これは、無才姫として生まれたわたしが、国家最凶と謳われる氷の退魔将さまに愛されて幸せになるまでの物語。
*
「華、さっきはすごかったぞ……! また一段と無効化の才の扱いがうまくなったんじゃないか?」
「生まれ持った力だけにかまけず、日々、鍛錬も重ねていて華はえらいわね。わたくしたち夫婦の自慢の娘よ」
「ありがとう、お父さま、お母さま‼ あたくし、素敵な殿方と婚約できるかしら? 退魔庁勤めで、才に恵まれた、かっこいいお方がいいわ!」
「もちろん!! 容姿、愛嬌、なにより才の力が申し分ない。お前は鎮宮の誇りだ、華」
「そろそろ十六歳だものね。もうじき良い縁談の話がやってくるはずよ」
お父さまとお母さまが妹の華を褒めるたびに、いたたまれない気持ちになる。
この家の姫は、華だけだ。
無才のわたしは、数に入れてもらえなかった。
三人の会話に気を取られたせいで、膳を下げる動作がすこしだけ遅れた。
「灯お姉さま、なぁに? なにか言いたいことでもあるの?」
まずい、失敗した。
「……早く出ていきなさい」
「穢らわしい。わたくしたちにまで、無才がうつったらどうしてくれるの?」
「……申し訳ごさいません」
急いで膳を引き下げ、この場から退散する。
三人にとっては、わたしと同じ空気を吸うことも苦痛なのだろう。
でも、それも仕方のないこと。
ここ日の国では、持って生まれた才がすべて。才とは、そのひとにしか使えない、特別な力のことだ。
そのなかでわたし――鎮宮灯は、なんの才も持たぬ無才として生まれてきた。
名家に、無才の子は、めったに生まれないという。
ただし、わたしと華のように、双子であれば話は別。双子の片割れが無才であることは、そう珍しくないらしい。
無才は、神に愛されなかった証だという。その逆恨みで、家に災いをもたらす凶兆だとも。
つまりわたしは、鎮宮家の醜聞そのものなのだ。
井戸端に置かれた桶に水を汲み、膳を洗う。
冬は、この作業が地味にしんどい。
使い古した継ぎ接ぎの着物では、寒風をまともにしのげない。冷えきった水も手につきんとしみて、指先の感覚がなくなる。
それでも、仕事を与えてもらえるだけ、感謝しなければ。
せめて、生かしておく価値はあると認識されなければ、本当に捨てられてしまうかもしれないから……。
「ねえ、もう聞いた? 華都の近くで、また禍が発生したらしいよ。ずいぶんな大きさだったらしい」
「ええっ、物騒だねえ。被害は出たのかい?」
「それが、ずいぶんな大禍だったのに、被害はなかったみたいなんだよ。なんでも、噂の化け物退魔将さまが瞬時に殲滅したんだとか」
下女たちの噂話は、希少な情報源だ。家の外に出ることを許されないわたしにとっては特に。
また、禍が発生したんだな。
禍とは、災害のようなものらしい。
詳しいことはなにも知らない。わたしに教えてくれるひとなんていないから。
それでも……、発生するたびに、みんなが不安そうな顔をしている。人の生き死に関わる大変なことみたいだ。
「退魔庁に勤めて、禍を収めてくれているのはありがたいけど……、化け物退魔将さまに関しては、ちょっとね」
「大量の魔の物を一人で相手にしておいて、傷ひとつ負ったことがないらしいねえ。あまりにも人間離れしているよ」
「顔がとてつもなく醜いから、顔をいつも覆面で隠しているんじゃないかっていうしね。魔の物と、退魔将さま。果たしてどっちが化け物と言えるのか……」
最近、禍の発生の噂と共に、化け物退魔将さまの噂もよく耳にする。
それも、怖い、冷たい、人間らしくないと散々な言われようだ。
大変な災いを収めているひとなのだから、もっとみんなから労われて然るべきだとわたしは思うけど……。
「あっ、無才姫だ」
「この寒いなか、毎日ご苦労なことだねぇ。無才のあの娘にはお似合いの仕事だけれど」
あの娘に関わらないに越したことはない、というように下女たちの足音が遠ざかっていく。
鎮宮家が誇る無効化の才には及ばずとも、彼女たちも才を持つ者だからだろう。
わたしと関わりたくないのは、両親と妹だけではない。
ものごころついた頃から、この家で一番きつい雑事は常にわたしの仕事だ。
これも全部、仕方がない。
仕方がないこと……、なんだ。
膳を洗いおえ、屋敷の中へ戻る。
雑巾を手に、床掃除にとりかかろうとしたそのとき、和室の中から華の叫び声が聞こえてきた。
「どうして!? なんで、あたくしが、化け物なんかと婚約しなくてはならないの……!!」
何事……?
華が癇癪を起こしていること自体はそう珍しくないけど、化け物と婚約ってどういうこと?
雑巾がけをしながらも、部屋の中の様子が気になってたまらない。
「いくら退魔庁勤めだからって、化け物との婚約だけは受け入れられないわ! 人前では絶対に覆面を外さないという噂で持ちきりだし、きっと、見るに値しないほどお顔が醜いのよ!! ああ、そんなかたに嫁ぐなんて、おぞましい……」
「華……」
「そんなひとに嫁入りしたら、魔の物と間違えられて、殺されてしまうかもしれないわ」
「いやっ!! 唯一の我が子を失うなんて耐えられないわ……! でも……、国家直属の退魔庁からの申し出を断るわけにはっ! お父さま、どうしましょう」
「二人とも、落ちつきなさい」
「どうやって落ちつけって言うの!?」
いままで聞いたこともないほど焦っている華に、お父さまは短く告げた。
「……灯だ」
背筋が、ぞくりと震える。
記憶している限りで、わたしは家族の会話へまともに加われたことはない。
お父さまから久しぶりに名前を呼んでいただけたと思ったら、こんな形だなんて……。
「退魔庁からの命は、鎮宮の娘を氷室家に嫁がせよというだけ。そうだ。最初から、華に限定した話ではない」
「なぁんだ。灯を生贄……、いえ、嫁に差し出せばいいだけの話じゃないですか」
「も〜〜〜、びっくりしたぁ! 驚かせないでよ。お父さまったら、なぜ最初にそれを言わないの?」
「すまない……。華は退魔庁勤めの男との婚約を望んでいたから、良い話だと勘違いしまったんだ。私が噂に疎かったあまり、二人に変な心労をかけたね」
雑巾を持ったまま、立ち尽くして動けなくなる。身震いがするのは、冬の寒さが単に身体に触ったからではない。
わたしが不在の中で、わたしの嫁入り話がとんとん拍子に進んだ。
部屋に入って、確認しなおす気も起こらなかった。
拒否権など、存在するわけがないから。
その夜、お父さまの自室へと呼び出されたわたしは、「氷室家に嫁げ」と単刀直入に命じられた。
わかっていたことなので、驚きはしない。
今までどおりに、粛々と受け入れることこそがこの場での正解。
無駄な抵抗をしたところで、もっと痛い目に遭うだけだから。
「承知いたしました」
「おめでとう、灯。きっと素敵な殿方に違いないよ」
お父さまの笑顔を見たのは、無才が発覚するよりも前の、幼い頃以来かもしれない。
この笑顔が、化け物のような男に嫁がされることも知らぬ、無知なわたしを嘲笑ってのものだとしてもうれしかった。
こんな形だけれども、鎮宮家の役に立つことができたということに変わりはないから。
誰かのもとに嫁ぐなんて昨日まで考えたこともなかったけど、こうして、わたしの嫁入りが決まったのだった。
✳︎
氷室家に向かう日の朝は、いつもよりも早く目覚めた。まだ日も昇っておらず、夜のように暗い。
午後には家の外に発つなんて、いまだに信じがたい気持ちだ。
嫁ぐ先がどれほど恐ろしい相手であっても、家の外に出られること自体は純粋にうれしい。外の世界がどうなっているのか、ずっと気になっていたから。
鎮宮家には、わたしとの別れを惜しむ人間などもちろんいない。
でも……、人間以外であれば、わたしにもあいさつしておきたい相手がいる。
(おはよう、灯。ごはんをくれにきたの?)
(灯、いつもより起きるのが早いね)
(また、あの家のひとたちにひどいことされたの? 大丈夫……?)
庭までやってきて池をのぞくようにしゃがみこむと、鯉たちがたくさん寄ってくる。
この子たちは、わたしの唯一の心の支え。
大事な友達なんだ。
(おはよう、みんな。昨晩は、珍しく豪華なご飯をいただけたの。おすそわけするね)
昨夜、嫁入りの祝いだと言って、膳に盛られた白米を包みから取り出す。
人生で初めて味わった。ほんのすこしだけど、なぜか泣きそうになった。
たとえ、お父さまとお母さまと華の本音が、都合の良い身代わりになったことへの感謝でしかなかったとしても、誰かと一緒に食べるご飯はいつもよりあたたかく感じられた。
残すのはいけないことだとわかってはいたけど、みんなにも味わってほしかったから、こっそり残しておいたんだよね。
(なにこれ……! 灯、これ美味しいね!)
(もちもち〜〜! あまいねえ)
(灯は、おなかいっぱいになったの?)
(すごくおいしかったから、みんなにも食べてほしかったの! わたしも初めて食べたんだ。喜んでもらえてよかった〜)
うれしそうに跳ねまわっているみんなを眺めていたら、簡単には会えなくなることが急にさびしくなってきた。
(実はね……、今日は、みんなにお別れを言いにやってきたんだ)
ぴたりと、みんなの動きが止まる。
(どういうこと?)
(結婚することが決まったの。このお家を出るんだよ)
(けっこん!? って……なにそれ?)
(別のところで、男のひとと、一緒に住むことになったの)
(そうなの? そのひとは、灯にやさしい?)
不意をつかれて、すぐには答えられなかった。
ここで正直に、噂ではすごく怖いひとみたい、と答えたらみんなに心配をかけてしまうかも……。
(うん。きっと、やさしくしてくれるって、わたしは信じてる。みんな、いままで本当にありがとうね)
もうすこしみんなとのお別れを惜しんでいたかったけど、背後から聞こえてきた足音によって遮られた。
「お姉さま、また鯉なんかに餌をやっていたの?」
華だ。
華は、池にしゃがみこむわたしを見下ろしながら、鼻でふっと笑った。
「ああ、ただ餌をやっているわけじゃないんだっけ? お姉さまの頭のなかでは、その鯉たちとお話しできているんだものね」
頭から、思いっきり冷や水を浴びせかけられたようだ。
さっきまで多少寒いのも全然平気だったはずなのに、急に、溺れてしまったような息苦しさを覚えた。
あらゆる罵倒に対して、もうすっかり慣れたつもりでいたけれど……、これだけはいつまで経っても耐性がつかない。
わたしにとって、動物と意思疎通できるのは、ものごころついた頃から自然なことだった。
でも、あるときに、人間と動物とは普通は話せないということに気がついた。
無才だと言われ続けていたわたしにも、才と呼べるものがあったのだと、そのときは思った。
他人の才の力を打ち消す無効化の力には到底及ばないささやかな力だけれど、お父さまとお母さまに褒めてもらえるかもしれない。すくなくとも、無才――厄災をもたらす不吉な子ではなくてよかったと。
そんな喜びと安堵の気持ちは、次の華の一言によって、粉々に粉砕された。
『動物と話せるですって? お姉さま……。無効化の力がいつまでも自分にだけ発現しないからって、なんて痛々しいの』
『えっ』
『動物と話せるだなんて、そんな才、いままで聞いたこともないわ。自分の無才を認めたくないから、話せているフリをしているだけなんでしょう? おかわいそうに』
華は、わたしが動物と話せているという事実や、わたしの頭の中だけの妄想だと断言したのだ。
そうは思っていないけど、否定しきれない自分もいた。
無才であることが苦しくて、どうにかひとに認めてほしいあまり、動物と話せる自分を演じているのではないのかと。
さびしさのあまり、みんなと話せていると思いこんでしまっただけではないかと。
この能力が存在することは、誰にも証明しようがない。
他人にどころか、自分自身さえも。
「旦那さまには、そんな妄言を吐いたりしたらダメよ? 早々に呆れられちゃうわ」
「……はい」
ただの妄想だとは思っていないけれど、もとより、そのつもりだ。
他人に証明できない才は、ないものとみなされる。
幼い頃、華に指摘されてそう気がついてしまったから、お父さまとお母さまにも話せなかった。
「お姉さま、せいぜい旦那さまに嫌われないように頑張ってね。うっかり機嫌を損ねようものなら、氷漬けにされちゃうかもしれないけど」
上機嫌そうに屋敷のほうへと帰っていくその背を見つめたあと、わたしも外に発つ支度をするために戻った。
*
生まれて初めて、上等な着物を身につけて、顔にも白粉を塗ってもらった。
みすぼらしい娘がやってきた、とすぐに氷室家から破談にされるのも困るからだろう。
わたしとしても、早々に突き返されたくはない。こうなった以上、鎮宮家に戻るのは難しいだろうし……。
どうにかして、旦那さまとなるおかたに有用だと認めてもらわなければ。
両親と形式上の別れの言葉を交わして、わたしは退魔庁からの迎えの車に乗りこんだ。
「灯さま、このたびはご結婚おめでとうございます」
「ありがとうございます」
氷室家の敷地は、日の国の中心、華都の中にあるという。
鎮宮家からは、屋根付きの車で二時間ほど。
鎮宮も名家だとは聞いていたけど、金銭的に華都にはとても屋敷など建てられないとお父さまたちがこぼしていたのを思い出す。
退魔庁勤めの事務官の男のひとが、無言を気まずいと思ったのか、話をふってくれた。
「灯さまは、氷室朔さまについてどの程度、ご存じなんですか?」
「ええと……恥ずかしながら、ほとんどなにも」
「仕方のないことです。あのお方は、同じ退魔庁勤めの人間に対してすら、謎多きお方なので」
「あの……。お尋ねしても、よろしいですか?」
「はい、もちろんです!」
「実は、この婚姻の目的について、わたしは詳しいことをうかがっていないんです。粗相のないように、おわかりの範囲で教えていただきたいのですが」
氷室家がどのような家格に位置するのかわかっていないけれど、華都に屋敷を構えられるというのだから鎮宮よりも相当上の家格のはずだ。
昨日の三人の会話を思い出す限り、退魔庁からの申し出は断れないと言っていたような気がするけど……。
早々に切り捨てられないためにも、目的は把握しておきたい。
彼は、一瞬きょとんとしていたように見えたけど、すぐに視線を伏せた。
「すこし言いづらい話になるのですが……、よろしいでしょうか」
「もちろん」
間髪入れずにこたえたわたしに、彼はそっと微笑んだ。
「灯さまは、芯の強いおかたですね。名家のお姫さまとは思えないくらい」
それは姫扱いなどされてこなかったからだと思ったけれど、口にはしなかった。
この穏やかでやさしい彼の態度も、わたしが無才だと知った瞬間に一変するのかもしれないと思うと、なんともいえない気持ちになる。
「氷室さまは、いまの退魔庁にとって、なくてはならない存在です。まだ十八歳とお若いにも関わらず、最近発生したほとんどの禍を、彼が隊長として率いた軍が殲滅しています。本人はそうは言いませんが、従軍した者の話を聞く限りでは、彼お一人の力で魔の物を葬り去っているんだとか」
「……とても、強いお方なのですね」
「はい、別格なのです。退魔庁は、その類稀なる才が、彼の一代で失われることを危惧しています。……つまりは、世継ぎの件です。その才を後世にも引き継がせたということです」
なるほど。
結婚するのだから、そういう考えもすこしは頭にのぼった。
「でも……、それだけお強く、立場もあるおかたであれば、それこそ鎮宮以上の名家からの縁談の話が尽きないのでは」
彼はすこし言いづらそうにしたけど、わたしがじっと見つめていたら、ぽつりとこぼした。
「……氷室さまは、女嫌いなのです」
胸の奥が、すっと冷える。
「女嫌い……というと?」
「女、というか……。性別を問わず、そもそも、めったに心を開かないおひとなので。本来、魔の物との戦闘時にのみ使用する防護覆面を、なぜか戦闘時以外も身につけていらっしゃいます。頑なに外さないので、顔をひとに見せることに、恐怖心があるのではないかという噂です。そんなお方がふつうに暮らしていて、縁談の話を受けるとお思いですか?」
「それは……、なさそうかも」
「そうなのです。今回のことは、このままでは生涯独身確定だと危惧した退魔庁の判断となります。さすがの氷室さまも、退魔庁の命令には逆らえなかったようで」
わたしは、どんな形であれ、捨てられさえしなければ合格だと思っていた。
でも、彼がそんなにもひと嫌いならば、努力ではどうにもならないということ……?
不安で失ったわたしに、彼は慌てて言い足した。
「それでも……、僕は、氷室さまに尊敬の念をいだいていますよ」
「そうなのですか?」
「氷室さまは隊長でありながら、先陣を切って、自らの危険を顧みずに戦うお方です。氷室さまが退魔庁にいてくれているからこそ、いまの日の国の安寧が保たれているのだと思います」
怖いけれども、それだけのひとではないのかもしれない。
胸にかすかな希望の光が灯ったそのとき、車の揺れが止まった。
どうやら、氷室家の敷地に着いたようだ。
ひととこんなに長く会話をしたのが久しぶりだったからか、あっという間の時間に感じた。
「灯さま。どうか、氷室さまとお幸せになってください」
「ありがとうございます」
*
氷室家の屋敷は、華都の中心にあるとは思えないほど静かだった。
豪奢さよりも、無駄のない造りが目につく。
華が見たら『なにこの地味な屋敷!』と文句のひとつでもいいそうだけれど、わたしはひそかに安堵した。見るからに立派で、権威を主張するような造りであるほど、自分の不相応さを実感することがわかりきっているから。
「ご主人さま、花嫁さまがやってまいりました」
案内をしていただいた下女のかたにつづいて、緊張しながら和室のなかへ足を踏み入れる。
彼は、殺風景な和室の中心で、筆を手に取りながら机に向かっていた。噂に聞いていたとおり、黒い覆面を身につけていて、顔のほとんどを隠している。
顔をあげてこちらに視線を向けようともしない彼の態度に、胸がちくりと痛んだ。
もしかすると、彼の耳にもすでに、わたしが無才のほうの不吉な娘だということが入ってしまったのかもしれない……。
早くも折れそうになる心をどうにか奮いたたせて、目の前の氷室さまへご挨拶をする。
「初めまして、鎮宮灯と申します。いえ……、これからは氷室灯となるのでしたね。旦那さま、よろしくお願いいたします」
「……黙れ」
苛立ちを含んでいるような低い声に、心臓が嫌な風に跳ねる。
「早く出ていってくれ」
次に向けられた明確な拒絶の言葉に、抱いていた不安が大きくなる。
わたしをここに連れてきてくれた下女のかたも、彼のあんまりな態度にハッとしていた。しかし、この家では彼への服従が絶対なのだろう。気まずそうに、顔を下げている。
わかっていた。
どこにいっても、わたしが歓迎されることはないのだと、覚悟はしていたけれど……。
新しい場所に行ってもなにも変わらないのだという絶望が、胸へ静かに重くのしかかる。
「……承知いたしました」
反射的に頭を下げ、背中を向けた、そのときだった。
「待て」
低い声が、わたしの足を縫いとめる。
「勘違いするな。俺がお前を望んだわけじゃない。退魔庁が勝手に決めたことだ」
机に落ちたままの視線。抑えた声音。
沈黙の作りだす気まずさに耐えて、彼の次の言葉を待つ。
「つまり……、妻の役目だとか、仲睦まじい夫婦だとか、そういうものは求めない」
「……それは、わたしがこの家に不要という意味ですか?」
声がかすれそうになりながらも問うと、彼は、はっきりと答えた。
「不要なら、ここまで連れて来させない」
息が、止まりそうになる。
「退魔庁の命に逆らう気はない。婚姻が解消されたら困る。……つまり、お前は必要だ」
必要……なんだ。
衝撃のあまり返事をできずにいたら、氷室さまはたどたどしく言葉を続けた。
「条件を言おう」
彼は筆を置き、ようやく……ほんのわずかだけれども、こちらへ顔を向けた。黒い覆面からは表情など読み取れるはずもない。
それでも、顔の横を流れる銀色の髪はとても美しく、思わず目を奪われた。
いままで見たこともないような髪の色だ。月の光を編んで紡いだみたい。
「この家に住め。……だが、俺には近づくな」
「はい」
「……とにかく、互いに干渉をしないこと」
「承知しました」
「以上。……金には、不自由させない」
彼は、これ以上なにも話す気はないというように、また書き物をはじめた。
仕事の邪魔になるのもいけないと思い、一礼をしてから和室を出る。
すると、続けて部屋を出てきた下女のかたが、慌てたようにわたしへ声をかけてきた。
「灯さま、そう気落ちなさらないでください」
「えっ?」
「ご主人さまは、誰に対しても一貫してああいうかたです。……怖いと思われましたよね?」
怖い、か。
考えてみたけれど、その感情はあまりしっくりこなかった。
それよりも、わたしは……、
「いえ。どちらかというと、安心しました」
「ええっ?」
「すくなくとも、すぐにここから追い返されるような雰囲気はありませんでした。それだけで、わたしにとっては充分すぎるほど光栄です」
「灯さま……」
名家の娘らしい考え方じゃないから、驚いているのかもしれない。
それでも、わたしの紛うことなき本音だ。
これが、氷室朔さまとわたしの出会いだった。
✳︎✳︎✳︎
(side氷室朔)
禍。
即ち、魔の物による襲撃は、日の国の民にとって日常的に起こる災害のようなもの。
退魔庁は、魔の物との戦闘に活きる才を持つ人間を集め、訓練し、禍を鎮圧するための組織。
そして、俺――氷室朔は、その退魔庁の所有物のようなもの。
「後ろに下がれ。俺が出る」
「しかし……っ、見たこともないほどの大群ですよ!」
「問題ない」
部下を下がらせ、おびただしい数の魔の物の前に出る。
魔の物の造形はさまざまだ。触手のようなものが生えていたり、図体が大量の目ん玉に囲まれていたり。共通するのは、本能的な恐怖を呼び起こすような外見であること。
総じて理性をなくしており、人間を見ると襲わずにはいられない。
「ぁあぁあああぁああああ」
奇妙な叫び声を発生しながら俺に群がってくる魔の物たちへ、精神統一しながら腕をかかげる。
「氷滅」
その一瞬で、全ての魔の物たちの動きが、時間を止められたように固まった。
凍り漬けにした直後、全てを粉々に粉砕する。
あとに残るのは、尋常でない冷気と、舞い散る氷の礫だけ。
「やべえ……」
「……何度見ても、すごすぎて理解がおいつかないよな」
魔の物を殲滅するために与えられた才だと思えば都合が良いが、たまに考えてしまう。
俺自身は、魔の物と、本質的にどう違うのだろう。
たまたま生まれが人間だったというだけで、理性がなくなってしまえば、魔の物と変わらないのではないか。
考えだすと底なし沼にはまってしまう。だから、目を背けるように、今日も魔の物を葬り去る。
その瞬間だけが、まだ己は人間であると実感させてくれるから。
禍を鎮圧し、退魔庁へ戻ってすぐ、与えられている個室に引きこもる。
仕事道具しか置いていない殺風景な部屋だが、退魔庁ではここで過ごす時間が一番長い。隊長に出世したことで一番有用だった褒賞が、庁内に個室を与えられたことだろう。
疲れがどっと押し寄せたせいか、椅子に腰かけた瞬間に息苦しさを感じて、防護覆面を外した。
素肌に触れる空気の心地よさに浸っていたら、思わぬ来訪者が現れた。
「入るぞ」
思わぬ……といっても、俺の許可なしにこの部屋へずけずけと入ってくる人間は、一人くらいしかいない。
久世恒一。
俺の上官であり、兄であり、親代わりでもあるような男だ。
恒一は、俺の顔を見たとたん、大げさにまばたきをした。
「お前の顔、久しぶりに見たわ。相変わらず、腹立つくらいに美しいな。お前が女だったら、国が傾くぞ」
「…………」
「まあ、愛らしさでは、オレの嫁のほうが勝ってるけど!」
付け加えると、恒一は嫁馬鹿だ。
呼吸をするように嫁自慢をしてくる。
「なあ。そろそろ、その覆面をはずして生活したらどうだ? いままで、化け物退魔将だなんだと好き勝手言っていた失礼な連中が、全員そろって手のひらを返すぞ」
「……断る」
「頑なだなぁ」
「なんとでも言え。嫌なものは嫌だ」
「理由を聞いても?」
「……よく知らない人間の視線は、怖い」
ひとの視線は、思い出したくない過去を彷彿とさせる。
『信じられない……。あんな幼子が、たった一人であの魔の物の大群を消してしまったなんて』
村のどこにいっても、恐怖の視線を向けられた。俺のことを人間として見ているひとはいなかったんじゃないかと思う。
恒一には、この感覚は理解しがたいものらしい。納得のいっていない顔つきだ。
「視線が怖いって……。魔の物にはあれだけ近づいても大丈夫なのに?」
「あれは、ひととは違う」
魔の物に対して平常心を保っていられるのは、あれらには心が存在しないと断言できるからなのだろう。
「ふぅん。ま、無理強いはしないけど……。さすがに、嫁さんの前でははずしてるんだろ?」
「…………」
「その無言、まさかお前……」
「退魔庁の命には背いていない。ほうっておいてくれ」
鎮宮灯。
退魔庁の都合で、ひととしてのなにかを致命的に失っている俺と婚約させられた、かわいそうな人間。
決して、彼女に不幸になってほしいわけではない。
でも、どうせ俺には愛など一生わからないから、最初から期待をすることのないように釘をさしたのだ。
「嫁さんはどんな子なの?」
これには、はっきりと答えられる。
「変わっている」
俺は、初対面でいきなり、彼女に嫌われるような言動しかしていない。その自覚はさすがにある。
それにも関わらず、彼女は、下女に俺が怖いかと聞かれたときに否定した。
妙なことを言う女だ。
「ふははっ」
「……なぜ笑う」
「いや? お前が誰かに対して感想を述べるのなんて、久しぶりに聞いたなと思って。大体いつも無関心で記憶にもないだろう」
「そんな、ことは……」
言いかけながら、最近の他人との関わりを考えなおしてみる。
たしかに、恒一以外の誰ともまともに関わっていないから、感想が出てきようもない。そもそも関わろうとも思っていないし。
認めるのは悔しいが、鎮宮灯と話した以外の記憶は出てこない。
そういえば彼女は、俺の珍しい髪の色を見て、どう思っただろうか。覆面越しにも視線を感じたけれど……。
日の国では、黒髪の人間が大多数。
まれに金や赤など、珍しい色の人間も見かけるが、統計的には才の力が強い人間に現れるのではないかと言われている。
俺は、自分以外に、銀の髪の人間には出会ったことがない。
「……髪の色」
「ん?」
「どうせ、気味が悪いと思われている」
恒一は、俺のことをじろじろと眺めながら、ふっと笑った。
「お前が他人からの印象を気にするようになるなんてめでたいな。次にお前が学ぶべきことは、他人の心のうちを決めつけないということだ」
「……は?」
「そのために、俺ら人間には言葉があるんだろう。最強の退魔将殿」
片目をつぶってへらりと笑われた。思わず、顔をしかめる。
なにが、言葉があるだ。
俺を退魔庁に連れてきた張本人である恒一は例外だが、いままで俺の言葉をまともに受け止めようとする人間などいなかったじゃないか。
嫁とはいえ、所詮はただの他人。最初から線引きしておくに越したことはない。
✳︎✳︎✳︎
(灯side)
氷室家で暮らしはじめて七日ほど。
ここ最近のわたしの悩みの種は、中々、ひとの役に立てないということだ。
「奥さま……!! わたくしどもの仕事を勝手に代らないでくださいと何度お伝えしたらわかってくださるんですか!?」
「で、でも……。わたし、なにかさせてもらえないと落ちつかないんです」
「あなたには、退魔庁最強と謳われる氷室さまの奥さまであるという自覚が足りていません。灯さまにそのような雑事をさせていると判明したら、旦那さまにどんな顔をされるか……!」
「あのおかたは、一切気にしないと思うけど」
彼のわたしへの徹底した無関心ぶりを思い出したのだろう。
下女のかたは一瞬気まずそうな顔をしたあと、仕切りなおすように咳払いをした。
「ひとの噂話には戸を立てられないというでしょう。氷室家の嫁は散々な扱いを受けているという噂がどこかから漏れようものなら、まわりまわって旦那さまの名誉にも傷がつきかねません。わかりましたか?」
それは大変だ。
なにも言われていないからといって、それが許されている証だとは限らない。
もはや、見捨てようとすら思わないほど、わたしの存在を意識していないだけなのかも……。
「わかりました。……気をつけます」
旦那さまとは、初対面のとき以来、全く話していない。
そもそも、働きに外に出ている時間が長いこともある。禍の鎮圧のほとんどに駆り出されているんじゃないかと思うほど。そんなに働き詰めでは体調に差し障るんじゃないかと心配になるけれど、下女のかたたちのお話だと、以前からずっとそんな生活を続けていらっしゃるらしい。
ちなみに休日は、ずっと自室にいらっしゃった。
その日も彼の言いつけどおり、とにかく干渉しないように気をつけていた。命に従うことこそが、最善だと思ったのだ。
でも……、この家の人たちは、怖くなるほどわたしになにも求めてこない。
言いつけどおりに、このままなにもせずにいていいのか? という不安がふくれあがる。
せめて、なにかひとつでも旦那さまのお役にたたなければここにいる資格がないんじゃないか。
「……あの、お願いがあります」
そう切り出したわたしの声は、思ったよりも落ちついていた。
*
「灯さま。旦那さまはこのことをご存知なのですよね……?」
「いえ、知らせてはいません」
下女のかたが驚愕からか言葉を失ってしまったため、慌てて言いつのる。
「旦那さまには、わたしの独断だとお伝えするので、心配はしないでください。ご迷惑はおかけしません」
彼女をなだめるように言いきったところで、襖が開いた。
旦那さまだ。寝る前ですら、覆面を身につけているらしい。
表情は読みとれないけど、わたしと下女のかたと自分の寝屋に広がる二つの布団とを見つめて、思考しているようだ。
三者の長い沈黙のあと、彼は短く言った。
「……なぜ、俺の寝屋にお前たちがいる?」
低く、苛立っているような声に、下女のかたがあからさまに恐れ慄く。
当然の疑問だ。
これは、わたしの判断で勝手にしたことだから。
「勝手なことをして申し訳ございません。すべてわたしの独断です」
彼は無言のまま、わたしをじっと見つめている。下女のかたは、「失礼いたします」と告げて足早に去っていった。
鎮宮家では、なにを話しても無駄なのだと諦める瞬間ばかりだった。
でも、氷室さまからは、そのような気配を感じない。
すくなくとも聞く耳は持ってもらえていることに安堵して、話をつづける。
「わたしがここにきてから、七日が経ちました。わたしはまだなんの役にも立てておりません」
「……ここにいるだけでいいと、最初に告げたはずだが」
「お願いです。どうか、わたしに、ここにいてもいいと思える役目をお与えください。こんなに恵まれた暮らしをさせていただいて、なにもしないわけにはいきません」
深く、頭を下げる。
この切実な思いが、どうか彼へ届くように。
「この婚姻の目的は、世継ぎを遺すことであったはず。どうぞ、そのために遠慮なくわたしを使ってくださいませ」
沈黙が、異常に長く感じられた。
間違ったことは、言っていないはずだ。
それでも、いま目の前の彼がなにを考えているのかわからなくて、胸のうちがひたひたと不安の波にひたされる。
やはり、わたしでは、その役目すらも果たせないのだろうか。
身代わりの姫であるという真実を知って、扱いに困っているのだろうか。
目頭が熱い。せりあがってきそうになる涙を、必死に抑えこむ。
「……それとも、無才のわたしでは、その役にもたてませんか?」
「…………は?」
驚いているような反応を見て、知らなかったのだとわかった。
でも……、どちらにせよ、これ以上隠してはおけなかった。罪悪感に押しぶされそうで。
「……黙っていて、申し訳ございませんでした。わたしには、才と呼べるものがないのです。才は、子に引き継がれることが多いと耳にしたことがございます。旦那さまは……わたしの無才が、子にも引き継がれることを危惧していらっしゃるのですか?」
「違う」
その否定は、きっぱりとわたしの呪詛のような言葉を斬った。
驚いて、弾かれたように顔をあげたら、彼はたどたどしく告げた。
「まずは、謝る。……すまない。お前の身の上を、あまりにも知ろうとしなかった」
「そんな……! 鎮宮家の娘だと聞いたら、ふつうは調べようともしません。才があって、当然でしょう」
「……無才、なのか」
彼は、考えこむように言葉を区切った。
それから、ぽつりと口にした。
「……俺は、才の有無には頓着しない」
「えっ」
「だから……、その……勘違いをするな。才があっても、なくても……、お前に家から出ていかれたら困るのは、変わらない」
その言葉は、風に吹かれたら消えてしまいそうなほど、小さく頼らない声だった。
でも……、わたしの胸にすとんと落ちて、それまでの不安を全てかき消すほどの衝撃があった。
心臓がとくんと音を立てる。
無才でもかまわないと、こんなにもはっきりと言葉にされたのは、生まれてはじめてだ。
今度は感極まって泣きそうになったら、彼は、覆面をつけていてもわかるほどにうろたえだした。
「な、泣くなっ」
「ご、ごめんなさい……っ。あまりにも……、うれしすぎて」
「うれしい……?」
「はい……! そんな風に言ってくださったのは、あなたが初めてです。ありがとうございます」
氷室さまは、ふっと笑った。
彼の笑い声を初めて聞いた気がする。
「俺はもう寝る。……お前も、自分の部屋に帰れ」
「でも」
「……そもそも、自分がなにをしようとしていたかも、明確にわかっていないのでは?」
痛いところをつかれてしまった。
わたしの表情で察したのか、彼は呆れたようにため息をついている。
ここで嘘をついても仕方がないので、素直に謝ろう。
「申し訳ございません。教えていただけませんか?」
「…………嫌だ」
「どうしてですか」
「どうしても」
彼はこれ以上話す気はないというように、布団のうえへ身体を横たえた。
教えてくれる気が一切ないその態度に首をかしげていたら、氷室さまはまた単語を発した。
「朝餉」
「えっ?」
「明日の朝、一階の和室にこい」
「朝餉をともにさせていただいてもよろしいのですか!?」
飛び上がりそうなほど驚いて食いつけば、眠たそうな声が返ってくる。
「気が変わった。……お前とは、もうすこし話をしたほうがよさそうだ」
すぐに寝息が聞こえてきたので、静かに寝屋を退散する。よほどお疲れだったみたいだ。
でも、よかったなぁ。
無才を打ちあけてから、こんな気持ちになったのは生まれて初めてだ。
当初の目的こそ果たせなかったものの、胸のうちがあたたかいもので満たされていた。
✳︎
「失礼いたします」
緊張しながら襖を開く。
「来たか」
一階の和室には、退魔庁の軍服をすでに身につけた氷室さまが畳に据えられた卓の前に正座していた。
軍服が似合っている。覆面で表情は相変わらずわからないけど、凛々しくて素敵だな。
いつまでも和室の敷居をまたごうとしないわたしを見て、彼は首をかしげた。
「……なぜ、こちらにこない?」
「えっ? ええと……その、同じ食卓につくのは、恐れ多いかと思い」
「早くこい」
「で、でも……」
「昨日勝手に寝屋に入りこんだ女が、今さらなにを言う」
うっ。
そもそも、誰かと一緒に食事をとること自体、慣れていない。まともに教わったこともないし、礼儀作法に粗相があったらどうしよう。
わたしの迷いを見抜いたかのように、彼は続けた。
「余計なことは考えなくていい」
「余計な、こと?」
「……お前が、今まで生きづらかったであろうことは、察しがつく」
わたしが無才であると知って、そんなことまで考えてくれていたんだ。
「それでも俺は……、お前には知っていてほしい。強い才を持ったところで、幸福にはなれない」
「氷室さま」
この国では、誰もが、才に恵まれることこそが幸運への道だと信じている。
でも……、目の前の彼の言葉には、深い実感のようなものが透けて見えた。
「……この話はもうしまいだ。わかったら、さっさとこっちへこい。せっかくの朝餉が冷める」
「は、はい」
卓の上には、見ているだけでお腹がなりそうなほど、美味しそうな朝餉が並んでいる。
ほかほかの湯気が出ている白米。鮭の塩焼き、豆腐とわかめの入った味噌汁、ほうれん草の胡麻和え。
実家では、昼まで食を与えられていなかった。朝からこんな贅沢をしたら、なにか罰でも当たるんじゃないかと恐れ多くなる。
「とても豪華ですね」
「実家では、どんなものを」
「ええと……恥ずかしながら、朝は、水を一杯飲んでやり過ごしておりました。昼になったら、粟を食べていたものです」
彼がせっかくの食事に手もつけず絶句しているので、慌てて言葉を足す。
「でも、父と母と妹は、このような朝餉をとっていましたよ」
鎮宮は本当に名家なのか、という疑念を晴らすために慌ててつけ加えたが、彼はぽつりと口にした。
「……狂っている。それほどまでに、才が重要なのか」
その低い声からは、静かな怒りが透けて見えたような気がした。
「氷室さま……?」
「朔だ」
「えっ?」
「……よく考えたら、もうじき籍をいれるのだからお前も氷室だろう。俺のことは、朔と呼べ」
それもそうか。夫婦になるのだから、名前で呼ぶのもきっと当たり前のこと。
それなのに……、なぜだかその名を口にしようとしたら、胸がそわそわとした。
「は、はい。……朔さま、とお呼びしますね」
「……………」
「朔さま?」
「……ああ。それでいい」
妙な間があったのは気になったけど、彼は、なにも言わずにそのまま覆面へ手をかけた。
もしかしてついに素顔が見られるのか、と胸が大きく高鳴る。
思わず凝視すると、現れたのは、すっとした顎と形の良い唇だった。どうやら口元の部分のみを外せる覆面らしい。
それなのに……、なぜだか色気のようなものを感じて、胸がドキッとしてしまう。
想像せずにはいられなかった。
朔さまは、もしかして……世間で謳われている『化け物』とは、真逆の容貌なのではないかと。
しかし、朔さまは、わたしの不躾な視線を別の意味で受け取っていた。
「なにをじろじろ見ている。……この髪の色が気になるのか?」
「えっ? ああ……」
言われて、視線を、彼の髪色へとうつす。
前にも思ったが、さらさらと流れる銀の髪にも艶がある。思わず見とれてしまうほど。
「銀の髪、珍しいですよね。お会いしたときから、とても綺麗だと思っていました」
「は……?」
「月の光を編んで紡いだみたいだなって」
彼が、急に沈黙したので、気に触ることを言ってしまっただろうかと不安になる。
「……そういうことを言うのは、やめろ」
「も、申し訳ございません!」
「違う! そうじゃ、なくて……いままで、これを褒められたことなどなかったから」
予想外の理由に、今度はこっちが言葉を失う。
「その……純粋に褒められると、調子が狂う。だから……、軽率にそういうことを言うな」
なぜだろう。鼓動が無性に速くなる。
世間では、最凶の化け物退魔将と謳われているかただけれども。
今、目の前にいる彼は、本当はかわいいひとなのではないか。
「ふふっ」
「なにがおかしい」
不機嫌そうな声も、以前までは怖いとしか思えなかったのに、今ではまったくそういう風に聞こえない。自然と口元がほころんでしまう。
「いえ。……いただきます」
やっと口をつけはじめた料理は、どれもすごく美味しかった。
食事自体が、日々戦闘にあけくれている朔さまのために考えつくされているという理由もあると思うけど、一番の理由は違う。
「一緒に食べるご飯、とても美味しいですね」
「……そう、だな」
朔さまと初めて一緒に食べた朝餉は、ずっと続けばいいのにと願うくらいに穏やかで幸せな時間だった。
(side氷室朔)
形ばかりの夫婦であること。
なるべく意思疎通をはからず、互いに干渉しあわないことこそが、最善だと思っていた。
でも……、彼女は、そんな俺の考えを吹き飛ばしてしまった。
『この婚姻の目的は、世継ぎを遺すことであったはず。どうぞ、そのために遠慮なくわたしを使ってくださいませ』
『……それとも、無才のわたしでは、その役にもたてませんか?』
あの夜、彼女にああ言わせてしまった瞬間、俺は今までひそかに抱いてきた違和感を放置していたことを後悔した。
彼女は、氷室家に来てから、まるで自分が下女の一員であるかのように振る舞った。なにか雑事をしていないと落ちつかないかのような動きに見えた。下女たちから『もっとご主人さまの奥さまであるという自覚を持て』と口酸っぱく言われている場面も見かけている。
退魔庁から鎮宮はそこそこの名家だと聞いていたにも関わらず、彼女は、到底そうは思えないような行動ばかりしていた。
それでも、干渉しあわないと言いだしたのは自分だったし、口には出さないでいた。
そうして違和感に目をつぶったがゆえの、彼女のあの一言。
まるで、自分をただの道具だとでも考えていそうな、哀しい発言。
そして――名家に生まれながら、無才であったという事実。
役に立たなければ俺に捨てられるという壮絶な恐怖心が透けて見えた瞬間、俺は、自分を映し鏡で見ているかのようだと胸が締めつけられた。
俺自身も、役に立たなければ生きている意味がないと思い続けてきた人生だったから。
よく、恒一からも、呆れと心配半分ずつのため息をつかれていた。
『朔、いい加減に休んだらどうだ。そろそろ一か月休みを取っていないんじゃないか』
『……俺は大丈夫だ』
『なぜ、そうも働きたがるんだ。過労死するぞ』
『最悪そうなってもいい。俺がいなくなったところで、悲しむ者はいない』
誇張ではなく、事実だ。俺の帰りを、本心から待ち望む者はいない。
故郷に帰れば、化け物だと煙たがられる。実の両親にも恐れられていた。退魔庁に引き取ってもらえて厄介払いできたと話していたのを、たまたま聞いてしまったから単なる思い込みではない。
労働の報酬で、退魔庁に通いやすい華都に家を構えたが、そちらにも帰りを期待する者はいない。みな職務として、仕方なく雑事にあたっているだけだ。
『おい。すくなくともオレは悲しむぞ』
『……そうか』
『反応うすっ! もっと喜べよ』
『すまないが、お前のためだけに長く生きようとは思えないな』
恒一には、愛する妻と子供がいる。
俺がいなくなったところで、なんの問題もない。
『かわいくねえな。じゃあ、これならどうだ? 禍の恐怖に怯える国民を救うために生きる』
それならば、すこしくらいは生きる意味が見出せるかもしれない。
そう考えて、死に物狂いで働いてきた。
化け物と同程度、もしくはそれ以上に、強い才を持って生まれた俺を愛する人間などいない。子供だって、こんな才を引き継いで生まれてしまったら、ろくでもない命運をたどるだろう。
家族など一生必要ないと考えていたそんな俺に、退魔庁の思惑で嫁が送られてきた。
近頃は、朝餉を彼女と一緒にとるのが日課となった。
起床したとき、今朝は彼女がどんな表情をするのかと考えると、穏やかな気持ちになる自分がいる。
興味を抱いたきっかけが無才であったことは間違いないが、彼女自身の人柄も好ましく感じる。
きっと、灯が、俺をただの人間として見ていると感じるからなのだろう。
拙く、不器用な言葉でも、穏やかに待っていてくれるのが心地よくて。彼女の前では口下手なままでもゆるされるのだと甘えてしまう。
俺は、彼女に、期待しそうになっているのかもしれない。
自分の化け物的な一面ですらも、彼女なら、拒絶せず受け止めてくれるのではないかと。
……それともやはり、嫌われるだろうか。
他人のことで頭がいっぱいになるなんて、実に俺らしくない。
今日は、魔の物との戦闘がひっきりなしに続いている。一気に力を使ったせいで、さすがに集中力が散りはじめていた。
戦では、一瞬の隙が命取りとなる。
「隊長殿っ!!」
部下に叫ばれたときには、魔の物の禍々しい図体が、俺を丸呑みにしようとしていた。こんなに一瞬で距離を詰められるとは思っていなかった。
慌てて腕を掲げ、才の発動を促す。
「氷滅」
間一発で、巨大な魔の物を氷漬けにし、粉砕することに成功した。
部下から歓声があがる。
今日も問題なく、禍の殲滅に成功することができた。
――このときまでは、そう思っていた。
異変が現れたのは、退勤して家の敷居をまたいだ瞬間だ。
「お帰りなさいませ、ご主人様。……ひっ!?」
帰りを出迎えた下女の様子が、明らかにおかしい。
「……どうかしたか?」
「い、嫌っ!!」
彼女は恐怖に顔を歪めて、俺から逃げ出した。
あぁ、なるほど。
下女の反応を見て、初めて自分の異常に気がついた。
振りかえれば、俺が歩いてきた道のり全てに霜が降りている。玄関も氷漬けになっていた。これでは、逃げ場を塞がれたように見えても仕方がない。
――才の制御不能状態。
才を酷使したときに、その制御自体が不能になるという現象だ。
俺の場合、ここ数年は制御が安定していた。どれほど才を使ったとしても、制御不能状態にまで陥ることはなかった。だからこその慢心もすこしはあったのかもしれない。今日の魔の物は、特に規格外の大きさだったから。
でも、なぜ、よりにもよって今起こるんだ。
この家には、彼女が……、灯がいるのに。
「屋敷に滞在する全ての者に告ぐ! 玄関に近づいてはならない。和室の縁側から、退避しろ」
感情を殺して、なるべく冷静に叫んだ。
今は、感情的になっている場合ではない。
自分のせいで傷つく者を、一人たりとも出さないことが最優先。
俺が動いたら、より氷害を拡大させるかもしれない。下手に動けず、状況をこの目で確認しにいけないのが不安要素だが、さっきの下女もみなに伝えてくれているだろう。
全員退避させたあとであれば、最悪、自死をもって被害を止めるという選択肢もとれる。
自分の意志とはうらはらに、屋敷の廊下、戸、階段までもが凍っていく。
これでは、魔の物となにも変わらない。
そう自嘲した瞬間だった。
「奥さま、今の旦那さまに近づこうとしてはいけません!」
「嫌です、嫌ですっ! 離してくださいっ。朔さまを一人にはしておけません!!」
階段の方から、足を滑らせそうになりながらも、駆け下りてきた灯が見えて胸が締めつけられた。
あの、大馬鹿が……!
危険だと止められているのに。なぜ、命令に従わない。
さっき、下女が俺を見て逃げ出したときには、それほど動かなかった心臓がとたんに忙しなく騒ぎ出す。
焦り、心配、呆れ、そして――自分の危険を顧みずに駆けつけてくれたという、ほんのすこしの暗い喜び。あらゆる感情が噴きだして、火花が弾けるような強い叱責の言葉が口から出た。
「こちらへ来るなっ!!!! 従わなければ、死ぬかもしれないぞ」
もうすぐで階段を降りきろうとしていた灯の足が止まる。
ああ……。彼女には、一生、こんな姿を見せたくはなかった。
恐怖、戸惑い、畏怖の視線を向けられることには、もう慣れていたはずだったのに。彼女に嫌われたと思うと、なぜだか、たまらない気持ちになる。
いまや魔の物となにが違うのかわからない存在となった俺を見て、恐怖しないわけがないのに。
諦めの気持ちで視線を落とせば、彼女はなぜか、もう一度俺の方へと歩みを進めてきた。
心臓が、激しく高鳴る。
「話が聞こえていなかったのか?」
「いえ。そうではありません」
「早死にしたいのか!?」
苛立ちながら、感情のままに言葉をぶつけたけれども、灯はひるまなかった。
代わりに、あとほんのすこしで触れあえるという距離までやってきて、覆面越しでもわかるほどに強い眼差しで俺を見つめた。
「聞きたいのはわたしのほうです! 朔さまは、屋敷の者を全員退避させて、自分はどうするおつもりなのですか?」
「それ、は……」
「下女のかたが言っていました。あなたは常々、最悪の場合は、俺を切り捨てて一刻も早くこの家から逃げるように仰っていたと。それで? みんなを助けたあと、あなた自身はどうなるの……?」
気が狂いそうなほど、寒いだろうに。
いつ、自分自身がこの冷気にのまれて凍死するかもわからないなかで、彼女は、俺の身だけを案じていた。
なぜ……?
なぜ、それほどまでに、他人へ優しくできるのか。
嘘をついて誤魔化す気も失せるほどに、彼女の行動に心が揺れてしまった。
「…………最悪、俺が死ねばすむ話だ。こんな化け物じみた才を持った人間が生まれたこと自体が間違いだったというだけだろう」
声が、震える。
灯は、なにを思ったのか、制御不能状態に陥っている俺をそっと抱きしめた。
これまでの人生、誰かにやさしく抱きしめてもらえたことなどなかった。せいぜい、退魔庁に引き取られたばかりの幼いころに、恒一から頭を撫でられた程度だ。
氷漬けになって死ぬかもしれないという極限状態にもかかわらず、あたたかくて、離れ難いと思った。
でも、すぐに我へ返る。
「な、なにをする!! 離せ、いい加減にしろ! 俺に殺されたいのか!!」
「あなたになら、最悪、殺されても平気です。あなたは……、悪意でひとを傷つけるようなかたじゃないから」
は……?
あまりの発言に、息をすることすらも忘れる。
呆けてもがくのをやめれば、彼女は離さないというようにきつく俺を抱きしめた。
「あなたが、化け物かどうかなんてわたしにはどうでもいいです。あなたが、無才のわたしでもいいと言ってくれたのと同じです。当然、あなたを一人ここに置いていくこともできません」
化け物かどうかは、関係ない……?
いままで、呪いのように自分を雁字搦めに縛っていたものが、彼女の言葉で浄化されていく。
「もし欲を言うのなら、わたしは、あなたのことをもっと知りたい。あなたと一緒に助かって、共に生きていきたい。それが一番の望みです」
こんな状況なのに、灯は口角をあげて笑った。
この芯の強さが、これまで虐げられながら生きてきたからこそ磨かれて備わったものであるならば、素直には喜べない。
それでも……、こんな女を、愛さずにいられようか。
「朔さま……?」
思わず、彼女を抱きしめ返す腕に、力がこもった。
自分だけの命であるならば、正直どうでもよかった。
でも、共に生きたいというのが彼女の望みであるならば、それはなんとしてでも叶えてやりたい。
目を閉じる。
全神経を集中させて、才の制御を試みた。
もう、大丈夫だ。
たとえ化け物に落ちぶれたとしても、彼女だけは、俺を見捨てないと信じられる。
それまで自暴自棄になっていた思考が、もたらされた安堵と人肌の温もりから落ちついていく。
精神が安定したことが、才の暴走にも関係したのかもしれない。
「朔さま、見てください……!」
灯の喜びの声で再び瞳をひらけば、広がっていたのは、いつもどおりの屋敷の光景だった。
「……よかった」
その後、安心しすぎたせいか、はたまた体力を使い果たしたせいか、気を失うように崩れこんで寝入ってしまう。
「朔さま!? 大丈夫ですかっ」
まどろむ意識の中で聞こえた、灯の心配する声ですらも愛おしく感じた。
もう、彼女なしには生きていけない。
そう確信した夜だった。
(灯Side)
朔さまが才の暴走状態に陥った翌朝は、いつもよりも早く目覚めた。
昨夜は、才の暴走を制御できたが疲れ果てて寝入ってしまった朔さまに、せめて布団だけはかぶせてわたしも自分の部屋で寝た。
下女の方々は一斉に避難したため、この屋敷には戻っていない。
つまり、いまこの家は、完全にわたしと朔さまの二人きりという状態だ。
玄関のほうに出て様子を見れば、まだ朔さまは眠っていらっしゃったので、そっとしておくことにした。とにかくお疲れだろうからゆっくり休んでいただきたい。
何気なく和室に入って縁側で朝の日差しを浴びていたら、庭の方からかわいらしい鳴き声が聞こえてきた。
「にゃあ〜」
(あら。もしかして、最近、この家に住みはじめた女の子?)
黒猫だ、かわいいな。
わたしに興味がありつつも警戒しているのか、すこし離れた距離から様子をうかがっている。
そういえば、この屋敷に来てから、動物と話していなかったな。
誰かに見られていたらヘンに思われるかもしれないけど、いまは絶好のチャンスだ。
(こんにちは)
(にゃにゃっ!? あなた、人間なのに、私の言葉がわかるの?)
(うん。実はそうなんだ)
(へぇ~)
黒猫は、警戒心をほどいてくれたのか、わたしの足下へすりよってきた。
(ねえ、あなたは知ってる? 昨夜、このあたりがすごく冷えこんだでしょう……?)
そんなことまで知っているなんて、もしかしてこの子は、屋敷の敷地内に住みついているのかな?
(そうだね。大変そうだったけど、いまはもう落ちついたみたいだよ)
(そう……。あの綺麗な男の子も無事かにゃ?)
綺麗……? もしかして、朔さまのことだろうか。
不意に、口元の覆面をはずした彼の顔が、頭をよぎる。
どんな見た目をしていようと彼への気持ちは変わらないことに違いはないけれど、いまだにわたしは、彼の顔の全貌を見られていない。
もしかして、この黒猫は覆面を完全にはずした彼と会ったことがあるのだろうか。
そうだとしたら……、ちょっと妬ける。って、わたしってば、なに猫にまで嫉妬しそうになってるの?
(綺麗な男の子って……、銀色の髪のひとのこと?)
(そうにゃ!! すごく男前でかっこいいのに、中身は意外と乙女なのにゃ)
(えっ、そうなの?)
黒猫のエメラルドの瞳が楽しそうにきらりと光る。
(ここ最近、会うたび、あたしに報告してくるんだにゃ。今日は、彼女が笑ってくれてうれしかったとか。憶測で彼女の無才を話題にする下女たちを脅してしまって反省したとか……。なに言ってるんだかよくわからなかったけど、その子の話をするときのあの子、頬を赤らめていてかわいいのにゃ)
思わぬところから、心臓を直撃するような衝撃話が飛びだして、心拍数がどんどん高まっていく。
えっ? なにそれ、なにそれ、なにそれ……!
(あれ? あなたも顔が赤いにゃ。もしかしてその女の子ってあなたのこと?)
あの朔さまが、猫に相談しているという図式事態が、かわいいで渋滞しているというのに。まさかの、わたしについての相談……!?
顔が熱い。胸が、とてつもなくドキドキする。
そんなわたしに、さらなる追い打ちがかけられた。
和室の襖が唐突に開く。
そこに立っていたのは……、
「朔……さま?」
「灯! ここにいたのか」
彼がうれしそうに笑った瞬間、さらに心拍数があがった。
朔さまが、完全に覆面を外している!?
陶磁器のように滑らかな白い肌に、色素が薄めの切れ長の瞳。すっと通った高い鼻に、形の良い唇が完璧に小さな顔へ配置されている。もしかして……とは薄々思っていたけど、予想を遥かに超えた美しさに呆けてしまった。
ど、どどど、どうしよう!
ただでさえ、男のひとに免疫はない。こんなにかっこいいお顔を見つめながら、まともに話せる気がしないのですが……!
「灯……?」
当の本人は、わたしの心境など知るよしもなく、目の前までやってきた。目線をあわせようとして座ったのだろうけど、なんだか距離が近いような。
それにしても、間近で見ても顔が整いすぎていて、心臓に悪い。今更、覆面の重要性を思い知る。
「もしかして、体調が悪いのか……? 昨日、俺が無理をさせたから」
「い、いえ。あ、の……、今日は、覆面をしないのですか?」
「ああ……。そういえば、していなかったな」
一度言葉を区切ったあと、彼は不安そうに口にした。
「その……灯には、もうなにも隠したくないと思ったから外したのだが。俺の顔が……、好みではなかったりするか?」
憂いを帯びた表情にすら色気があって、胸がきゅんとしてしまう。
でも、朔さまを誤解させるのは、本望ではない。
「ち、ちがいます! そもそもわたしは……、あなたの顔がどうであろうと、お慕いする気持ちは変わらないです」
「……そうか」
「でもその……あまりにも、想像以上に素敵で、その、びっくりしてしまって……」
しどろもどろになって言葉をつまらせたら、彼は一瞬かたまったあと、白い頬をすぐに赤くした。
「素敵、だと思ってくれたのか?」
「は、はい。……かっこよすぎて、直視できません。覆面をつけてください」
「嫌だ」
「えっ?」
朔さまは、幸せそうに笑った。
まるで少年のように無邪気な笑顔に、また胸が大きく高鳴る。
「顔が赤くなっている。かわいい」
「なっ!?」
「もとは、ひとに視線を向けられるのが苦手で、覆面を身につけていた。でも……、灯になら見つめられるのも悪くないな」
もしかして、わたし……、とんでもないひとのもとへ嫁ぎましたか?
頭から湯気が出そうなほど顔が熱くなって、朔さまの美しすぎる顔がどんどん迫ってきたその瞬間だった。
「にゃーにゃー」
(幸せそうでよかったにゃ〜! お邪魔ものは退散するにゃん)
ひらりと庭の方へ駆けていったクロに気を取られて、朔さまが問いかけてくる。
「クロ? 灯と遊んでいたのか?」
「じ、じつは……」
あの黒猫と話していた、と打ち明けようか悩んで、わたしは言葉を飲みこんだ。
「灯?」
「なんでもありません」
話さなかったのは、どうせ信じてもらえないから、という理由ではない。
逆だ。
朔さまは、わたしの言葉をきっと全力で信じてくださる。だからこそ、勝手にクロから話を聞いたことを怒られてしまうだろう。
「ふふっ」
「うん? なにを笑っている」
「いえ。なんでもありません」
クロから、朔さまがどんなことを言っていたかまた聞いてみたいという、悪戯心も芽生えていた。
なにかをきっかけにバレたときには、潔く謝ろうっと。
*
朔さまの才の制御不能事件から数日後には、伝達が行き届き、屋敷へ下女の方々が戻ってきた。
あの夜の恐ろしさで辞職してしまった方も一人いたけれど、それ以外のかたは復帰してくださったので安堵した。彼の心の平穏を想えば、本当は全員戻ってきていただきたかったのだけれど、それはわたしの傲慢な考えなのかもしれない。
ちなみに、下女の方々が戻ってきてからの朔さまは変わらずに覆面をつけて生活していらっしゃる。正直、あの美しすぎる顔はわたしも見慣れないのですこしありがたい。
それにしても……、今朝の朔さまは、一向に朝餉の席から立ち上がらない。先ほどがから、きれいに完食したお膳の上へ視線をさまよわせて沈黙している。
「あの、朔さま」
「なんだ」
「そろそろ出勤される時間ではないのですか?」
「あっ、いや。……それ、なんだが」
妙に歯切れが悪い。
いつもどおり軍服を身につけているから、てっきり出勤なのかと思ったけれど、もしかして……。
「お休みなのですか?」
「……そうだ」
なんだ、それならそうと仰ってくれればよかったのに。
休日なのになぜ軍服を? という疑問はさておき、日々過酷に働いている彼が休めるのは純粋にうれしい。
「久しぶりですね! 毎日、禍の殲滅でとてもお疲れでしょうから、ぜひゆっくりおやすみになってください」
「い、いや! そうではなくて……!」
「えっ?」
彼は、すこし言葉に詰まりながら、尋ねてきた。
「灯は……、今日は用事があるのか?」
「いえ。ございませんよ」
というか、そもそも氷室家に嫁いでから、用事らしい用事はない。下女の方々と一緒に働くのを控えるように言われてしまってからは、裁縫をしたり、屋敷内を散歩したりしていたけれど、さすがに繰り返していたら飽きてしまった。なので、朔さまから直々に許可をいただいて、近頃はこっそり家事手伝いにも参加している。
朔さまはわたしの状況をご存じのはずだけど、なぜ今さらそんなことを尋ねるのだろう。
疑問に思って首をかしげたら、彼は、意を決したように口にした。
「じゃあ……、出かけないか?」
「出かける!?」
「あっ……。や、やはり、俺と一緒には嫌だろうか」
自信なさそうに意見をひっこめてしまった朔さまに、今までぽつぽつと見えていた違和感の点がきれいにつながっていく。
もしかして、朔さまは外出に誘うかどうかを迷っていらっしゃったのだろうか?
いかにも誘い慣れていなさそうな、おどおどとした言動へ愛おしさがこみあげてきてしまう。
朔さまには、自分が色男であるという自覚が、あまりにもなさすぎる。
「そんなことはないです!! ぜひ、お出かけしましょうっ」
「ほんとか?」
「もちろんです……! むしろ、いままでずっと華都を巡ってみたいと思っておりました」
華都。
鎮宮家でも耳に挟んだことはあったが、実際にこの目で見たことはない。
そういえば、妹は事あるごとに、華都への外出をねだっていた。
派手な色の着物や、キャンディという甘い宝石のような菓子を買ってもらっていて、『羨ましいでしょう?』と自慢されたからよく覚えている。
氷室家の屋敷が、その華都の中に建っているということも、もちろん知っている。でも、この家に来た頃は今後の自分の身の上を考えるのに精一杯だったし、華都の街並みを見てみたいなどという悠長な考えは持てなかった。
「今まで一度も外出していなかったのか。申し出てくれていたら、すぐに許可を出したのに」
「そんなこと恐れ多いので」
「すまない……。我慢させていたことに気がつかなかった」
「謝らないでください! 我慢していたというよりも、許可なく外に出てはいけないというのが昔から当たり前だったので。外に出たいという願望を自然に持つこともなくなったというか……」
言葉にしながら、はっと我にかえった。
これでは、今までの不幸自慢をしているように聞こえるかもしれない。
バツが悪くなって顔を下げたら、朔さまは小さく息をついた。
「灯は、なにも悪くない。だから、そう自分のことを責めるな」
「朔さま……」
「今までの境遇のことも、わかっている。でも、この家に、灯の意志を妨げようとする者はいないことも知っていてほしい。……灯が望むことなら、できれば叶えたいと思っている」
朔さまの言葉は、魔法のようだ。
憧れる気持ちをお腹の底にしずめて、興味を持たないようにすることが得意になってしまったわたしに気がついているのだろう。その呪いから解き放とうとしてくれているのが伝わって、胸がじんと温まる。
「ありがとうございます。朔さまの下に嫁げて、幸せです」
わきあがってくる想いを、そのまま素直に伝えたら。
「あ、あぁ。……遅くなる前に、そろそろ出ようか」
覆面の下の表情まではのぞけなかったけど、なんとなく、その白い頬を赤く染めているような気がして微笑ましい気持ちになった。
*
「ここが、華都なのですね」
氷室家の屋敷を出て、すこし歩くと、すぐに大通りのような場所へ出た。
想像していた以上のひとの多さ、建物の密集具合、すべてに圧倒される。
きらきらと七色に輝くガラスをはめこんだような建物や、ひとが多く出入りしている四角く大きな建物。
目を引く色合いの着物を身に着けた女性や、異国風の珍しい服を身につけた男性。
屋敷を出る前に身だしなみは整えてもらったけど、行き交うひとみんな洒落ているような気がして、場違いではないかと気後れしてしまう。
でも、多くの人々の視線は、わたしではなく隣に立っている朔さまへと向いているようだった。
「なぁ。あそこに立ってる背の高い男のひと、もしかして……」
「化け物退魔将さまじゃないか? この辺に住んでるとは聞いてたけど、初めて間近で見たよ。本当に覆面をしているんだな」
「だよな。となると、隣に立っている女性は……」
「お嫁さん? かわいらしいひとだな」
「へえぇ、あんな可憐なひとが化け物退魔将さまのお嫁さんだなんて意外だな」
会話が聞こえてしまって、羞恥心から顔が熱くなる。
勝手に気まずくなって焦っていたら、突然、朔さまに手を取られて胸がドキッとした。
「さ、朔さま……?」
「……嫌か?」
彼が自信なさそうに手を離そうとしたので、わたしはぎゅっと握りかえした。
すこし骨張った大きな手の温もりが伝わってきて、ドキドキするのになぜだか安心する。
「いえ。うれしいです」
「そうか。……じゃあ、今日はこうして歩こう」
しばらく歩いた後、休憩をしようという話になり、一緒に茶寮へ入った。
「噂の退魔将さまも、こういうところへ来るんだ」
「怖いイメージしかなかったけど……、以前お見かけしたときより心なしか柔らかい雰囲気になられたような」
席まで案内してくれた給仕のかたも、談笑していたお客さんたちも、朔さまの来店にすこし驚いていたように見えた。でも、当の本人は覆面で視線を遮られているためか、気にしてないようだ。
「どれにする?」
「ええと……、全く詳しくないので、朔さまのお勧めを教えてください」
「俺もあまり詳しくはない。職務中に、幾度か寄ったことがある程度だ」
「そうだったのですね」
「あぁ。そもそも、今までは一緒に出かけたいと思う相手もいなかった。……灯が、初めてだ」
「うれしいです。また、一緒にお出かけしましょうね」
にこりと笑えば、彼は静かにうなずいた。
それから朔さまは、あんみつという菓子を一人分だけ頼み、自分はお茶だけ頼んでいた。
朔さまが、運ばれてきたものを飲むために、覆面をそっと外す。
口元だけ外すのかと思いきや、そのまま全てを外してしまったので驚いた。
「えっ……!?!?」
「あの超美形のひと、退魔将さまだよね!?」
「化け物とか言い始めたのどこのどいつだよ! とんだほら吹きじゃねえか!!」
案の定、茶寮中の注目の的だ。
「朔さま。全てを外してしまって、よかったのですか?」
「あぁ。今は、外したいと思った。……覆面越しにではなく、灯の表情をちゃんと見ていたいと思って」
しばし返答に困るほど、心臓がうるさくなる。
真っ直ぐに見つめてくる切れ長の瞳は、不思議な色香を放っている。先ほどから、彼の容姿について大絶賛の声が飛び交っているのだけど、周囲の声なんて聞こえてもいなさそうだ。
わたしは、朔さまの熱を孕んだような視線から逃れるように、あんみつという菓子を口にした。
「ん~! このあんみつという菓子、とても美味しいです! 朔さまは本当に要らないのですか?」
「あぁ。甘いものは、そこまで得意じゃない」
「そうなのですか……。わたしばかりが楽しんではいませんか?」
不安になって聞けば、彼は迷うことなく答えた。
「いや。……俺は、灯の幸せそうな顔が見られてうれしい」
口にしているあんみつ以上に、彼の言葉のほうが甘く感じられる。
気恥ずかしくなって、話題をそらした。
「え、えと……。華都には派手な建物や、鮮やかな色の服を身に着けたかたが多いのですね」
「最近は、異国から流入してきた文化が流行っているようだな。興味がある店があったら一緒に入ってみよう」
「ありがとうございます……! そういえば、すこし気になっていたのですが、朔さまは休日も軍服を身につけるのですね」
彼は今日も、金の刺繍の入った漆黒の軍服を身につけている。
銀色の髪はきらきらと粒子を放つように輝いていて、凛とした佇まいがとても美しい。以前から思っていたけれど、朔さまには退魔庁の軍服がよく似合う。
「実は、これ以外にきちんとした服を持っていなくてな」
「そうなのですか?」
氷室家の財力があれば、いくらでも服装などにお金を費やせるはずなのに。
意外な理由に目を瞬くと、朔さまはバツが悪そうに言った。
「正直、こんな風に誰かと一緒に出かける未来がやってくるなんて、想像もついていなかった。華都に屋敷を構えたのも、退魔庁の出勤に便利だからというつまらない理由だ。すこし前までの俺は……、禍の殲滅にしか、自分の存在意義を見いだせていなかったのだと思う」
その言葉はとても哀しく、同時に、共鳴してしまう自分がいた。
誰よりも才に恵まれたおかたなのに、縛られている鎖のようなものが似ているのかもしれない。
朔さまは、才に囚われて、自分の存在意義を疑っている。
「今は……どうなのですか?」
彼はすこし考えるように黙りこんだあと、やさしい声で告げた。
「灯のことを、もっと知りたい。共に生きたい」
胸がドキドキする。
短いけれどもたしかに想いを感じられる素直な言葉に、顔が熱くなるのを止められない。
「灯だけが、俺をただの人間にしてくれる」
「朔さま……」
「灯。俺はもう……、お前なしには」
彼が、なにか重要なことを言いかけた、そのときだった。
「あら……! そこにいるのは、まさかお姉さま?」
その甘ったるいような声が聞こえてきたとたん、身体が瞬時に強張った。
視線をやれば、牡丹色の艶やかな着物に身を包んだ華が驚いたような顔でこちらを見ていた。お母さまとお父さまの姿は見えないけど、付き添いをつけて一人で遊びに来ているのかもしれない。
華の注目は、わたしではなく、すぐに朔さまへと向けられた。
「もしかして……、そちらに座っていらっしゃるのは」
「灯。この女性は?」
「……妹の華です」
朔さまは一瞬目を見ひらいた後、立ち上がって華へ一礼した。
「ご挨拶が遅れたな、氷室朔だ」
華とは初対面のはずだけど、朔さまの声は心なしか冷たい。
「……なにが、化け物退魔将よ」
華は、周囲に聞こえないように呟いたつもりだろうけど、昔からの習慣のせいかわたしには明確に伝わった。無理やり笑顔を浮かべてはいるものの、口元が引きつっている。相当怒っているのが伝わってきて、金縛りにあったみたいに息苦しくなる。
『なぜ、お姉さまが、こんなに美しい男性と結婚しているの? 勘違いして、調子に乗らないで。もとはといえば、彼はあたくしのものよ』
今、華はこんな風に、考えているのだろう。
そもそも彼女は、朔さまが噂どおりの醜いひとだと思いこんでいたからこそ、わたしへ婚約を押しつけてきた。
本当の彼が、誰をも振り向かせる美青年だと知ったいま、華ならきっと……、
「初めまして、氷室さま。いきなり申し訳ございませんが、氷室さまは勘違いしていらっしゃいます」
そう。昔から華は、わたしの愛するものを、悪気なしに平気で取っていく子だった。
「本当の婚姻相手は、そこにいる無才の灯お姉さまではございません。鎮宮の無効化の才を正当に引き継ぐのはあたくしだけですもの。あなたは、今まで騙されていらっしゃったのです」
棘のある発言が、茶寮の客たちの間にまで、波紋を呼び起こす。
「なんと! 氷室様の奥さまは、無才なのか!?」
「嘘でしょ。国の英雄の奥さまが、無才だなんて許されるの?」
華は紅を塗った唇を上機嫌につりあげると、朔さまに近づいて、そっと自分の腕を絡めようとした。
嫌だ。
朔さまに、触れないでほしい。
これまでの人生、神に愛されている妹に全てを譲るのは仕方のないことだと思ってきた。
でも……でも、いま初めて、心の底から、このひとだけは彼女に取られたくないと思う自分がいる。
無才のわたしは、ここでもまた諦めるしかないの?
涙がこぼれそうになった、その瞬間だった。
「俺に触れるな」
朔さまは、穢らわしいもののように、華の腕を容赦なく振り払った。
「い、痛いわ! なにをするのよっ!」
「なんとでも言え。灯以外の人間に、今さらなにを言われようとどうでもいい」
朔さまは、珍しいほど怒りを露わにしながら、わたしの方へ寄り添った。
そして、呆けているわたしの手を取ると、華へ堂々と宣言した。
「いい機会だ、明言しておこう。俺が愛するのは、灯だけだ。無才であっても、そうでなくても関係ない」
「はあ!?」
「今さっきの態度を見ていただけでも、どれほどお前が灯に危害を加えてきたのかがよく伝わってきた。今後、彼女を害するということは、俺も敵にするということだと、その頭にしっかり刻んでおけ」
朔さまの放つ冷気で、茶寮が一気に冷えこむ。所々に霜が降り始め、他の客からも悲鳴が上がった。
「む、無効化……っ!」
本気で危機感を抱いたらしい華が、手を掲げて彼の力を封じようとしたけれど……、全く効果をなしていない。無効化は万能じゃないのだ。相手の才が強すぎれば、押し切れない。
それにしても、華の無効化の力がこんなに効いていないなんて、初めて見たかも……。
朔さまはその様子を見て、馬鹿にしたように鼻で笑った。
「はっ。その程度の弱い力では、俺の力を到底、塞ぎこめないぞ。俺には、灯よりも、お前のほうがよほど無才に見えるな」
「っっ〜〜!」
華は屈辱からか、顔を真っ赤にしていた。
すこしばかりやり過ぎではないかと、見ているこっちのほうが心配になってくる。
「ふんっ。こんな野蛮なムカつく男、こっちのほうから願い下げだわ。無才のお姉さまとお似合いだこと!」
綺麗な捨て台詞を吐いて、とっとと茶寮から出ていく華の姿は、これまでの人生で見たこともないほど惨めだった。
華が出て行ったのを見届けて、すぐに茶寮の気温がもとに戻る。華を威圧しながらも被害が出ないように塩梅を調整していたらしい。
朔さまは、すぐにわたしの様子をうかがってきた。
「灯。突然、寒くしてしまって、すまない。身体を冷やしてはいないか?」
「あっ、いえ。もう大丈夫ですよ」
一番最初に気にするところそこなんだ……!?
「ふふっ」
「なにかおかしいことでも言ったか」
「いえ。朔さまのことが好きだなぁと、あらためて思いました」
すこし同情もしたけれど、さきほどの華への彼の言葉は、今までのわたしが縛られてきたものを鮮やかに吹き飛ばしてしまった。
「朔さま。わたし、無才として生まれてきてよかったと、初めて思えました。そうだったからこそ、わたしはあなたに出会えたのです」
心の底からの感謝と共に笑顔で告げれば、彼は呆けたようにわたしを見つめたあと、雪解けの春のようにあたたかく微笑んだ。
「そうか。なぁ、灯」
「はい」
「……愛してる」
わたしにだけ聞こえるように囁かれたその言葉を、一生、忘れることはないと思う。
無才姫として生まれたわたしは今、最凶と謳われる退魔将様の隣で、以前には想像することすら難しかった幸福の最中にいる。【完】
*
「華、さっきはすごかったぞ……! また一段と無効化の才の扱いがうまくなったんじゃないか?」
「生まれ持った力だけにかまけず、日々、鍛錬も重ねていて華はえらいわね。わたくしたち夫婦の自慢の娘よ」
「ありがとう、お父さま、お母さま‼ あたくし、素敵な殿方と婚約できるかしら? 退魔庁勤めで、才に恵まれた、かっこいいお方がいいわ!」
「もちろん!! 容姿、愛嬌、なにより才の力が申し分ない。お前は鎮宮の誇りだ、華」
「そろそろ十六歳だものね。もうじき良い縁談の話がやってくるはずよ」
お父さまとお母さまが妹の華を褒めるたびに、いたたまれない気持ちになる。
この家の姫は、華だけだ。
無才のわたしは、数に入れてもらえなかった。
三人の会話に気を取られたせいで、膳を下げる動作がすこしだけ遅れた。
「灯お姉さま、なぁに? なにか言いたいことでもあるの?」
まずい、失敗した。
「……早く出ていきなさい」
「穢らわしい。わたくしたちにまで、無才がうつったらどうしてくれるの?」
「……申し訳ごさいません」
急いで膳を引き下げ、この場から退散する。
三人にとっては、わたしと同じ空気を吸うことも苦痛なのだろう。
でも、それも仕方のないこと。
ここ日の国では、持って生まれた才がすべて。才とは、そのひとにしか使えない、特別な力のことだ。
そのなかでわたし――鎮宮灯は、なんの才も持たぬ無才として生まれてきた。
名家に、無才の子は、めったに生まれないという。
ただし、わたしと華のように、双子であれば話は別。双子の片割れが無才であることは、そう珍しくないらしい。
無才は、神に愛されなかった証だという。その逆恨みで、家に災いをもたらす凶兆だとも。
つまりわたしは、鎮宮家の醜聞そのものなのだ。
井戸端に置かれた桶に水を汲み、膳を洗う。
冬は、この作業が地味にしんどい。
使い古した継ぎ接ぎの着物では、寒風をまともにしのげない。冷えきった水も手につきんとしみて、指先の感覚がなくなる。
それでも、仕事を与えてもらえるだけ、感謝しなければ。
せめて、生かしておく価値はあると認識されなければ、本当に捨てられてしまうかもしれないから……。
「ねえ、もう聞いた? 華都の近くで、また禍が発生したらしいよ。ずいぶんな大きさだったらしい」
「ええっ、物騒だねえ。被害は出たのかい?」
「それが、ずいぶんな大禍だったのに、被害はなかったみたいなんだよ。なんでも、噂の化け物退魔将さまが瞬時に殲滅したんだとか」
下女たちの噂話は、希少な情報源だ。家の外に出ることを許されないわたしにとっては特に。
また、禍が発生したんだな。
禍とは、災害のようなものらしい。
詳しいことはなにも知らない。わたしに教えてくれるひとなんていないから。
それでも……、発生するたびに、みんなが不安そうな顔をしている。人の生き死に関わる大変なことみたいだ。
「退魔庁に勤めて、禍を収めてくれているのはありがたいけど……、化け物退魔将さまに関しては、ちょっとね」
「大量の魔の物を一人で相手にしておいて、傷ひとつ負ったことがないらしいねえ。あまりにも人間離れしているよ」
「顔がとてつもなく醜いから、顔をいつも覆面で隠しているんじゃないかっていうしね。魔の物と、退魔将さま。果たしてどっちが化け物と言えるのか……」
最近、禍の発生の噂と共に、化け物退魔将さまの噂もよく耳にする。
それも、怖い、冷たい、人間らしくないと散々な言われようだ。
大変な災いを収めているひとなのだから、もっとみんなから労われて然るべきだとわたしは思うけど……。
「あっ、無才姫だ」
「この寒いなか、毎日ご苦労なことだねぇ。無才のあの娘にはお似合いの仕事だけれど」
あの娘に関わらないに越したことはない、というように下女たちの足音が遠ざかっていく。
鎮宮家が誇る無効化の才には及ばずとも、彼女たちも才を持つ者だからだろう。
わたしと関わりたくないのは、両親と妹だけではない。
ものごころついた頃から、この家で一番きつい雑事は常にわたしの仕事だ。
これも全部、仕方がない。
仕方がないこと……、なんだ。
膳を洗いおえ、屋敷の中へ戻る。
雑巾を手に、床掃除にとりかかろうとしたそのとき、和室の中から華の叫び声が聞こえてきた。
「どうして!? なんで、あたくしが、化け物なんかと婚約しなくてはならないの……!!」
何事……?
華が癇癪を起こしていること自体はそう珍しくないけど、化け物と婚約ってどういうこと?
雑巾がけをしながらも、部屋の中の様子が気になってたまらない。
「いくら退魔庁勤めだからって、化け物との婚約だけは受け入れられないわ! 人前では絶対に覆面を外さないという噂で持ちきりだし、きっと、見るに値しないほどお顔が醜いのよ!! ああ、そんなかたに嫁ぐなんて、おぞましい……」
「華……」
「そんなひとに嫁入りしたら、魔の物と間違えられて、殺されてしまうかもしれないわ」
「いやっ!! 唯一の我が子を失うなんて耐えられないわ……! でも……、国家直属の退魔庁からの申し出を断るわけにはっ! お父さま、どうしましょう」
「二人とも、落ちつきなさい」
「どうやって落ちつけって言うの!?」
いままで聞いたこともないほど焦っている華に、お父さまは短く告げた。
「……灯だ」
背筋が、ぞくりと震える。
記憶している限りで、わたしは家族の会話へまともに加われたことはない。
お父さまから久しぶりに名前を呼んでいただけたと思ったら、こんな形だなんて……。
「退魔庁からの命は、鎮宮の娘を氷室家に嫁がせよというだけ。そうだ。最初から、華に限定した話ではない」
「なぁんだ。灯を生贄……、いえ、嫁に差し出せばいいだけの話じゃないですか」
「も〜〜〜、びっくりしたぁ! 驚かせないでよ。お父さまったら、なぜ最初にそれを言わないの?」
「すまない……。華は退魔庁勤めの男との婚約を望んでいたから、良い話だと勘違いしまったんだ。私が噂に疎かったあまり、二人に変な心労をかけたね」
雑巾を持ったまま、立ち尽くして動けなくなる。身震いがするのは、冬の寒さが単に身体に触ったからではない。
わたしが不在の中で、わたしの嫁入り話がとんとん拍子に進んだ。
部屋に入って、確認しなおす気も起こらなかった。
拒否権など、存在するわけがないから。
その夜、お父さまの自室へと呼び出されたわたしは、「氷室家に嫁げ」と単刀直入に命じられた。
わかっていたことなので、驚きはしない。
今までどおりに、粛々と受け入れることこそがこの場での正解。
無駄な抵抗をしたところで、もっと痛い目に遭うだけだから。
「承知いたしました」
「おめでとう、灯。きっと素敵な殿方に違いないよ」
お父さまの笑顔を見たのは、無才が発覚するよりも前の、幼い頃以来かもしれない。
この笑顔が、化け物のような男に嫁がされることも知らぬ、無知なわたしを嘲笑ってのものだとしてもうれしかった。
こんな形だけれども、鎮宮家の役に立つことができたということに変わりはないから。
誰かのもとに嫁ぐなんて昨日まで考えたこともなかったけど、こうして、わたしの嫁入りが決まったのだった。
✳︎
氷室家に向かう日の朝は、いつもよりも早く目覚めた。まだ日も昇っておらず、夜のように暗い。
午後には家の外に発つなんて、いまだに信じがたい気持ちだ。
嫁ぐ先がどれほど恐ろしい相手であっても、家の外に出られること自体は純粋にうれしい。外の世界がどうなっているのか、ずっと気になっていたから。
鎮宮家には、わたしとの別れを惜しむ人間などもちろんいない。
でも……、人間以外であれば、わたしにもあいさつしておきたい相手がいる。
(おはよう、灯。ごはんをくれにきたの?)
(灯、いつもより起きるのが早いね)
(また、あの家のひとたちにひどいことされたの? 大丈夫……?)
庭までやってきて池をのぞくようにしゃがみこむと、鯉たちがたくさん寄ってくる。
この子たちは、わたしの唯一の心の支え。
大事な友達なんだ。
(おはよう、みんな。昨晩は、珍しく豪華なご飯をいただけたの。おすそわけするね)
昨夜、嫁入りの祝いだと言って、膳に盛られた白米を包みから取り出す。
人生で初めて味わった。ほんのすこしだけど、なぜか泣きそうになった。
たとえ、お父さまとお母さまと華の本音が、都合の良い身代わりになったことへの感謝でしかなかったとしても、誰かと一緒に食べるご飯はいつもよりあたたかく感じられた。
残すのはいけないことだとわかってはいたけど、みんなにも味わってほしかったから、こっそり残しておいたんだよね。
(なにこれ……! 灯、これ美味しいね!)
(もちもち〜〜! あまいねえ)
(灯は、おなかいっぱいになったの?)
(すごくおいしかったから、みんなにも食べてほしかったの! わたしも初めて食べたんだ。喜んでもらえてよかった〜)
うれしそうに跳ねまわっているみんなを眺めていたら、簡単には会えなくなることが急にさびしくなってきた。
(実はね……、今日は、みんなにお別れを言いにやってきたんだ)
ぴたりと、みんなの動きが止まる。
(どういうこと?)
(結婚することが決まったの。このお家を出るんだよ)
(けっこん!? って……なにそれ?)
(別のところで、男のひとと、一緒に住むことになったの)
(そうなの? そのひとは、灯にやさしい?)
不意をつかれて、すぐには答えられなかった。
ここで正直に、噂ではすごく怖いひとみたい、と答えたらみんなに心配をかけてしまうかも……。
(うん。きっと、やさしくしてくれるって、わたしは信じてる。みんな、いままで本当にありがとうね)
もうすこしみんなとのお別れを惜しんでいたかったけど、背後から聞こえてきた足音によって遮られた。
「お姉さま、また鯉なんかに餌をやっていたの?」
華だ。
華は、池にしゃがみこむわたしを見下ろしながら、鼻でふっと笑った。
「ああ、ただ餌をやっているわけじゃないんだっけ? お姉さまの頭のなかでは、その鯉たちとお話しできているんだものね」
頭から、思いっきり冷や水を浴びせかけられたようだ。
さっきまで多少寒いのも全然平気だったはずなのに、急に、溺れてしまったような息苦しさを覚えた。
あらゆる罵倒に対して、もうすっかり慣れたつもりでいたけれど……、これだけはいつまで経っても耐性がつかない。
わたしにとって、動物と意思疎通できるのは、ものごころついた頃から自然なことだった。
でも、あるときに、人間と動物とは普通は話せないということに気がついた。
無才だと言われ続けていたわたしにも、才と呼べるものがあったのだと、そのときは思った。
他人の才の力を打ち消す無効化の力には到底及ばないささやかな力だけれど、お父さまとお母さまに褒めてもらえるかもしれない。すくなくとも、無才――厄災をもたらす不吉な子ではなくてよかったと。
そんな喜びと安堵の気持ちは、次の華の一言によって、粉々に粉砕された。
『動物と話せるですって? お姉さま……。無効化の力がいつまでも自分にだけ発現しないからって、なんて痛々しいの』
『えっ』
『動物と話せるだなんて、そんな才、いままで聞いたこともないわ。自分の無才を認めたくないから、話せているフリをしているだけなんでしょう? おかわいそうに』
華は、わたしが動物と話せているという事実や、わたしの頭の中だけの妄想だと断言したのだ。
そうは思っていないけど、否定しきれない自分もいた。
無才であることが苦しくて、どうにかひとに認めてほしいあまり、動物と話せる自分を演じているのではないのかと。
さびしさのあまり、みんなと話せていると思いこんでしまっただけではないかと。
この能力が存在することは、誰にも証明しようがない。
他人にどころか、自分自身さえも。
「旦那さまには、そんな妄言を吐いたりしたらダメよ? 早々に呆れられちゃうわ」
「……はい」
ただの妄想だとは思っていないけれど、もとより、そのつもりだ。
他人に証明できない才は、ないものとみなされる。
幼い頃、華に指摘されてそう気がついてしまったから、お父さまとお母さまにも話せなかった。
「お姉さま、せいぜい旦那さまに嫌われないように頑張ってね。うっかり機嫌を損ねようものなら、氷漬けにされちゃうかもしれないけど」
上機嫌そうに屋敷のほうへと帰っていくその背を見つめたあと、わたしも外に発つ支度をするために戻った。
*
生まれて初めて、上等な着物を身につけて、顔にも白粉を塗ってもらった。
みすぼらしい娘がやってきた、とすぐに氷室家から破談にされるのも困るからだろう。
わたしとしても、早々に突き返されたくはない。こうなった以上、鎮宮家に戻るのは難しいだろうし……。
どうにかして、旦那さまとなるおかたに有用だと認めてもらわなければ。
両親と形式上の別れの言葉を交わして、わたしは退魔庁からの迎えの車に乗りこんだ。
「灯さま、このたびはご結婚おめでとうございます」
「ありがとうございます」
氷室家の敷地は、日の国の中心、華都の中にあるという。
鎮宮家からは、屋根付きの車で二時間ほど。
鎮宮も名家だとは聞いていたけど、金銭的に華都にはとても屋敷など建てられないとお父さまたちがこぼしていたのを思い出す。
退魔庁勤めの事務官の男のひとが、無言を気まずいと思ったのか、話をふってくれた。
「灯さまは、氷室朔さまについてどの程度、ご存じなんですか?」
「ええと……恥ずかしながら、ほとんどなにも」
「仕方のないことです。あのお方は、同じ退魔庁勤めの人間に対してすら、謎多きお方なので」
「あの……。お尋ねしても、よろしいですか?」
「はい、もちろんです!」
「実は、この婚姻の目的について、わたしは詳しいことをうかがっていないんです。粗相のないように、おわかりの範囲で教えていただきたいのですが」
氷室家がどのような家格に位置するのかわかっていないけれど、華都に屋敷を構えられるというのだから鎮宮よりも相当上の家格のはずだ。
昨日の三人の会話を思い出す限り、退魔庁からの申し出は断れないと言っていたような気がするけど……。
早々に切り捨てられないためにも、目的は把握しておきたい。
彼は、一瞬きょとんとしていたように見えたけど、すぐに視線を伏せた。
「すこし言いづらい話になるのですが……、よろしいでしょうか」
「もちろん」
間髪入れずにこたえたわたしに、彼はそっと微笑んだ。
「灯さまは、芯の強いおかたですね。名家のお姫さまとは思えないくらい」
それは姫扱いなどされてこなかったからだと思ったけれど、口にはしなかった。
この穏やかでやさしい彼の態度も、わたしが無才だと知った瞬間に一変するのかもしれないと思うと、なんともいえない気持ちになる。
「氷室さまは、いまの退魔庁にとって、なくてはならない存在です。まだ十八歳とお若いにも関わらず、最近発生したほとんどの禍を、彼が隊長として率いた軍が殲滅しています。本人はそうは言いませんが、従軍した者の話を聞く限りでは、彼お一人の力で魔の物を葬り去っているんだとか」
「……とても、強いお方なのですね」
「はい、別格なのです。退魔庁は、その類稀なる才が、彼の一代で失われることを危惧しています。……つまりは、世継ぎの件です。その才を後世にも引き継がせたということです」
なるほど。
結婚するのだから、そういう考えもすこしは頭にのぼった。
「でも……、それだけお強く、立場もあるおかたであれば、それこそ鎮宮以上の名家からの縁談の話が尽きないのでは」
彼はすこし言いづらそうにしたけど、わたしがじっと見つめていたら、ぽつりとこぼした。
「……氷室さまは、女嫌いなのです」
胸の奥が、すっと冷える。
「女嫌い……というと?」
「女、というか……。性別を問わず、そもそも、めったに心を開かないおひとなので。本来、魔の物との戦闘時にのみ使用する防護覆面を、なぜか戦闘時以外も身につけていらっしゃいます。頑なに外さないので、顔をひとに見せることに、恐怖心があるのではないかという噂です。そんなお方がふつうに暮らしていて、縁談の話を受けるとお思いですか?」
「それは……、なさそうかも」
「そうなのです。今回のことは、このままでは生涯独身確定だと危惧した退魔庁の判断となります。さすがの氷室さまも、退魔庁の命令には逆らえなかったようで」
わたしは、どんな形であれ、捨てられさえしなければ合格だと思っていた。
でも、彼がそんなにもひと嫌いならば、努力ではどうにもならないということ……?
不安で失ったわたしに、彼は慌てて言い足した。
「それでも……、僕は、氷室さまに尊敬の念をいだいていますよ」
「そうなのですか?」
「氷室さまは隊長でありながら、先陣を切って、自らの危険を顧みずに戦うお方です。氷室さまが退魔庁にいてくれているからこそ、いまの日の国の安寧が保たれているのだと思います」
怖いけれども、それだけのひとではないのかもしれない。
胸にかすかな希望の光が灯ったそのとき、車の揺れが止まった。
どうやら、氷室家の敷地に着いたようだ。
ひととこんなに長く会話をしたのが久しぶりだったからか、あっという間の時間に感じた。
「灯さま。どうか、氷室さまとお幸せになってください」
「ありがとうございます」
*
氷室家の屋敷は、華都の中心にあるとは思えないほど静かだった。
豪奢さよりも、無駄のない造りが目につく。
華が見たら『なにこの地味な屋敷!』と文句のひとつでもいいそうだけれど、わたしはひそかに安堵した。見るからに立派で、権威を主張するような造りであるほど、自分の不相応さを実感することがわかりきっているから。
「ご主人さま、花嫁さまがやってまいりました」
案内をしていただいた下女のかたにつづいて、緊張しながら和室のなかへ足を踏み入れる。
彼は、殺風景な和室の中心で、筆を手に取りながら机に向かっていた。噂に聞いていたとおり、黒い覆面を身につけていて、顔のほとんどを隠している。
顔をあげてこちらに視線を向けようともしない彼の態度に、胸がちくりと痛んだ。
もしかすると、彼の耳にもすでに、わたしが無才のほうの不吉な娘だということが入ってしまったのかもしれない……。
早くも折れそうになる心をどうにか奮いたたせて、目の前の氷室さまへご挨拶をする。
「初めまして、鎮宮灯と申します。いえ……、これからは氷室灯となるのでしたね。旦那さま、よろしくお願いいたします」
「……黙れ」
苛立ちを含んでいるような低い声に、心臓が嫌な風に跳ねる。
「早く出ていってくれ」
次に向けられた明確な拒絶の言葉に、抱いていた不安が大きくなる。
わたしをここに連れてきてくれた下女のかたも、彼のあんまりな態度にハッとしていた。しかし、この家では彼への服従が絶対なのだろう。気まずそうに、顔を下げている。
わかっていた。
どこにいっても、わたしが歓迎されることはないのだと、覚悟はしていたけれど……。
新しい場所に行ってもなにも変わらないのだという絶望が、胸へ静かに重くのしかかる。
「……承知いたしました」
反射的に頭を下げ、背中を向けた、そのときだった。
「待て」
低い声が、わたしの足を縫いとめる。
「勘違いするな。俺がお前を望んだわけじゃない。退魔庁が勝手に決めたことだ」
机に落ちたままの視線。抑えた声音。
沈黙の作りだす気まずさに耐えて、彼の次の言葉を待つ。
「つまり……、妻の役目だとか、仲睦まじい夫婦だとか、そういうものは求めない」
「……それは、わたしがこの家に不要という意味ですか?」
声がかすれそうになりながらも問うと、彼は、はっきりと答えた。
「不要なら、ここまで連れて来させない」
息が、止まりそうになる。
「退魔庁の命に逆らう気はない。婚姻が解消されたら困る。……つまり、お前は必要だ」
必要……なんだ。
衝撃のあまり返事をできずにいたら、氷室さまはたどたどしく言葉を続けた。
「条件を言おう」
彼は筆を置き、ようやく……ほんのわずかだけれども、こちらへ顔を向けた。黒い覆面からは表情など読み取れるはずもない。
それでも、顔の横を流れる銀色の髪はとても美しく、思わず目を奪われた。
いままで見たこともないような髪の色だ。月の光を編んで紡いだみたい。
「この家に住め。……だが、俺には近づくな」
「はい」
「……とにかく、互いに干渉をしないこと」
「承知しました」
「以上。……金には、不自由させない」
彼は、これ以上なにも話す気はないというように、また書き物をはじめた。
仕事の邪魔になるのもいけないと思い、一礼をしてから和室を出る。
すると、続けて部屋を出てきた下女のかたが、慌てたようにわたしへ声をかけてきた。
「灯さま、そう気落ちなさらないでください」
「えっ?」
「ご主人さまは、誰に対しても一貫してああいうかたです。……怖いと思われましたよね?」
怖い、か。
考えてみたけれど、その感情はあまりしっくりこなかった。
それよりも、わたしは……、
「いえ。どちらかというと、安心しました」
「ええっ?」
「すくなくとも、すぐにここから追い返されるような雰囲気はありませんでした。それだけで、わたしにとっては充分すぎるほど光栄です」
「灯さま……」
名家の娘らしい考え方じゃないから、驚いているのかもしれない。
それでも、わたしの紛うことなき本音だ。
これが、氷室朔さまとわたしの出会いだった。
✳︎✳︎✳︎
(side氷室朔)
禍。
即ち、魔の物による襲撃は、日の国の民にとって日常的に起こる災害のようなもの。
退魔庁は、魔の物との戦闘に活きる才を持つ人間を集め、訓練し、禍を鎮圧するための組織。
そして、俺――氷室朔は、その退魔庁の所有物のようなもの。
「後ろに下がれ。俺が出る」
「しかし……っ、見たこともないほどの大群ですよ!」
「問題ない」
部下を下がらせ、おびただしい数の魔の物の前に出る。
魔の物の造形はさまざまだ。触手のようなものが生えていたり、図体が大量の目ん玉に囲まれていたり。共通するのは、本能的な恐怖を呼び起こすような外見であること。
総じて理性をなくしており、人間を見ると襲わずにはいられない。
「ぁあぁあああぁああああ」
奇妙な叫び声を発生しながら俺に群がってくる魔の物たちへ、精神統一しながら腕をかかげる。
「氷滅」
その一瞬で、全ての魔の物たちの動きが、時間を止められたように固まった。
凍り漬けにした直後、全てを粉々に粉砕する。
あとに残るのは、尋常でない冷気と、舞い散る氷の礫だけ。
「やべえ……」
「……何度見ても、すごすぎて理解がおいつかないよな」
魔の物を殲滅するために与えられた才だと思えば都合が良いが、たまに考えてしまう。
俺自身は、魔の物と、本質的にどう違うのだろう。
たまたま生まれが人間だったというだけで、理性がなくなってしまえば、魔の物と変わらないのではないか。
考えだすと底なし沼にはまってしまう。だから、目を背けるように、今日も魔の物を葬り去る。
その瞬間だけが、まだ己は人間であると実感させてくれるから。
禍を鎮圧し、退魔庁へ戻ってすぐ、与えられている個室に引きこもる。
仕事道具しか置いていない殺風景な部屋だが、退魔庁ではここで過ごす時間が一番長い。隊長に出世したことで一番有用だった褒賞が、庁内に個室を与えられたことだろう。
疲れがどっと押し寄せたせいか、椅子に腰かけた瞬間に息苦しさを感じて、防護覆面を外した。
素肌に触れる空気の心地よさに浸っていたら、思わぬ来訪者が現れた。
「入るぞ」
思わぬ……といっても、俺の許可なしにこの部屋へずけずけと入ってくる人間は、一人くらいしかいない。
久世恒一。
俺の上官であり、兄であり、親代わりでもあるような男だ。
恒一は、俺の顔を見たとたん、大げさにまばたきをした。
「お前の顔、久しぶりに見たわ。相変わらず、腹立つくらいに美しいな。お前が女だったら、国が傾くぞ」
「…………」
「まあ、愛らしさでは、オレの嫁のほうが勝ってるけど!」
付け加えると、恒一は嫁馬鹿だ。
呼吸をするように嫁自慢をしてくる。
「なあ。そろそろ、その覆面をはずして生活したらどうだ? いままで、化け物退魔将だなんだと好き勝手言っていた失礼な連中が、全員そろって手のひらを返すぞ」
「……断る」
「頑なだなぁ」
「なんとでも言え。嫌なものは嫌だ」
「理由を聞いても?」
「……よく知らない人間の視線は、怖い」
ひとの視線は、思い出したくない過去を彷彿とさせる。
『信じられない……。あんな幼子が、たった一人であの魔の物の大群を消してしまったなんて』
村のどこにいっても、恐怖の視線を向けられた。俺のことを人間として見ているひとはいなかったんじゃないかと思う。
恒一には、この感覚は理解しがたいものらしい。納得のいっていない顔つきだ。
「視線が怖いって……。魔の物にはあれだけ近づいても大丈夫なのに?」
「あれは、ひととは違う」
魔の物に対して平常心を保っていられるのは、あれらには心が存在しないと断言できるからなのだろう。
「ふぅん。ま、無理強いはしないけど……。さすがに、嫁さんの前でははずしてるんだろ?」
「…………」
「その無言、まさかお前……」
「退魔庁の命には背いていない。ほうっておいてくれ」
鎮宮灯。
退魔庁の都合で、ひととしてのなにかを致命的に失っている俺と婚約させられた、かわいそうな人間。
決して、彼女に不幸になってほしいわけではない。
でも、どうせ俺には愛など一生わからないから、最初から期待をすることのないように釘をさしたのだ。
「嫁さんはどんな子なの?」
これには、はっきりと答えられる。
「変わっている」
俺は、初対面でいきなり、彼女に嫌われるような言動しかしていない。その自覚はさすがにある。
それにも関わらず、彼女は、下女に俺が怖いかと聞かれたときに否定した。
妙なことを言う女だ。
「ふははっ」
「……なぜ笑う」
「いや? お前が誰かに対して感想を述べるのなんて、久しぶりに聞いたなと思って。大体いつも無関心で記憶にもないだろう」
「そんな、ことは……」
言いかけながら、最近の他人との関わりを考えなおしてみる。
たしかに、恒一以外の誰ともまともに関わっていないから、感想が出てきようもない。そもそも関わろうとも思っていないし。
認めるのは悔しいが、鎮宮灯と話した以外の記憶は出てこない。
そういえば彼女は、俺の珍しい髪の色を見て、どう思っただろうか。覆面越しにも視線を感じたけれど……。
日の国では、黒髪の人間が大多数。
まれに金や赤など、珍しい色の人間も見かけるが、統計的には才の力が強い人間に現れるのではないかと言われている。
俺は、自分以外に、銀の髪の人間には出会ったことがない。
「……髪の色」
「ん?」
「どうせ、気味が悪いと思われている」
恒一は、俺のことをじろじろと眺めながら、ふっと笑った。
「お前が他人からの印象を気にするようになるなんてめでたいな。次にお前が学ぶべきことは、他人の心のうちを決めつけないということだ」
「……は?」
「そのために、俺ら人間には言葉があるんだろう。最強の退魔将殿」
片目をつぶってへらりと笑われた。思わず、顔をしかめる。
なにが、言葉があるだ。
俺を退魔庁に連れてきた張本人である恒一は例外だが、いままで俺の言葉をまともに受け止めようとする人間などいなかったじゃないか。
嫁とはいえ、所詮はただの他人。最初から線引きしておくに越したことはない。
✳︎✳︎✳︎
(灯side)
氷室家で暮らしはじめて七日ほど。
ここ最近のわたしの悩みの種は、中々、ひとの役に立てないということだ。
「奥さま……!! わたくしどもの仕事を勝手に代らないでくださいと何度お伝えしたらわかってくださるんですか!?」
「で、でも……。わたし、なにかさせてもらえないと落ちつかないんです」
「あなたには、退魔庁最強と謳われる氷室さまの奥さまであるという自覚が足りていません。灯さまにそのような雑事をさせていると判明したら、旦那さまにどんな顔をされるか……!」
「あのおかたは、一切気にしないと思うけど」
彼のわたしへの徹底した無関心ぶりを思い出したのだろう。
下女のかたは一瞬気まずそうな顔をしたあと、仕切りなおすように咳払いをした。
「ひとの噂話には戸を立てられないというでしょう。氷室家の嫁は散々な扱いを受けているという噂がどこかから漏れようものなら、まわりまわって旦那さまの名誉にも傷がつきかねません。わかりましたか?」
それは大変だ。
なにも言われていないからといって、それが許されている証だとは限らない。
もはや、見捨てようとすら思わないほど、わたしの存在を意識していないだけなのかも……。
「わかりました。……気をつけます」
旦那さまとは、初対面のとき以来、全く話していない。
そもそも、働きに外に出ている時間が長いこともある。禍の鎮圧のほとんどに駆り出されているんじゃないかと思うほど。そんなに働き詰めでは体調に差し障るんじゃないかと心配になるけれど、下女のかたたちのお話だと、以前からずっとそんな生活を続けていらっしゃるらしい。
ちなみに休日は、ずっと自室にいらっしゃった。
その日も彼の言いつけどおり、とにかく干渉しないように気をつけていた。命に従うことこそが、最善だと思ったのだ。
でも……、この家の人たちは、怖くなるほどわたしになにも求めてこない。
言いつけどおりに、このままなにもせずにいていいのか? という不安がふくれあがる。
せめて、なにかひとつでも旦那さまのお役にたたなければここにいる資格がないんじゃないか。
「……あの、お願いがあります」
そう切り出したわたしの声は、思ったよりも落ちついていた。
*
「灯さま。旦那さまはこのことをご存知なのですよね……?」
「いえ、知らせてはいません」
下女のかたが驚愕からか言葉を失ってしまったため、慌てて言いつのる。
「旦那さまには、わたしの独断だとお伝えするので、心配はしないでください。ご迷惑はおかけしません」
彼女をなだめるように言いきったところで、襖が開いた。
旦那さまだ。寝る前ですら、覆面を身につけているらしい。
表情は読みとれないけど、わたしと下女のかたと自分の寝屋に広がる二つの布団とを見つめて、思考しているようだ。
三者の長い沈黙のあと、彼は短く言った。
「……なぜ、俺の寝屋にお前たちがいる?」
低く、苛立っているような声に、下女のかたがあからさまに恐れ慄く。
当然の疑問だ。
これは、わたしの判断で勝手にしたことだから。
「勝手なことをして申し訳ございません。すべてわたしの独断です」
彼は無言のまま、わたしをじっと見つめている。下女のかたは、「失礼いたします」と告げて足早に去っていった。
鎮宮家では、なにを話しても無駄なのだと諦める瞬間ばかりだった。
でも、氷室さまからは、そのような気配を感じない。
すくなくとも聞く耳は持ってもらえていることに安堵して、話をつづける。
「わたしがここにきてから、七日が経ちました。わたしはまだなんの役にも立てておりません」
「……ここにいるだけでいいと、最初に告げたはずだが」
「お願いです。どうか、わたしに、ここにいてもいいと思える役目をお与えください。こんなに恵まれた暮らしをさせていただいて、なにもしないわけにはいきません」
深く、頭を下げる。
この切実な思いが、どうか彼へ届くように。
「この婚姻の目的は、世継ぎを遺すことであったはず。どうぞ、そのために遠慮なくわたしを使ってくださいませ」
沈黙が、異常に長く感じられた。
間違ったことは、言っていないはずだ。
それでも、いま目の前の彼がなにを考えているのかわからなくて、胸のうちがひたひたと不安の波にひたされる。
やはり、わたしでは、その役目すらも果たせないのだろうか。
身代わりの姫であるという真実を知って、扱いに困っているのだろうか。
目頭が熱い。せりあがってきそうになる涙を、必死に抑えこむ。
「……それとも、無才のわたしでは、その役にもたてませんか?」
「…………は?」
驚いているような反応を見て、知らなかったのだとわかった。
でも……、どちらにせよ、これ以上隠してはおけなかった。罪悪感に押しぶされそうで。
「……黙っていて、申し訳ございませんでした。わたしには、才と呼べるものがないのです。才は、子に引き継がれることが多いと耳にしたことがございます。旦那さまは……わたしの無才が、子にも引き継がれることを危惧していらっしゃるのですか?」
「違う」
その否定は、きっぱりとわたしの呪詛のような言葉を斬った。
驚いて、弾かれたように顔をあげたら、彼はたどたどしく告げた。
「まずは、謝る。……すまない。お前の身の上を、あまりにも知ろうとしなかった」
「そんな……! 鎮宮家の娘だと聞いたら、ふつうは調べようともしません。才があって、当然でしょう」
「……無才、なのか」
彼は、考えこむように言葉を区切った。
それから、ぽつりと口にした。
「……俺は、才の有無には頓着しない」
「えっ」
「だから……、その……勘違いをするな。才があっても、なくても……、お前に家から出ていかれたら困るのは、変わらない」
その言葉は、風に吹かれたら消えてしまいそうなほど、小さく頼らない声だった。
でも……、わたしの胸にすとんと落ちて、それまでの不安を全てかき消すほどの衝撃があった。
心臓がとくんと音を立てる。
無才でもかまわないと、こんなにもはっきりと言葉にされたのは、生まれてはじめてだ。
今度は感極まって泣きそうになったら、彼は、覆面をつけていてもわかるほどにうろたえだした。
「な、泣くなっ」
「ご、ごめんなさい……っ。あまりにも……、うれしすぎて」
「うれしい……?」
「はい……! そんな風に言ってくださったのは、あなたが初めてです。ありがとうございます」
氷室さまは、ふっと笑った。
彼の笑い声を初めて聞いた気がする。
「俺はもう寝る。……お前も、自分の部屋に帰れ」
「でも」
「……そもそも、自分がなにをしようとしていたかも、明確にわかっていないのでは?」
痛いところをつかれてしまった。
わたしの表情で察したのか、彼は呆れたようにため息をついている。
ここで嘘をついても仕方がないので、素直に謝ろう。
「申し訳ございません。教えていただけませんか?」
「…………嫌だ」
「どうしてですか」
「どうしても」
彼はこれ以上話す気はないというように、布団のうえへ身体を横たえた。
教えてくれる気が一切ないその態度に首をかしげていたら、氷室さまはまた単語を発した。
「朝餉」
「えっ?」
「明日の朝、一階の和室にこい」
「朝餉をともにさせていただいてもよろしいのですか!?」
飛び上がりそうなほど驚いて食いつけば、眠たそうな声が返ってくる。
「気が変わった。……お前とは、もうすこし話をしたほうがよさそうだ」
すぐに寝息が聞こえてきたので、静かに寝屋を退散する。よほどお疲れだったみたいだ。
でも、よかったなぁ。
無才を打ちあけてから、こんな気持ちになったのは生まれて初めてだ。
当初の目的こそ果たせなかったものの、胸のうちがあたたかいもので満たされていた。
✳︎
「失礼いたします」
緊張しながら襖を開く。
「来たか」
一階の和室には、退魔庁の軍服をすでに身につけた氷室さまが畳に据えられた卓の前に正座していた。
軍服が似合っている。覆面で表情は相変わらずわからないけど、凛々しくて素敵だな。
いつまでも和室の敷居をまたごうとしないわたしを見て、彼は首をかしげた。
「……なぜ、こちらにこない?」
「えっ? ええと……その、同じ食卓につくのは、恐れ多いかと思い」
「早くこい」
「で、でも……」
「昨日勝手に寝屋に入りこんだ女が、今さらなにを言う」
うっ。
そもそも、誰かと一緒に食事をとること自体、慣れていない。まともに教わったこともないし、礼儀作法に粗相があったらどうしよう。
わたしの迷いを見抜いたかのように、彼は続けた。
「余計なことは考えなくていい」
「余計な、こと?」
「……お前が、今まで生きづらかったであろうことは、察しがつく」
わたしが無才であると知って、そんなことまで考えてくれていたんだ。
「それでも俺は……、お前には知っていてほしい。強い才を持ったところで、幸福にはなれない」
「氷室さま」
この国では、誰もが、才に恵まれることこそが幸運への道だと信じている。
でも……、目の前の彼の言葉には、深い実感のようなものが透けて見えた。
「……この話はもうしまいだ。わかったら、さっさとこっちへこい。せっかくの朝餉が冷める」
「は、はい」
卓の上には、見ているだけでお腹がなりそうなほど、美味しそうな朝餉が並んでいる。
ほかほかの湯気が出ている白米。鮭の塩焼き、豆腐とわかめの入った味噌汁、ほうれん草の胡麻和え。
実家では、昼まで食を与えられていなかった。朝からこんな贅沢をしたら、なにか罰でも当たるんじゃないかと恐れ多くなる。
「とても豪華ですね」
「実家では、どんなものを」
「ええと……恥ずかしながら、朝は、水を一杯飲んでやり過ごしておりました。昼になったら、粟を食べていたものです」
彼がせっかくの食事に手もつけず絶句しているので、慌てて言葉を足す。
「でも、父と母と妹は、このような朝餉をとっていましたよ」
鎮宮は本当に名家なのか、という疑念を晴らすために慌ててつけ加えたが、彼はぽつりと口にした。
「……狂っている。それほどまでに、才が重要なのか」
その低い声からは、静かな怒りが透けて見えたような気がした。
「氷室さま……?」
「朔だ」
「えっ?」
「……よく考えたら、もうじき籍をいれるのだからお前も氷室だろう。俺のことは、朔と呼べ」
それもそうか。夫婦になるのだから、名前で呼ぶのもきっと当たり前のこと。
それなのに……、なぜだかその名を口にしようとしたら、胸がそわそわとした。
「は、はい。……朔さま、とお呼びしますね」
「……………」
「朔さま?」
「……ああ。それでいい」
妙な間があったのは気になったけど、彼は、なにも言わずにそのまま覆面へ手をかけた。
もしかしてついに素顔が見られるのか、と胸が大きく高鳴る。
思わず凝視すると、現れたのは、すっとした顎と形の良い唇だった。どうやら口元の部分のみを外せる覆面らしい。
それなのに……、なぜだか色気のようなものを感じて、胸がドキッとしてしまう。
想像せずにはいられなかった。
朔さまは、もしかして……世間で謳われている『化け物』とは、真逆の容貌なのではないかと。
しかし、朔さまは、わたしの不躾な視線を別の意味で受け取っていた。
「なにをじろじろ見ている。……この髪の色が気になるのか?」
「えっ? ああ……」
言われて、視線を、彼の髪色へとうつす。
前にも思ったが、さらさらと流れる銀の髪にも艶がある。思わず見とれてしまうほど。
「銀の髪、珍しいですよね。お会いしたときから、とても綺麗だと思っていました」
「は……?」
「月の光を編んで紡いだみたいだなって」
彼が、急に沈黙したので、気に触ることを言ってしまっただろうかと不安になる。
「……そういうことを言うのは、やめろ」
「も、申し訳ございません!」
「違う! そうじゃ、なくて……いままで、これを褒められたことなどなかったから」
予想外の理由に、今度はこっちが言葉を失う。
「その……純粋に褒められると、調子が狂う。だから……、軽率にそういうことを言うな」
なぜだろう。鼓動が無性に速くなる。
世間では、最凶の化け物退魔将と謳われているかただけれども。
今、目の前にいる彼は、本当はかわいいひとなのではないか。
「ふふっ」
「なにがおかしい」
不機嫌そうな声も、以前までは怖いとしか思えなかったのに、今ではまったくそういう風に聞こえない。自然と口元がほころんでしまう。
「いえ。……いただきます」
やっと口をつけはじめた料理は、どれもすごく美味しかった。
食事自体が、日々戦闘にあけくれている朔さまのために考えつくされているという理由もあると思うけど、一番の理由は違う。
「一緒に食べるご飯、とても美味しいですね」
「……そう、だな」
朔さまと初めて一緒に食べた朝餉は、ずっと続けばいいのにと願うくらいに穏やかで幸せな時間だった。
(side氷室朔)
形ばかりの夫婦であること。
なるべく意思疎通をはからず、互いに干渉しあわないことこそが、最善だと思っていた。
でも……、彼女は、そんな俺の考えを吹き飛ばしてしまった。
『この婚姻の目的は、世継ぎを遺すことであったはず。どうぞ、そのために遠慮なくわたしを使ってくださいませ』
『……それとも、無才のわたしでは、その役にもたてませんか?』
あの夜、彼女にああ言わせてしまった瞬間、俺は今までひそかに抱いてきた違和感を放置していたことを後悔した。
彼女は、氷室家に来てから、まるで自分が下女の一員であるかのように振る舞った。なにか雑事をしていないと落ちつかないかのような動きに見えた。下女たちから『もっとご主人さまの奥さまであるという自覚を持て』と口酸っぱく言われている場面も見かけている。
退魔庁から鎮宮はそこそこの名家だと聞いていたにも関わらず、彼女は、到底そうは思えないような行動ばかりしていた。
それでも、干渉しあわないと言いだしたのは自分だったし、口には出さないでいた。
そうして違和感に目をつぶったがゆえの、彼女のあの一言。
まるで、自分をただの道具だとでも考えていそうな、哀しい発言。
そして――名家に生まれながら、無才であったという事実。
役に立たなければ俺に捨てられるという壮絶な恐怖心が透けて見えた瞬間、俺は、自分を映し鏡で見ているかのようだと胸が締めつけられた。
俺自身も、役に立たなければ生きている意味がないと思い続けてきた人生だったから。
よく、恒一からも、呆れと心配半分ずつのため息をつかれていた。
『朔、いい加減に休んだらどうだ。そろそろ一か月休みを取っていないんじゃないか』
『……俺は大丈夫だ』
『なぜ、そうも働きたがるんだ。過労死するぞ』
『最悪そうなってもいい。俺がいなくなったところで、悲しむ者はいない』
誇張ではなく、事実だ。俺の帰りを、本心から待ち望む者はいない。
故郷に帰れば、化け物だと煙たがられる。実の両親にも恐れられていた。退魔庁に引き取ってもらえて厄介払いできたと話していたのを、たまたま聞いてしまったから単なる思い込みではない。
労働の報酬で、退魔庁に通いやすい華都に家を構えたが、そちらにも帰りを期待する者はいない。みな職務として、仕方なく雑事にあたっているだけだ。
『おい。すくなくともオレは悲しむぞ』
『……そうか』
『反応うすっ! もっと喜べよ』
『すまないが、お前のためだけに長く生きようとは思えないな』
恒一には、愛する妻と子供がいる。
俺がいなくなったところで、なんの問題もない。
『かわいくねえな。じゃあ、これならどうだ? 禍の恐怖に怯える国民を救うために生きる』
それならば、すこしくらいは生きる意味が見出せるかもしれない。
そう考えて、死に物狂いで働いてきた。
化け物と同程度、もしくはそれ以上に、強い才を持って生まれた俺を愛する人間などいない。子供だって、こんな才を引き継いで生まれてしまったら、ろくでもない命運をたどるだろう。
家族など一生必要ないと考えていたそんな俺に、退魔庁の思惑で嫁が送られてきた。
近頃は、朝餉を彼女と一緒にとるのが日課となった。
起床したとき、今朝は彼女がどんな表情をするのかと考えると、穏やかな気持ちになる自分がいる。
興味を抱いたきっかけが無才であったことは間違いないが、彼女自身の人柄も好ましく感じる。
きっと、灯が、俺をただの人間として見ていると感じるからなのだろう。
拙く、不器用な言葉でも、穏やかに待っていてくれるのが心地よくて。彼女の前では口下手なままでもゆるされるのだと甘えてしまう。
俺は、彼女に、期待しそうになっているのかもしれない。
自分の化け物的な一面ですらも、彼女なら、拒絶せず受け止めてくれるのではないかと。
……それともやはり、嫌われるだろうか。
他人のことで頭がいっぱいになるなんて、実に俺らしくない。
今日は、魔の物との戦闘がひっきりなしに続いている。一気に力を使ったせいで、さすがに集中力が散りはじめていた。
戦では、一瞬の隙が命取りとなる。
「隊長殿っ!!」
部下に叫ばれたときには、魔の物の禍々しい図体が、俺を丸呑みにしようとしていた。こんなに一瞬で距離を詰められるとは思っていなかった。
慌てて腕を掲げ、才の発動を促す。
「氷滅」
間一発で、巨大な魔の物を氷漬けにし、粉砕することに成功した。
部下から歓声があがる。
今日も問題なく、禍の殲滅に成功することができた。
――このときまでは、そう思っていた。
異変が現れたのは、退勤して家の敷居をまたいだ瞬間だ。
「お帰りなさいませ、ご主人様。……ひっ!?」
帰りを出迎えた下女の様子が、明らかにおかしい。
「……どうかしたか?」
「い、嫌っ!!」
彼女は恐怖に顔を歪めて、俺から逃げ出した。
あぁ、なるほど。
下女の反応を見て、初めて自分の異常に気がついた。
振りかえれば、俺が歩いてきた道のり全てに霜が降りている。玄関も氷漬けになっていた。これでは、逃げ場を塞がれたように見えても仕方がない。
――才の制御不能状態。
才を酷使したときに、その制御自体が不能になるという現象だ。
俺の場合、ここ数年は制御が安定していた。どれほど才を使ったとしても、制御不能状態にまで陥ることはなかった。だからこその慢心もすこしはあったのかもしれない。今日の魔の物は、特に規格外の大きさだったから。
でも、なぜ、よりにもよって今起こるんだ。
この家には、彼女が……、灯がいるのに。
「屋敷に滞在する全ての者に告ぐ! 玄関に近づいてはならない。和室の縁側から、退避しろ」
感情を殺して、なるべく冷静に叫んだ。
今は、感情的になっている場合ではない。
自分のせいで傷つく者を、一人たりとも出さないことが最優先。
俺が動いたら、より氷害を拡大させるかもしれない。下手に動けず、状況をこの目で確認しにいけないのが不安要素だが、さっきの下女もみなに伝えてくれているだろう。
全員退避させたあとであれば、最悪、自死をもって被害を止めるという選択肢もとれる。
自分の意志とはうらはらに、屋敷の廊下、戸、階段までもが凍っていく。
これでは、魔の物となにも変わらない。
そう自嘲した瞬間だった。
「奥さま、今の旦那さまに近づこうとしてはいけません!」
「嫌です、嫌ですっ! 離してくださいっ。朔さまを一人にはしておけません!!」
階段の方から、足を滑らせそうになりながらも、駆け下りてきた灯が見えて胸が締めつけられた。
あの、大馬鹿が……!
危険だと止められているのに。なぜ、命令に従わない。
さっき、下女が俺を見て逃げ出したときには、それほど動かなかった心臓がとたんに忙しなく騒ぎ出す。
焦り、心配、呆れ、そして――自分の危険を顧みずに駆けつけてくれたという、ほんのすこしの暗い喜び。あらゆる感情が噴きだして、火花が弾けるような強い叱責の言葉が口から出た。
「こちらへ来るなっ!!!! 従わなければ、死ぬかもしれないぞ」
もうすぐで階段を降りきろうとしていた灯の足が止まる。
ああ……。彼女には、一生、こんな姿を見せたくはなかった。
恐怖、戸惑い、畏怖の視線を向けられることには、もう慣れていたはずだったのに。彼女に嫌われたと思うと、なぜだか、たまらない気持ちになる。
いまや魔の物となにが違うのかわからない存在となった俺を見て、恐怖しないわけがないのに。
諦めの気持ちで視線を落とせば、彼女はなぜか、もう一度俺の方へと歩みを進めてきた。
心臓が、激しく高鳴る。
「話が聞こえていなかったのか?」
「いえ。そうではありません」
「早死にしたいのか!?」
苛立ちながら、感情のままに言葉をぶつけたけれども、灯はひるまなかった。
代わりに、あとほんのすこしで触れあえるという距離までやってきて、覆面越しでもわかるほどに強い眼差しで俺を見つめた。
「聞きたいのはわたしのほうです! 朔さまは、屋敷の者を全員退避させて、自分はどうするおつもりなのですか?」
「それ、は……」
「下女のかたが言っていました。あなたは常々、最悪の場合は、俺を切り捨てて一刻も早くこの家から逃げるように仰っていたと。それで? みんなを助けたあと、あなた自身はどうなるの……?」
気が狂いそうなほど、寒いだろうに。
いつ、自分自身がこの冷気にのまれて凍死するかもわからないなかで、彼女は、俺の身だけを案じていた。
なぜ……?
なぜ、それほどまでに、他人へ優しくできるのか。
嘘をついて誤魔化す気も失せるほどに、彼女の行動に心が揺れてしまった。
「…………最悪、俺が死ねばすむ話だ。こんな化け物じみた才を持った人間が生まれたこと自体が間違いだったというだけだろう」
声が、震える。
灯は、なにを思ったのか、制御不能状態に陥っている俺をそっと抱きしめた。
これまでの人生、誰かにやさしく抱きしめてもらえたことなどなかった。せいぜい、退魔庁に引き取られたばかりの幼いころに、恒一から頭を撫でられた程度だ。
氷漬けになって死ぬかもしれないという極限状態にもかかわらず、あたたかくて、離れ難いと思った。
でも、すぐに我へ返る。
「な、なにをする!! 離せ、いい加減にしろ! 俺に殺されたいのか!!」
「あなたになら、最悪、殺されても平気です。あなたは……、悪意でひとを傷つけるようなかたじゃないから」
は……?
あまりの発言に、息をすることすらも忘れる。
呆けてもがくのをやめれば、彼女は離さないというようにきつく俺を抱きしめた。
「あなたが、化け物かどうかなんてわたしにはどうでもいいです。あなたが、無才のわたしでもいいと言ってくれたのと同じです。当然、あなたを一人ここに置いていくこともできません」
化け物かどうかは、関係ない……?
いままで、呪いのように自分を雁字搦めに縛っていたものが、彼女の言葉で浄化されていく。
「もし欲を言うのなら、わたしは、あなたのことをもっと知りたい。あなたと一緒に助かって、共に生きていきたい。それが一番の望みです」
こんな状況なのに、灯は口角をあげて笑った。
この芯の強さが、これまで虐げられながら生きてきたからこそ磨かれて備わったものであるならば、素直には喜べない。
それでも……、こんな女を、愛さずにいられようか。
「朔さま……?」
思わず、彼女を抱きしめ返す腕に、力がこもった。
自分だけの命であるならば、正直どうでもよかった。
でも、共に生きたいというのが彼女の望みであるならば、それはなんとしてでも叶えてやりたい。
目を閉じる。
全神経を集中させて、才の制御を試みた。
もう、大丈夫だ。
たとえ化け物に落ちぶれたとしても、彼女だけは、俺を見捨てないと信じられる。
それまで自暴自棄になっていた思考が、もたらされた安堵と人肌の温もりから落ちついていく。
精神が安定したことが、才の暴走にも関係したのかもしれない。
「朔さま、見てください……!」
灯の喜びの声で再び瞳をひらけば、広がっていたのは、いつもどおりの屋敷の光景だった。
「……よかった」
その後、安心しすぎたせいか、はたまた体力を使い果たしたせいか、気を失うように崩れこんで寝入ってしまう。
「朔さま!? 大丈夫ですかっ」
まどろむ意識の中で聞こえた、灯の心配する声ですらも愛おしく感じた。
もう、彼女なしには生きていけない。
そう確信した夜だった。
(灯Side)
朔さまが才の暴走状態に陥った翌朝は、いつもよりも早く目覚めた。
昨夜は、才の暴走を制御できたが疲れ果てて寝入ってしまった朔さまに、せめて布団だけはかぶせてわたしも自分の部屋で寝た。
下女の方々は一斉に避難したため、この屋敷には戻っていない。
つまり、いまこの家は、完全にわたしと朔さまの二人きりという状態だ。
玄関のほうに出て様子を見れば、まだ朔さまは眠っていらっしゃったので、そっとしておくことにした。とにかくお疲れだろうからゆっくり休んでいただきたい。
何気なく和室に入って縁側で朝の日差しを浴びていたら、庭の方からかわいらしい鳴き声が聞こえてきた。
「にゃあ〜」
(あら。もしかして、最近、この家に住みはじめた女の子?)
黒猫だ、かわいいな。
わたしに興味がありつつも警戒しているのか、すこし離れた距離から様子をうかがっている。
そういえば、この屋敷に来てから、動物と話していなかったな。
誰かに見られていたらヘンに思われるかもしれないけど、いまは絶好のチャンスだ。
(こんにちは)
(にゃにゃっ!? あなた、人間なのに、私の言葉がわかるの?)
(うん。実はそうなんだ)
(へぇ~)
黒猫は、警戒心をほどいてくれたのか、わたしの足下へすりよってきた。
(ねえ、あなたは知ってる? 昨夜、このあたりがすごく冷えこんだでしょう……?)
そんなことまで知っているなんて、もしかしてこの子は、屋敷の敷地内に住みついているのかな?
(そうだね。大変そうだったけど、いまはもう落ちついたみたいだよ)
(そう……。あの綺麗な男の子も無事かにゃ?)
綺麗……? もしかして、朔さまのことだろうか。
不意に、口元の覆面をはずした彼の顔が、頭をよぎる。
どんな見た目をしていようと彼への気持ちは変わらないことに違いはないけれど、いまだにわたしは、彼の顔の全貌を見られていない。
もしかして、この黒猫は覆面を完全にはずした彼と会ったことがあるのだろうか。
そうだとしたら……、ちょっと妬ける。って、わたしってば、なに猫にまで嫉妬しそうになってるの?
(綺麗な男の子って……、銀色の髪のひとのこと?)
(そうにゃ!! すごく男前でかっこいいのに、中身は意外と乙女なのにゃ)
(えっ、そうなの?)
黒猫のエメラルドの瞳が楽しそうにきらりと光る。
(ここ最近、会うたび、あたしに報告してくるんだにゃ。今日は、彼女が笑ってくれてうれしかったとか。憶測で彼女の無才を話題にする下女たちを脅してしまって反省したとか……。なに言ってるんだかよくわからなかったけど、その子の話をするときのあの子、頬を赤らめていてかわいいのにゃ)
思わぬところから、心臓を直撃するような衝撃話が飛びだして、心拍数がどんどん高まっていく。
えっ? なにそれ、なにそれ、なにそれ……!
(あれ? あなたも顔が赤いにゃ。もしかしてその女の子ってあなたのこと?)
あの朔さまが、猫に相談しているという図式事態が、かわいいで渋滞しているというのに。まさかの、わたしについての相談……!?
顔が熱い。胸が、とてつもなくドキドキする。
そんなわたしに、さらなる追い打ちがかけられた。
和室の襖が唐突に開く。
そこに立っていたのは……、
「朔……さま?」
「灯! ここにいたのか」
彼がうれしそうに笑った瞬間、さらに心拍数があがった。
朔さまが、完全に覆面を外している!?
陶磁器のように滑らかな白い肌に、色素が薄めの切れ長の瞳。すっと通った高い鼻に、形の良い唇が完璧に小さな顔へ配置されている。もしかして……とは薄々思っていたけど、予想を遥かに超えた美しさに呆けてしまった。
ど、どどど、どうしよう!
ただでさえ、男のひとに免疫はない。こんなにかっこいいお顔を見つめながら、まともに話せる気がしないのですが……!
「灯……?」
当の本人は、わたしの心境など知るよしもなく、目の前までやってきた。目線をあわせようとして座ったのだろうけど、なんだか距離が近いような。
それにしても、間近で見ても顔が整いすぎていて、心臓に悪い。今更、覆面の重要性を思い知る。
「もしかして、体調が悪いのか……? 昨日、俺が無理をさせたから」
「い、いえ。あ、の……、今日は、覆面をしないのですか?」
「ああ……。そういえば、していなかったな」
一度言葉を区切ったあと、彼は不安そうに口にした。
「その……灯には、もうなにも隠したくないと思ったから外したのだが。俺の顔が……、好みではなかったりするか?」
憂いを帯びた表情にすら色気があって、胸がきゅんとしてしまう。
でも、朔さまを誤解させるのは、本望ではない。
「ち、ちがいます! そもそもわたしは……、あなたの顔がどうであろうと、お慕いする気持ちは変わらないです」
「……そうか」
「でもその……あまりにも、想像以上に素敵で、その、びっくりしてしまって……」
しどろもどろになって言葉をつまらせたら、彼は一瞬かたまったあと、白い頬をすぐに赤くした。
「素敵、だと思ってくれたのか?」
「は、はい。……かっこよすぎて、直視できません。覆面をつけてください」
「嫌だ」
「えっ?」
朔さまは、幸せそうに笑った。
まるで少年のように無邪気な笑顔に、また胸が大きく高鳴る。
「顔が赤くなっている。かわいい」
「なっ!?」
「もとは、ひとに視線を向けられるのが苦手で、覆面を身につけていた。でも……、灯になら見つめられるのも悪くないな」
もしかして、わたし……、とんでもないひとのもとへ嫁ぎましたか?
頭から湯気が出そうなほど顔が熱くなって、朔さまの美しすぎる顔がどんどん迫ってきたその瞬間だった。
「にゃーにゃー」
(幸せそうでよかったにゃ〜! お邪魔ものは退散するにゃん)
ひらりと庭の方へ駆けていったクロに気を取られて、朔さまが問いかけてくる。
「クロ? 灯と遊んでいたのか?」
「じ、じつは……」
あの黒猫と話していた、と打ち明けようか悩んで、わたしは言葉を飲みこんだ。
「灯?」
「なんでもありません」
話さなかったのは、どうせ信じてもらえないから、という理由ではない。
逆だ。
朔さまは、わたしの言葉をきっと全力で信じてくださる。だからこそ、勝手にクロから話を聞いたことを怒られてしまうだろう。
「ふふっ」
「うん? なにを笑っている」
「いえ。なんでもありません」
クロから、朔さまがどんなことを言っていたかまた聞いてみたいという、悪戯心も芽生えていた。
なにかをきっかけにバレたときには、潔く謝ろうっと。
*
朔さまの才の制御不能事件から数日後には、伝達が行き届き、屋敷へ下女の方々が戻ってきた。
あの夜の恐ろしさで辞職してしまった方も一人いたけれど、それ以外のかたは復帰してくださったので安堵した。彼の心の平穏を想えば、本当は全員戻ってきていただきたかったのだけれど、それはわたしの傲慢な考えなのかもしれない。
ちなみに、下女の方々が戻ってきてからの朔さまは変わらずに覆面をつけて生活していらっしゃる。正直、あの美しすぎる顔はわたしも見慣れないのですこしありがたい。
それにしても……、今朝の朔さまは、一向に朝餉の席から立ち上がらない。先ほどがから、きれいに完食したお膳の上へ視線をさまよわせて沈黙している。
「あの、朔さま」
「なんだ」
「そろそろ出勤される時間ではないのですか?」
「あっ、いや。……それ、なんだが」
妙に歯切れが悪い。
いつもどおり軍服を身につけているから、てっきり出勤なのかと思ったけれど、もしかして……。
「お休みなのですか?」
「……そうだ」
なんだ、それならそうと仰ってくれればよかったのに。
休日なのになぜ軍服を? という疑問はさておき、日々過酷に働いている彼が休めるのは純粋にうれしい。
「久しぶりですね! 毎日、禍の殲滅でとてもお疲れでしょうから、ぜひゆっくりおやすみになってください」
「い、いや! そうではなくて……!」
「えっ?」
彼は、すこし言葉に詰まりながら、尋ねてきた。
「灯は……、今日は用事があるのか?」
「いえ。ございませんよ」
というか、そもそも氷室家に嫁いでから、用事らしい用事はない。下女の方々と一緒に働くのを控えるように言われてしまってからは、裁縫をしたり、屋敷内を散歩したりしていたけれど、さすがに繰り返していたら飽きてしまった。なので、朔さまから直々に許可をいただいて、近頃はこっそり家事手伝いにも参加している。
朔さまはわたしの状況をご存じのはずだけど、なぜ今さらそんなことを尋ねるのだろう。
疑問に思って首をかしげたら、彼は、意を決したように口にした。
「じゃあ……、出かけないか?」
「出かける!?」
「あっ……。や、やはり、俺と一緒には嫌だろうか」
自信なさそうに意見をひっこめてしまった朔さまに、今までぽつぽつと見えていた違和感の点がきれいにつながっていく。
もしかして、朔さまは外出に誘うかどうかを迷っていらっしゃったのだろうか?
いかにも誘い慣れていなさそうな、おどおどとした言動へ愛おしさがこみあげてきてしまう。
朔さまには、自分が色男であるという自覚が、あまりにもなさすぎる。
「そんなことはないです!! ぜひ、お出かけしましょうっ」
「ほんとか?」
「もちろんです……! むしろ、いままでずっと華都を巡ってみたいと思っておりました」
華都。
鎮宮家でも耳に挟んだことはあったが、実際にこの目で見たことはない。
そういえば、妹は事あるごとに、華都への外出をねだっていた。
派手な色の着物や、キャンディという甘い宝石のような菓子を買ってもらっていて、『羨ましいでしょう?』と自慢されたからよく覚えている。
氷室家の屋敷が、その華都の中に建っているということも、もちろん知っている。でも、この家に来た頃は今後の自分の身の上を考えるのに精一杯だったし、華都の街並みを見てみたいなどという悠長な考えは持てなかった。
「今まで一度も外出していなかったのか。申し出てくれていたら、すぐに許可を出したのに」
「そんなこと恐れ多いので」
「すまない……。我慢させていたことに気がつかなかった」
「謝らないでください! 我慢していたというよりも、許可なく外に出てはいけないというのが昔から当たり前だったので。外に出たいという願望を自然に持つこともなくなったというか……」
言葉にしながら、はっと我にかえった。
これでは、今までの不幸自慢をしているように聞こえるかもしれない。
バツが悪くなって顔を下げたら、朔さまは小さく息をついた。
「灯は、なにも悪くない。だから、そう自分のことを責めるな」
「朔さま……」
「今までの境遇のことも、わかっている。でも、この家に、灯の意志を妨げようとする者はいないことも知っていてほしい。……灯が望むことなら、できれば叶えたいと思っている」
朔さまの言葉は、魔法のようだ。
憧れる気持ちをお腹の底にしずめて、興味を持たないようにすることが得意になってしまったわたしに気がついているのだろう。その呪いから解き放とうとしてくれているのが伝わって、胸がじんと温まる。
「ありがとうございます。朔さまの下に嫁げて、幸せです」
わきあがってくる想いを、そのまま素直に伝えたら。
「あ、あぁ。……遅くなる前に、そろそろ出ようか」
覆面の下の表情まではのぞけなかったけど、なんとなく、その白い頬を赤く染めているような気がして微笑ましい気持ちになった。
*
「ここが、華都なのですね」
氷室家の屋敷を出て、すこし歩くと、すぐに大通りのような場所へ出た。
想像していた以上のひとの多さ、建物の密集具合、すべてに圧倒される。
きらきらと七色に輝くガラスをはめこんだような建物や、ひとが多く出入りしている四角く大きな建物。
目を引く色合いの着物を身に着けた女性や、異国風の珍しい服を身につけた男性。
屋敷を出る前に身だしなみは整えてもらったけど、行き交うひとみんな洒落ているような気がして、場違いではないかと気後れしてしまう。
でも、多くの人々の視線は、わたしではなく隣に立っている朔さまへと向いているようだった。
「なぁ。あそこに立ってる背の高い男のひと、もしかして……」
「化け物退魔将さまじゃないか? この辺に住んでるとは聞いてたけど、初めて間近で見たよ。本当に覆面をしているんだな」
「だよな。となると、隣に立っている女性は……」
「お嫁さん? かわいらしいひとだな」
「へえぇ、あんな可憐なひとが化け物退魔将さまのお嫁さんだなんて意外だな」
会話が聞こえてしまって、羞恥心から顔が熱くなる。
勝手に気まずくなって焦っていたら、突然、朔さまに手を取られて胸がドキッとした。
「さ、朔さま……?」
「……嫌か?」
彼が自信なさそうに手を離そうとしたので、わたしはぎゅっと握りかえした。
すこし骨張った大きな手の温もりが伝わってきて、ドキドキするのになぜだか安心する。
「いえ。うれしいです」
「そうか。……じゃあ、今日はこうして歩こう」
しばらく歩いた後、休憩をしようという話になり、一緒に茶寮へ入った。
「噂の退魔将さまも、こういうところへ来るんだ」
「怖いイメージしかなかったけど……、以前お見かけしたときより心なしか柔らかい雰囲気になられたような」
席まで案内してくれた給仕のかたも、談笑していたお客さんたちも、朔さまの来店にすこし驚いていたように見えた。でも、当の本人は覆面で視線を遮られているためか、気にしてないようだ。
「どれにする?」
「ええと……、全く詳しくないので、朔さまのお勧めを教えてください」
「俺もあまり詳しくはない。職務中に、幾度か寄ったことがある程度だ」
「そうだったのですね」
「あぁ。そもそも、今までは一緒に出かけたいと思う相手もいなかった。……灯が、初めてだ」
「うれしいです。また、一緒にお出かけしましょうね」
にこりと笑えば、彼は静かにうなずいた。
それから朔さまは、あんみつという菓子を一人分だけ頼み、自分はお茶だけ頼んでいた。
朔さまが、運ばれてきたものを飲むために、覆面をそっと外す。
口元だけ外すのかと思いきや、そのまま全てを外してしまったので驚いた。
「えっ……!?!?」
「あの超美形のひと、退魔将さまだよね!?」
「化け物とか言い始めたのどこのどいつだよ! とんだほら吹きじゃねえか!!」
案の定、茶寮中の注目の的だ。
「朔さま。全てを外してしまって、よかったのですか?」
「あぁ。今は、外したいと思った。……覆面越しにではなく、灯の表情をちゃんと見ていたいと思って」
しばし返答に困るほど、心臓がうるさくなる。
真っ直ぐに見つめてくる切れ長の瞳は、不思議な色香を放っている。先ほどから、彼の容姿について大絶賛の声が飛び交っているのだけど、周囲の声なんて聞こえてもいなさそうだ。
わたしは、朔さまの熱を孕んだような視線から逃れるように、あんみつという菓子を口にした。
「ん~! このあんみつという菓子、とても美味しいです! 朔さまは本当に要らないのですか?」
「あぁ。甘いものは、そこまで得意じゃない」
「そうなのですか……。わたしばかりが楽しんではいませんか?」
不安になって聞けば、彼は迷うことなく答えた。
「いや。……俺は、灯の幸せそうな顔が見られてうれしい」
口にしているあんみつ以上に、彼の言葉のほうが甘く感じられる。
気恥ずかしくなって、話題をそらした。
「え、えと……。華都には派手な建物や、鮮やかな色の服を身に着けたかたが多いのですね」
「最近は、異国から流入してきた文化が流行っているようだな。興味がある店があったら一緒に入ってみよう」
「ありがとうございます……! そういえば、すこし気になっていたのですが、朔さまは休日も軍服を身につけるのですね」
彼は今日も、金の刺繍の入った漆黒の軍服を身につけている。
銀色の髪はきらきらと粒子を放つように輝いていて、凛とした佇まいがとても美しい。以前から思っていたけれど、朔さまには退魔庁の軍服がよく似合う。
「実は、これ以外にきちんとした服を持っていなくてな」
「そうなのですか?」
氷室家の財力があれば、いくらでも服装などにお金を費やせるはずなのに。
意外な理由に目を瞬くと、朔さまはバツが悪そうに言った。
「正直、こんな風に誰かと一緒に出かける未来がやってくるなんて、想像もついていなかった。華都に屋敷を構えたのも、退魔庁の出勤に便利だからというつまらない理由だ。すこし前までの俺は……、禍の殲滅にしか、自分の存在意義を見いだせていなかったのだと思う」
その言葉はとても哀しく、同時に、共鳴してしまう自分がいた。
誰よりも才に恵まれたおかたなのに、縛られている鎖のようなものが似ているのかもしれない。
朔さまは、才に囚われて、自分の存在意義を疑っている。
「今は……どうなのですか?」
彼はすこし考えるように黙りこんだあと、やさしい声で告げた。
「灯のことを、もっと知りたい。共に生きたい」
胸がドキドキする。
短いけれどもたしかに想いを感じられる素直な言葉に、顔が熱くなるのを止められない。
「灯だけが、俺をただの人間にしてくれる」
「朔さま……」
「灯。俺はもう……、お前なしには」
彼が、なにか重要なことを言いかけた、そのときだった。
「あら……! そこにいるのは、まさかお姉さま?」
その甘ったるいような声が聞こえてきたとたん、身体が瞬時に強張った。
視線をやれば、牡丹色の艶やかな着物に身を包んだ華が驚いたような顔でこちらを見ていた。お母さまとお父さまの姿は見えないけど、付き添いをつけて一人で遊びに来ているのかもしれない。
華の注目は、わたしではなく、すぐに朔さまへと向けられた。
「もしかして……、そちらに座っていらっしゃるのは」
「灯。この女性は?」
「……妹の華です」
朔さまは一瞬目を見ひらいた後、立ち上がって華へ一礼した。
「ご挨拶が遅れたな、氷室朔だ」
華とは初対面のはずだけど、朔さまの声は心なしか冷たい。
「……なにが、化け物退魔将よ」
華は、周囲に聞こえないように呟いたつもりだろうけど、昔からの習慣のせいかわたしには明確に伝わった。無理やり笑顔を浮かべてはいるものの、口元が引きつっている。相当怒っているのが伝わってきて、金縛りにあったみたいに息苦しくなる。
『なぜ、お姉さまが、こんなに美しい男性と結婚しているの? 勘違いして、調子に乗らないで。もとはといえば、彼はあたくしのものよ』
今、華はこんな風に、考えているのだろう。
そもそも彼女は、朔さまが噂どおりの醜いひとだと思いこんでいたからこそ、わたしへ婚約を押しつけてきた。
本当の彼が、誰をも振り向かせる美青年だと知ったいま、華ならきっと……、
「初めまして、氷室さま。いきなり申し訳ございませんが、氷室さまは勘違いしていらっしゃいます」
そう。昔から華は、わたしの愛するものを、悪気なしに平気で取っていく子だった。
「本当の婚姻相手は、そこにいる無才の灯お姉さまではございません。鎮宮の無効化の才を正当に引き継ぐのはあたくしだけですもの。あなたは、今まで騙されていらっしゃったのです」
棘のある発言が、茶寮の客たちの間にまで、波紋を呼び起こす。
「なんと! 氷室様の奥さまは、無才なのか!?」
「嘘でしょ。国の英雄の奥さまが、無才だなんて許されるの?」
華は紅を塗った唇を上機嫌につりあげると、朔さまに近づいて、そっと自分の腕を絡めようとした。
嫌だ。
朔さまに、触れないでほしい。
これまでの人生、神に愛されている妹に全てを譲るのは仕方のないことだと思ってきた。
でも……でも、いま初めて、心の底から、このひとだけは彼女に取られたくないと思う自分がいる。
無才のわたしは、ここでもまた諦めるしかないの?
涙がこぼれそうになった、その瞬間だった。
「俺に触れるな」
朔さまは、穢らわしいもののように、華の腕を容赦なく振り払った。
「い、痛いわ! なにをするのよっ!」
「なんとでも言え。灯以外の人間に、今さらなにを言われようとどうでもいい」
朔さまは、珍しいほど怒りを露わにしながら、わたしの方へ寄り添った。
そして、呆けているわたしの手を取ると、華へ堂々と宣言した。
「いい機会だ、明言しておこう。俺が愛するのは、灯だけだ。無才であっても、そうでなくても関係ない」
「はあ!?」
「今さっきの態度を見ていただけでも、どれほどお前が灯に危害を加えてきたのかがよく伝わってきた。今後、彼女を害するということは、俺も敵にするということだと、その頭にしっかり刻んでおけ」
朔さまの放つ冷気で、茶寮が一気に冷えこむ。所々に霜が降り始め、他の客からも悲鳴が上がった。
「む、無効化……っ!」
本気で危機感を抱いたらしい華が、手を掲げて彼の力を封じようとしたけれど……、全く効果をなしていない。無効化は万能じゃないのだ。相手の才が強すぎれば、押し切れない。
それにしても、華の無効化の力がこんなに効いていないなんて、初めて見たかも……。
朔さまはその様子を見て、馬鹿にしたように鼻で笑った。
「はっ。その程度の弱い力では、俺の力を到底、塞ぎこめないぞ。俺には、灯よりも、お前のほうがよほど無才に見えるな」
「っっ〜〜!」
華は屈辱からか、顔を真っ赤にしていた。
すこしばかりやり過ぎではないかと、見ているこっちのほうが心配になってくる。
「ふんっ。こんな野蛮なムカつく男、こっちのほうから願い下げだわ。無才のお姉さまとお似合いだこと!」
綺麗な捨て台詞を吐いて、とっとと茶寮から出ていく華の姿は、これまでの人生で見たこともないほど惨めだった。
華が出て行ったのを見届けて、すぐに茶寮の気温がもとに戻る。華を威圧しながらも被害が出ないように塩梅を調整していたらしい。
朔さまは、すぐにわたしの様子をうかがってきた。
「灯。突然、寒くしてしまって、すまない。身体を冷やしてはいないか?」
「あっ、いえ。もう大丈夫ですよ」
一番最初に気にするところそこなんだ……!?
「ふふっ」
「なにかおかしいことでも言ったか」
「いえ。朔さまのことが好きだなぁと、あらためて思いました」
すこし同情もしたけれど、さきほどの華への彼の言葉は、今までのわたしが縛られてきたものを鮮やかに吹き飛ばしてしまった。
「朔さま。わたし、無才として生まれてきてよかったと、初めて思えました。そうだったからこそ、わたしはあなたに出会えたのです」
心の底からの感謝と共に笑顔で告げれば、彼は呆けたようにわたしを見つめたあと、雪解けの春のようにあたたかく微笑んだ。
「そうか。なぁ、灯」
「はい」
「……愛してる」
わたしにだけ聞こえるように囁かれたその言葉を、一生、忘れることはないと思う。
無才姫として生まれたわたしは今、最凶と謳われる退魔将様の隣で、以前には想像することすら難しかった幸福の最中にいる。【完】



