期限付きの婚約者

 ーーこの世に未練なんて、ただのひとつもない。

 町の外れ、うら淋しいこの道を通る人もきっといないだろう。湿った土の香り、木々の葉の擦れる音、しばらく続いた雨のせいで水かさの増した川の流れる音が恐ろしいくらいに響いている。

 普段ならこんな山奥に、それも薄暗いこの時分に一人で出歩くことなんてなかった。まだ寒さの残る春のはじめ、小さな手が震えるのは怖さのせいではなかった。

 少女は橋の袂で立ち止まる。ここまでどうやって歩いてきたのか、夢中になりすぎてひとつも覚えていない。

 ただただ、ひとつの目的のために。

 まだあどけなさの残る横顔は青褪めていて、諦めにも似た絶望が滲んでいた。

 少女は来た道を振り返る。薄く靄がかかりはじめていた。擦り切れた草履、泥跳ねのついた着物の裾を見て、少女の顔は一瞬曇った。

 着古した灰梅色の着物は、まだ藤宮家が栄えていた頃に誂えたものだった。少女は目を細めて、着ていた着物を慈しむように撫でた。

「……ごめんね」

 死ぬときくらい、好きな色の好きな着物を自分に着せてあげたかった。誰が見てくれるというわけでもないのだけれど。

 胸元に仕舞ったままの文を取り出す。遺書のつもりで用意したものだったが、誰に宛てるべきなのか、何を書き残すべきか悩んでいるうちに夜が明けてしまった。

 明け方にカラスが狂ったように鳴いたのを聞いて、いよいよ決心は確かなものになった。
 
 "藤宮 月子"

 それでもせめて名前だけは、となんとか書き残したのだった。所々は滲んでいて、まだ墨の香りが残っている。

 少女は躊躇いなく、遺書となるはずだった文を破り捨てた。一際強い風が吹く。ビリビリに千切った文が空高く舞い上がって、まるで桜の花弁のようにひらひらと舞う。


 ーー来世ではきっと、今より幸せになってね。 

 また新しい涙が頬を伝った。

 渦巻いていたはずの恨み辛みは不思議と消えていた。心が暗くて重くて、自分自身がきっと真っ黒な獣のようになってしまったのではないかと、恐ろしくて手鏡を覗き込むこともできなかった。

 向こう側に見えるそれは、もう私ではないかもしれないから。

 何より、一刻も早くこの苦しみから解放されたかった。あの日からずっと、涙が次から次へと溢れてしまって上手く息ができない。打ち上げられた魚のように喘ぐばかりだった。


(涙が枯れるなんて、嘘ばっかりね)


 私はどこか壊れてしまったのかもしれない。でも、もうどうでもいいこと。


 少女はゆっくりと、薄闇の中に身を委ねた。