ぱちん、と乾いた音が鳴った。
咲子は何も言わず、打たれた頬を押さえる。
やはり今日も打たれるのだ。咲子は薄く笑う。
期待しない。夢を見ない。
それは咲子がいつも心がけていること。
期待したって無駄だから。夢を見た後は、現実が辛くなるから。
事実、この屋敷で咲子を省みる者は誰もいない。今も、女中の一人が苛立ちを彼女にぶつけているところだ。打たれて赤くなった頬に、嘲笑が飛ぶ。
(それでも今日は長引かなかったわ)
去っていく女中に一礼すると、咲子は水汲みの仕事に戻った。文明開花を経て、この永守家にもポンプ井戸ができた。それでも水汲みが重労働には変わりないので、いつも咲子に押し付けられている。
(それにしても……なんだか今日は、お屋敷が騒がしい……)
数日前、永守家の当主が亡くなった。葬儀は大変なものだったし、新しい当主を立てるにも準備がいるのだろう。
しかし自分には関係ない。
当主の座には、前当主の長男・権一郎が就くはずだ。
それは自分の生活には何の関わりもないこと。この虐げられるだけの生活が終わることはない。いや、もっと悪くなることならあるのかも。
そんな最悪な想像をして、咲子は小さく息を吐いた。
玄関に使用人たちが集まりだす。
「新しいご当主がもうすぐご到着だ!」
そんな声を聞いて、咲子は耳を疑った。この永守家を継ぐのは、兄の権一郎では──。
近づいてきていた車のエンジンが止み、ドアを開ける音が響く。車中の人物は車から降りると、躊躇いもなく永守家の門をくぐった。
そして案内された部屋まで進むと、すでに揃っていた一族の人間を見下ろす。それはとても冷たく、日本刀のような妖しい光を孕んでいた。
「やあやあ、辺境の糞田舎からよく来てくれた」
口を開いたのは権一郎だ。上座に座り、男を嘲笑するような目で見ている。
「輝久雄くんだったかな?形だけでも歓迎させてもらうよ」
新しい当主への、明らかな牽制だった。
「君は当主の御標を受け継いだというが、所詮は分家の生まれ。この家の決まりには疎いだろう。だから実権は私が──」
「黙れ」
輝久雄の一言に、権一郎は凍りつく。低いのに、よく通る声だった。
「お前が永守権一郎か?」
「な……な……、失礼だぞっ!俺は本家のなぁ……!」
「本家の人間に、なぜ当主の御標が降りなかったのだ」
男は権一郎の前でひらひらと右手を振ってみせた。その甲には御標の五芒星が黒く輝いている。
「それは……何かのっ、手違いでっ……」
「永守家の祖霊より坐します御標に、手違いなど起こるものか」
「……」
「お前は当主に選ばれなかった。当主である俺にどう接すれば良いか──分かるな?」
パリパリ、と雷光が男の腕を這う。
──札もなしに術を使うなど。
その場にいる誰もが息を呑んだ。
彼の圧倒的な戦闘センスの噂は、田舎からこの本家にも届いていた。
その力を見せられては、もう誰も逆らおうとは思えない。
権一郎はぐっと唇を噛んだ。上座から降りると、下座で首を垂れる。
「これでっ……満足か……?」
「……口のきき方が分かっていないようだ」
「ぐっ……。どうぞ……相応しい席へ……」
「ん」
輝久雄はどっかりと上座に腰を下ろした。
「これから顔合わせの宴だったな。それは取り止めとし、会議を始める」
◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎
「もう一刻も経つよォ」
「ご当主の怒鳴り声が怖いのなんのって」
女中たちが口々に言い合う。
おかげで咲子も何が起こっているのか、ようやく把握することができた。
この永守家は、術師の一族だ。広い帝都に散らばり、妖や魔を祓い、結界で人々を護っている。
ここ永守総本家は、一族の術師を束ねる最も力の強い家である。
力というのは、分家を動かす権力。
そして、強い霊力のことだ。
本家の人間は並々ならぬ霊力を受け継ぐ者たちでもある。
だから自然と、当主の証である「御標」は、総本家の人間に現れることが多かった。
しかし。
総本家の権一郎をも凌ぐ実力。それを持つ人間が地方の分家に現れた。
彼が当主になるのは当然のこと。
権一郎は権力だけでも渡すものかと先手を打ったが──見事に返り討ちにあってしまった、ということだ。
(お父様が亡くなられてから……お兄様はよく私を打った。お父様を喪った悲しみのせいだと思っていたけれど……自分に御標が現れない苛立ちだったのね……)
咲子は小さくため息を吐いた。それを聞いて、女中頭は意地悪く笑う。
「あんた、お茶出しにいきなさいよ」
「え」
「え、じゃなくて。ほらさっさと」
茶碗が載った盆を持たされ、咲子はふらふらと歩く。
新当主のお披露目会。誰も彼もが正装しているはずだ。こんなつんつるてんで、ボロボロな身なりの女が入り込んでもいいものだろうか。
(私が考えても、仕方ないわね)
間違えたら打たれるだけ。やらなければもっと打たれる。
だから咲子は躊躇いもなく障子を開けた。
同時に、輝久雄の怒声が耳をつんざく。
「術師の教育について、お前はなにも答えられないというのか」
「も、申し訳ありません……」
分家の男が畳の上で平伏する。
呑気にお茶を勧めている場合ではなさそうだ。
(でもこのまま戻るわけにもいかないし……)
咲子はなんとなく、輝久雄の方を見た。
カチリ、と視線がぶつかり合う。
一瞬、座敷のざわめきが遠くなった気がした。
(きれいな男性。意志の強そうな眉に、万物を見通すような鋭い瞳……)
自分がひどく矮小に感じられて、咲子はますます身体を縮こまらせた。
輝久雄は咲子を頭の先からつま先まで眺めると、目を大きく見開く。
ばちん。
輝久雄が手に纏っていた雷が、畳を焦がす。
座敷の空気が緊張に震えた。
「なぜ……隠している……?」
小さく呟いたが、それは誰の耳に届くこともない。
輝久雄は咲子の前まで歩み寄ると、その顔をまじまじと見つめた。
(打たれた頬が……まだ赤く腫れているかもしれないわ……)
それがなんとなく恥ずかしくて、咲子はサッと頭を下げた。
「お前は何だ」
「咲子と……申します」
「咲子……?もしや永守咲子?権一郎の妹の?」
「……はい」
「お前が……総本家のご令嬢?」
「……」
あかぎれのひどい手に、襤褸のような着物。ろくに手入れのされていない髪。
こんな骨の浮いた女が令嬢だなど、笑わせる。
きっと彼も、これからは私を虐げる一人になるのだろう。
期待しない。夢を見ない。
だから大丈夫。
明日も同じような暗闇が続くだけだから、大丈夫。
咲子が自分にそう言い聞かせていた、そのとき。
「永守咲子を、俺の世話係とする」
輝久雄がそう言い放った。
「え……あ…………」
突然のことに驚いて、うまく返事ができない。
分家の人たちを震え上がらせる、怖い人。そんなお方のお世話を、私が?粗相をして折檻される未来しか見えない。
そこに権一郎が割り込んだ。
「ご当主はご存知ないだろうが!それにはやるべき仕事があるのです。世話係なんて、とても」
輝久雄の瞳がぎらりと光った。
まるで稲妻のようでキレイと、咲子はぼんやり思う。
「異論は認めない」
ぱちりと雷が音を立て、権一郎は身を固くする。
「そもそも、お前たちには分からないのか……?」
輝久雄はゆっくりと座敷の面々を見渡した。
誰もが顔に疑問符を浮かべている。その小汚い娘がなんなんだ、といった表情だ。
「──そうか」
輝久雄はゆっくりと息を吐いた。そしてまた鋭い口調で「会議は終了とする」と告げた。
参加者たちは胸を撫で下ろしたが、「質問への回答・改善案は早急に返すように」と釘を刺され、がくりと肩を落とした。
輝久雄は腰を屈め、意地悪そうに咲子の顔を覗き込んだ。黒曜石よりも黒い瞳に、吸い込まれそうになる。
「さて。お前にも働いてもらう」
「は、はいっ」
どんな仕事だろうか。自分にできるだろうか。
そうまごついていると、輝久雄がひょいと咲子を抱き上げた。
「ごっ、ご……っ、ご当主さまっ?!」
「……軽いな。まともに食わせてもらっていないのか?」
分家の誰もが息を呑み、権一郎は青褪めた。廊下で控えていた使用人たちが、小さく「なぜアレを?」と囁きあっている。しかし輝久雄は気にした様子もない。
「こいつは俺のものだ。部屋に案内しろ」
咲子はされるがままに輝久雄の部屋へと連れ込まれた。
咲子は何も言わず、打たれた頬を押さえる。
やはり今日も打たれるのだ。咲子は薄く笑う。
期待しない。夢を見ない。
それは咲子がいつも心がけていること。
期待したって無駄だから。夢を見た後は、現実が辛くなるから。
事実、この屋敷で咲子を省みる者は誰もいない。今も、女中の一人が苛立ちを彼女にぶつけているところだ。打たれて赤くなった頬に、嘲笑が飛ぶ。
(それでも今日は長引かなかったわ)
去っていく女中に一礼すると、咲子は水汲みの仕事に戻った。文明開花を経て、この永守家にもポンプ井戸ができた。それでも水汲みが重労働には変わりないので、いつも咲子に押し付けられている。
(それにしても……なんだか今日は、お屋敷が騒がしい……)
数日前、永守家の当主が亡くなった。葬儀は大変なものだったし、新しい当主を立てるにも準備がいるのだろう。
しかし自分には関係ない。
当主の座には、前当主の長男・権一郎が就くはずだ。
それは自分の生活には何の関わりもないこと。この虐げられるだけの生活が終わることはない。いや、もっと悪くなることならあるのかも。
そんな最悪な想像をして、咲子は小さく息を吐いた。
玄関に使用人たちが集まりだす。
「新しいご当主がもうすぐご到着だ!」
そんな声を聞いて、咲子は耳を疑った。この永守家を継ぐのは、兄の権一郎では──。
近づいてきていた車のエンジンが止み、ドアを開ける音が響く。車中の人物は車から降りると、躊躇いもなく永守家の門をくぐった。
そして案内された部屋まで進むと、すでに揃っていた一族の人間を見下ろす。それはとても冷たく、日本刀のような妖しい光を孕んでいた。
「やあやあ、辺境の糞田舎からよく来てくれた」
口を開いたのは権一郎だ。上座に座り、男を嘲笑するような目で見ている。
「輝久雄くんだったかな?形だけでも歓迎させてもらうよ」
新しい当主への、明らかな牽制だった。
「君は当主の御標を受け継いだというが、所詮は分家の生まれ。この家の決まりには疎いだろう。だから実権は私が──」
「黙れ」
輝久雄の一言に、権一郎は凍りつく。低いのに、よく通る声だった。
「お前が永守権一郎か?」
「な……な……、失礼だぞっ!俺は本家のなぁ……!」
「本家の人間に、なぜ当主の御標が降りなかったのだ」
男は権一郎の前でひらひらと右手を振ってみせた。その甲には御標の五芒星が黒く輝いている。
「それは……何かのっ、手違いでっ……」
「永守家の祖霊より坐します御標に、手違いなど起こるものか」
「……」
「お前は当主に選ばれなかった。当主である俺にどう接すれば良いか──分かるな?」
パリパリ、と雷光が男の腕を這う。
──札もなしに術を使うなど。
その場にいる誰もが息を呑んだ。
彼の圧倒的な戦闘センスの噂は、田舎からこの本家にも届いていた。
その力を見せられては、もう誰も逆らおうとは思えない。
権一郎はぐっと唇を噛んだ。上座から降りると、下座で首を垂れる。
「これでっ……満足か……?」
「……口のきき方が分かっていないようだ」
「ぐっ……。どうぞ……相応しい席へ……」
「ん」
輝久雄はどっかりと上座に腰を下ろした。
「これから顔合わせの宴だったな。それは取り止めとし、会議を始める」
◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎
「もう一刻も経つよォ」
「ご当主の怒鳴り声が怖いのなんのって」
女中たちが口々に言い合う。
おかげで咲子も何が起こっているのか、ようやく把握することができた。
この永守家は、術師の一族だ。広い帝都に散らばり、妖や魔を祓い、結界で人々を護っている。
ここ永守総本家は、一族の術師を束ねる最も力の強い家である。
力というのは、分家を動かす権力。
そして、強い霊力のことだ。
本家の人間は並々ならぬ霊力を受け継ぐ者たちでもある。
だから自然と、当主の証である「御標」は、総本家の人間に現れることが多かった。
しかし。
総本家の権一郎をも凌ぐ実力。それを持つ人間が地方の分家に現れた。
彼が当主になるのは当然のこと。
権一郎は権力だけでも渡すものかと先手を打ったが──見事に返り討ちにあってしまった、ということだ。
(お父様が亡くなられてから……お兄様はよく私を打った。お父様を喪った悲しみのせいだと思っていたけれど……自分に御標が現れない苛立ちだったのね……)
咲子は小さくため息を吐いた。それを聞いて、女中頭は意地悪く笑う。
「あんた、お茶出しにいきなさいよ」
「え」
「え、じゃなくて。ほらさっさと」
茶碗が載った盆を持たされ、咲子はふらふらと歩く。
新当主のお披露目会。誰も彼もが正装しているはずだ。こんなつんつるてんで、ボロボロな身なりの女が入り込んでもいいものだろうか。
(私が考えても、仕方ないわね)
間違えたら打たれるだけ。やらなければもっと打たれる。
だから咲子は躊躇いもなく障子を開けた。
同時に、輝久雄の怒声が耳をつんざく。
「術師の教育について、お前はなにも答えられないというのか」
「も、申し訳ありません……」
分家の男が畳の上で平伏する。
呑気にお茶を勧めている場合ではなさそうだ。
(でもこのまま戻るわけにもいかないし……)
咲子はなんとなく、輝久雄の方を見た。
カチリ、と視線がぶつかり合う。
一瞬、座敷のざわめきが遠くなった気がした。
(きれいな男性。意志の強そうな眉に、万物を見通すような鋭い瞳……)
自分がひどく矮小に感じられて、咲子はますます身体を縮こまらせた。
輝久雄は咲子を頭の先からつま先まで眺めると、目を大きく見開く。
ばちん。
輝久雄が手に纏っていた雷が、畳を焦がす。
座敷の空気が緊張に震えた。
「なぜ……隠している……?」
小さく呟いたが、それは誰の耳に届くこともない。
輝久雄は咲子の前まで歩み寄ると、その顔をまじまじと見つめた。
(打たれた頬が……まだ赤く腫れているかもしれないわ……)
それがなんとなく恥ずかしくて、咲子はサッと頭を下げた。
「お前は何だ」
「咲子と……申します」
「咲子……?もしや永守咲子?権一郎の妹の?」
「……はい」
「お前が……総本家のご令嬢?」
「……」
あかぎれのひどい手に、襤褸のような着物。ろくに手入れのされていない髪。
こんな骨の浮いた女が令嬢だなど、笑わせる。
きっと彼も、これからは私を虐げる一人になるのだろう。
期待しない。夢を見ない。
だから大丈夫。
明日も同じような暗闇が続くだけだから、大丈夫。
咲子が自分にそう言い聞かせていた、そのとき。
「永守咲子を、俺の世話係とする」
輝久雄がそう言い放った。
「え……あ…………」
突然のことに驚いて、うまく返事ができない。
分家の人たちを震え上がらせる、怖い人。そんなお方のお世話を、私が?粗相をして折檻される未来しか見えない。
そこに権一郎が割り込んだ。
「ご当主はご存知ないだろうが!それにはやるべき仕事があるのです。世話係なんて、とても」
輝久雄の瞳がぎらりと光った。
まるで稲妻のようでキレイと、咲子はぼんやり思う。
「異論は認めない」
ぱちりと雷が音を立て、権一郎は身を固くする。
「そもそも、お前たちには分からないのか……?」
輝久雄はゆっくりと座敷の面々を見渡した。
誰もが顔に疑問符を浮かべている。その小汚い娘がなんなんだ、といった表情だ。
「──そうか」
輝久雄はゆっくりと息を吐いた。そしてまた鋭い口調で「会議は終了とする」と告げた。
参加者たちは胸を撫で下ろしたが、「質問への回答・改善案は早急に返すように」と釘を刺され、がくりと肩を落とした。
輝久雄は腰を屈め、意地悪そうに咲子の顔を覗き込んだ。黒曜石よりも黒い瞳に、吸い込まれそうになる。
「さて。お前にも働いてもらう」
「は、はいっ」
どんな仕事だろうか。自分にできるだろうか。
そうまごついていると、輝久雄がひょいと咲子を抱き上げた。
「ごっ、ご……っ、ご当主さまっ?!」
「……軽いな。まともに食わせてもらっていないのか?」
分家の誰もが息を呑み、権一郎は青褪めた。廊下で控えていた使用人たちが、小さく「なぜアレを?」と囁きあっている。しかし輝久雄は気にした様子もない。
「こいつは俺のものだ。部屋に案内しろ」
咲子はされるがままに輝久雄の部屋へと連れ込まれた。
