祭りの本番は、翌日の夜だった。
朝から町じゅうが落ち着かない。蔵の戸は早くに閉められ、店先には氷水の桶やラムネの木箱が並ぶ。女たちは台所で煮しめを炊き、男たちは法被に袖を通しては脱ぎ、また通す。
正吉の家も例外ではなかった。
昼過ぎ、照子が様子をのぞきに行くと、店の奥から太鼓の鉢を打つ乾いた音が聞こえてきた。
「マサ坊、いるが?」
声をかけると、尚一は汗ばんだ顔で出てきた。
いつもの白シャツではなく、紺の法被。胸には町内の紋が染め抜かれている。
「照子あねぇ……俺、今夜な」
言いかけて口を結ぶ。
その目の奥に、子どものころにはなかった緊張があった。
「本番、叩くんだべや?」
「んだ。親方がよ、一本だけ任せるって」
一本——最初の打ち出しのことだ。
太鼓台の顔になる一打。町内の誰もが息を止める瞬間。
「すげえべや。」
「すげえどころか、足震えてっから」
正吉は笑ったが、指先はわずかに白かった。
タヨが奥から顔を出す。
「テルちゃん、悪いけど励ましてやってくろ。昨日からこの調子でよ」
「母ちゃんは黙ってろって!」
正吉が赤くなるのを見て、照子は思わず吹き出した。
夕暮れになると、町は一気に色づいた。
赤提灯の灯が蔵の白壁を染め、太鼓台が一台、また一台と通りへ引き出される。綱を握る若衆の手は黒く汚れ、鉢巻きの結び目にはそれぞれの癖があった。
照子は人波に混じって川端へ向かった。
昼間よりずっと多い人出。どこから集まってきたのか、見たことのない顔も多い。ひかり座の前では屋台が並び、甘い匂いと油の匂いが入り交じっている。
やがて、世話役の声が夜を裂いた。
「南寺町内、いちにのさん、エンヤ——!」
ざわめきが一瞬で静まる。
照子は胸の前で手を握った。
太鼓台の上、尚一が鉢を構えていた。
提灯の光が頬を照らし、額の汗がひとすじ落ちる。周りの音がすっと遠のいた気がした。
——ドン。
最初の一打は、驚くほどまっすぐだった。
続けて、ドドン。
正吉の体から音が生まれているように見えた。
歓声が上がり、綱が揺れ、太鼓台がゆっくりと動き出す。
照子は知らずに息を吐いていた。
「やった……」
そのときだった。
太鼓の音の隙間に、かすかな別の音が混じった。金物が触れ合うような、ひどく細い響き。照子は思わず振り向く。
川へ続く細道の入口。
昨夜と同じ場所に、あの影が立っていた。
今夜ははっきり見えた。
古い法被のようなものを着た男。顔だけが暗く、提灯の光を吸い込んでいる。男は太鼓台ではなく、まっすぐに正吉を見ていた。
次の瞬間——。
正吉の鉢が、ほんのわずかに狂った。
音が一拍だけ外れ、太鼓台の空気が揺らぐ。
「マサ坊……?」
照子の声は、祭りの渦に呑まれて消えた。
太鼓はすぐに立て直された。
正吉は唇を噛み、次の一打で音を取り戻す。若衆の掛け声がそれを支え、太鼓台は再び息を合わせて蔵通りへと進み出した。
観客は誰も気づかなかった。
ほんの一拍の揺らぎなど、祭りの熱の前では泡のようなものだ。
けれど照子の耳には、その狂いがいつまでも残った。
影の男も、もう見えない。人波と提灯の明かりがすべてを塗りつぶしている。
「テルちゃん、いい音だな」
隣で見ていた千代が目を細めた。
「正吉くん、あんなにしっかりしてたんだ」
照子は曖昧に笑う。
胸の奥のざらつきだけが消えない。
太鼓台が蔵通りへ入ると、音は壁に跳ね返ってさらに大きくなる。白壁が震え、格子戸がかすかに鳴った。見物の人々は軒下まで押し寄せ、子どもらは大人の肩にしがみつく。
正吉は打ち続けていた。
汗で法被の背が黒く染まり、腕は鉛のように重いはずだ。それでも鉢は迷わない。町内の誇りを背負う音だった。
だが蔵通りの半ばに差しかかったとき、再びそれは起きた。
——キン。
太鼓の底に、薄い金属音が走った。
誰も鳴らしていないはずの音。徳子は思わず耳を押さえる。
正吉の顔がわずかに強張った。
鉢の先が一瞬ためらい、また打つ。ドン。ドン。
音は正しい。正しいはずなのに、何かが混じっている。
「今の、聞いたが?」
照子は千代にささやいた。
「え? 何が」
千代は首をかしげるだけだった。
太鼓台が角を曲がり、通りの奥へ入る。
そこは古い蔵が特に多い一角で、昼でも薄暗い。電線が絡み、風の通りが悪く、音が底に溜まる場所だ。
そのとき、照子は見た。
蔵と蔵のあいだの細い隙間。
昼間、文化課の男が「奥の方」と言ったあの方角から、さっきの影が歩み出るのを。
今度は一人ではなかった。
もう一つ、背の低い影が並んでいる。どちらも法被の形をしているのに、色だけがひどく古び、煤のように黒い。
影たちは太鼓台の進む速度に合わせ、同じ歩幅でついてきた。
誰にも触れず、誰にも気づかれずに。
正吉が顔を上げた。
照子と目が合う。はっきりと、怯えの色があった。
「照子あねぇ……」
声は太鼓にかき消される。
次の瞬間、正吉の鉢が大きく外れた。
ドン——と鳴るはずの音が、
空洞のように抜けた。
太鼓台が止まる。
綱を引く若衆が戸惑い、世話役が怒鳴る。
「どうした正吉! 打て!」
正吉は太鼓を見つめたまま、動かない。
鉢の先が、かたかたと震えていた。
徳子は人波をかき分けて前へ出た。
影はもう、太鼓台のすぐ後ろにいた。
その顔が、提灯の灯に一瞬だけ照らされた。
——知らない男の顔だった。
けれど照子は、その目だけをどこかで見た気がした。
「マサ坊!」
照子は思わず声を張った。
太鼓の前で立ち尽くす正吉に向かって、ただ名前を呼ぶことしかできなかった。
その声が届いたのかどうか——正吉の肩がびくりと揺れた。
鉢を握り直し、息を大きく吸う。
「打てぇっ!」
世話役の怒号に押されるように、正吉は再び腕を振り下ろした。
ドン、と今度は確かな音。若衆がほっと息を吐き、太鼓台はぎこちなくも動き出す。
歓声が戻り、祭りの流れは何事もなかったようにつながった。
だが照子の目には、太鼓台の後ろを歩く二つの影がはっきりと焼きついていた。
——誰にも見えていない。
その事実が、かえって恐ろしかった。
太鼓台が川端の広場へ戻るころ、正吉は鉢を次の叩き手に渡された。
役目を終えた彼は、綱の外へよろよろと下りてくる。徳子はすぐに駆け寄った。
「大丈夫が?」
「……ああ」
正吉は笑おうとしたが、うまく顔が動かない。
法被の背はぐっしょり濡れ、指先はまだ震えている。
「照子あねぇ、俺——」
「後でいいから。ほら、飲みっせ。」
照子は屋台でもらったラムネを差し出した。
瓶の中でビー玉が涼しい音を立てる。
正吉は半分ほど一気に飲み、ようやく息をついた。
「聞こえたんだ」
ぽつりと言う。
「太鼓の中から、知らねえ音が。俺のじゃねえ、甲高い音が。」
徳子は何も言えなかった。
あの金属のような響き。影の男たち。
「気のせいだべって、思おうとした。でもよ——」
そのとき、背後から声がした。
「お疲れさまでした」
振り向くと、あの文化課の男が立っていた。
手帳ではなく、古びた封筒を抱えている。
「いい打ち出しでしたね。少し乱れはありましたが」
やわらかな口ぶりなのに、言葉の芯が冷たい。
「あなたが正吉くんですね」
「……はい」
男は封筒から一枚の写真を取り出した。
色の抜けた白黒の蔵通り。太鼓台を囲む若衆。その中心で鉢を振り上げる青年——。
「これ、戦前の北潟祭の写真です」
徳子は覗き込み、息をのんだ。
写っていた青年の顔が、
今の尚一にひどく似ていた。
「この人は、あなたの祖父にあたる方だそうです。尚吉さん。町内で一番の叩き手だった」
正吉は写真から目を離せない。
男は静かに続けた。
「ただし——祭りの最中に、亡くなっている」
太鼓の音が遠くで鳴り続けている。
徳子の耳には、それが急に薄く、遠いものに感じられた。
「事故だと記録にはありますが、詳しいことは誰も語りたがらない。私は、奥の蔵の資料を探しているんです。あそこに、祭りの古い資料が残っているはずで」
“奥の蔵”。
その言葉と同時に、徳子の背筋を冷たいものが這い上がった。
正吉は写真を握りしめ、かすれた声で言った。
「さっきの音……あれ、じいちゃんのだったのか」
男は答えなかった。
ただ蔵通りの暗がり——影が現れた方角を、じっと見つめていた。
文化課の男——名を相馬という——は、それ以上多くを語らなかった。
写真を封筒に戻すと、軽く頭を下げて人混みの中へ消えていく。太鼓の音だけが、何事もなかったように夜を満たしていた。
「じいちゃんが……祭りで死んだって」
正吉はまだ写真の感触を手のひらに残したまま、呆けたように立っている。
「母ちゃん、そんな話ひとっつも」
「昔のこと、あんまり言わねえ人だものな」
照子はそう答えながらも、胸の奥で別の声を聞いていた。
——蔵が人を呼ぶんだと。
タヨが笑い半分に言ったあの言葉が、今はやけに重い。
その夜、打ち比べは無事に終わった。
どの町内の太鼓も力いっぱいで、川端の空には音が幾重にも重なった。見物の人々は満足そうに家路につき、蔵通りには再び静けさが戻る。
だが照子と正吉の足取りは重かった。
帰り道、二人は自然と奥の方へ続く細道の前で立ち止まる。
昼でも薄暗いその道は、夜になると底の見えない穴のようだ。
風が通るたび、古い土壁の匂いが鼻をつく。
「……行ってみっか」
尚一がぽつりと言った。
「奥蔵」
「なにも、今日でなくても」
「いや、今日がいい」
正吉の声には、祭りの熱とは別の強さがあった。
照子はしばらく迷い、そして頷いた。
細道に入ると、太鼓の音が急に遠のいた。
提灯の明かりも届かず、足元は土の感触に変わる。蔵と蔵のあいだを抜ける風はひどく冷たい。
やがて一軒の蔵が現れた。
白壁ではなく、煤けた土壁。屋根の上には、写真で見たのと同じ奇妙な小塔が乗っている。
「あれだ……」
戸は半ば朽ち、錠前は赤く錆びていた。
誰も使っていないはずなのに、周りの蔵よりもずっと“息”が濃い。
正吉が扉に手をかけた、そのとき——。
蔵の中から、かすかな音がした。
太鼓の皮を指で撫でたような、低い、低い音。
二人は思わず顔を見合わせる。
「誰か、いんのがよ?」
照子の声は自分でも驚くほど小さかった。
返事の代わりに、また音。
今度ははっきりと、ドン、と一つ。
正吉は錠前に手を伸ばし、力を込めた。
意外なほどあっけなく、金具が外れる。
扉が、ゆっくりと開いた。
蔵の中は、土と紙と古い油の匂いが混ざっていた。
月明かりに浮かび上がったのは、いくつもの木箱と、壁に立てかけられた——
ひと張りの古い太鼓と、見覚えのない3つの箱だった。
皮は黒く乾き、胴には見覚えのない町名が墨で書かれている。
その前の床に、擦り切れた法被が一枚、きれいに畳まれていた。
「じいちゃんの……」
正吉がつぶやいた瞬間、蔵の奥で風もないのに法被の袖がふわりと揺れた。
朝から町じゅうが落ち着かない。蔵の戸は早くに閉められ、店先には氷水の桶やラムネの木箱が並ぶ。女たちは台所で煮しめを炊き、男たちは法被に袖を通しては脱ぎ、また通す。
正吉の家も例外ではなかった。
昼過ぎ、照子が様子をのぞきに行くと、店の奥から太鼓の鉢を打つ乾いた音が聞こえてきた。
「マサ坊、いるが?」
声をかけると、尚一は汗ばんだ顔で出てきた。
いつもの白シャツではなく、紺の法被。胸には町内の紋が染め抜かれている。
「照子あねぇ……俺、今夜な」
言いかけて口を結ぶ。
その目の奥に、子どものころにはなかった緊張があった。
「本番、叩くんだべや?」
「んだ。親方がよ、一本だけ任せるって」
一本——最初の打ち出しのことだ。
太鼓台の顔になる一打。町内の誰もが息を止める瞬間。
「すげえべや。」
「すげえどころか、足震えてっから」
正吉は笑ったが、指先はわずかに白かった。
タヨが奥から顔を出す。
「テルちゃん、悪いけど励ましてやってくろ。昨日からこの調子でよ」
「母ちゃんは黙ってろって!」
正吉が赤くなるのを見て、照子は思わず吹き出した。
夕暮れになると、町は一気に色づいた。
赤提灯の灯が蔵の白壁を染め、太鼓台が一台、また一台と通りへ引き出される。綱を握る若衆の手は黒く汚れ、鉢巻きの結び目にはそれぞれの癖があった。
照子は人波に混じって川端へ向かった。
昼間よりずっと多い人出。どこから集まってきたのか、見たことのない顔も多い。ひかり座の前では屋台が並び、甘い匂いと油の匂いが入り交じっている。
やがて、世話役の声が夜を裂いた。
「南寺町内、いちにのさん、エンヤ——!」
ざわめきが一瞬で静まる。
照子は胸の前で手を握った。
太鼓台の上、尚一が鉢を構えていた。
提灯の光が頬を照らし、額の汗がひとすじ落ちる。周りの音がすっと遠のいた気がした。
——ドン。
最初の一打は、驚くほどまっすぐだった。
続けて、ドドン。
正吉の体から音が生まれているように見えた。
歓声が上がり、綱が揺れ、太鼓台がゆっくりと動き出す。
照子は知らずに息を吐いていた。
「やった……」
そのときだった。
太鼓の音の隙間に、かすかな別の音が混じった。金物が触れ合うような、ひどく細い響き。照子は思わず振り向く。
川へ続く細道の入口。
昨夜と同じ場所に、あの影が立っていた。
今夜ははっきり見えた。
古い法被のようなものを着た男。顔だけが暗く、提灯の光を吸い込んでいる。男は太鼓台ではなく、まっすぐに正吉を見ていた。
次の瞬間——。
正吉の鉢が、ほんのわずかに狂った。
音が一拍だけ外れ、太鼓台の空気が揺らぐ。
「マサ坊……?」
照子の声は、祭りの渦に呑まれて消えた。
太鼓はすぐに立て直された。
正吉は唇を噛み、次の一打で音を取り戻す。若衆の掛け声がそれを支え、太鼓台は再び息を合わせて蔵通りへと進み出した。
観客は誰も気づかなかった。
ほんの一拍の揺らぎなど、祭りの熱の前では泡のようなものだ。
けれど照子の耳には、その狂いがいつまでも残った。
影の男も、もう見えない。人波と提灯の明かりがすべてを塗りつぶしている。
「テルちゃん、いい音だな」
隣で見ていた千代が目を細めた。
「正吉くん、あんなにしっかりしてたんだ」
照子は曖昧に笑う。
胸の奥のざらつきだけが消えない。
太鼓台が蔵通りへ入ると、音は壁に跳ね返ってさらに大きくなる。白壁が震え、格子戸がかすかに鳴った。見物の人々は軒下まで押し寄せ、子どもらは大人の肩にしがみつく。
正吉は打ち続けていた。
汗で法被の背が黒く染まり、腕は鉛のように重いはずだ。それでも鉢は迷わない。町内の誇りを背負う音だった。
だが蔵通りの半ばに差しかかったとき、再びそれは起きた。
——キン。
太鼓の底に、薄い金属音が走った。
誰も鳴らしていないはずの音。徳子は思わず耳を押さえる。
正吉の顔がわずかに強張った。
鉢の先が一瞬ためらい、また打つ。ドン。ドン。
音は正しい。正しいはずなのに、何かが混じっている。
「今の、聞いたが?」
照子は千代にささやいた。
「え? 何が」
千代は首をかしげるだけだった。
太鼓台が角を曲がり、通りの奥へ入る。
そこは古い蔵が特に多い一角で、昼でも薄暗い。電線が絡み、風の通りが悪く、音が底に溜まる場所だ。
そのとき、照子は見た。
蔵と蔵のあいだの細い隙間。
昼間、文化課の男が「奥の方」と言ったあの方角から、さっきの影が歩み出るのを。
今度は一人ではなかった。
もう一つ、背の低い影が並んでいる。どちらも法被の形をしているのに、色だけがひどく古び、煤のように黒い。
影たちは太鼓台の進む速度に合わせ、同じ歩幅でついてきた。
誰にも触れず、誰にも気づかれずに。
正吉が顔を上げた。
照子と目が合う。はっきりと、怯えの色があった。
「照子あねぇ……」
声は太鼓にかき消される。
次の瞬間、正吉の鉢が大きく外れた。
ドン——と鳴るはずの音が、
空洞のように抜けた。
太鼓台が止まる。
綱を引く若衆が戸惑い、世話役が怒鳴る。
「どうした正吉! 打て!」
正吉は太鼓を見つめたまま、動かない。
鉢の先が、かたかたと震えていた。
徳子は人波をかき分けて前へ出た。
影はもう、太鼓台のすぐ後ろにいた。
その顔が、提灯の灯に一瞬だけ照らされた。
——知らない男の顔だった。
けれど照子は、その目だけをどこかで見た気がした。
「マサ坊!」
照子は思わず声を張った。
太鼓の前で立ち尽くす正吉に向かって、ただ名前を呼ぶことしかできなかった。
その声が届いたのかどうか——正吉の肩がびくりと揺れた。
鉢を握り直し、息を大きく吸う。
「打てぇっ!」
世話役の怒号に押されるように、正吉は再び腕を振り下ろした。
ドン、と今度は確かな音。若衆がほっと息を吐き、太鼓台はぎこちなくも動き出す。
歓声が戻り、祭りの流れは何事もなかったようにつながった。
だが照子の目には、太鼓台の後ろを歩く二つの影がはっきりと焼きついていた。
——誰にも見えていない。
その事実が、かえって恐ろしかった。
太鼓台が川端の広場へ戻るころ、正吉は鉢を次の叩き手に渡された。
役目を終えた彼は、綱の外へよろよろと下りてくる。徳子はすぐに駆け寄った。
「大丈夫が?」
「……ああ」
正吉は笑おうとしたが、うまく顔が動かない。
法被の背はぐっしょり濡れ、指先はまだ震えている。
「照子あねぇ、俺——」
「後でいいから。ほら、飲みっせ。」
照子は屋台でもらったラムネを差し出した。
瓶の中でビー玉が涼しい音を立てる。
正吉は半分ほど一気に飲み、ようやく息をついた。
「聞こえたんだ」
ぽつりと言う。
「太鼓の中から、知らねえ音が。俺のじゃねえ、甲高い音が。」
徳子は何も言えなかった。
あの金属のような響き。影の男たち。
「気のせいだべって、思おうとした。でもよ——」
そのとき、背後から声がした。
「お疲れさまでした」
振り向くと、あの文化課の男が立っていた。
手帳ではなく、古びた封筒を抱えている。
「いい打ち出しでしたね。少し乱れはありましたが」
やわらかな口ぶりなのに、言葉の芯が冷たい。
「あなたが正吉くんですね」
「……はい」
男は封筒から一枚の写真を取り出した。
色の抜けた白黒の蔵通り。太鼓台を囲む若衆。その中心で鉢を振り上げる青年——。
「これ、戦前の北潟祭の写真です」
徳子は覗き込み、息をのんだ。
写っていた青年の顔が、
今の尚一にひどく似ていた。
「この人は、あなたの祖父にあたる方だそうです。尚吉さん。町内で一番の叩き手だった」
正吉は写真から目を離せない。
男は静かに続けた。
「ただし——祭りの最中に、亡くなっている」
太鼓の音が遠くで鳴り続けている。
徳子の耳には、それが急に薄く、遠いものに感じられた。
「事故だと記録にはありますが、詳しいことは誰も語りたがらない。私は、奥の蔵の資料を探しているんです。あそこに、祭りの古い資料が残っているはずで」
“奥の蔵”。
その言葉と同時に、徳子の背筋を冷たいものが這い上がった。
正吉は写真を握りしめ、かすれた声で言った。
「さっきの音……あれ、じいちゃんのだったのか」
男は答えなかった。
ただ蔵通りの暗がり——影が現れた方角を、じっと見つめていた。
文化課の男——名を相馬という——は、それ以上多くを語らなかった。
写真を封筒に戻すと、軽く頭を下げて人混みの中へ消えていく。太鼓の音だけが、何事もなかったように夜を満たしていた。
「じいちゃんが……祭りで死んだって」
正吉はまだ写真の感触を手のひらに残したまま、呆けたように立っている。
「母ちゃん、そんな話ひとっつも」
「昔のこと、あんまり言わねえ人だものな」
照子はそう答えながらも、胸の奥で別の声を聞いていた。
——蔵が人を呼ぶんだと。
タヨが笑い半分に言ったあの言葉が、今はやけに重い。
その夜、打ち比べは無事に終わった。
どの町内の太鼓も力いっぱいで、川端の空には音が幾重にも重なった。見物の人々は満足そうに家路につき、蔵通りには再び静けさが戻る。
だが照子と正吉の足取りは重かった。
帰り道、二人は自然と奥の方へ続く細道の前で立ち止まる。
昼でも薄暗いその道は、夜になると底の見えない穴のようだ。
風が通るたび、古い土壁の匂いが鼻をつく。
「……行ってみっか」
尚一がぽつりと言った。
「奥蔵」
「なにも、今日でなくても」
「いや、今日がいい」
正吉の声には、祭りの熱とは別の強さがあった。
照子はしばらく迷い、そして頷いた。
細道に入ると、太鼓の音が急に遠のいた。
提灯の明かりも届かず、足元は土の感触に変わる。蔵と蔵のあいだを抜ける風はひどく冷たい。
やがて一軒の蔵が現れた。
白壁ではなく、煤けた土壁。屋根の上には、写真で見たのと同じ奇妙な小塔が乗っている。
「あれだ……」
戸は半ば朽ち、錠前は赤く錆びていた。
誰も使っていないはずなのに、周りの蔵よりもずっと“息”が濃い。
正吉が扉に手をかけた、そのとき——。
蔵の中から、かすかな音がした。
太鼓の皮を指で撫でたような、低い、低い音。
二人は思わず顔を見合わせる。
「誰か、いんのがよ?」
照子の声は自分でも驚くほど小さかった。
返事の代わりに、また音。
今度ははっきりと、ドン、と一つ。
正吉は錠前に手を伸ばし、力を込めた。
意外なほどあっけなく、金具が外れる。
扉が、ゆっくりと開いた。
蔵の中は、土と紙と古い油の匂いが混ざっていた。
月明かりに浮かび上がったのは、いくつもの木箱と、壁に立てかけられた——
ひと張りの古い太鼓と、見覚えのない3つの箱だった。
皮は黒く乾き、胴には見覚えのない町名が墨で書かれている。
その前の床に、擦り切れた法被が一枚、きれいに畳まれていた。
「じいちゃんの……」
正吉がつぶやいた瞬間、蔵の奥で風もないのに法被の袖がふわりと揺れた。


