期限付きの婚約者

 ーー佐久間、という男が面会に来てるらしい。

 黒瀬から聞いた時は何かの間違いかとも思った。会っても会わなくてもいい、と黒瀬は言ってくれた。

 本音を言うと、二度と会いたくない相手だった。

 けれど、月子は拒むことが出来なかった。未練など、到底ないつもりだ。だが、記憶の中の佐久間はいつも優しい。

 かつては死ぬほど憎んだ。どうして私を置いて姉を選んだのか、どうして何も言わずに私の目の前から消えたのか。

 それでも、今泣き出さずに向き合おうとしているのは高坂の言った通り"一度死んでいる"からかもしれない。


「月ちゃん?」

 半年以上ぶりに見た佐久間は随分とやつれていた。髪は伸び放題で、希望に満ちた瞳はどこか濁っていた。白の詰襟を着て書生のような格好をしているが、おそらく杉浦医院はクビにされているはずだ。

「体の具合はどう?」

 佐久間は月子の包帯や傷跡を見るたびに、自分が同じ怪我をしたように顔を顰め身震いしていた。

「どうしてここが?」

「杉浦医師から聞いた。……クビになったけどね。当然だ」

「……姉さんは?」

「陽子さんは……」

 佐久間は言いづらそうに言葉を濁しながら答えた。

 灯籠流しの日、「ここから連れ出して」とか細い声で助けを求められ、月子の姉だと言うこともあり、可哀想に思った佐久間は計画を練り、頃合いを見計らって二人で船に乗り込んだらしい。
 しばらくして戻るつもりだったが、姉は最初から途中で佐久間を捨てるつもりで、ある日置き手紙を残して消えたということだ。今はどこで何をしているのか見当もつかないらしい。

 いつもは穏やかな佐久間の口ぶりからして、おそらく陽子のことを恨んでいるようだった。それでも、月子の前ではっきり口にしないのは、彼なりの優しさが残っている証拠なのかもしれない。

「月ちゃんには本当に申し訳ないことをしたと思ってる」

 佐久間はそう言って、その場で座り込むと額を床に擦るほど深く頭を下げた。

「もういいのよ、佐久間さん」

 月子は佐久間に顔を上げるように言った。しかし、佐久間は頭を下げたまま言葉を続けた。

「月ちゃん、責任は取る。お金を貯めて一緒に暮らそうよ。最初は苦労もするかもしれないけど、不幸にはさせないから……だから僕と……!」

「私は佐久間さんがいなくても幸せにやっていけると思うわ」

 佐久間は一瞬呆けたような表情を浮かべた。

「そんな……あいつと結婚するのか?家のために自分を犠牲にするなんて……月ちゃんはもっと自由になるべきなんだ!」

「自由に生きられなかったらこうなったの」

 月子の言葉が静かに響いた。

「……でも、今は違う。結婚するかどうかは私とあの人が決めることよ。でも……どうなろうと今が一番幸せ」

 月子は自分で言った言葉に驚いていた。

 それは言い聞かせるように、何度も何度も言った言葉だった。

 "幸せになってね"

 来世の自分に掛けていたはずなのに。

「来てくれてありがとう、佐久間さんも幸せになってね」



 その頃、月子の病室の外、中庭では黒瀬と高坂が二人で空を眺めていた。

「そんなに気になるなら、面会の許可せんかったら良かったやん。俺なら許可せえへん」

 面会の相手によっては患者によっては刺激になる可能性もあるため、ここでは事前に決められた相手以外は本人の許可が必要になる。月子の場合は入院時の精神状態もあって、一度婚約者の黒瀬を通すことになっていた。

 高坂は時折雑草をぶちぶちむしり始める姿を見て、ため息をついた。

「そういう訳にもいかないだろう。あいつは昔の……思い人なんだから」

 "思い人"という言葉だけ妙に小さな声で言ったかと思うと、またぶちぶちと雑草をむしり始めた。

「そこでショック受けてどうするん。昔の話や、今はあんたが婚約者やで。それに、黒瀬さんやって初恋の人がおったやろ」

「……」

 黒瀬は恨みがましい目で高坂を睨み付けた。

「言った俺が馬鹿でした。すんまへん」

「……なんだか長くないか?」

「むしるの雑草だけにしてやー。咲いてる花を引っこ抜いたらスギちゃんに言い付けるで」

 黒瀬はソワソワしたように病室の方を振り向いた。ここでは、中の様子はおろか話し声も聞こえない。

 俺ならもう少し話の聞ける場所に移動するけどな、と高坂は思った。それをしないのが黒瀬なのだが。

(鬼の冷酷少尉の異名が泣くで)

 再び、しゃがみ込む情けない姿に、高坂は思わず笑みを溢した。

「……最近、よく笑うようになったんだ。月子さん」

「黒瀬さんもよう笑うようになったで」

「それも言われた」

 そう言って、黒瀬は本当に嬉しそうに笑った。こんな顔は友人としても久しぶりに見る。

(幸せそうな顔しちゃってさ)

 高坂は思わず顔が綻んでしまう。実は人の惚気話のような類が大好きなのだ。

「好きになりすぎてしまっては困るんだ……婚約解消したくなくなる」

「……せんかったらええやん!」

 予想外の言葉に高坂は思わずずっこけた。

「ダメだ、約束したんだ。喜ばしいことにおそらく退院も近い。喜ばしいが……」

 こうなると黒瀬は頑なになるところがある。高坂は嫌な予感がした。

「……ほんなら、月ちゃんと相談しぃや。一人で突っ走ったらあかんで、せっかく二人ええ雰囲気やねんから」




「おーい!黒瀬ぇー!」

 どこから自分を呼ぶ声がして、黒瀬は周囲を見回した。中庭から病院の出口は繋がっている。
 
 目を凝らすと、先ほど面会に来た"佐久間"が、手をブンブン振り回して自分の名前を呼んでいる。
 
 いつの間にか月子との面会は済んでいたらしい。

「なんや、あいつ。不敬やな」

 高坂は不機嫌そうに目を細めた。

 佐久間は黒瀬たちが自分の存在に気付いたと知ると、再び声を張り上げた。

「月ちゃんのこと、幸せにしてくれよー!」

「なんや、ええやつやんか」

 高坂は涙を拭う仕草をしながら、黒瀬の肩を抱いた。

「やっぱり……その日が来たら俺から伝えることにする」

 黒瀬はいつも以上に眉間に皺を寄せ、いつも以上に口を真一文字に結んで意を決したように言った。

「婚約は解消する、と。あの人はきっと優しいから言い出せない」


 それからもしばらく、月子の入院生活は続いた。怪我は治っても、長い入院生活で衰えた筋力や体力を回復させたり、何より冨岡医師は精神的な治療に造詣の深い方で、月子が心身ともに健やかであるように万全を期すためでもあった。

 黒瀬が忙しい時は高坂が、高坂が休みの日は三人で過ごすことも多くなった。それは三人にとっても穏やかで幸せな時間だった。

 中庭の紫陽花が色付いている。気品のある紫色の花が風に揺れ、大きな葉に雨の雫を落としたのを見て、月子は大切なことを思い出した。



「灯籠流し?」

「そう、高坂さんは行ったことある?」

「いや、ないな」

 黒瀬は緊急の会議で今日は来られないらしい。高坂は相変わらず果物を剥くのが上手くて、大きな桃を簡単に素早く切ると、次々と月子の前に置いていく。

「黒瀬さん、おいそがしいかしら?スギさんが冨岡医師に確認してくれるみたいなんだけど、外出許可が降りそうなの。問題なければそのまま退院できるかもって」

「一日外出許可をもらわなあかんから、早めに言っておいた方ええで」

「高坂さんも一緒に行こう」

「い……」

(行きたい、けど。邪魔したら黒瀬に殺されてまうわ)

 喉まで出かけた"行きたい"を引っ込めて、高坂は精一杯大人ぶってみせた。

「いや、そういうのは若い二人で行きやー」

 そう言って、高坂は一人で頷いた。

「……これが最後かもしれないわ。私が退院したら婚約は解消ですもの」

 月子の言葉に、高坂は驚いて大きく咳き込んだ。大丈夫? と月子は背中をさすってやった。

「……む、無理にせんでもええんちゃう?うまくいってるやん」

「ダメよ。黒瀬さんはいい人だから言い出せないわ」

 月子はそう言って困ったように笑った。

(どこかで聞いたセリフやな)

「月ちゃんは、本音を言ったらどうしたいん?」

 月子は頬を染めて、内緒話を打ち明けるように囁いた。

「ずっと一緒にいたい。でも、黒瀬さんには幸せになってほしいから」

 ーーどうしてこうも二人は似たもの同士なのだろう。

 高坂は天を仰いだ。

「……月ちゃん、そういうのは二人でちゃんと話し合った方がええ。勝手に突っ走るのはよくないことやで」



 退院許可は難なく降りた。白に少しだけ墨を落としたような空色の下、湿った風が頬に纏わりつくように流れていく。

 黒瀬はこの日のために月子に紫陽花色の紗の着物を誂えてくれた。月子の足取りはだいぶ軽く、きめ細やかな肌には傷跡もほとんど残っていなかった。黒瀬は珍しく軍服ではなく、黒い木綿の浴衣を着ている。相変わらず人通りの多い中でも一際目立つ体格の良さと、姿勢の良さで威圧感は拭えない。それでも、今の月子は彼を少しも怖いと思わなかった。

 どちらからともなく手を繋ぐ。のろのろと進む人並みに流されながら、二人はゆっくりと歩を進める。

 お参りを終えて、小さな灯籠に火を灯す。燐寸の火を自分で起こしたのは初めてだった。黒瀬は小さな火が消えぬように、風を遮るように大きな手で月子の手に重ねた。


 願いをそっと流す。できるだけ長く、遠くに運んでもらえるように。どうか、あなたが幸せでありますように。


 黒瀬も同じように火を灯す。二人で風を遮るように身を寄せていた。小さな灯がゆっくりと流れていくのを、二人は静かに寄り添うように見ていた。

「……実は、前にも来たことがあるんだ」

「そうなの?」


 黒瀬は少し当たりを見回して、懐かしむように笑った。

「君に……月子さんにはじめて会ったのが灯籠流しの日だ。君は確かお姉さんと二人で来ていた。」

 黒瀬はポツリ、ポツリと語り始めた。

 ーー失った仲間たちの慰霊のために、灯籠を流したこと。死んでいく仲間を思うと、なぜ軍人でいなければならないのか。生きるためにか殺さなければいけない世界で生きていくのが辛かったこと。

「……そこで君に会ったんだ。雨が降ってきたことにも気付かずに、馬鹿みたいに濡れたままでいる俺に傘を差し出してくれた」

「あ……私、覚えているわ」

 ーー灯籠流しの日は雨が降る。地元の人間なら誰もが知っていることで、みんな傘を持っている。それなのに、濡れながらも静かに流れていく灯籠を見守る姿に心が痛んだ。あの時、月子は考えるより先に傘を差し出していた。見ず知らずの人にそんなことをするなんて、普段の月子にとっては考えられないことだった。それでも、そうしなければいけないと強く思ったのだ。

(それが、まさか黒瀬さんだったなんて……)

 月子は黒瀬の背中にそっと手を添えた。温かい体温が伝わってきて、月子は思わず涙ぐんだ。

「守るために、強くなろうと思えたんだ」

 黒瀬は、これまで以上に身体を鍛え、結果を残そうと必死になっていた。

 そんな折に、上司から結婚を勧められた。結婚が出世の近道になることもある、と。

 結婚願望はなかった。だが、いくつかの縁談の中に藤宮家を見つけた。そして、藤宮家にとっても縁談は願ってもいないことだと聞かされた。両親はなく、病弱な姉がいること、莫大な資産も底をつきそうだということーー。

 家のために結婚するということはよくある話だ。黒瀬は、相手が望むなら形式上の関係でも構わないと思っていた。

「君を守りたかったのに、結局傷つけてしまった」

 小さな雨粒が一つ頬に落ちた。

 ーー灯籠流しの日は雨が降る。

 そうは言っても、音を立てて降り始めた雨に人々は小さく悲鳴をあげた。

 黒瀬は大きな黒い傘を開くと、月子を強く抱き寄せた。決して雨に濡らさぬように。

「月子さん、君には幸せになってほしい。そのためには、君を自由にしてやるのが一番だということもわかっている」
  
「黒瀬さん……私」

「君に結婚を申し込みたい」

 月子は返事の代わりに黒瀬を強く抱き締めた。すでに、口も聞けぬほど泣いていたからである。黒瀬は涙で濡れた月子の顔を袖口で優しく拭った。

「……帰したくなくなるな」

 黒瀬はそう呟くと、静かに目を伏せた。唇が重なり合う、大きな黒い傘は二人をすっぽりと隠してしまった。まるで二人だけの世界、月子はそんなことを思った。
 
 雨音だけが、ただ静かに響いていた。



 冨岡医師に戻るように、と言い付けられた時間ぴったりに二人は戻ってきた。本来ならば、その三十分前には戻ってきているはずだった。

「あと五分でも遅れていたら、二人まとめて叱ろうと思っていたところですよ」

 冨岡医師は穏やかな口調だったが、瞳の奥は笑っていなかった。

 それでも、翌日に月子は退院となった。

 "骨にも内臓にも異常なし、心は健やか"と、診断書にはそう書かれていた。



 退院してしばらくの間、月子は黒瀬の実家で世話になることになった。母親は黒瀬に似た優しい人で、「男三人兄弟を育てていて、ずっと娘が欲しかったから嬉しい」と言って本当の娘のように可愛がってくれる。

 しばらくして、月子は久しぶりに藤宮家に戻りたくなった。戻りたくなった、というより現在の藤宮家の屋敷を見ておきたかった。

 一人でも大丈夫、という月子に、黒瀬はどうしてもついていくと言って聞かなかった。かつて月子の暮らしていた屋敷に興味津々で、物珍しそうにそこらを見ているのが子どもみたいで新鮮だった。

(……そうだ、せっかく二人で出かけているのだから、帰りに高坂夫妻への手土産を買って行こう)

 今週末、黒瀬と月子は高坂家の食事会に招かれている。何度か手紙のやり取りはしたものの、憧れの"りょうちゃんさん"と会えるのははじめてで月子は今からワクワクしている。

 月子の部屋は一番奥にある。廊下が少し軋む。当然だが、人の気配はどこにもなく、時折足元から冷たい風が吹き込んでいるようだった。

 留守の間に手紙が何通か届いていたようだった。誰も出入りしていないのかと思っていたが、手紙は未開封のまま綺麗に文机に並べられていた。こんなことをしてくれるのは寿太郎さんの奥さんかも、と月子は思った。

 驚いたことに、そのほとんどは陽子からの便りだった。ざらついた紙に触れた時、ふと心が黒く翳った。でも、それはきっと気のせいだった。少し不安になって、隣にいる黒瀬に少しもたれかかるように体を預ける。

 陽子からの手紙は三通。そのうち二通は月子に詫びる言葉が綴られていた。

 最後の一通だけ新しいことに気付く。

 ーー春に子どもが産まれます。落ち着いたら会いに来て。

 月子は手紙を胸に抱いて、静かに涙を流した。

「……向こうはきっと、桜が満開の頃だろうな」