部屋に着くなり輝久雄に「脱げ」と命じられ、咲子は顔を青くした。
(まさか、慰み者になるだなんて……)
期待しない。夢を見ない。
そう心がけてはいたけれど、これはあんまりだ。
「……脱げ」
「っあ……、あの……」
「手間を取らせるな」
輝久雄は有無を言わさず、咲子の着物の袖を捲り上げた。細い腕には青紫色のアザが牡丹のように乱れ咲いている。
「……ッ!」
家のものが怪我をしているなど、見目が悪い。だから権一郎や使用人たちは目立たない場所を選んで咲子を打った。
「胸糞悪い」
輝久雄は胸元から軟膏を取り出すと、咲子の腕に薄く伸ばした。早く浸透するよう、上から何度も撫でるように摩る。
「どう……して……」
「抱き上げたときに顔を顰めただろう」
どうして、とはそんな意味で聞いたのではなかった。どうして私なんかに薬を、という意味だ。
しかしもしかしたら、怪我人に薬を塗るのはこの男性にとっては当たり前のことなのかもしれない。そう思うと、咲子はなんだか尊いものに触れたような気がした。
右腕が終わったら、左腕に。咲子が呆気に取られているうちに、その作業は終わった。
「頬も腫れているな。……触るぞ」
それはまるで砂糖菓子でも扱うような、優しい手つきだった。慈しむように、頬をそっと撫でる。
咲子の世界には固く、冷たいものが溢れていた。角材のように固い拳で殴られ、氷のように冷たい悪意を浴びる日々。
いつしか咲子自身も、身を守るように厚い壁を作るようになっていった。
それなのに。
「おい、泣くな。薬が流れる」
「も、もうし、申し訳……」
「謝るな。お前が謝る必要が、どこにある」
「だ、だって……」
咲子は言葉に詰まった。
ずっと「お前が悪い」と言われ続けて。八つ当たりだと分かっていた。だけど、頭を床に擦り付けないと、また打たれて。
涙はなかなか止まらなかった。その間、輝久雄はずっと咲子の頬を撫で続けた。
◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎
「……はっ」
咲子が目を覚ましたのは、朝日に雀たちが戯れ始めた時刻だった。
(寝坊だわ。今日の薪を用意して、火を起こさないと……)
急いで立ち上がろうとしたが、周囲を見渡して少しぼうっとする。
(ここは……当主様のお部屋……。私、あの後……泣き疲れて眠ってしまったんだわ……!)
しかも気が緩んで寝坊までするなんて。なんという失態だろう。
「うーん……?」
そばで輝久雄の気だるげな声が聞こえて、咲子は小さく飛び跳ねた。
もしかして、自分は彼と同じ布団で?嫁入り前の娘が?
自分の着物をまさぐる。一晩寝た割には、着崩れていない。輝久雄とは……何もなかったのだろう。そうと信じたい。
「咲子……咲……。起きたのか」
輝久雄が目を擦りながらこちらを見ている。咲子は反射的に頭を下げた。
「私ごときがご一緒するなど……」
「いい、いい。簡単に頭を下げるな」
輝久雄が起き上がって伸びをする。着物がはだけて胸板が覗く。咲子はさっと目を逸らした。
「それに──お前と眠るのは心地がいい」
「え……?」
「それより飯だ」
「は、はい!」
咲子はぱっと立ち上がり、部屋を出ようとした。しかし輝久雄に肩を掴まれる。
「あの……?」
「お前が行ってどうする」
「お世話係ですから……お膳を取りに参ろうと……」
「世話係の仕事は、俺のそばにいることだ。離れることは許さん」
そう言うと、輝久雄は廊下で控えていた使用人に声をかけた。
しばらくして隣室に案内されると、そこには二つの膳が並んでいる。
輝久雄は当然のように膳の前に座り、咲子はその後ろに控える。すると輝久雄は機嫌が悪そうに口を開いた。
「なんのつもりだ」
「えっと……お世話係として……」
「俺の世話係の仕事は、隣で飯を食うことだ」
「え……?」
「痩せすぎだ。肉をつけろ。骨が当たって敵わん」
今朝のことだと分かって、咲子は顔が真っ赤になった。
(わ、私……なんて醜態を……)
気をつけなければいけない。自分は恥ずかしい人間なのだから、慎ましく生きなければ。
だからちゃんと、弁えるのだ。
「食事を共にいただくのは、使用人としては……」
「お前は永守総本家の令嬢だ。使用人ではない」
「で、でも……」
そんなこと、誰も認めてくれていない。幼い頃から、使用人以下の扱いを受けてきた。誰も自分のことをこの家の令嬢だとは思っていない。
今さら、期待しない。夢を見ない。
どうせこの男性もいつか私に飽きるのだから、期待させないでほしい。自分に手を差し伸べてくれる人が現れる……なんて、夢を見せないでほしい。
しかし、どれもうまく言葉にはできなかった。
言葉にした瞬間、惨めな気持ちに押しつぶされそうだったから。
咲子がまごまごしていると、輝久雄は痺れを切らしたようだった。
「口を開けろ」
「え?」
「当主命令だ」
「……はい」
輝久雄は明日葉のお浸しを箸でつまむと、それを咲子の口に運んだ。
「あ、あの」
「喋るな。噛め」
「……はい」
明日葉のほろ苦さが、じんわりと口に広がっていく。
今までは厨の残り物をやっとの思いで漁っていた。いつも誰かに見つからないように急いで食べていたから、味なんて分からなかったのに。
「美味しい、です……」
「そうか」
輝久雄は咲子の口におかずを運び続けた。
◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎
朝食が終わったら、輝久雄も仕事に取り掛かる時間だ。まずは永守家のすべてを把握するため、あらゆる資料に目を通す。
輝久雄は分家の出身だ。しかし、それは外部の人間には関係のないこと。足を掬われることがないように、家に関係することはなんでも頭に入れておく。
その横で、咲子はぼんやりしていた。
やることがない。
輝久雄はそばを離れるなと言うし、お茶汲みすらできない。
(こんな意味のない時間、何年振りかしら。私、そういえばずっと仕事してた……。やってもやっても新しい仕事が降ってきて……終わらなかった……。)
縁側を蝶が飛んでいる。
なんとなく、目で追う。
庭の隅では白い花が揺れていた。
なんて名前だっただろう。
「……きれい」
思わず、呟く。
身近に美しいものは溢れていた。でもそれに気づく心を失くしていた。何度も季節は巡ったのに、自分は下を向いていてそれにも気が付かなかった。
咲子の膝に、輝久雄がごろりと頭を乗せる。
「きゃっ……」
「膝枕も、世話係の仕事だ」
「そ、そんな」
「おい、逃げるな」
「……当主命令ですか?」
「そうだ。励めよ」
輝久雄はそのまま身体を丸めると、目を閉じた。しばらくして、鼻から寝息が漏れ始める。
(寝ちゃった……?)
咲子はまじまじと輝久雄の顔を見つめる。端正な顔立ち。昨日はあれほど厳しい当主の顔をしていたのに、今はすっかり緩んでいる。しかしちょっと気難しそうな眉毛の形は、お昼寝中でも直らないようだ。
恐る恐る、髪を撫でてみる。さらり、と黒髪が流れた。
「……ふふ。猫ちゃんみたい」
昨日の様子が虎だとしたら、今は猫だ。この寝顔を分家の人間が知ったら、親近感を持ってくれるだろうか。いや、輝久雄本人は嫌がるに違いない。……なんて妄想をしていたら。
「猫が好きなのか」
輝久雄が片目を開けて、咲子を見ていた。
「あっ、わたっ、失礼なことを」
「猫が好きなのか」
「……はい」
「そうか」
それだけ言うと、輝久雄はまた寝息を立て始めた。
(……少なくとも、失礼だとは思われていないみたい)
咲子は胸を撫で下ろす。
輝久雄は朝、「お前と眠ると心地がいい」と言ってくれた。あれはどういう意味かしら。
でも……こうして無防備な姿を晒してくれるのは、なんだか嬉しい。自分が信頼されていると思えるからだ。
(こんな時間が……ずっと続くといいな……)
ふと胸に湧き上がった思いは、「期待しない」という自戒に反するものだった。
一方、縁側の光が届かぬ廊下の奥で、ひそひそと囁き声が立ち上がっていた。
(まさか、慰み者になるだなんて……)
期待しない。夢を見ない。
そう心がけてはいたけれど、これはあんまりだ。
「……脱げ」
「っあ……、あの……」
「手間を取らせるな」
輝久雄は有無を言わさず、咲子の着物の袖を捲り上げた。細い腕には青紫色のアザが牡丹のように乱れ咲いている。
「……ッ!」
家のものが怪我をしているなど、見目が悪い。だから権一郎や使用人たちは目立たない場所を選んで咲子を打った。
「胸糞悪い」
輝久雄は胸元から軟膏を取り出すと、咲子の腕に薄く伸ばした。早く浸透するよう、上から何度も撫でるように摩る。
「どう……して……」
「抱き上げたときに顔を顰めただろう」
どうして、とはそんな意味で聞いたのではなかった。どうして私なんかに薬を、という意味だ。
しかしもしかしたら、怪我人に薬を塗るのはこの男性にとっては当たり前のことなのかもしれない。そう思うと、咲子はなんだか尊いものに触れたような気がした。
右腕が終わったら、左腕に。咲子が呆気に取られているうちに、その作業は終わった。
「頬も腫れているな。……触るぞ」
それはまるで砂糖菓子でも扱うような、優しい手つきだった。慈しむように、頬をそっと撫でる。
咲子の世界には固く、冷たいものが溢れていた。角材のように固い拳で殴られ、氷のように冷たい悪意を浴びる日々。
いつしか咲子自身も、身を守るように厚い壁を作るようになっていった。
それなのに。
「おい、泣くな。薬が流れる」
「も、もうし、申し訳……」
「謝るな。お前が謝る必要が、どこにある」
「だ、だって……」
咲子は言葉に詰まった。
ずっと「お前が悪い」と言われ続けて。八つ当たりだと分かっていた。だけど、頭を床に擦り付けないと、また打たれて。
涙はなかなか止まらなかった。その間、輝久雄はずっと咲子の頬を撫で続けた。
◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎
「……はっ」
咲子が目を覚ましたのは、朝日に雀たちが戯れ始めた時刻だった。
(寝坊だわ。今日の薪を用意して、火を起こさないと……)
急いで立ち上がろうとしたが、周囲を見渡して少しぼうっとする。
(ここは……当主様のお部屋……。私、あの後……泣き疲れて眠ってしまったんだわ……!)
しかも気が緩んで寝坊までするなんて。なんという失態だろう。
「うーん……?」
そばで輝久雄の気だるげな声が聞こえて、咲子は小さく飛び跳ねた。
もしかして、自分は彼と同じ布団で?嫁入り前の娘が?
自分の着物をまさぐる。一晩寝た割には、着崩れていない。輝久雄とは……何もなかったのだろう。そうと信じたい。
「咲子……咲……。起きたのか」
輝久雄が目を擦りながらこちらを見ている。咲子は反射的に頭を下げた。
「私ごときがご一緒するなど……」
「いい、いい。簡単に頭を下げるな」
輝久雄が起き上がって伸びをする。着物がはだけて胸板が覗く。咲子はさっと目を逸らした。
「それに──お前と眠るのは心地がいい」
「え……?」
「それより飯だ」
「は、はい!」
咲子はぱっと立ち上がり、部屋を出ようとした。しかし輝久雄に肩を掴まれる。
「あの……?」
「お前が行ってどうする」
「お世話係ですから……お膳を取りに参ろうと……」
「世話係の仕事は、俺のそばにいることだ。離れることは許さん」
そう言うと、輝久雄は廊下で控えていた使用人に声をかけた。
しばらくして隣室に案内されると、そこには二つの膳が並んでいる。
輝久雄は当然のように膳の前に座り、咲子はその後ろに控える。すると輝久雄は機嫌が悪そうに口を開いた。
「なんのつもりだ」
「えっと……お世話係として……」
「俺の世話係の仕事は、隣で飯を食うことだ」
「え……?」
「痩せすぎだ。肉をつけろ。骨が当たって敵わん」
今朝のことだと分かって、咲子は顔が真っ赤になった。
(わ、私……なんて醜態を……)
気をつけなければいけない。自分は恥ずかしい人間なのだから、慎ましく生きなければ。
だからちゃんと、弁えるのだ。
「食事を共にいただくのは、使用人としては……」
「お前は永守総本家の令嬢だ。使用人ではない」
「で、でも……」
そんなこと、誰も認めてくれていない。幼い頃から、使用人以下の扱いを受けてきた。誰も自分のことをこの家の令嬢だとは思っていない。
今さら、期待しない。夢を見ない。
どうせこの男性もいつか私に飽きるのだから、期待させないでほしい。自分に手を差し伸べてくれる人が現れる……なんて、夢を見せないでほしい。
しかし、どれもうまく言葉にはできなかった。
言葉にした瞬間、惨めな気持ちに押しつぶされそうだったから。
咲子がまごまごしていると、輝久雄は痺れを切らしたようだった。
「口を開けろ」
「え?」
「当主命令だ」
「……はい」
輝久雄は明日葉のお浸しを箸でつまむと、それを咲子の口に運んだ。
「あ、あの」
「喋るな。噛め」
「……はい」
明日葉のほろ苦さが、じんわりと口に広がっていく。
今までは厨の残り物をやっとの思いで漁っていた。いつも誰かに見つからないように急いで食べていたから、味なんて分からなかったのに。
「美味しい、です……」
「そうか」
輝久雄は咲子の口におかずを運び続けた。
◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎
朝食が終わったら、輝久雄も仕事に取り掛かる時間だ。まずは永守家のすべてを把握するため、あらゆる資料に目を通す。
輝久雄は分家の出身だ。しかし、それは外部の人間には関係のないこと。足を掬われることがないように、家に関係することはなんでも頭に入れておく。
その横で、咲子はぼんやりしていた。
やることがない。
輝久雄はそばを離れるなと言うし、お茶汲みすらできない。
(こんな意味のない時間、何年振りかしら。私、そういえばずっと仕事してた……。やってもやっても新しい仕事が降ってきて……終わらなかった……。)
縁側を蝶が飛んでいる。
なんとなく、目で追う。
庭の隅では白い花が揺れていた。
なんて名前だっただろう。
「……きれい」
思わず、呟く。
身近に美しいものは溢れていた。でもそれに気づく心を失くしていた。何度も季節は巡ったのに、自分は下を向いていてそれにも気が付かなかった。
咲子の膝に、輝久雄がごろりと頭を乗せる。
「きゃっ……」
「膝枕も、世話係の仕事だ」
「そ、そんな」
「おい、逃げるな」
「……当主命令ですか?」
「そうだ。励めよ」
輝久雄はそのまま身体を丸めると、目を閉じた。しばらくして、鼻から寝息が漏れ始める。
(寝ちゃった……?)
咲子はまじまじと輝久雄の顔を見つめる。端正な顔立ち。昨日はあれほど厳しい当主の顔をしていたのに、今はすっかり緩んでいる。しかしちょっと気難しそうな眉毛の形は、お昼寝中でも直らないようだ。
恐る恐る、髪を撫でてみる。さらり、と黒髪が流れた。
「……ふふ。猫ちゃんみたい」
昨日の様子が虎だとしたら、今は猫だ。この寝顔を分家の人間が知ったら、親近感を持ってくれるだろうか。いや、輝久雄本人は嫌がるに違いない。……なんて妄想をしていたら。
「猫が好きなのか」
輝久雄が片目を開けて、咲子を見ていた。
「あっ、わたっ、失礼なことを」
「猫が好きなのか」
「……はい」
「そうか」
それだけ言うと、輝久雄はまた寝息を立て始めた。
(……少なくとも、失礼だとは思われていないみたい)
咲子は胸を撫で下ろす。
輝久雄は朝、「お前と眠ると心地がいい」と言ってくれた。あれはどういう意味かしら。
でも……こうして無防備な姿を晒してくれるのは、なんだか嬉しい。自分が信頼されていると思えるからだ。
(こんな時間が……ずっと続くといいな……)
ふと胸に湧き上がった思いは、「期待しない」という自戒に反するものだった。
一方、縁側の光が届かぬ廊下の奥で、ひそひそと囁き声が立ち上がっていた。
