期限付きの婚約者

 藤宮家といえば、かつては都の公家で宮中との繋がりもあった由緒ある家柄、だった。
 両親の他界後は宮中との繋がりもめっきり薄くなり、今は没落寸前である。形だけ残された広い屋敷には姉妹が二人で身を寄せ合って暮らしている。使用人などは少し前に暇を出され、今は遠縁の後見人が世話をしてくれている。姉妹は、特に妹の月子は両親の顔をほとんど覚えていなかった。姉の陽子は子どもの頃から病弱で屋敷からはほとんど出ない生活だった。

 そんな寂しい姉妹を気遣って、今日も藤宮家と繋がりのあった者たちが贈り物を届けてくれる。

「陽子姉さん、見て。綺麗な千代紙よ」

 陽子は小さく咳き込んで、月子を近くに招いた。このところ随分と顔色がいい。雪のように白い肌に、今日はうっすら赤みが差している。

「綺麗……月子が先に選びなさい。妹なんだから」

「じゃあ、この桜色にするわ。姉さんは浅葱色が好きでしょう?」

「ええ、空の色だもの」

 そういって、陽子は遠い窓の方に見えない日の光を手繰るように目を細めた。

 本当は月子も浅葱色が欲しかった。春の水のような透き通った色も、冬の空のような色も好きだった。
 でも、外に出られない陽子は空の色をよく知らない。だから、いつも空色を望んでいる。

 陽子は枕元に置いている宝箱を手に取ると、月子にもこっそり見せてくれた。

 そこには箱いっぱいに姉の空が広がっていた。
 
 思わず言葉を失っている月子に、陽子は優しく微笑んだ。

「昔から月子は桜色が好きね。可愛い月子によく似合ってる」
 
 そう言って陽子は月子の髪を優しく撫でた。陽子は知らないままでいい。

「……そうね、桜色好きよ」

 それでも、薄暗い部屋の中で、目の覚めるような鮮やかな色の、それもどこも傷んでいない姉の着物を見る度に羨ましくないと言ったら嘘になる。

「お菓子食べない? この前に頂いた落雁、可愛くて食べられなかったの」

 お菓子のような指先で、陽子は丁寧に桜色の落雁を半分に割った。

 半分欠けた桜を口に含むと、樟脳の移り香がふっと鼻に抜けた。
 
「そういえば、足の具合はどうなの?」

 と、月子は訊ねた。昨夜から足が痛むというのだ。陽子は小さく首を横に振った。

「まだ少し痛むわ」

 往診に来た杉浦医師の話によると、体調はだいぶ回復しているから、今は外に出て太陽の光を浴びた方が良いということだった。

 それを聞いた月子は喜んだが、陽子は浮かない顔をしていた。なんせ姉はもう随分と長いこと外に出ていない。不安に思うのも無理はないだろう。
 焦らないと心に決めていたはずの月子だったが、ある信頼する方から「太陽の光って素晴らしいものなんだよ」と助言を受けたこともあり、張り切って姉を外に連れ出した。久しぶりに二人で梅の花を見て、楽しい時間を過ごしたのだが、屋敷に着くなり足が痛むと言い出し、昨夜からしきりに足をさするようになった。

「私、ちょっと杉浦医院に行って薬をもらってくる」

「そこまでしなくていいわよ。雨でも降ったら大変」

「すぐ戻るから平気よ」

 月子はおもむろに立ち上がると、少しも面倒くさがることもなく支度を始めた。もちろん、姉を無理に連れ出したことへの罪悪感もあるのだが、月子がどうしても杉浦医院に向かいたい理由も他にあった。


 着慣れた灰梅色の着物に、薄紫色の道中着を羽織る。手絞りならではの不揃いの淡い花模様の道中着は月子のお気に入りで、とっておきの日にしか着ないようにしている。

 薄墨色の空を少し見上げて、一度手に取った傘を置いた。遠くの空が少し明るく見えたからだ。

 杉浦医院は藤宮家の屋敷から歩いてすぐのところにある。藤宮家が京から屋敷を移した頃からお世話になっている医院で、病弱な陽子の元に少なくとも月に一度は往診に来てくれる。基本的には家に来てくれるのだが、風邪をひいた時や湿布薬がほしい時はこうして出向くこともある。

 杉浦医院の院長、杉浦医師は白髪で物腰の柔らかいおじいちゃん先生なのだが、赤茶色の重厚な煉瓦造りの門構えは威圧感があって何度来ても慣れない。

 扉を開けるまで少し躊躇っていると、こちらに気づいた青年が笑顔で駆け寄ってくる。

「やあ、月ちゃん。今日はどうしたの」

「佐久間さん」

 月子の顔がパッと輝く。

 杉浦医院で書生として住み込みで働いている佐久間だった。月子が兄のように慕う幼馴染で、佐久間もまた、月子を本当の妹のように可愛がってくれている。

 佐久間は月子を慣れた様子で案内する。院内に人の気配はほとんどなく、遠くで誰かがボソボソと話しているのが聞こえてくる。消毒液の匂いがツンと鼻を刺した。

「姉に湿布薬をもらっていきたくて来ました。少し無理をさせてしまったの。外に出て足を痛めたみたいで……」

「それは大変だ。すぐに杉浦医師を呼ぶからね」

 杉浦医師はひとしきり話を聞くと、あまり心配することはないよと朗らかに笑った。よく効くと折り紙付きの湿布薬を月子に渡すと、また近いうちに往診に行くと姉に伝えるようにと言ってくれた。

「僕も余計なことを言ってしまって責任を感じるよ」

「いいえ、佐久間さんのせいじゃないわ。それに、太陽の光を浴びるって改めていいものだと思った。いいお天気の日でね、姉と梅を見に行ったのよ。久しぶりで楽しかったわ……でもね、姉が外の世界を不安に思うのもわかっているつもり」

「月ちゃんは本当に優しい子だね」

 佐久間はそう言って微笑んだ。静かで優しい声を聞くと、なんだか嬉しくて、なぜかいつも泣き出しそうになる。

「そうだ、月ちゃんはこの後に用事はある? お姉さんに薬を渡したあと」

「いいえ、ないわ」

「仕事が終わったら迎えに行くよ。カフェにでも行かない? 月ちゃんに食べさせてあげたいケーキがあるんだよ」

 佐久間のいうカフェというのは、近頃流行しているという艶っぽい場所ではなく、学生たちも集まるような小さなカフェのことをいっている。少し前にも新しく友人と開拓して見つけたというカフェへと連れて行ってくれたのだが、そこで食べたクリームあんみつが夢にまで見るほど美味しかった。


 陽子は湿布薬を貼った途端、「もう治った」と言って月子を安心させた。おかげで約束の時間より少し早く迎えにきた佐久間と気兼ねなく出掛けることができた。

 白衣を脱いだ佐久間は、黒と白の縦縞の着物に鼠色の羽織り、お気に入りの黒のソフト帽を斜めに被っている。目を細めて微笑む仕草は変わらないのに、外で会う時はなんだか違う人みたいでドキドキする。

「月ちゃんは林檎好きだったよね」

「大好き。そのまま食べても蜜煮も好き。佐久間さんは?」

「良かった。僕も大好きだよ。これから行くカフェは季節限定のケーキが人気なんだ。今の時期は林檎のバターケーキだって。女学生にも人気で……そうそう、そこの制服がまたハイカラでね。その制服が着たいが為にそこで働きたいという子もいるそうだよ。もちろん、ご両親は猛反対だって。これからの時代、女性が外に出て働いたっていいと僕は思うけどね……」

 いや、そんなことはどうでもいいんだ。と、言って佐久間は誤魔化すように咳払いをした。

「……でも、制服が可愛いのは確かだよ。あの辺りは百貨店も近くて洋装のお嬢さんが多い、月ちゃんにもきっと似合うと思うんだけど」

 佐久間はこの頃、月子に洋装を勧めるようになった。

 動きやすいから、おしゃれが楽しくなるから。

 それでも、やっぱり和装が落ち着く。熱っぽく語る佐久間には申し訳なくて黙っていると、佐久間は何かを思い出したように手提げ袋を探った。


「今日は月ちゃんにこれも渡したかったんだ」

 取り出された小さな箱には、真鍮製の懐中時計だった。チクタクと規則正しい音が小さく聞こえてくる。手の平に収まるくらいの蓋には、丁寧で細やかな彫り物が施されている。

「綺麗……」

「懐中時計だよ。ベルトやバッグにつけてもいい。もちろん帯紐につけても」

「こんなすごいもの、いただけないわ」

 月子は慌てて箱に戻すと、佐久間はそっと月子の手を止めるように自分の手を重ねた。

「月ちゃんにあげたいんだ。いつも頑張ってる、僕の大事な妹に」

(……妹)

 佐久間のことは本当の兄のように慕っている。子どもの頃から、佐久間が本当のお兄さんだったらどんなに幸せかと星に祈ったこともある。

 それでも、この頃、佐久間に“妹”と言われるたびに胸の奥が痛むようになった。月子は佐久間に促されて、帯紐に括ってみた。少し重みを感じるが、いつもの着物が大人びて見えた。

「うん、可愛い。着物もかわいいけど、月ちゃんは洋装もきっと似合うと思う。動きやすいし。時代は変わろうとしてる。でも、大丈夫だよ。未来は明るいからね」

「ありがとう、大切にします」

 たくさん使ってね、と佐久間は満足そうに微笑んだ。

 佐久間の話していたカフェは意外と近場だった。ドアを開くと、カランと冷たい音がする。

 すぐに入口の女給さんから冷ややかな視線を投げかけられた。すぐにその理由にピンときた。その女性は、「いらっしゃい」と、とってつけたような笑顔で言うと、すぐに佐久間に視線を移した。まるで佐久間しか見えていないかのようだった。

「また来てって言ったのに、随分と間が空くじゃありませんか」

「そうかな。林檎のケーキはまだやってるかな」

「ええ、やってます。そちらは恋人?」

 女給はハッとするほど美しかった。猫みたいに気の強そうな瞳に、物憂げな涙黒子が滲んでいる。値踏みするような視線に居た堪れず、月子は視線を逸らした。

「月子っていうんだ。僕の妹のようなものさ、可愛いだろ?」

「ええ、本当に」

 女給はそれを聞くと途端に態度を変えた。月子にも見えやすいようにメニューを移動し、にこにこと注文を聞くと軽やかに厨房へと向かった。丸襟のワンピースにフリルのついたエプロン、背中の大きなリボンが西洋のドレスみたいで可愛らしかった。

 ケーキ、紅茶、珈琲を運んできた女給はさっきとはまた別の女給だった。黒目が大きくて、笑うと片方の頬に笑窪のできる。可愛らしい女性だった。佐久間と面識があるようで少し目配せをする。

「ごめんね、びっくりしたでしょう。ヨリちゃんは佐久間さんにお熱なの」

 月子にだけ聞こえるようにそっと耳打ちをする。ヨリちゃんとは涙黒子の女給のことらしい。彼女の視線がそう物語っていた。

「お熱?」

 月子が聞き返すと、その女給は小さな口を楽しげに綻ばせた。

「恋をしてるのよ」

「月ちゃん、見てごらん。美味そうだろう」

 白い皿の上には、こんがり焼き色のついた林檎のバターケーキ。綺麗に薄くスライスされた林檎が花びらのようで、月子はその美しさにもしばらく見惚れていた。佐久間はそんな月子を満足そうに見つめていた。慣れた手つきで珈琲の香りを楽しんでいる。

 フォークを慎重に差しても、ほろほろと崩れてしまう。品よく食べることは諦めて、子どもみたいに口を大きく開けて食べる。

「……美味しい!」

 林檎の甘酸っぱさと、バターのいい香りがふんわり口に広がる。藤宮家にも焼き菓子が届けられることもあるが、こんなに美味しいものがこの世にあるなんて知らなかった。

「でしょう? 月ちゃんに絶対食べさせたかったんだ」

 そう言って笑う佐久間の顔が本当に優しくて、月子は佐久間と一緒にいるたびに今が一番幸せなのかもしれないと感じる。

 月子はケーキが運ばれて五分も経たぬうちにペロリと食べてしまった。ゆったりと紅茶を飲みながら、この時間が永遠に続けばいいと願った。


 永遠に似た夢のような時間は過ぎて、佐久間とカフェを出た瞬間だった。空は嘘みたいに晴れているのに、痛いくらいに大粒の雨が降り注ぐ。

 月子が思わず悲鳴を上げると、佐久間は着ていた羽織で月子の頭を少し乱暴に包んだ。視線を合わせて、少年みたいに笑う。こんな佐久間は久しぶりに見た。思わず、月子もつられて笑う。

「月ちゃん、走ろう!」

 佐久間は嬉しそうに月子の手を取った。がっしりとしていて、少し冷たい手。心臓の音がうるさい。

 もし、この手の平を通して私の心臓の音が聞こえてしまったらどうしよう。


 ーーそうだ、私は佐久間さんに恋をしているのだ。