思えばいつも、決まった時間に必ず来てくれたことをもっと感謝するべきだったのだ。
そんなことを考えていると、いつもより軽快な足音が聞こえる。革靴の音のようだが、黒瀬ではない。どこか別の部屋のお見舞いかと目を閉じるとその足音は月子の部屋の前で止まった。
(だれ……?)
月子は咄嗟に布団を被った。黒瀬以外に見舞いになど来る者はいないし、これからもないことだと思っていた。
勢いよく窓のカーテンが開けられる。
「こんな天気のええ日は窓開けぇや」
聞き慣れぬ大きな声と西の強い訛りに、月子は恐る恐る顔を出した。
「せやろ、スギちゃん」
「はいはい、これから開けるところだったんですよー」
と、遠くで看護婦の声がする。スギちゃん、というのはおそらく月子の世話を一番よくしてくれる、つるんとした肌の看護婦のことだ。
黒瀬と同じ桑茶色の軍服を着た男は、勝手知ったる場所のように窓を開けると、気持ちよさそうに目を細めた。
「あの……」
月子が目を開けたことに気づくと、男は軽快に体の向きを変え、いささか仰々しく姿勢を正した。
「曹長の高坂新であります。黒瀬少尉殿の副官を務めております」
男はそう言ってにっこりと笑った。不思議と目の前の男からは威圧的な空気を感じられなかった。
(軍服姿の男性といえば、町の中ですれ違うたびにピリッとするのに……)
それと同時に、月子は不安に思った。とうとう黒瀬に嫌われてしまったのか、と。
「……はじめましてやね。今日は黒瀬少尉殿が抜けられない用事がありまして。それでもどうしても行くと聞かないので自分が代わりに来させてもらいました」
お嬢さんも知ってるでしょう、あの人頑固やから。と、悪戯っぽく笑う。
「そうなんですか……お忙しいところすみません。あの、」
こちらが緊張していることに気付いたのか、男はふっと笑って崩した雰囲気で話し始めた。
「高坂新……あ、新って呼んでもええよ。ちなみに黒瀬少尉より五歳上やで、見えへんやろ」
「えっ、そうなんですか?」
素直に驚いてしまったが、それは少し失礼だったかもしれない。だが、黒瀬よりも体格もほっそりしていて、親しみやすい雰囲気も相まって月子とさほど年齢が変わらないようにも思える。
「体調はどう?」
「だいぶいいです」
軽口は叩いても、月子の顔色を伺う瞬間は真剣な眼差しで少し緊張してしまう。
「肋折ったんやろ?辛いよなー、俺も折ったことあるで。咳するたびに痛いよな、寝返り打てへんし。切り傷も痛々しいな、でもだいぶ薄くなったんちゃう? 気付かんかったかもしれへんけど、俺もたまにお見舞いに来てたんやで。……まだ、目ぇ覚めてへんときかな? スギちゃんも言ってたけど、顔に傷付かへんくてよかったな。お転婆ちゃんも嫌いやないけど」
そういって、自分自身の頬を人差し指でつつくと、ぷくーっと頬を膨らませた。本当に子どもみたいな人だと思った。月子は久しぶりに自分が自然と笑えていることに気付いた。
「あかん、喋りすぎたわー。座ってええ?」
そう言って、月子のベッドの近くに椅子を持ってくると「林檎好きやんな?」と、器用に林檎を剥き始めた。
「俺な、林檎剥くの上手いねん。兄さんとは十離れてんねんけど、風邪ひくとよう剥いてもらったわ。ま、俺の方が器用やけどな……どや、うさぎちゃんやで」
白い皿の上に、小さなうさぎが八匹並んでいる。本人の言うとおり、高坂は器用な男らしく、全てが均等で美しかった。
「すごい、可愛い……!」
「食べやー」
月子が目を丸くしていると、高坂は照れくさそうに笑った。
ありがとうございます、と言って一口齧る。よく熟した真っ赤な林檎は甘酸っぱくて美味しかった。
「腕とか足は平気なん?冨岡医師はなんて言ってるん? 」
高坂はそう言って月子のあちこちに巻かれた包帯をしげしげと見ていた。
「大丈夫です。冨岡医師もしばらく安静にしていればいいと。部屋の中なら少し歩けるようになりました」
そう言ってから、月子はふとあることに気付いた。些細なことを見逃さない高坂は、月子を心配そうに見つめた。
「……どうしたん?」
月子は一瞬、口に出すか迷ったが、なぜか高坂にはなんでも話しても大丈夫だと思わせてしまう力があるらしい。
「そういえば、あまり黒瀬少尉に詳しく聞かれてたことないなって思って……体調は心配してくれるんですけど」
体調はどうだ、と聞くがそれ以上を聞かれたことはない。
「あの人はそういう人やで? 心配は人三倍、いや十倍してるやろうけど、聞いたら悪いと思ってんのかな? 毎日医者と看護婦に聞いてるみたいやで。この前なんか、あの温厚そうな医師にとうとう一日じゃなんも変わりませんって呆れられとったわ。笑える話やろって……いや、笑えんか。ごめん」
「そうなんですか……」
黒瀬が冨岡医師と話しているところなど、全く想像がつかなかった。だが、月子は胸がじんわりと温かくなっていくのを感じていた。
「せや、あの金箔カステラ美味かった? 黒瀬少尉には黙ってろって言われてんけど、実は並んだの俺やねん」
「えっ、高坂さんが?」
そやで。と自分剥いた林檎うさぎの出来栄えを確かめるように一周回し、愛おしそうに眺めたかと思うと丸ごと一つ口に入れてしまった。
「あの人、ああ見えても一応忙しい人やからさ。……あ、これはお嬢ちゃんを責めてる話やないで。ほんまはもう一つ買うていきたかったんよ。嫁はんがめっちゃ甘い物好きやねん。俺な、西の方の出身で……って話し方でわかるよな。で、そこに嫁はん残してきてん。あ、写真見る?」
高坂はそう言って胸元から嬉しそうに一枚の写真を取り出した。庭先で撮られたものだろうか、躑躅の前で口を一文字に結んで凛とこちらを見つめている。意思の強そうな美しい女性だった。
「綺麗な人ですね」
お世辞ではなく、まるで竹久夢二の美人画からそのまま出てきたような、目の覚めるような美人だった。
「せやろー」
月子の言葉に、高坂は途端に顔を綻ばせた。愛おしそうに写真の女性を見つめる。
「りょうちゃんっていうんやけど、お守りに写真持たせてって言ったらこれやねん。なんでこんな怒ってるん? って聞いたら、『気張りや』って表情なんやて。なにいうてん、笑った顔がええに決まってるやんか。お嬢ちゃんもな、少尉に写真を持たせてやるときは笑ってやってや。せやねんと笑った顔を忘れてまうで。せや、まだ少し先やろうけども、退院したら西の方に遊びに来てや。りょうちゃんの手料理美味いで」
高坂夫妻が仲睦まじく囲む食卓を想像する。温かくて素敵な時間、月子はそれが羨ましく思えた。直接会ったことはないのだが、美しくて、凛として、どこか頼もしいりょうちゃんさんが月子にとって密かな憧れの女性になった。
「ありがとうございます。私もりょうちゃんさんにお会いしたいです」
りょうちゃん喜ぶで、と高坂も嬉しそうに笑った。
それから、二人は色々な話をした。おそらく高坂の方は黒瀬から聞いた話もあっただろう。それでも、初めて聞く話のように月子の話を楽しそうに、時には一緒に悲しんだり、怒ったりして聞いてくれた。
「……黒瀬少尉はただ、私が可哀想だから世話をしてくれるだけです」
なんの話の流れだったか、高坂はまるで退院後には黒瀬と結婚しているような言い方をするので月子はやんわりと釘を刺した。黒瀬は出世のために婚約を進めたかったのだから、たとえ高坂であろうと詳しい事情は話さない方がいいと思ったからだ。だが、高坂はその事情を知ってもなおそう言っているらしかった。
「あの人は優しいけど、そんな理由でおるほど暇やないと思うで。責任感は確かにある……でも、ここまでせえへんよ」
「私、わがままばっかりだから嫌われたかと」
「嫌われたかったんやろ?」
高坂はそう言って笑った。わかっていても、幼稚だった自分を見抜かれて月子は消えたくなるほど恥ずかしくなった。
「あのくらいじゃ嫌いになんかならへんよ」
高坂は優しく月子に微笑んだ。
「それに、あんなんわがままに入らへんわ。これからはさ、もっと色々欲張ってええんやで」
高坂はそう言うと、少し真面目な表情で月子と向き合った。
「藤宮月子は一回死んだんや、今度は自分の好きに生きたらええ。ゆっくりな」
そう言って、高坂はしばらく黙った。少し迷ったあと、月子の目を見てゆっくり話し始めた。
「俺も戦地で一度死にかけたことがあってん。生き続ける気力も無くなるくらいやったけど、なんか上手いこと生きてしまった……これから話すことは説教ちゃうで。しばらくして、その時に俺を助けてくれた上司が見舞いにめっちゃ美味いカステラ持ってきてくれてん。こんな美味いものがあるなら死んでる場合やないわ!って。せやから、月ちゃんから洋菓子ねだられたとき嬉しそうやったんかな。……あの人、悪い人やないんやで。そうは見えへんかもしれないけど」
一息に言ってしまったあと、高坂は重い空気を変えるようにパンッと手を合わせた。
「せや、さっき聞いたんやけど、部屋の中を歩けるんやったな。そこから外出てみる? 」
高坂は病室から中庭に出られる扉を指差した。看護婦のスギちゃんからは、「ひなたぼっこしてきてもいいよ」と言われたことがあるが、一度出てみようと外に出ようとした瞬間に眩暈を起こしてから怖くなってしまった。
ーー姉もきっと、こんな風に怖かったんだ。
でも、今日はなんだか大丈夫だと思えた。一人じゃないからだ。
「……ここ、お庭も綺麗なんですね」
病室の窓からも少し見えていたが、それ以上に季節の花があちこちに植えられている。
高坂はフラフラと月子を体に触れない適切な距離で導くのが上手だった。おかげで月子は自分のペースで歩くことができた。柔らかな芝を踏むと青臭い香りがして、久しぶりに生きていることを実感したように思えた。
小さな池があるのもはじめて知った。何か生き物でもいるのか覗き込もうとした瞬間、目の前がスーッと白くなる。
高坂は瞬時に月子を支えた。
「しんどい?」
「ごめんなさい、少し眩暈が……」
高坂に促されるまま、その場にゆっくりしゃがむと少し楽になった。血の気が戻って、少しずつ指先に体温が戻っていくのを感じる。片膝をついた高坂は心配そうに月子を見ている。
もう大丈夫です、と立ち上がりかけた途端急に陽が翳ったように思えて二人は同時に見上げた。
「こんなところで何してる? 」
大きな影の正体は黒瀬だった。心なしか眉を顰めて不機嫌そうに見える。
「部屋にいないと思ったら……」
「怒らんといてや。会議ちゃんと出たんやろうな?」
「当たり前だ」
高坂は立ち上がって、黒瀬の肩をバシッと叩く。こうして見ると、黒瀬と高坂の身長はさほど変わらないように見えた。
それでもやはり、年齢はどう見ても黒瀬の方が上のように見える。
「大丈夫か?」
黙ったままの月子に、黒瀬は心配そうに訊ねた。ぶっきらぼうに聞こえる言い方にも優しさが滲んでいるのがわかる。
「ええ、大丈夫です。黒瀬さん、今日はお忙しいって……」
「もう平気だ」
黒瀬は間髪入れずに短く答えた。
「月ちゃん、黒瀬少尉殿が来たから、部屋に戻ろか」
「はい。久しぶりの外、楽しかったです。高坂さんのおかげでたくさん歩けました。ありがとうございます」
そう言うと、高坂は照れくさそうに笑った。
「高坂、お前……。月ちゃんってなんだ、月ちゃんって……」
「月ちゃんがそう呼んでええって」
高坂は悪びれもなく答えた。
「いいって言われたからってだめに決まってるだろ」
「なんで?」
「そういう規則だ」
「知らんで、そんな規則」
月子はそんな二人のやり取りに思わず目を細めた。
(本当に仲が良いんだなぁ……)
部屋に戻ると、高坂は気を利かせ、黒瀬と月子を二人きりにした。
「黒瀬さん、昨日は本当に申し訳ありませんでした。それに、お忙しい方だってわかってるのに私……」
「私の方こそすまなかった。君の気持ちを考えずに、その……泣かせてしまって」
「いいえ、黒瀬さんは悪くないです。私が……」
月子は黙った。
「そうだ、寿太郎殿の奥方は君も知ってるな? 大切な物だろうから、持っていって欲しいと頼まれたんだ」
黒瀬はそう言うと、月子に小さな箱を手渡した。
それは藤宮家の屋敷に言い置いてきたはずの月子の小さな宝箱だった。大切なものだったはずなのに、すっかり忘れていた。
しばらく箱を眺めて、そっと蓋を外した。空色と薄桃の千代紙が混ざり合っている。
月子は蓋を素早く閉めると、じっと目を閉じた。
「……やはり、大切な物だったか」
「ありがとうございます。……でも、こちらは処分してください。できれば燃やして」
「……わかった」
黒瀬はそれ以上は何も聞かず、月子から箱を受け取った。
「代わりにと言ってはなんだが……」
黒瀬は可愛らしい包みを出すと、月子に優しく手渡した。
「珍しい千代紙らしい。ほら、光にかざすと透けて金箔が」
一枚手にとって、陽の光に翳す。キラキラと光が反射する。
「まあ、キラキラしてるわ」
月子は目を丸くして、夢中になって光の粒を操っている。黒瀬は嬉しくなって、夜空のような藍色の千代紙を重ねて見せる。
「こうすると夜空みたいになる。月……」
夢中になっていて、頬が触れそうなほど近くにいることに気付かなかった。
月子は黒瀬の瞳に自分の姿が映っているのが見えた。長いまつ毛が揺れている。
(こんな優しい瞳で見てくれていたのね、私のこと)
二人が動けないままでいると、控えめに扉を数回叩く音がした。驚いた猫のように二人は飛び上がった。
「黒瀬さん、少しいいかしら」
扉を叩いたのは看護婦のスギちゃんだった。黒瀬はスッといつも通りの生真面目な顔で部屋を出た。
「藤宮月子さんに面会したいという方が来ています」
「誰でしょう」
「えーっと、佐久間という方です」
そんなことを考えていると、いつもより軽快な足音が聞こえる。革靴の音のようだが、黒瀬ではない。どこか別の部屋のお見舞いかと目を閉じるとその足音は月子の部屋の前で止まった。
(だれ……?)
月子は咄嗟に布団を被った。黒瀬以外に見舞いになど来る者はいないし、これからもないことだと思っていた。
勢いよく窓のカーテンが開けられる。
「こんな天気のええ日は窓開けぇや」
聞き慣れぬ大きな声と西の強い訛りに、月子は恐る恐る顔を出した。
「せやろ、スギちゃん」
「はいはい、これから開けるところだったんですよー」
と、遠くで看護婦の声がする。スギちゃん、というのはおそらく月子の世話を一番よくしてくれる、つるんとした肌の看護婦のことだ。
黒瀬と同じ桑茶色の軍服を着た男は、勝手知ったる場所のように窓を開けると、気持ちよさそうに目を細めた。
「あの……」
月子が目を開けたことに気づくと、男は軽快に体の向きを変え、いささか仰々しく姿勢を正した。
「曹長の高坂新であります。黒瀬少尉殿の副官を務めております」
男はそう言ってにっこりと笑った。不思議と目の前の男からは威圧的な空気を感じられなかった。
(軍服姿の男性といえば、町の中ですれ違うたびにピリッとするのに……)
それと同時に、月子は不安に思った。とうとう黒瀬に嫌われてしまったのか、と。
「……はじめましてやね。今日は黒瀬少尉殿が抜けられない用事がありまして。それでもどうしても行くと聞かないので自分が代わりに来させてもらいました」
お嬢さんも知ってるでしょう、あの人頑固やから。と、悪戯っぽく笑う。
「そうなんですか……お忙しいところすみません。あの、」
こちらが緊張していることに気付いたのか、男はふっと笑って崩した雰囲気で話し始めた。
「高坂新……あ、新って呼んでもええよ。ちなみに黒瀬少尉より五歳上やで、見えへんやろ」
「えっ、そうなんですか?」
素直に驚いてしまったが、それは少し失礼だったかもしれない。だが、黒瀬よりも体格もほっそりしていて、親しみやすい雰囲気も相まって月子とさほど年齢が変わらないようにも思える。
「体調はどう?」
「だいぶいいです」
軽口は叩いても、月子の顔色を伺う瞬間は真剣な眼差しで少し緊張してしまう。
「肋折ったんやろ?辛いよなー、俺も折ったことあるで。咳するたびに痛いよな、寝返り打てへんし。切り傷も痛々しいな、でもだいぶ薄くなったんちゃう? 気付かんかったかもしれへんけど、俺もたまにお見舞いに来てたんやで。……まだ、目ぇ覚めてへんときかな? スギちゃんも言ってたけど、顔に傷付かへんくてよかったな。お転婆ちゃんも嫌いやないけど」
そういって、自分自身の頬を人差し指でつつくと、ぷくーっと頬を膨らませた。本当に子どもみたいな人だと思った。月子は久しぶりに自分が自然と笑えていることに気付いた。
「あかん、喋りすぎたわー。座ってええ?」
そう言って、月子のベッドの近くに椅子を持ってくると「林檎好きやんな?」と、器用に林檎を剥き始めた。
「俺な、林檎剥くの上手いねん。兄さんとは十離れてんねんけど、風邪ひくとよう剥いてもらったわ。ま、俺の方が器用やけどな……どや、うさぎちゃんやで」
白い皿の上に、小さなうさぎが八匹並んでいる。本人の言うとおり、高坂は器用な男らしく、全てが均等で美しかった。
「すごい、可愛い……!」
「食べやー」
月子が目を丸くしていると、高坂は照れくさそうに笑った。
ありがとうございます、と言って一口齧る。よく熟した真っ赤な林檎は甘酸っぱくて美味しかった。
「腕とか足は平気なん?冨岡医師はなんて言ってるん? 」
高坂はそう言って月子のあちこちに巻かれた包帯をしげしげと見ていた。
「大丈夫です。冨岡医師もしばらく安静にしていればいいと。部屋の中なら少し歩けるようになりました」
そう言ってから、月子はふとあることに気付いた。些細なことを見逃さない高坂は、月子を心配そうに見つめた。
「……どうしたん?」
月子は一瞬、口に出すか迷ったが、なぜか高坂にはなんでも話しても大丈夫だと思わせてしまう力があるらしい。
「そういえば、あまり黒瀬少尉に詳しく聞かれてたことないなって思って……体調は心配してくれるんですけど」
体調はどうだ、と聞くがそれ以上を聞かれたことはない。
「あの人はそういう人やで? 心配は人三倍、いや十倍してるやろうけど、聞いたら悪いと思ってんのかな? 毎日医者と看護婦に聞いてるみたいやで。この前なんか、あの温厚そうな医師にとうとう一日じゃなんも変わりませんって呆れられとったわ。笑える話やろって……いや、笑えんか。ごめん」
「そうなんですか……」
黒瀬が冨岡医師と話しているところなど、全く想像がつかなかった。だが、月子は胸がじんわりと温かくなっていくのを感じていた。
「せや、あの金箔カステラ美味かった? 黒瀬少尉には黙ってろって言われてんけど、実は並んだの俺やねん」
「えっ、高坂さんが?」
そやで。と自分剥いた林檎うさぎの出来栄えを確かめるように一周回し、愛おしそうに眺めたかと思うと丸ごと一つ口に入れてしまった。
「あの人、ああ見えても一応忙しい人やからさ。……あ、これはお嬢ちゃんを責めてる話やないで。ほんまはもう一つ買うていきたかったんよ。嫁はんがめっちゃ甘い物好きやねん。俺な、西の方の出身で……って話し方でわかるよな。で、そこに嫁はん残してきてん。あ、写真見る?」
高坂はそう言って胸元から嬉しそうに一枚の写真を取り出した。庭先で撮られたものだろうか、躑躅の前で口を一文字に結んで凛とこちらを見つめている。意思の強そうな美しい女性だった。
「綺麗な人ですね」
お世辞ではなく、まるで竹久夢二の美人画からそのまま出てきたような、目の覚めるような美人だった。
「せやろー」
月子の言葉に、高坂は途端に顔を綻ばせた。愛おしそうに写真の女性を見つめる。
「りょうちゃんっていうんやけど、お守りに写真持たせてって言ったらこれやねん。なんでこんな怒ってるん? って聞いたら、『気張りや』って表情なんやて。なにいうてん、笑った顔がええに決まってるやんか。お嬢ちゃんもな、少尉に写真を持たせてやるときは笑ってやってや。せやねんと笑った顔を忘れてまうで。せや、まだ少し先やろうけども、退院したら西の方に遊びに来てや。りょうちゃんの手料理美味いで」
高坂夫妻が仲睦まじく囲む食卓を想像する。温かくて素敵な時間、月子はそれが羨ましく思えた。直接会ったことはないのだが、美しくて、凛として、どこか頼もしいりょうちゃんさんが月子にとって密かな憧れの女性になった。
「ありがとうございます。私もりょうちゃんさんにお会いしたいです」
りょうちゃん喜ぶで、と高坂も嬉しそうに笑った。
それから、二人は色々な話をした。おそらく高坂の方は黒瀬から聞いた話もあっただろう。それでも、初めて聞く話のように月子の話を楽しそうに、時には一緒に悲しんだり、怒ったりして聞いてくれた。
「……黒瀬少尉はただ、私が可哀想だから世話をしてくれるだけです」
なんの話の流れだったか、高坂はまるで退院後には黒瀬と結婚しているような言い方をするので月子はやんわりと釘を刺した。黒瀬は出世のために婚約を進めたかったのだから、たとえ高坂であろうと詳しい事情は話さない方がいいと思ったからだ。だが、高坂はその事情を知ってもなおそう言っているらしかった。
「あの人は優しいけど、そんな理由でおるほど暇やないと思うで。責任感は確かにある……でも、ここまでせえへんよ」
「私、わがままばっかりだから嫌われたかと」
「嫌われたかったんやろ?」
高坂はそう言って笑った。わかっていても、幼稚だった自分を見抜かれて月子は消えたくなるほど恥ずかしくなった。
「あのくらいじゃ嫌いになんかならへんよ」
高坂は優しく月子に微笑んだ。
「それに、あんなんわがままに入らへんわ。これからはさ、もっと色々欲張ってええんやで」
高坂はそう言うと、少し真面目な表情で月子と向き合った。
「藤宮月子は一回死んだんや、今度は自分の好きに生きたらええ。ゆっくりな」
そう言って、高坂はしばらく黙った。少し迷ったあと、月子の目を見てゆっくり話し始めた。
「俺も戦地で一度死にかけたことがあってん。生き続ける気力も無くなるくらいやったけど、なんか上手いこと生きてしまった……これから話すことは説教ちゃうで。しばらくして、その時に俺を助けてくれた上司が見舞いにめっちゃ美味いカステラ持ってきてくれてん。こんな美味いものがあるなら死んでる場合やないわ!って。せやから、月ちゃんから洋菓子ねだられたとき嬉しそうやったんかな。……あの人、悪い人やないんやで。そうは見えへんかもしれないけど」
一息に言ってしまったあと、高坂は重い空気を変えるようにパンッと手を合わせた。
「せや、さっき聞いたんやけど、部屋の中を歩けるんやったな。そこから外出てみる? 」
高坂は病室から中庭に出られる扉を指差した。看護婦のスギちゃんからは、「ひなたぼっこしてきてもいいよ」と言われたことがあるが、一度出てみようと外に出ようとした瞬間に眩暈を起こしてから怖くなってしまった。
ーー姉もきっと、こんな風に怖かったんだ。
でも、今日はなんだか大丈夫だと思えた。一人じゃないからだ。
「……ここ、お庭も綺麗なんですね」
病室の窓からも少し見えていたが、それ以上に季節の花があちこちに植えられている。
高坂はフラフラと月子を体に触れない適切な距離で導くのが上手だった。おかげで月子は自分のペースで歩くことができた。柔らかな芝を踏むと青臭い香りがして、久しぶりに生きていることを実感したように思えた。
小さな池があるのもはじめて知った。何か生き物でもいるのか覗き込もうとした瞬間、目の前がスーッと白くなる。
高坂は瞬時に月子を支えた。
「しんどい?」
「ごめんなさい、少し眩暈が……」
高坂に促されるまま、その場にゆっくりしゃがむと少し楽になった。血の気が戻って、少しずつ指先に体温が戻っていくのを感じる。片膝をついた高坂は心配そうに月子を見ている。
もう大丈夫です、と立ち上がりかけた途端急に陽が翳ったように思えて二人は同時に見上げた。
「こんなところで何してる? 」
大きな影の正体は黒瀬だった。心なしか眉を顰めて不機嫌そうに見える。
「部屋にいないと思ったら……」
「怒らんといてや。会議ちゃんと出たんやろうな?」
「当たり前だ」
高坂は立ち上がって、黒瀬の肩をバシッと叩く。こうして見ると、黒瀬と高坂の身長はさほど変わらないように見えた。
それでもやはり、年齢はどう見ても黒瀬の方が上のように見える。
「大丈夫か?」
黙ったままの月子に、黒瀬は心配そうに訊ねた。ぶっきらぼうに聞こえる言い方にも優しさが滲んでいるのがわかる。
「ええ、大丈夫です。黒瀬さん、今日はお忙しいって……」
「もう平気だ」
黒瀬は間髪入れずに短く答えた。
「月ちゃん、黒瀬少尉殿が来たから、部屋に戻ろか」
「はい。久しぶりの外、楽しかったです。高坂さんのおかげでたくさん歩けました。ありがとうございます」
そう言うと、高坂は照れくさそうに笑った。
「高坂、お前……。月ちゃんってなんだ、月ちゃんって……」
「月ちゃんがそう呼んでええって」
高坂は悪びれもなく答えた。
「いいって言われたからってだめに決まってるだろ」
「なんで?」
「そういう規則だ」
「知らんで、そんな規則」
月子はそんな二人のやり取りに思わず目を細めた。
(本当に仲が良いんだなぁ……)
部屋に戻ると、高坂は気を利かせ、黒瀬と月子を二人きりにした。
「黒瀬さん、昨日は本当に申し訳ありませんでした。それに、お忙しい方だってわかってるのに私……」
「私の方こそすまなかった。君の気持ちを考えずに、その……泣かせてしまって」
「いいえ、黒瀬さんは悪くないです。私が……」
月子は黙った。
「そうだ、寿太郎殿の奥方は君も知ってるな? 大切な物だろうから、持っていって欲しいと頼まれたんだ」
黒瀬はそう言うと、月子に小さな箱を手渡した。
それは藤宮家の屋敷に言い置いてきたはずの月子の小さな宝箱だった。大切なものだったはずなのに、すっかり忘れていた。
しばらく箱を眺めて、そっと蓋を外した。空色と薄桃の千代紙が混ざり合っている。
月子は蓋を素早く閉めると、じっと目を閉じた。
「……やはり、大切な物だったか」
「ありがとうございます。……でも、こちらは処分してください。できれば燃やして」
「……わかった」
黒瀬はそれ以上は何も聞かず、月子から箱を受け取った。
「代わりにと言ってはなんだが……」
黒瀬は可愛らしい包みを出すと、月子に優しく手渡した。
「珍しい千代紙らしい。ほら、光にかざすと透けて金箔が」
一枚手にとって、陽の光に翳す。キラキラと光が反射する。
「まあ、キラキラしてるわ」
月子は目を丸くして、夢中になって光の粒を操っている。黒瀬は嬉しくなって、夜空のような藍色の千代紙を重ねて見せる。
「こうすると夜空みたいになる。月……」
夢中になっていて、頬が触れそうなほど近くにいることに気付かなかった。
月子は黒瀬の瞳に自分の姿が映っているのが見えた。長いまつ毛が揺れている。
(こんな優しい瞳で見てくれていたのね、私のこと)
二人が動けないままでいると、控えめに扉を数回叩く音がした。驚いた猫のように二人は飛び上がった。
「黒瀬さん、少しいいかしら」
扉を叩いたのは看護婦のスギちゃんだった。黒瀬はスッといつも通りの生真面目な顔で部屋を出た。
「藤宮月子さんに面会したいという方が来ています」
「誰でしょう」
「えーっと、佐久間という方です」
