、咲子が覗き込む。
「……いや。お前はただそばにいろ」
輝久雄がごろりと、咲子の膝に寝転がる。
「あっ……。もう……」
この頃は膝枕をさせても、咲子が逃げようとすることはなくなった。
開け放たれた障子からは、春の柔らかな日差しが注いでいる。
梅吉が傍らで伸びをする。
咲子の膝に頭を乗せたまま、輝久雄は庭へと目をやった。
術師は任務や鍛錬へと出払い、最低限の使用人以外はここに近づかぬよう命じてある。二人きりの時間。だけど、咲子にはどうしようもなく寂しい。
輝久雄は時折、どこか遠くを見つめる。そんなとき、庭の花も、青い空も輝久雄の瞳には映っていない。もちろん、咲子の姿すら。
(何をお考えなのかしら)
そっと輝久雄の髪を撫でる。反応はない。
こんなに近くにいるのに、とても遠くにいるような。こうして触れているのに、届かない場所にいるような。
孤高──。
厳しく、冷たく……恐れられ、誰も寄せ付けぬ孤独な当主。
(私も分家の人たちと同じかしら。そばにいるようで、本当は近づけてなどいないのかしら)
輝久雄の瞳の奥──そこには何があるのだろう。何を考えているのだろう。
気になる。
なにより──輝久雄の瞳に映りたい。自分だけを映してほしい。
でも、自分はただの世話係。そんなことは許されていない。
期待しない。夢を見ない。咲子は心で小さく繰り返す。
庭に紋白蝶が飛ぶのが見えて、輝久雄をなでる咲子の手が止まる。
輝久雄は目を細めると、止まってしまった咲子の手に頭を擦り付けた。もっとなでろ、と主張する猫のように。
「仕事をしろ、世話係」
咲子は小さく微笑んだ。
「はい、失礼をいたしました」
再び咲子が手を動かすと、輝久雄は満足気に目を閉じた。
