石造りの煙突が天高くそびえたつ。
その元にはやや白漆喰が剥がれ落ちて土壁が見える蔵が通りに連ねる。
日差しの強い夏の日中。
漆塗りの唐傘を差した女性が、藍色の着物を羽織り道を往く。
「おー。照子あねぇ。茶でも飲ませー。」
蔵通りの一角、煙草やから身を乗り出して声を掛けたのは、白いワイシャツを羽織った十五ばかりの歳の少年であった。
少年の名は、正吉と言った。
「なんだ、マサ坊。今から舞踊の先生ぇンどこさ、行ってくんなんねだ。帰り寄っから、そんときまで待っててくろや。」
「マサ坊って。俺はもうはぁ、十五になんだがら。坊ってのはねえべや。」
照子は口を抑えてふふっと笑う。
「誰が、何と言おうと。私にとっちゃ、いつまでたっても子供だがんなぁ。」
「馬鹿にして!見てみろい。俺だって、煙草吹かせんだがんなぁ!」
正吉は店先に並んだ煙草の箱を取り、口元で火をつける。
「あっ!」
照子が驚いたのは、正吉が煙草に火をつけたからではなかった。
ガツンッ。
鈍い音とともに、照子は目をつぶった。
正吉は、後ろから出てきた母、タエにげんこつを食らわされていた。
「このおんつぁ!店の煙草吸う馬鹿どこにいんだと!よぐよぐ困っちまぁ!」
母のタエはドラ息子に大層憤り、その首根っこを捕まえた。
タエは店先で照子を見つけ、起こった表情を一変させニコリと笑った。
「なんだ、テルちゃん。いたのがよ?なんだ、わりなし。うちの馬鹿息子が、構ってただべや?構ぁ事ねえがらなぁ?」
先ほどの様子とは打って変わった様子に、照子もつい苦笑いする。
店の奥で電話がちりん、と鳴ると、割烹着の袖でタエが手を拭き、壁に据え付けられた木箱の電話へ慌てて駆けた。
それを機に、照子もいそいそとその場を後にする。
「マサ坊、またね!」
手を振ったの対し、机に臥したままの正吉は、恥ずかしいからなのか、タエの一撃が効いたからなのか、照子には分からなかった。
大正初頭。井伊出連峰から望む谷津盆地の北側には、北潟市という場所があった。
誰が数えたのか、小さなこの町には、2000余りの蔵があると言われていた。
蔵の里。と呼ばれるのも、いつの時からだったのか。
北潟の夏は、風が甘い匂いを運んでくる。
味噌蔵からは麹の匂い、酒蔵からはほのかな酒気、そしてどこからともなく線香のような土の匂いが混ざり合う。蔵と蔵のあいだを抜ける路地は昼でも薄暗く、子どもの頃の照子はそこを「夜の通り」と呼んでいた。
舞踊の師匠の家は、蔵通りを抜けた先、川沿いにあった。
白壁の塀に囲まれた古い屋敷で、門をくぐると必ず金木犀の匂いがした。まだ花の季節でもないのに、あの家だけは年中、何かが甘く香っている。
「照子さん、遅かったない」
玄関で迎えたのは師匠の娘の千代で、照子より三つ年上だった。髪をきりりと結い、襟元の白がまぶしい。
「マサ坊に捕まっちまって」
「あの子、また悪さでもしたんでねえの」
二人でくすくす笑いながら座敷に上がると、奥の間から三味線の調子を合わせる音が聞こえてきた。
稽古はいつも厳しい。
足の運びひとつ、指の角度ひとつで師匠の扇が畳を打つ。照子は汗をにじませながら、それでも舞うことが好きだった。蔵の町で生まれ、蔵の匂いの中で育った自分が、唯一遠くへ行ける道のように思えたからだ。
その日の稽古が終わったのは、陽が西の山にかかるころだった。
帰り道、照子は川沿いをゆっくり歩いた。井伊出連峰の稜線が紫に沈み、蔵の白壁が朱に染まっている。遠くで汽笛が鳴り、町は一日の終わりに向かって静かに息をついていた。
蔵通りへ戻ると、昼間とは違う顔があった。
店先の戸は半分下ろされ、軒先の裸電球がぽつぽつと灯り始める。照子が尚一の家の前を通りかかったとき、ちょうどタヨが暖簾をしまっているところだった。
「あれまぁ、テルちゃん。稽古終わったのが?」
「んだ。約束どおり寄ったよ」
「正吉、奥さ居っから。茶ぁ入れてけっからな」
店の奥は煙草の匂いと甘い菓子の匂いが混ざっている。照子が上がると、正吉はさっきの失態などなかったような顔で帳場に座っていた。頬にうっすら赤い痕が残っているのが可笑しい。
「……さっきは、見苦しいとこ見せちまって」
正吉は目を合わせずに言う。
「見苦しいどこか、面白かったがんな」
「照子あねぇは、意地悪だ」
タヨが運んできた冷たい麦茶をすすりながら、三人は他愛もない話をした。祭りのこと、今年の米の出来、町にできるという新しい旅館の噂——。けれど照子は、ふと店の奥の壁に掛かった一枚の古い写真に目を留めた。
そこには、見覚えのない蔵が写っていた。
白壁ではなく、黒く煤けた土壁。屋根の上には、見たこともない形の小さな塔のようなものが乗っている。
「ねえ秀子さん、この蔵、どこの?」
照子が尋ねると、タヨは一瞬だけ手を止めた。
「ああ……それか。町はずれの“奥蔵”だ。」
「奥蔵?」
「近づくなって言われてるとこだ。昔からな。まあ、あとはぁ、壊しっちまあって話だけども。旅館できるっつって。」
照子も知らなかったのか、顔を上げる。
「なんで近づいちゃいけねえの?」
タヨは曖昧に笑って、湯飲みを照子の前に置いた。
「——あそこはな、蔵が人を…。」
店の外で、風鈴がちり、と鳴った。
照子はなぜか、その音がやけに冷たく感じた。
照子が店を出るころには、蔵通りはすっかり夜の顔になっていた。
裸電球の橙が白壁ににじみ、通りの奥ではどこかの家の蓄音機が、針の掠れを混ぜながら途切れ途切れに流行歌を鳴らしている。昼の熱気がまだ地面に残っていて、下駄の裏がじんわりと温かい。
「照子あねぇ、送ってく」
正吉が暖簾をくぐって出てきた。さっきまでのふてくされた顔は影をひそめ、妙に神妙な声だった。
「いいよ、すぐそこだし」
「母ちゃんさ言わっちゃんだ。女一人で歩かせんなって」
照子は少し考えてから頷いた。
蔵と蔵のあいだの細い道を、二人並んで歩く。正吉の背はいつの間にか照子を追い越していて、歩幅も大きくなっていた。子どもの頃は、泣きながら照子の後ろをついてきたくせに——と、ふいに昔のことが胸に浮かぶ。
「舞踊、楽しいのが?」
正吉がぽつりと聞く。
「楽しい。うまく踊れた日は、気分が軽ぐなんだ」
「ふうん……照子あねぇ、外さ出ちまうのが?」
思いがけない言葉に、照子は足を止めた。
蔵の壁に映る二人の影が、風に揺れる電球でゆらゆらと伸びたり縮んだりしている。
「どうして?」
「だってよ、ガッコの先生が言ってた。照子あねぇは筋がいいから、北潟だけに置いとくのは惜しいって」
尚一は前を向いたまま、石ころを蹴った。
ころころと転がった石は、排水溝の鉄の蓋に当たって小さく跳ねた。
「まだ分かんねぇよ。そんな先のこと」
「でも、行っちまうんだべや。東京とか」
その声が、思ったより寂しそうで、照子は返事に困った。
東京——雑誌の中でしか知らない町。電車が網みたいに走って、人が川みたいに流れている場所。そこに自分が立っている姿は、どうにも上手く想像できなかった。
「マサ坊は、どうすんの?」
「俺?」
「ずっと店継ぐのが?」
尚一はしばらく黙っていたが、やがて肩をすくめた。
「母ちゃん一人だしな。俺がいねえと困っちまあべなあ。けどよ……」
言いかけて、言葉を飲み込む。
ちょうどそのとき、通りの向こうから自転車のベルが鳴り、郵便配達の青年が風のように走り抜けていった。荷台の鞄ががたがたと鳴る。
二人はまた歩き出した。
徳子の家の前まで来ると、軒先に吊るした蚊取り線香の煙が細く流れていた。母がまだ起きている合図だ。
「じゃあな、マサ坊」
「……なあ、照子あねぇ」
帰りかけた正吉が振り向く。
電球の下で、まだ少年の名残のある顔が、少しだけ大人びて見えた。
「さっきの奥蔵の話、気にすんなよ。母ちゃん、大げさなんだ」
「うん」
「ただの蔵だ。変なもんなんか、ねえよ」
自分に言い聞かせるような言い方だった。
照子は小さく手を振って家に入ったが、戸を閉める間際、通りの奥に続く暗がりが、昼よりも深く長く伸びているのが見えた。
その夜、照子は夢を見た。
誰もいない蔵通りを、ひとりで歩く夢だった。白壁は月に青く光り、どの蔵も同じ顔で並んでいる。足音だけがやけに高く響き、振り向いても誰もいない。
ただ一つだけ、見覚えのない黒い蔵があった。
写真で見た、あの“奥蔵”に似た——。
その元にはやや白漆喰が剥がれ落ちて土壁が見える蔵が通りに連ねる。
日差しの強い夏の日中。
漆塗りの唐傘を差した女性が、藍色の着物を羽織り道を往く。
「おー。照子あねぇ。茶でも飲ませー。」
蔵通りの一角、煙草やから身を乗り出して声を掛けたのは、白いワイシャツを羽織った十五ばかりの歳の少年であった。
少年の名は、正吉と言った。
「なんだ、マサ坊。今から舞踊の先生ぇンどこさ、行ってくんなんねだ。帰り寄っから、そんときまで待っててくろや。」
「マサ坊って。俺はもうはぁ、十五になんだがら。坊ってのはねえべや。」
照子は口を抑えてふふっと笑う。
「誰が、何と言おうと。私にとっちゃ、いつまでたっても子供だがんなぁ。」
「馬鹿にして!見てみろい。俺だって、煙草吹かせんだがんなぁ!」
正吉は店先に並んだ煙草の箱を取り、口元で火をつける。
「あっ!」
照子が驚いたのは、正吉が煙草に火をつけたからではなかった。
ガツンッ。
鈍い音とともに、照子は目をつぶった。
正吉は、後ろから出てきた母、タエにげんこつを食らわされていた。
「このおんつぁ!店の煙草吸う馬鹿どこにいんだと!よぐよぐ困っちまぁ!」
母のタエはドラ息子に大層憤り、その首根っこを捕まえた。
タエは店先で照子を見つけ、起こった表情を一変させニコリと笑った。
「なんだ、テルちゃん。いたのがよ?なんだ、わりなし。うちの馬鹿息子が、構ってただべや?構ぁ事ねえがらなぁ?」
先ほどの様子とは打って変わった様子に、照子もつい苦笑いする。
店の奥で電話がちりん、と鳴ると、割烹着の袖でタエが手を拭き、壁に据え付けられた木箱の電話へ慌てて駆けた。
それを機に、照子もいそいそとその場を後にする。
「マサ坊、またね!」
手を振ったの対し、机に臥したままの正吉は、恥ずかしいからなのか、タエの一撃が効いたからなのか、照子には分からなかった。
大正初頭。井伊出連峰から望む谷津盆地の北側には、北潟市という場所があった。
誰が数えたのか、小さなこの町には、2000余りの蔵があると言われていた。
蔵の里。と呼ばれるのも、いつの時からだったのか。
北潟の夏は、風が甘い匂いを運んでくる。
味噌蔵からは麹の匂い、酒蔵からはほのかな酒気、そしてどこからともなく線香のような土の匂いが混ざり合う。蔵と蔵のあいだを抜ける路地は昼でも薄暗く、子どもの頃の照子はそこを「夜の通り」と呼んでいた。
舞踊の師匠の家は、蔵通りを抜けた先、川沿いにあった。
白壁の塀に囲まれた古い屋敷で、門をくぐると必ず金木犀の匂いがした。まだ花の季節でもないのに、あの家だけは年中、何かが甘く香っている。
「照子さん、遅かったない」
玄関で迎えたのは師匠の娘の千代で、照子より三つ年上だった。髪をきりりと結い、襟元の白がまぶしい。
「マサ坊に捕まっちまって」
「あの子、また悪さでもしたんでねえの」
二人でくすくす笑いながら座敷に上がると、奥の間から三味線の調子を合わせる音が聞こえてきた。
稽古はいつも厳しい。
足の運びひとつ、指の角度ひとつで師匠の扇が畳を打つ。照子は汗をにじませながら、それでも舞うことが好きだった。蔵の町で生まれ、蔵の匂いの中で育った自分が、唯一遠くへ行ける道のように思えたからだ。
その日の稽古が終わったのは、陽が西の山にかかるころだった。
帰り道、照子は川沿いをゆっくり歩いた。井伊出連峰の稜線が紫に沈み、蔵の白壁が朱に染まっている。遠くで汽笛が鳴り、町は一日の終わりに向かって静かに息をついていた。
蔵通りへ戻ると、昼間とは違う顔があった。
店先の戸は半分下ろされ、軒先の裸電球がぽつぽつと灯り始める。照子が尚一の家の前を通りかかったとき、ちょうどタヨが暖簾をしまっているところだった。
「あれまぁ、テルちゃん。稽古終わったのが?」
「んだ。約束どおり寄ったよ」
「正吉、奥さ居っから。茶ぁ入れてけっからな」
店の奥は煙草の匂いと甘い菓子の匂いが混ざっている。照子が上がると、正吉はさっきの失態などなかったような顔で帳場に座っていた。頬にうっすら赤い痕が残っているのが可笑しい。
「……さっきは、見苦しいとこ見せちまって」
正吉は目を合わせずに言う。
「見苦しいどこか、面白かったがんな」
「照子あねぇは、意地悪だ」
タヨが運んできた冷たい麦茶をすすりながら、三人は他愛もない話をした。祭りのこと、今年の米の出来、町にできるという新しい旅館の噂——。けれど照子は、ふと店の奥の壁に掛かった一枚の古い写真に目を留めた。
そこには、見覚えのない蔵が写っていた。
白壁ではなく、黒く煤けた土壁。屋根の上には、見たこともない形の小さな塔のようなものが乗っている。
「ねえ秀子さん、この蔵、どこの?」
照子が尋ねると、タヨは一瞬だけ手を止めた。
「ああ……それか。町はずれの“奥蔵”だ。」
「奥蔵?」
「近づくなって言われてるとこだ。昔からな。まあ、あとはぁ、壊しっちまあって話だけども。旅館できるっつって。」
照子も知らなかったのか、顔を上げる。
「なんで近づいちゃいけねえの?」
タヨは曖昧に笑って、湯飲みを照子の前に置いた。
「——あそこはな、蔵が人を…。」
店の外で、風鈴がちり、と鳴った。
照子はなぜか、その音がやけに冷たく感じた。
照子が店を出るころには、蔵通りはすっかり夜の顔になっていた。
裸電球の橙が白壁ににじみ、通りの奥ではどこかの家の蓄音機が、針の掠れを混ぜながら途切れ途切れに流行歌を鳴らしている。昼の熱気がまだ地面に残っていて、下駄の裏がじんわりと温かい。
「照子あねぇ、送ってく」
正吉が暖簾をくぐって出てきた。さっきまでのふてくされた顔は影をひそめ、妙に神妙な声だった。
「いいよ、すぐそこだし」
「母ちゃんさ言わっちゃんだ。女一人で歩かせんなって」
照子は少し考えてから頷いた。
蔵と蔵のあいだの細い道を、二人並んで歩く。正吉の背はいつの間にか照子を追い越していて、歩幅も大きくなっていた。子どもの頃は、泣きながら照子の後ろをついてきたくせに——と、ふいに昔のことが胸に浮かぶ。
「舞踊、楽しいのが?」
正吉がぽつりと聞く。
「楽しい。うまく踊れた日は、気分が軽ぐなんだ」
「ふうん……照子あねぇ、外さ出ちまうのが?」
思いがけない言葉に、照子は足を止めた。
蔵の壁に映る二人の影が、風に揺れる電球でゆらゆらと伸びたり縮んだりしている。
「どうして?」
「だってよ、ガッコの先生が言ってた。照子あねぇは筋がいいから、北潟だけに置いとくのは惜しいって」
尚一は前を向いたまま、石ころを蹴った。
ころころと転がった石は、排水溝の鉄の蓋に当たって小さく跳ねた。
「まだ分かんねぇよ。そんな先のこと」
「でも、行っちまうんだべや。東京とか」
その声が、思ったより寂しそうで、照子は返事に困った。
東京——雑誌の中でしか知らない町。電車が網みたいに走って、人が川みたいに流れている場所。そこに自分が立っている姿は、どうにも上手く想像できなかった。
「マサ坊は、どうすんの?」
「俺?」
「ずっと店継ぐのが?」
尚一はしばらく黙っていたが、やがて肩をすくめた。
「母ちゃん一人だしな。俺がいねえと困っちまあべなあ。けどよ……」
言いかけて、言葉を飲み込む。
ちょうどそのとき、通りの向こうから自転車のベルが鳴り、郵便配達の青年が風のように走り抜けていった。荷台の鞄ががたがたと鳴る。
二人はまた歩き出した。
徳子の家の前まで来ると、軒先に吊るした蚊取り線香の煙が細く流れていた。母がまだ起きている合図だ。
「じゃあな、マサ坊」
「……なあ、照子あねぇ」
帰りかけた正吉が振り向く。
電球の下で、まだ少年の名残のある顔が、少しだけ大人びて見えた。
「さっきの奥蔵の話、気にすんなよ。母ちゃん、大げさなんだ」
「うん」
「ただの蔵だ。変なもんなんか、ねえよ」
自分に言い聞かせるような言い方だった。
照子は小さく手を振って家に入ったが、戸を閉める間際、通りの奥に続く暗がりが、昼よりも深く長く伸びているのが見えた。
その夜、照子は夢を見た。
誰もいない蔵通りを、ひとりで歩く夢だった。白壁は月に青く光り、どの蔵も同じ顔で並んでいる。足音だけがやけに高く響き、振り向いても誰もいない。
ただ一つだけ、見覚えのない黒い蔵があった。
写真で見た、あの“奥蔵”に似た——。


