郷土の伝説 「東湖の獅子」
新編谷津風土記 現代語訳
※新編谷津風土記は、江戸初期に谷津藩により編集された、藩内の各村を叙述した風土記。
――於寺南町 東湖の三匹獅子のこと――
これは今から四百年以上も前、天正年間の頃の話だと、谷津の古老たちは語り継いできた。
正確な年は誰も覚えていない。ただ、「あの年を境に、村の顔ぶれががらりと変わった」と、皆が口をそろえて言う。
その年、谷津一帯は、これまでにない大洪水に見舞われた。
春先から降り続いた雨は止まず、山の雪代も一気に押し寄せ、川という川が牙をむいた。
田畑はあっという間に水の下に沈み、
黄金色になるはずだった稲は、まだ青いうちに根こそぎ倒された。
桑畑も蕎麦畑も、すべてが流されてしまった。
「今年はもうだめだ」
「来年までもたない」
嘆きの声が、村々に満ちた。
だが、災いはそれだけでは終わらなかった。
洪水が引いた直後から、疫病が流行り始めた。
腹を下し、高熱にうなされ、三日と持たずに息を引き取る者が続出した。
村の端から順に、
まるで刈り取られるように人が死んでいった。
朝、隣家の煙が立たぬと思えば、
昼にはもう、亡骸がいくつも並んでいる。
僧も追いつかず、
棺を作る木材さえ足りなかった。
「これはもう、人の力ではどうにもならぬ」
誰もがそう思い始めていた。
このままでは、谷津という土地そのものが立ちゆかなくなる。
そう危ぶんだ当時の領主は、ついに神にすがることを決めた。
向かった先は、
谷津の一宮――伊安美神社。
代々、徳が高いとされ、
土地の災いを鎮めてきた社であった。
領主は身を清め、
三日三晩、社に籠もって祈りを捧げたという。
すると三日目の夜半、
神官の前に神託が下った。
――東湖のほとりにて、
――三匹一体の獅子をもって舞を奉れ。
――三日三晩、休むことなく舞い続けよ。
――それ成れば、水も病もやがて鎮まろう。
神官は、その言葉を一言も違えず領主に伝えた。
問題は、その三匹一体の獅子舞だった。
それはただの舞ではない。
古くから谷津に伝わる彼岸獅子――
三匹で一つの獅子を成す、異様な舞であった。
獅子頭は黒塗りで、
毛は夜の闇のように黒々としている。
目はぎょろりと見開かれ、
まるで生き物のようにこちらを睨みつける。
大きく裂けた口からは鋭い歯がのぞき、
子どもなら泣き出すほどの迫力があった。
三匹の獅子は、
前足、胴、後ろ足を分け合い、
一体となってうねるように舞う。
一人でも欠ければ、
獅子は獅子でなくなる。
その舞を三日三晩、休みなく続ける――
それは人の身でできることではなかった。
それでも領主は覚悟を決め、
谷津中から「獅子を担える男」を探させた。
そして選ばれたのが、三人である。
一人目、楢原の玄蕃。
力自慢で、米俵をいくつも軽々と担ぐ男だった。
二人目、和田町の晋左衛門。
剣の達人で、所作の美しい男であった。
三人目――
小原荘助。
この男だけは、誰もが首をかしげた。
力もなく、剣も扱えず、
朝寝、朝酒、朝湯を好む気まま者だった。
だが神官は言った。
「三匹目は、力でも技でもない。
命を軽く扱う男でなければならぬ」
その意味を、誰も理解できなかった。
三人は領主の命を受け、
東湖のほとりに集められた。
湖は異様なほど静まり返っていた。
水面は鏡のように空を映し、
まるで何かを待っているかのようであった。
獅子頭が据えられ、
黒い毛皮が被せられる。
太鼓が鳴った。
――ドン。
三匹の獅子が、ゆっくりと動き出した。
一日目、玄蕃は力強く舞ったが、
夜半には力尽き、獅子の中で倒れた。
二日目、晋左衛門もまた、
疲労の果てに倒れ、命を落とした。
残ったのは、荘助ただ一人。
誰もが終わりを覚悟したが、
荘助は獅子頭を外さなかった。
三日目、
彼は一人で三匹一体の獅子を舞わせ続けた。
頼りない動きでありながら、
獅子は確かに生きているかのように動いた。
湖面がゆらりと揺れ、
夜には獣のような息遣いが聞こえたという。
三日三晩が過ぎ、
舞が終わったとき、
荘助は獅子の中で笑っていたとも、
泣いていたとも伝えられている。
翌日から、不思議なことが起きた。
洪水は完全に引き、
疫病も嘘のように収まった。
作物はよく育ち、
人々は再び暮らしを取り戻した。
だが――
荘助の姿を見た者は、その後一人もいなかった。
東湖のほとりで、
黒い獅子が三匹で舞っているのを見た、
という者がいる。
それが人なのか、
獅子そのものなのか――
確かめた者は、
誰一人として戻っていないという。
新編谷津風土記 現代語訳
※新編谷津風土記は、江戸初期に谷津藩により編集された、藩内の各村を叙述した風土記。
――於寺南町 東湖の三匹獅子のこと――
これは今から四百年以上も前、天正年間の頃の話だと、谷津の古老たちは語り継いできた。
正確な年は誰も覚えていない。ただ、「あの年を境に、村の顔ぶれががらりと変わった」と、皆が口をそろえて言う。
その年、谷津一帯は、これまでにない大洪水に見舞われた。
春先から降り続いた雨は止まず、山の雪代も一気に押し寄せ、川という川が牙をむいた。
田畑はあっという間に水の下に沈み、
黄金色になるはずだった稲は、まだ青いうちに根こそぎ倒された。
桑畑も蕎麦畑も、すべてが流されてしまった。
「今年はもうだめだ」
「来年までもたない」
嘆きの声が、村々に満ちた。
だが、災いはそれだけでは終わらなかった。
洪水が引いた直後から、疫病が流行り始めた。
腹を下し、高熱にうなされ、三日と持たずに息を引き取る者が続出した。
村の端から順に、
まるで刈り取られるように人が死んでいった。
朝、隣家の煙が立たぬと思えば、
昼にはもう、亡骸がいくつも並んでいる。
僧も追いつかず、
棺を作る木材さえ足りなかった。
「これはもう、人の力ではどうにもならぬ」
誰もがそう思い始めていた。
このままでは、谷津という土地そのものが立ちゆかなくなる。
そう危ぶんだ当時の領主は、ついに神にすがることを決めた。
向かった先は、
谷津の一宮――伊安美神社。
代々、徳が高いとされ、
土地の災いを鎮めてきた社であった。
領主は身を清め、
三日三晩、社に籠もって祈りを捧げたという。
すると三日目の夜半、
神官の前に神託が下った。
――東湖のほとりにて、
――三匹一体の獅子をもって舞を奉れ。
――三日三晩、休むことなく舞い続けよ。
――それ成れば、水も病もやがて鎮まろう。
神官は、その言葉を一言も違えず領主に伝えた。
問題は、その三匹一体の獅子舞だった。
それはただの舞ではない。
古くから谷津に伝わる彼岸獅子――
三匹で一つの獅子を成す、異様な舞であった。
獅子頭は黒塗りで、
毛は夜の闇のように黒々としている。
目はぎょろりと見開かれ、
まるで生き物のようにこちらを睨みつける。
大きく裂けた口からは鋭い歯がのぞき、
子どもなら泣き出すほどの迫力があった。
三匹の獅子は、
前足、胴、後ろ足を分け合い、
一体となってうねるように舞う。
一人でも欠ければ、
獅子は獅子でなくなる。
その舞を三日三晩、休みなく続ける――
それは人の身でできることではなかった。
それでも領主は覚悟を決め、
谷津中から「獅子を担える男」を探させた。
そして選ばれたのが、三人である。
一人目、楢原の玄蕃。
力自慢で、米俵をいくつも軽々と担ぐ男だった。
二人目、和田町の晋左衛門。
剣の達人で、所作の美しい男であった。
三人目――
小原荘助。
この男だけは、誰もが首をかしげた。
力もなく、剣も扱えず、
朝寝、朝酒、朝湯を好む気まま者だった。
だが神官は言った。
「三匹目は、力でも技でもない。
命を軽く扱う男でなければならぬ」
その意味を、誰も理解できなかった。
三人は領主の命を受け、
東湖のほとりに集められた。
湖は異様なほど静まり返っていた。
水面は鏡のように空を映し、
まるで何かを待っているかのようであった。
獅子頭が据えられ、
黒い毛皮が被せられる。
太鼓が鳴った。
――ドン。
三匹の獅子が、ゆっくりと動き出した。
一日目、玄蕃は力強く舞ったが、
夜半には力尽き、獅子の中で倒れた。
二日目、晋左衛門もまた、
疲労の果てに倒れ、命を落とした。
残ったのは、荘助ただ一人。
誰もが終わりを覚悟したが、
荘助は獅子頭を外さなかった。
三日目、
彼は一人で三匹一体の獅子を舞わせ続けた。
頼りない動きでありながら、
獅子は確かに生きているかのように動いた。
湖面がゆらりと揺れ、
夜には獣のような息遣いが聞こえたという。
三日三晩が過ぎ、
舞が終わったとき、
荘助は獅子の中で笑っていたとも、
泣いていたとも伝えられている。
翌日から、不思議なことが起きた。
洪水は完全に引き、
疫病も嘘のように収まった。
作物はよく育ち、
人々は再び暮らしを取り戻した。
だが――
荘助の姿を見た者は、その後一人もいなかった。
東湖のほとりで、
黒い獅子が三匹で舞っているのを見た、
という者がいる。
それが人なのか、
獅子そのものなのか――
確かめた者は、
誰一人として戻っていないという。


