谷津獅子舞の昔話
これは、今から八百年以上も昔の話である。
そのころは源平の世で、日本じゅうが血なまぐさい争いに包まれていたという。
谷津の外れ、山深い土地に陣を張り、なかなか先へ進めない武将がいた。
名を源義武(みなもとの・よしたけ)という人物である。
腕も度胸も人並み以上だったが、安部氏という地方豪族が手強く、地の利を生かされて攻めあぐねていた。
日々は削られ、兵は疲れ、陣中は重苦しい空気に包まれていた。
夜になると、獣の声か風の音かわからぬものが、山からずっと聞こえてきて、誰一人ぐっすり眠れない日が続いていた。
そんなある晩のこと。
義武がようやく浅い眠りに落ちたころ、
――すうっと、冷たい風が幕の中に入り込んできた。
気配に目を開けると、枕元に女が立っていた。
年は二十そこそこに見える、白い肌の美しい女で、
長い黒髪は濡れたように背に張り付き、
着物の裾からは雫が垂れていた。
「……誰だ」
義武が声を絞り出すと、女は笑いもせず、静かに言った。
「わたしは亀姫。
東湖の水底に棲むものです」
声は澄んでいて、耳の奥に残る響きだった。
亀姫は続けた。
「明日、湖の袂で獅子を舞わせなさい。
三つで一つの獅子です。
それを舞わせれば、この戦、必ず勝てます」
そう言うと、女の姿はふっと薄れ、
気づけば誰もいなかった。
夢だったのだろうか、と義武は思った。
だが、枕元を見ると、畳の上に水に濡れた足跡が残っていた。
それも一つや二つではない。
幕の外、陣の外まで、ずっと続いていた。
義武は背筋にぞわりとしたものを感じたが、
不思議と恐ろしさよりも、胸の奥がざわめく感覚のほうが強かったという。
翌朝、義武は供を数人連れて陣を出た。
亀姫の言葉を夢だと切り捨てるには、あまりにも生々しかったからだ。
山道を進むうち、空が急に曇り、
雨がぽつぽつと落ちてきた。
雨宿りをしようと道を外れて入っていくと、
苔むした小さな社があった。
屋根は傾き、柱は朽ちかけ、
人の気配のない古社である。
中を覗き、義武は息をのんだ。
社の奥に、獅子頭が三つ、並んで祀られていた。
黒々とした毛がびっしり生え、
目はぎょろりと見開かれ、今にも動き出しそうである。
口は大きく裂け、白い歯が光っていた。
それぞれに長い布がついており、
三つで一体となって舞う造りだと、一目でわかった。
「……これだ」
義武はそうつぶやいた。
衣装を手に取ると、妙に重い。
濡れた獣の皮のような匂いがし、
触れると、まだ生きているかのようにぬるりとしていた。
供は最初こそ怖がったが、
義武の命により、三人一組で獅子をかぶった。
猪苗代湖の袂、
霧の立ち込める浅瀬で、
その獅子舞は奉納された。
太鼓も笛もない。
ただ、風と水音だけの中で。
獅子は、
ぎしり、ぎしりと首を振り、
地面を踏み鳴らしながら舞い出した。
黒い毛は水に濡れ、
獅子の目は霧の中でぎらぎらと光る。
裂けた口は笑っているようでもあり、
何かを叫ぼうとしているようでもあった。
舞が続くうち、
空はにわかに荒れ、雷が鳴り始めた。
雨が叩きつけるように降り、
霧は一気に深まり、
数歩先も見えぬほどになった。
その時である。
獅子の中から、
人の声ではない声が、低く響いたという。
誰が話しているのか、わからない。
だが、確かに聞こえた。
「――今だ」
義武ははっとし、
これが好機だと悟った。
霧を味方につけ、
そのまま安部氏の陣へ雪崩れ込んだ。
敵は混乱し、
どこから攻められているのかわからぬまま、
次々と討たれた。
義武軍は勢いづき、
ついに安部氏を打ち破った。
戦が終わり、
義武が再び湖へ戻ると、
獅子舞の衣装も獅子頭も、
あの社も、影も形もなかった。
ただ湖面に、
大きな波紋が一つ広がり、
ゆっくりと消えていっただけだったという。
その晩、義武は夢を見た。
湖の中に、
黒い獅子が三つ、首を寄せ合って沈んでおり、
その前に亀姫が立っていた。
「獅子は、人の世に長く留まるものではありません。
ですが、忘れられぬ限り、また舞うでしょう」
そう言って、
亀姫は水の中へ消えた。
それから後、
会津のあちこちで、三匹一体の獅子舞が舞われるようになった。
黒々とした毛、
ぎょろりとした目、
大きく裂けた口――
あれは、ただの飾りではない。
今でも、
霧の濃い夜に獅子舞が出ると、
水音が混じり、
人ならぬ足音が聞こえることがあるという。
「獅子ィ見たら、目ェ逸らすな」
年寄りは、今もそう言う。
獅子と目を合わせれば、次は自分が連れていかれる――。
――そう語り継がれている話である。

これは、今から八百年以上も昔の話である。
そのころは源平の世で、日本じゅうが血なまぐさい争いに包まれていたという。
谷津の外れ、山深い土地に陣を張り、なかなか先へ進めない武将がいた。
名を源義武(みなもとの・よしたけ)という人物である。
腕も度胸も人並み以上だったが、安部氏という地方豪族が手強く、地の利を生かされて攻めあぐねていた。
日々は削られ、兵は疲れ、陣中は重苦しい空気に包まれていた。
夜になると、獣の声か風の音かわからぬものが、山からずっと聞こえてきて、誰一人ぐっすり眠れない日が続いていた。
そんなある晩のこと。
義武がようやく浅い眠りに落ちたころ、
――すうっと、冷たい風が幕の中に入り込んできた。
気配に目を開けると、枕元に女が立っていた。
年は二十そこそこに見える、白い肌の美しい女で、
長い黒髪は濡れたように背に張り付き、
着物の裾からは雫が垂れていた。
「……誰だ」
義武が声を絞り出すと、女は笑いもせず、静かに言った。
「わたしは亀姫。
東湖の水底に棲むものです」
声は澄んでいて、耳の奥に残る響きだった。
亀姫は続けた。
「明日、湖の袂で獅子を舞わせなさい。
三つで一つの獅子です。
それを舞わせれば、この戦、必ず勝てます」
そう言うと、女の姿はふっと薄れ、
気づけば誰もいなかった。
夢だったのだろうか、と義武は思った。
だが、枕元を見ると、畳の上に水に濡れた足跡が残っていた。
それも一つや二つではない。
幕の外、陣の外まで、ずっと続いていた。
義武は背筋にぞわりとしたものを感じたが、
不思議と恐ろしさよりも、胸の奥がざわめく感覚のほうが強かったという。
翌朝、義武は供を数人連れて陣を出た。
亀姫の言葉を夢だと切り捨てるには、あまりにも生々しかったからだ。
山道を進むうち、空が急に曇り、
雨がぽつぽつと落ちてきた。
雨宿りをしようと道を外れて入っていくと、
苔むした小さな社があった。
屋根は傾き、柱は朽ちかけ、
人の気配のない古社である。
中を覗き、義武は息をのんだ。
社の奥に、獅子頭が三つ、並んで祀られていた。
黒々とした毛がびっしり生え、
目はぎょろりと見開かれ、今にも動き出しそうである。
口は大きく裂け、白い歯が光っていた。
それぞれに長い布がついており、
三つで一体となって舞う造りだと、一目でわかった。
「……これだ」
義武はそうつぶやいた。
衣装を手に取ると、妙に重い。
濡れた獣の皮のような匂いがし、
触れると、まだ生きているかのようにぬるりとしていた。
供は最初こそ怖がったが、
義武の命により、三人一組で獅子をかぶった。
猪苗代湖の袂、
霧の立ち込める浅瀬で、
その獅子舞は奉納された。
太鼓も笛もない。
ただ、風と水音だけの中で。
獅子は、
ぎしり、ぎしりと首を振り、
地面を踏み鳴らしながら舞い出した。
黒い毛は水に濡れ、
獅子の目は霧の中でぎらぎらと光る。
裂けた口は笑っているようでもあり、
何かを叫ぼうとしているようでもあった。
舞が続くうち、
空はにわかに荒れ、雷が鳴り始めた。
雨が叩きつけるように降り、
霧は一気に深まり、
数歩先も見えぬほどになった。
その時である。
獅子の中から、
人の声ではない声が、低く響いたという。
誰が話しているのか、わからない。
だが、確かに聞こえた。
「――今だ」
義武ははっとし、
これが好機だと悟った。
霧を味方につけ、
そのまま安部氏の陣へ雪崩れ込んだ。
敵は混乱し、
どこから攻められているのかわからぬまま、
次々と討たれた。
義武軍は勢いづき、
ついに安部氏を打ち破った。
戦が終わり、
義武が再び湖へ戻ると、
獅子舞の衣装も獅子頭も、
あの社も、影も形もなかった。
ただ湖面に、
大きな波紋が一つ広がり、
ゆっくりと消えていっただけだったという。
その晩、義武は夢を見た。
湖の中に、
黒い獅子が三つ、首を寄せ合って沈んでおり、
その前に亀姫が立っていた。
「獅子は、人の世に長く留まるものではありません。
ですが、忘れられぬ限り、また舞うでしょう」
そう言って、
亀姫は水の中へ消えた。
それから後、
会津のあちこちで、三匹一体の獅子舞が舞われるようになった。
黒々とした毛、
ぎょろりとした目、
大きく裂けた口――
あれは、ただの飾りではない。
今でも、
霧の濃い夜に獅子舞が出ると、
水音が混じり、
人ならぬ足音が聞こえることがあるという。
「獅子ィ見たら、目ェ逸らすな」
年寄りは、今もそう言う。
獅子と目を合わせれば、次は自分が連れていかれる――。
――そう語り継がれている話である。



