目が覚めたとき、枕元の障子の向こうで、始発の汽笛が遠く鳴いていた。
翌朝の北潟は、昨夜の夢など知らぬ顔で晴れていた。
照子が井戸で顔を洗っていると、裏の家の婆さまが味噌樽をかき混ぜる音が聞こえる。遠くでは消防の半鐘が朝を告げ、町のあちこちで戸板が軋んで開く気配がした。
「照子、今日は手伝えるが?」
台所から母の声がする。
「昼までなら大丈夫。稽古、休みだもの」
今日は祭りの準備の日だった。
北潟の夏祭り——各町内の太鼓台が蔵通りを練り歩き、夜には川端で打ち比べをする、太鼓の祭りだ。照子は踊り手としてではなく、太鼓台に掛ける提灯や幕の支度を手伝うのが毎年の役目になっていた。
通りに出ると、すでに男衆が太鼓台を引き出していた。
黒く塗られた台座に大太鼓が据えられ、欄干には朱の房が揺れている。白い手ぬぐいを頭に巻いた正吉も、その中にいた。
「照子あねぇ!」
正吉は綱を肩に掛けたまま手を振った。
「綱ぁ離すな!足もと見ろ!」
世話役の怒鳴り声に、周りから笑いが起きる。
照子は婦人会の女たちと一緒に、太鼓台に下げる提灯に紙を貼る仕事を任された。
赤い紙に「北潟祭」と墨で書き、糊で丁寧に貼りつける。手を動かしながらも、耳には男たちの掛け声や、太鼓の皮を締め直す乾いた音が次々に入ってくる。
「今年はあの旅館も協賛すんだと」
「へえ、あの新しくできる“東湖館”か」
「打ち比べのあとで、ただで"温泉入られる"って話だ」
女たちの噂話は尽きない。
照子は相づちを打ちながら、ふと通りの先に目をやった。蔵の並びが途切れ、川の方へ抜けるあたり——あの奥蔵があるという方角だ。昼の光の中では、ただの静かな道にしか見えない。
「テルちゃん、糊足りねえべ」
声をかけられ、照子は慌てて手元に視線を戻した。
昼過ぎ、正吉が汗だくで徳子のところへやって来た。
「母ちゃんが呼んでる。氷、分けてやっから取り来いって」
「ほんと?助かる」
正吉の家へ向かうと、店先には大きな氷柱が置かれていた。氷屋から届いたばかりらしく、白い息のような冷気がもくもくと立ちのぼっている。
「祭り前は売れんだ。ラムネにかき氷に」
タヨが包丁で氷を割りながら言う。
「テルちゃんも持ってきな。暑くてかなわねえべ」
氷を布に包んでもらいながら、照子は店の奥をのぞいた。
正吉は帳場に座り、何やら帳面に向かって難しい顔をしている。
「勉強?」
「帳簿だってよ。俺に任せる気らしい」
「えらいなし。」
「全然えらくねえ。数字ばっかで目ぇ回る」
正吉は鉛筆を放り出し、照子の方を向いた。
「なあ、今夜、川んとこで試し打ちすんだと。照子あねぇも来るべ?」
「うん、行く」
祭り前の町は、どこか浮き足立っている。
蔵の白壁も、いつもより明るく見えた。
夕方、照子が家に戻ると、縁側に見知らぬ男が座っていた。
黒い背広に帽子、手には革の鞄。町ではあまり見ない身なりだ。
「照子、この人は役場の——」
母が紹介しようとすると、男は帽子を取って軽く頭を下げた。
「県庁内務部の者です。史蹟の調べで、祭礼の古い写真や記録を集めておりましてね」
柔らかな言い方だが、どこか事務的な目をしている。
男は照子をじっと見た。
「あなたが、舞踊の照子さんですか」
「は、はい」
「実はね、蔵通りの古い写真を集めておりまして。あなたのお知り合いに、昔の蔵に詳しい方はいませんか。とくに——奥の方の」
“奥”という言葉に、徳子の胸がわずかに冷えた。
昨夜の夢の黒い蔵が、ふと頭をよぎる。
「……正吉の家なら、古い写真があったような」
「ほう。それはありがたい」
男は手帳に何かを書きつけた。
その仕草が、なぜか照子にはひどく遠い町の匂いに感じられた。
日が傾き、通りの提灯に火が入り始めるころ、川の方から太鼓の音が聞こえてきた。
皮を叩く最初の一打は低く重く、次の一打は胸の骨を鳴らすように続く。試し打ちのはずなのに、町じゅうの蔵が一斉に息をしたようだった。
照子は草履を履き替え、家を出た。
太鼓台の綱を引く若衆の掛け声が、細い路地まで流れ込んでくる。
まだ何も起きていない、ただ賑やかなだけの夏の夕べ——
そのはずだった。
川端の広場には、もういくつかの太鼓台が集まり始めていた。
町内ごとに違う法被の色が、夕闇の中でゆらゆら揺れる。藍、臙脂、深い緑——どの色も長い夏に晒されて、少しだけ褪せているのが北潟らしかった。
照子が着いたとき、ちょうど正吉の町内の太鼓台が綱を緩めるところだった。
大太鼓の皮は夕焼けを吸い込んだように赤く光り、叩き手の若衆が鉢巻きを締め直している。
「照子あねぇ、こっちだ!」
正吉は人混みの中から照子を見つけ、手を振った。昼間よりずっと大人びた顔つきに見えるのは、法被のせいだけではない気がした。
「まだ始まんねえのが?」
「日ぃ落ちてからだと。今は音合わせだ」
言い終わるか終わらないかのうちに、別の町内の太鼓が鳴った。
ドン、と一つ。
遅れてこちらの太鼓が応える。ドドン。
まるで遠くの山と山が言葉を交わすようで、照子は腕に鳥肌が立つのを感じた。
「やっぱり、この音はすげえな」
尚一がぽつりと言う。
「小せえころは怖かったけどよ、今は腹の中が熱くなんだ」
照子も頷いた。
太鼓の音は、町の骨みたいだと思う。蔵も、川も、人も、みんなその骨にぶら下がって生きている。
やがて世話役の男が声を張り上げた。
「試し打ち、始めっぞー!」
掛け声とともに最初の一打が落ちた。
低く、長く、地面を這うような音。続いて幾つもの太鼓が重なり、川端の空気が震え始める。子どもらは歓声を上げ、年寄りは腕を組んで目を細めた。
そのざわめきの向こうに、照子は昼間の男の姿を見つけた。
県の文化課だというあの男が、太鼓台を遠巻きに眺め、時おり手帳に何かを書きつけている。祭りの熱から一人だけ浮いているようで、妙に目立った。
「……あの人、誰だべ」
正吉も気づいたらしい。
「役場の人だっつってたな。祭りの記録取りに来たんだと」
「ふうん」
正吉はそれ以上興味を示さず、仲間に呼ばれて太鼓台の方へ戻っていった。
照子は人波の後ろで音を浴び続けた。
太鼓が強くなるたび、胸の奥に昨夜の夢の影がかすかに浮かぶ。誰もいない蔵通り。黒い土壁の蔵。そこへ向かって伸びる自分の足——。
「テルちゃん」
不意に声をかけられ、照子は振り向いた。
舞踊の師匠の娘、千代が立っていた。
「千代さん、来てたの?」
「太鼓台、見に来た。明日は昼舞踊の披露あって、夜来られっか分かんねから。」
「ああ、そっか。」
千代は太鼓台を見つめ、懐かしそうに目を細めた。
「昔、うちのおとぅも叩いたんだと。若いころ、奥の町内さ住んでて」
“奥”という言葉に、徳子の心がまた小さく跳ねた。
「奥って……奥蔵の方?」
「んだ。今は誰も住んでねえけどな」
千代は軽い調子で言ったが、その横顔はどこか翳って見えた。
そのとき、太鼓の音がふいに途切れた。
綱を引いていた若衆がざわめき、世話役が何かを指さしている。川の上手、蔵通りへ続く細道の方だ。
提灯の灯りの届かない暗がりに、誰かが立っていた。
黒い影のようで、背格好も分からない。ただ、こちらをじっと見ている——そんな気配だけがあった。
「誰だ、あれ」
誰かがつぶやいた瞬間、別の町内の太鼓がまた鳴り始め、ざわめきはすぐに音に呑み込まれた。
照子は目を凝らしたが、もうそこには何も見えなかった。
風だけが、川の匂いを運んでくる。
「気のせいだべ」
千代が笑う。
「祭り前は、みんなおかしなもん見んだ」
けれど照子の胸の奥では、小さな棘のような違和感が抜けなかった。
太鼓の響きはますます強くなり、夜はゆっくりと北潟を包み始めていた。
翌朝の北潟は、昨夜の夢など知らぬ顔で晴れていた。
照子が井戸で顔を洗っていると、裏の家の婆さまが味噌樽をかき混ぜる音が聞こえる。遠くでは消防の半鐘が朝を告げ、町のあちこちで戸板が軋んで開く気配がした。
「照子、今日は手伝えるが?」
台所から母の声がする。
「昼までなら大丈夫。稽古、休みだもの」
今日は祭りの準備の日だった。
北潟の夏祭り——各町内の太鼓台が蔵通りを練り歩き、夜には川端で打ち比べをする、太鼓の祭りだ。照子は踊り手としてではなく、太鼓台に掛ける提灯や幕の支度を手伝うのが毎年の役目になっていた。
通りに出ると、すでに男衆が太鼓台を引き出していた。
黒く塗られた台座に大太鼓が据えられ、欄干には朱の房が揺れている。白い手ぬぐいを頭に巻いた正吉も、その中にいた。
「照子あねぇ!」
正吉は綱を肩に掛けたまま手を振った。
「綱ぁ離すな!足もと見ろ!」
世話役の怒鳴り声に、周りから笑いが起きる。
照子は婦人会の女たちと一緒に、太鼓台に下げる提灯に紙を貼る仕事を任された。
赤い紙に「北潟祭」と墨で書き、糊で丁寧に貼りつける。手を動かしながらも、耳には男たちの掛け声や、太鼓の皮を締め直す乾いた音が次々に入ってくる。
「今年はあの旅館も協賛すんだと」
「へえ、あの新しくできる“東湖館”か」
「打ち比べのあとで、ただで"温泉入られる"って話だ」
女たちの噂話は尽きない。
照子は相づちを打ちながら、ふと通りの先に目をやった。蔵の並びが途切れ、川の方へ抜けるあたり——あの奥蔵があるという方角だ。昼の光の中では、ただの静かな道にしか見えない。
「テルちゃん、糊足りねえべ」
声をかけられ、照子は慌てて手元に視線を戻した。
昼過ぎ、正吉が汗だくで徳子のところへやって来た。
「母ちゃんが呼んでる。氷、分けてやっから取り来いって」
「ほんと?助かる」
正吉の家へ向かうと、店先には大きな氷柱が置かれていた。氷屋から届いたばかりらしく、白い息のような冷気がもくもくと立ちのぼっている。
「祭り前は売れんだ。ラムネにかき氷に」
タヨが包丁で氷を割りながら言う。
「テルちゃんも持ってきな。暑くてかなわねえべ」
氷を布に包んでもらいながら、照子は店の奥をのぞいた。
正吉は帳場に座り、何やら帳面に向かって難しい顔をしている。
「勉強?」
「帳簿だってよ。俺に任せる気らしい」
「えらいなし。」
「全然えらくねえ。数字ばっかで目ぇ回る」
正吉は鉛筆を放り出し、照子の方を向いた。
「なあ、今夜、川んとこで試し打ちすんだと。照子あねぇも来るべ?」
「うん、行く」
祭り前の町は、どこか浮き足立っている。
蔵の白壁も、いつもより明るく見えた。
夕方、照子が家に戻ると、縁側に見知らぬ男が座っていた。
黒い背広に帽子、手には革の鞄。町ではあまり見ない身なりだ。
「照子、この人は役場の——」
母が紹介しようとすると、男は帽子を取って軽く頭を下げた。
「県庁内務部の者です。史蹟の調べで、祭礼の古い写真や記録を集めておりましてね」
柔らかな言い方だが、どこか事務的な目をしている。
男は照子をじっと見た。
「あなたが、舞踊の照子さんですか」
「は、はい」
「実はね、蔵通りの古い写真を集めておりまして。あなたのお知り合いに、昔の蔵に詳しい方はいませんか。とくに——奥の方の」
“奥”という言葉に、徳子の胸がわずかに冷えた。
昨夜の夢の黒い蔵が、ふと頭をよぎる。
「……正吉の家なら、古い写真があったような」
「ほう。それはありがたい」
男は手帳に何かを書きつけた。
その仕草が、なぜか照子にはひどく遠い町の匂いに感じられた。
日が傾き、通りの提灯に火が入り始めるころ、川の方から太鼓の音が聞こえてきた。
皮を叩く最初の一打は低く重く、次の一打は胸の骨を鳴らすように続く。試し打ちのはずなのに、町じゅうの蔵が一斉に息をしたようだった。
照子は草履を履き替え、家を出た。
太鼓台の綱を引く若衆の掛け声が、細い路地まで流れ込んでくる。
まだ何も起きていない、ただ賑やかなだけの夏の夕べ——
そのはずだった。
川端の広場には、もういくつかの太鼓台が集まり始めていた。
町内ごとに違う法被の色が、夕闇の中でゆらゆら揺れる。藍、臙脂、深い緑——どの色も長い夏に晒されて、少しだけ褪せているのが北潟らしかった。
照子が着いたとき、ちょうど正吉の町内の太鼓台が綱を緩めるところだった。
大太鼓の皮は夕焼けを吸い込んだように赤く光り、叩き手の若衆が鉢巻きを締め直している。
「照子あねぇ、こっちだ!」
正吉は人混みの中から照子を見つけ、手を振った。昼間よりずっと大人びた顔つきに見えるのは、法被のせいだけではない気がした。
「まだ始まんねえのが?」
「日ぃ落ちてからだと。今は音合わせだ」
言い終わるか終わらないかのうちに、別の町内の太鼓が鳴った。
ドン、と一つ。
遅れてこちらの太鼓が応える。ドドン。
まるで遠くの山と山が言葉を交わすようで、照子は腕に鳥肌が立つのを感じた。
「やっぱり、この音はすげえな」
尚一がぽつりと言う。
「小せえころは怖かったけどよ、今は腹の中が熱くなんだ」
照子も頷いた。
太鼓の音は、町の骨みたいだと思う。蔵も、川も、人も、みんなその骨にぶら下がって生きている。
やがて世話役の男が声を張り上げた。
「試し打ち、始めっぞー!」
掛け声とともに最初の一打が落ちた。
低く、長く、地面を這うような音。続いて幾つもの太鼓が重なり、川端の空気が震え始める。子どもらは歓声を上げ、年寄りは腕を組んで目を細めた。
そのざわめきの向こうに、照子は昼間の男の姿を見つけた。
県の文化課だというあの男が、太鼓台を遠巻きに眺め、時おり手帳に何かを書きつけている。祭りの熱から一人だけ浮いているようで、妙に目立った。
「……あの人、誰だべ」
正吉も気づいたらしい。
「役場の人だっつってたな。祭りの記録取りに来たんだと」
「ふうん」
正吉はそれ以上興味を示さず、仲間に呼ばれて太鼓台の方へ戻っていった。
照子は人波の後ろで音を浴び続けた。
太鼓が強くなるたび、胸の奥に昨夜の夢の影がかすかに浮かぶ。誰もいない蔵通り。黒い土壁の蔵。そこへ向かって伸びる自分の足——。
「テルちゃん」
不意に声をかけられ、照子は振り向いた。
舞踊の師匠の娘、千代が立っていた。
「千代さん、来てたの?」
「太鼓台、見に来た。明日は昼舞踊の披露あって、夜来られっか分かんねから。」
「ああ、そっか。」
千代は太鼓台を見つめ、懐かしそうに目を細めた。
「昔、うちのおとぅも叩いたんだと。若いころ、奥の町内さ住んでて」
“奥”という言葉に、徳子の心がまた小さく跳ねた。
「奥って……奥蔵の方?」
「んだ。今は誰も住んでねえけどな」
千代は軽い調子で言ったが、その横顔はどこか翳って見えた。
そのとき、太鼓の音がふいに途切れた。
綱を引いていた若衆がざわめき、世話役が何かを指さしている。川の上手、蔵通りへ続く細道の方だ。
提灯の灯りの届かない暗がりに、誰かが立っていた。
黒い影のようで、背格好も分からない。ただ、こちらをじっと見ている——そんな気配だけがあった。
「誰だ、あれ」
誰かがつぶやいた瞬間、別の町内の太鼓がまた鳴り始め、ざわめきはすぐに音に呑み込まれた。
照子は目を凝らしたが、もうそこには何も見えなかった。
風だけが、川の匂いを運んでくる。
「気のせいだべ」
千代が笑う。
「祭り前は、みんなおかしなもん見んだ」
けれど照子の胸の奥では、小さな棘のような違和感が抜けなかった。
太鼓の響きはますます強くなり、夜はゆっくりと北潟を包み始めていた。


