冷酷当主はすべてを諦めた令嬢を逃さない

 翌日には着物が用意された。ちゃんと丈のあった、真っ新な着物。淡い色合いが美しく繊細で、咲子は「こんなものを着たら、水仕事も薪割りもできないわ」なんて思う。
 でも輝久雄に「着ろ」と命じられたので、大人しく従う。 
 絹の肌触りに、なんだかそわそわした。ずっと襤褸しか着てこなかったのに、こんな上等なものに袖を通していいのかしら。
 輝久雄が曙色の着物の咲子をじっと見つめる。恥ずかしくて顔が赤くなる。そんなにもおかしいのかしら。やっぱり自分のような人間が、こんなものを着てはいけなかったんだ。
 普段の着物に着替えますね。咲子がそう言おうとしたとき。
「うむ」
 輝久雄は力強く頷いた。
「え……?」
「うむ、良し」
「あ、あの」
「これからは新しく仕立てたものを着ろ」
 そう言うと、輝久雄は仕事へと戻っていった。

 その翌日は、白い仔猫を投げてよこされた。
「えっ……えっ……」
 柔らかく温かな、小さな命。両手にすっぽり収まってしまうほどの、小さなからだ。やっとのことで抱きしめて、咲子は輝久雄を見つめ返した。
「猫が好きだと言っただろう」
「えっ……?あっ、はい」
「お前が世話をしろ」 
「は……はい」
 まさか、自分のために貰ってきてくれたのだろうか。そんなことを考えて、咲子は急いで首を振る。
(そんなおこがましいこと。ありえない。ありえないわ)
 甘やかすような輝久雄の行動に、咲子は勘違いしてしまいそうになる。新しい着物も仔猫も──ただの気まぐれに違いないのに。
 期待しない。夢を見ない。
 そう自分に言い聞かせて、切り替える。
「……猫ちゃんは、なんと呼びましょうか」
「名前はお前がつけろ」
「よろしいので……?」
「世話係なのだから当然だ」
 その理屈はよく分からなかったが、咲子は「では梅吉と」と答えた。
「梅か」 
「はい。まるで白梅のようでしたので」
 輝久雄は愉快そうにくっと笑った。
「お前は今日から梅吉だ。精々、俺を楽しませろよ」
 梅吉は咲子の腕の中で、「にゃん!」と元気よく応えた。

◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎

 今日の輝久雄の仕事は、術師の実力を測ることだった。本家には三十名の術師が在籍している。彼らは自治体や帝国陸軍の要請を受けて、妖退治などに派遣されていく。
 永守は術師の世界でも、特に優れた一族だと評判だ。門下の術師も実力揃いと言われている。しかし。
「術式の立ち上がりが遅いっ!」
 永守家の稽古場では、先ほどから輝久雄の怒号が止まない。
 門下生が、稽古場の泥に塗れながら唇を噛んでいる。
「現場で死にたくなければ、詠唱をあと二秒縮めろ」
「はい……」
 輝久雄の言葉に異論を唱える者はいなかった。口答えしようとすれば、それよりも速く雷が襲ってくるからだ。
 この場にいる術師が束になっても、当主には敵わない──。
 誰もがそれを悟り、口をつぐむことを選んだ。

 咲子はというと──世話係の仕事に忙しかった。輝久雄はもちろん、彼女と梅吉を稽古場にも同行させた。そして猫じゃらしを一本、放って寄越した。
 輝久雄は「それがお前の今日の仕事だ」と言った。けれど、それはさすがにどうなのだろう。咲子の顔はそんな戸惑いでいっぱいになる。
 しかし当主の命令だと言われれば頷くしかなかった。だから精一杯、梅吉の遊び相手をしている。
「えいっ、えいっ」
 猫と遊ぶなんて、初めてのことだった。これで合っているのかしら、なんて不安になりながら、猫じゃらしを揺らす。
 梅吉の目が爛爛とする。小さな肉球が、猫じゃらしの穂先を追う。
「……ふふっ。えいっ、これはどうですか?」
 そんなことを言いながら、小一時間は遊んだだろうか。急に梅吉の身体がゆらりと崩れて、ぱたんと倒れる。そして小さな寝息を立て始めた。
「あっ……」
 やり過ぎてしまった。体力の限界まで遊ばせてしまった。梅吉は仔猫だから、まだ加減ができないのに。咲子は申し訳ない気分になる。
(世話係、失格だわ……)
 これほど身体を動かせたのだ、水やおやつもあげる必要があるだろう。
 咲子はちらりと輝久雄の方を見る。まだ彼の仕事は終わりそうにない。
 咲子は梅吉を抱くと、そっとその場を離れた。
 目指すは厨である。咲子はかつて、残飯を求めてよく厨に忍び込んだ。
 仔猫のおやつになるものがあればいいけど。鼻歌まじりに辺りを見渡す。
 そのとき。
 かたり、と背後で音がして、咲子は身を強張らせた。
「やぁだ。大きな鼠がいるねぇ」
 女中頭と下男だった。そういえば、二人はここをよく逢引き場所に選んでいた。よりによって鉢合わせてしまうなんて。気が緩んでいたと咲子は顔を青くした。
「あ、あ、あの……。猫ちゃんに、おやつを……」
「ああ?聞こえないよ」
 女中頭はわざとらしくため息を吐いた。咲子の身体がさらに硬くなる。下男は面白そうにそれをニヤニヤと眺めた。
「アンタ、ずいぶん毛艶が良くなったじゃあないの。新しいべべまで着せてもらって」
「は……はい……」
 睨め付けられて、背筋が冷たくなる。
 こんなとき、自分はどうしていたっけ。
 そう、そうだ。
 期待しない。夢を見ない。
 咲子は必死に心の中で繰り返す。
 地獄が私の日常。打たれても蹴られても、それは当たり前のこと。今更、怖がることじゃない。
 いつもなら、こうして感情を殺すことができていた。
 それなのに。
 咲子は恐ろしくて仕方がなかった。思わず梅吉を抱く手に力が入る。
「新しいご当主様を、どうやってたらし込んだんだい?アタシも知りたいねぇ。その手管をサ」
 たらし込んだだなんて──。
 反論したいけれど、何も言葉にならない。そもそも、咲子には口答えなんて許されたことがなかった。どうすれば気持ちが通じるのかも分からなくて、視線を彷徨わせる。しかしそれが女中頭の癇に障ったようだった。
「アンタねぇ」
 女中頭が咲子の首に手をかける。喉から「ひゅっ」と空気が漏れた。下男が面倒臭そうに「痕を残すなよ」と言う。女中頭は「首なら目立ちやしないサ」と吐き捨てた。
「く……は…………!」
「水仕事も薪割りも放り投げて、どれだけアタシ達が迷惑したのか分かってンのかい?!」
 身体に力が入らなくなり、抱いていた梅吉がずり落ちる。梅吉は地面にぶつかる前にぱちりと目を覚ますと、華麗に着地してみせた。そして咲子の状況を察すると、威嚇するように大きく鳴く。
「自分の立場を思い出すんだね。アンタは地面を這いつくばって、惨めに生きるのがお似合いなンだよ。それが分かんないなら、死にな」
 視界がぼやけて、気が遠くなる。
(死──。私がいなくなったら── 輝久雄さまは気付いてくれるかしら。それとも──)
 ぼんやりと考えた、そのときだった。
 ばちり。
 青い雷光が女中頭を貫く。
「いぎゃあ」
 蛙の潰れたような声を出して、女はその手を離した。
「ひゅっ……、ゴホッ、カハッ、コホッ」
 新鮮な空気に、肺が混乱する。頭がまだくらくらと揺れている。
 下男が怯えた声で「ご、ご当主様」と言うのが聞こえた。
(来て──くれたんだ)
 冷たく固まっていた身体が、安堵で解されていく気がした。
 女中頭と下男はというと── 輝久雄に冷ややかに見下され、身じろぎもできずにいる。
「何をしていた?」
「へ、へぇ。ちょいとした躾でございやして」
「躾?」
「ええ。ご当主様はこちらにいらしたばかりだからご存知ない。しかしそれは駄目な娘でございやして」
「……ほう?」
「ええ。本家に生まれた癖に、常人以下の霊力しか持たないので……」
「それで躾がいる、と」
「へぇ、その通りで」
 輝久雄はしゃがみ込み、下男と目線を合わせる。男はその仕草に安心したようだった。
「俺に教えてくれるか?躾とやらを始めたのは誰なのか」
「そりゃあ、前のご当主様とその奥様、そして権一郎様でございます」
 下男は胸を張って言う。
 咲子の両親と、兄。その答えに、輝久雄はしばし目を見張った。
「もう十年前からでござんしょうか。奥様がソレにひどく腹を立てましてねぇ。霊力も満足に持たない娘は自分の子ではないと。使用人として使えと仰いましてね」
 咲子もその日のことは、今でも鮮明に覚えている。暖かかったはずの家が、牢獄になってしまった日。母の怒りを買って、令嬢から鼠以下の存在に成り果てた。
(こんなことを輝久雄さまに知られるなんて)
 なんて、惨めな。
 咲子は耳を塞いだが、下男は語ることをやめなかった。
「奥様も権一郎様も、度々躾をなさいました。こう、拳でね。あっしらもそれに倣っているのでございやす」
「そうか」
 輝久雄は美しく微笑んだ。それはずっとそばにいた咲子も、見たことのない表情だった。
「躾は必要だな」
「そうでございやしょう!」
「俺にも許せんことがあってな、躾がいると思っていたところだ」
 輝久雄の右手が雷をまとう。咲子はそれを絶望的な気持ちで眺めた。女中頭が口の端を歪めて嗤う。
 しかし雷が落ちたのは、下男と女中頭の二人だった。汚い悲鳴が厨に響き渡る。
「俺は、俺の持ち物に手を出されるのが嫌いでな」
 加減をしているのか、雷で二人が気絶することはない。しかし、それに身体を貫かれる度に、二人は悶絶し痙攣した。
「これは、俺のものだ。お前たちは俺のものに手を出し──泣かせた」
 咲子はふと顔に手をやる。頬がじっとりと涙で濡れている。いつの間にか泣いていたのだと、やっと気づく。
「これを笑わせるのも、泣かせるのも、俺だけで十分なんだ。理解できるか?」
 雷を放ちながら、輝久雄が冷たく笑う。
 ああ、彼は自分が泣いたことに怒ってくれているのだ。
 そう思うと、咲子はなんだか救われた気がした。追撃をやめない輝久雄の着物の袖を、思わず掴む。
「……これは、躾はもう十分だと言っているようだが?」
 二人は団子虫のように身体を丸めると、「ありがとうございます」と繰り返した。
(ずっとこの人たちに頭を下げて生きるのだと思っていたのに)
 咲子はなんだか不思議な気持ちになる。
「俺は面倒なことは嫌いだ。この屋敷の使用人すべてに躾をせねばならんと思うと──お前たちをまたいじめたくなってしまう」
 二人は小さく悲鳴を上げる。
「……分かるな?」
「はっ、はい……!誰もそれに関わらぬように──」
 輝久雄が下男の腹を蹴り上げた。咲子は「きゃっ」とへたり込む。
「おいおい。これには名前がある。忘れてしまったか?」
「さっ、咲子様!咲子様でございますっ!」
「分かっているじゃないか」
 輝久雄は満足気に眉を上げた。
「これを永守の令嬢として扱うこと。泣かせでもしたときには……分かるな?」
「はっ……はいぃっ……!」
 下男の返事を聞くと、輝久雄はへたり込んだままの咲子を抱き上げた。そのまま部屋へと真っ直ぐに廊下を歩く。その顔からは、残忍な笑顔はすっかり抜け落ちていた。
「言ったはずだ。俺のそばを離れるなと」
「申し訳……ございません……」
 頬が赤くなった気がして、咲子は輝久雄の胸に顔を埋めた。
(容赦のない、恐ろしい人。だけれど、私を守ってくれる……優しい人)
 胸に芽生えたこの気持ちがなんなのか、咲子にはまだ分からなかった。
 輝久雄はというと、むしゃくしゃした気持ちに奥歯を軋ませていた。
「……他人に触れさせることが、これほど腹立たしいことだとは」
 そんな輝久雄の呟きは、誰の耳にも届くことはなかった。