わたし、結城澪(ゆうき みお)。
中学のときは目立つのが苦手で、何をやっても「無難」が安心だった。高校では変わりたい、って思ってた。思ってたけど、入学式の朝から心臓がうるさくて、家を出るとき鏡の前で三回深呼吸した。「よし……笑顔。笑顔……」駅から学校までの坂道。
桜が風に揺れて、花びらが制服の肩にふわっと乗る。そのとき――曲がり角の向こうから、誰かが勢いよく走ってきた。「うわっ!」ドンッ、という鈍い衝撃。
わたしの手から書類が舞い上がって、空にばらばらに散った。「あ、ごめ――」相手の声が、近い。すぐ目の前にいたのは、背の高い男の子。
同じ制服。ネクタイが少し緩くて、前髪が風に乱れている。片耳に小さなピアス……いや、光のせいでそう見えただけかもしれない。目が、びっくりするほどきれいだった。「大丈夫? 怪我してない?」声は低いのに、言い方がやさしい。
わたしは一瞬、言葉を忘れた。「あ、うん……だいじょうぶ。私のほうこそ……」散らばった書類を拾おうとしゃがんだら、同時に彼もしゃがんで、指先が触れそうになる。
ぎゅっと息が詰まる。彼が笑った。「入学式の書類? これ、落ちてた」そう言って渡された紙の端には、わたしの名前が印刷されていた。
――結城澪。「ありがとう……」「結城、澪。覚えた」え、いま、名前……。
ただの親切なのに、胸が変な音を立てた。「俺、佐伯(さえき)。同じ一年だったらよろしく」「……よろしく」彼が立ち上がって、わたしにも手を差し出した。
その手を取る瞬間、手のひらが熱い。たったそれだけ。
なのに、入学式の校門が見えた頃には、わたしの心臓はもう、春の嘘を本物にしていた。2. クラス発表、隣の席は“あの人”だった体育館で入学式が終わって、クラス掲示の前が人でぎゅうぎゅうになる。「えっと……1年3組……あった! 私、3組だ!」胸をなで下ろして教室へ向かう。
廊下の窓から見える校庭は、部活の勧誘の準備でカラフルだった。先輩たちの声、太鼓の音、笛の音。全部がキラキラしていて、ちょっと眩しい。教室のドアを開けた瞬間――見えた。窓際、後ろから二番目の席。
机に肘をついて窓の外を見ている男の子。……佐伯。「え、うそ……」彼がふっとこちらを見て、目が合う。
そして、口元だけで笑った。「やっぱ同じだ」わたし、絶対、顔赤い。席を確認する。
わたしの席は――佐伯の隣。「……ええええ」声に出したら負けだと思って飲み込んだのに、心の中で叫びが止まらない。
運命って、こんなに雑に人をからかう?席に座ると、佐伯がわざとらしく小声で言った。「さっきの続き。よろしく、結城」「……よろしく、佐伯くん」「“くん”か。結城は真面目だね」「そ、そんなこと……」「俺は“澪”って呼んでもいい?」一瞬、呼吸が止まる。
名前を呼ぶって、こんなに近いことなんだ。「……だめじゃない、けど」言い終わる前に、佐伯がさらっと言った。「じゃ、澪。改めてよろしく」やばい。
心臓が、跳ねる。跳ねすぎて苦しい。3. 自己紹介、わたしは“変わりたい”と言えなかった担任の先生が自己紹介を始めましょう、と言って、順番にみんなが立ち上がる。「趣味はダンスです!」
「サッカーやってました!」
「推しは○○です!」明るい。眩しい。
わたしの番が近づくにつれて、手が冷たくなる。(変わりたい、って言えばいいのに)
(何か面白いこと言えば……)でも、喉が固まって、立ち上がったとき、結局口から出たのは無難な言葉だった。「結城澪です。趣味は読書で……よろしくお願いします」着席すると、隣から小さな声。「澪、読書好きなんだ」佐伯が、ちゃんと聞いてた。
それだけで、少し救われる。「うん……推理小説とか」「じゃあ、今度おすすめ教えて」「え……いいよ」「約束ね」“約束”。
たった二文字に、胸がきゅっとなる。4. 放課後、部活勧誘は戦場で、恋はもっと戦場だった放課後の廊下。先輩がチラシを配って、声を張り上げる。「バスケ部見学きてー!」
「軽音! 初心者歓迎!」
「美術部、お菓子あるよ!」わたしは決められずに立ち尽くしていた。
変わりたいのに、どこにも踏み出せない。そこへ、佐伯が近づいてきた。「澪、部活どうする?」「決めてない……」「じゃ、一緒に見て回る? 勧誘、面白いよ」「……うん」一緒に歩く。
それだけで周りの音が遠くなる気がする。
隣を歩く佐伯が、時々わたしの歩幅に合わせて少しだけゆっくりになるのが、やさしくて、ずるい。中庭のほうへ行くと、チア部の先輩が元気に声をかけてきた。「新入生? 体験だけでもどう?」わたしが「え、えっと……」と困っていると、佐伯が先に言った。「澪、ダンス系興味ある?」「……少し、ある」「じゃ行こ。体験だけならタダ」「タダって何……」笑いながら引っ張られる。
腕を掴まれたところが、熱くて、ずっとそのままがいいと思ってしまうのが怖い。体育館の隅で体験が始まる。
音楽が流れて、先輩が振り付けを教えてくれる。「大丈夫、ゆっくりでいいから!」わたしはぎこちなく手を動かす。
鏡に映る自分が、下手で、恥ずかしくて、泣きそうになる。そのとき、佐伯がわたしの横で同じ動きをして、低い声で言った。「澪、リズムは合ってる。あとは肩の力抜けばいける」「……ほんと?」「ほんと。俺、嘘つかない」その言葉が、胸の奥に落ちた。
優しいのに、強い。
わたしが欲しかった“背中を押す言葉”だった。5. 事件:佐伯が“モテる”と知った日体験が終わって外に出たら、女子が何人か佐伯の周りに集まっていた。「佐伯くん、どの部活入るの?」
「LINE交換しない?」
「ねえねえ写真撮ろ!」……え。
ええ。わたしの頭が固まる。
そりゃそうだ。顔も声も雰囲気も、普通にモテる。
でも、現実を突きつけられると心がざわざわする。わたしが一歩引いた瞬間、佐伯がこちらを見た。
そして、女子たちに軽く手を上げて言った。「ごめん、今、澪と回ってる」……澪。
名前。みんなの前で。さらっと。女子たちが「え、彼女?!」みたいな顔をする。
わたしの顔が熱くなる。「ち、違っ……」否定したいのに、声が出ない。
否定したら、佐伯が遠くへ行く気がして。佐伯がわたしの耳元に、やけに近い距離で囁いた。「大丈夫。変な意味じゃない。……でも、澪がいなくなるの、嫌だった」その一言で、足元がふわっと浮いた。
胸が、ぎゅうって締まった。わくわくする。
ドキドキする。
怖いくらい。6. はじめての“放課後の約束”その帰り道。
夕焼けが校舎をオレンジに染める。「澪、明日、放課後少し空いてる?」「え? うん……空いてるけど」「図書室、行こ。おすすめの推理小説、教えてって言ったじゃん」「……覚えてたの?」「約束は守る主義」また、“約束”。
わたしは小さく頷いた。「わかった。……一緒に行こ」佐伯は満足そうに笑った。「よし。じゃ、明日」そのとき、風が吹いて、桜の花びらがわたしの髪に落ちた。
佐伯が手を伸ばして、そっと取ってくれる。指先が、髪に触れる。
たった一瞬なのに、心臓が暴れる。「取れた」「……ありがと」「澪ってさ」「なに?」「顔、すぐ赤くなる。かわいい」……え?わたしは固まって、何も返せなかった。
佐伯は何事もなかったみたいに歩き出す。
ずるい。ずるすぎる。7. 図書室の午後、距離はページ一枚分次の日。放課後。
図書室は静かで、古い紙の匂いがする。窓から光が差して、埃がきらきら舞う。わたしは好きな作家の棚へ案内した。「これ、読みやすい。あと、これも……」佐伯は背表紙を眺めながら、ふとわたしを見る。「澪、話すとき、目がちゃんと前を見るね」「え、そう?」「好きなことの話してるとき、表情が変わる。……いいな、そういうの」佐伯の声がやわらかい。
わたしは思わず聞いてしまった。「佐伯くんは、好きなこととかあるの?」彼は少し黙って、棚から一冊抜いた。
推理小説じゃない、薄い詩集だった。「これ。……昔から好き」「意外」「よく言われる」彼がページを開いたとき、栞が落ちた。
拾おうと同時に手が伸びて、また指先が近づく。
今度は触れた。ほんの少し。佐伯が小さく笑う。「澪といると、よくぶつかる」「わ、わざとじゃない!」「知ってる。……でも、嫌じゃない」その“嫌じゃない”が、わたしの胸を一番強く叩いた。
返事ができない。声が出ない。
ただ、頷くしかない。図書室の時計がカチカチ鳴る。
時間がゆっくり流れているのに、心臓だけが急いでいる。帰り際、廊下で同じクラスの子たちの会話が聞こえた。「佐伯くんってさ、好きな人いるらしいよ」
「え、誰?」
「わかんない。でも、入学初日から誰かと一緒にいたって」わたしは立ち止まった。
耳が熱くなる。入学初日から一緒にいた。
……それ、わたし?でも“好きな人がいる”。
それがわたしじゃなかったら、どうしよう。胸が、痛い。
恋って、こんなに早く人を不安にするんだ。その夜、布団の中でスマホを握って、何度も通知を確認してしまう。
何か来てないかな。来るわけないのに。そして0時過ぎ、画面が光った。佐伯:『今日、楽しかった。澪のおすすめ、読み始めた』心臓が跳ねた。
すぐ返信したいのに、指が止まる。(なんて返すのが正解?)
(重くない?)
(嬉しいって言っていい?)悩んで悩んで、結局送った。澪:『うれしい。続き気になったら明日話そう』送信。
既読がついて、すぐ返ってきた。佐伯:『明日も会えるってこと? 最高』……ずるい。
こんなの、キュンって言うしかない。
数日後、体育。
バドミントンのペアを決めることになった。先生が適当に組み合わせていく。「結城と……佐伯。お前らペアな」「えっ」わたしの声と、周りのざわめきが重なる。
佐伯は平然としてるのに、わたしだけ動揺してる。コートでラケットを握る。
サーブが全然入らない。焦る。恥ずかしい。「ごめん……!」佐伯が笑う。「謝らなくていい。澪、緊張しすぎ」「だって……みんな見てるし」「見てるのはシャトル。俺が見るのは澪」……待って。
それ、言っちゃだめなやつ。わたしはラケットを落としそうになって、佐伯がすぐ拾ってくれる。
手が重なる。熱い。「ほら。深呼吸」佐伯がわたしの手の甲を、軽くトントンと叩く。
それだけなのに、胸がきゅううっとなる。
体育館の音が遠くなる。(無理、これ、好き……)10. 文化祭の実行委員、恋と青春は同時進行5月。
文化祭の実行委員を決める日が来た。「誰かやりたい人?」
沈黙が落ちる。誰も手を上げない。
わたしも、手を上げられない。そのとき、佐伯が手を上げた。「俺、やる」教室がざわつく。
モテる人って、こういうときも目立つ。そして佐伯は、こちらを見て言った。「澪も、一緒にやらない?」「えっ?!」突然の指名。
心臓が跳ねる。
でも――わたしは、あの日書いた一行を思い出した。怖くても挑戦する。「……やる」自分の声が、意外としっかりしていた。
クラスが「おおー!」と盛り上がる。佐伯が小さく頷いて、口の形だけで言う。「かっこいい」それだけで、胸がいっぱいになる。
わたし、変われるかもしれない。
あなたが隣にいるなら。
中学のときは目立つのが苦手で、何をやっても「無難」が安心だった。高校では変わりたい、って思ってた。思ってたけど、入学式の朝から心臓がうるさくて、家を出るとき鏡の前で三回深呼吸した。「よし……笑顔。笑顔……」駅から学校までの坂道。
桜が風に揺れて、花びらが制服の肩にふわっと乗る。そのとき――曲がり角の向こうから、誰かが勢いよく走ってきた。「うわっ!」ドンッ、という鈍い衝撃。
わたしの手から書類が舞い上がって、空にばらばらに散った。「あ、ごめ――」相手の声が、近い。すぐ目の前にいたのは、背の高い男の子。
同じ制服。ネクタイが少し緩くて、前髪が風に乱れている。片耳に小さなピアス……いや、光のせいでそう見えただけかもしれない。目が、びっくりするほどきれいだった。「大丈夫? 怪我してない?」声は低いのに、言い方がやさしい。
わたしは一瞬、言葉を忘れた。「あ、うん……だいじょうぶ。私のほうこそ……」散らばった書類を拾おうとしゃがんだら、同時に彼もしゃがんで、指先が触れそうになる。
ぎゅっと息が詰まる。彼が笑った。「入学式の書類? これ、落ちてた」そう言って渡された紙の端には、わたしの名前が印刷されていた。
――結城澪。「ありがとう……」「結城、澪。覚えた」え、いま、名前……。
ただの親切なのに、胸が変な音を立てた。「俺、佐伯(さえき)。同じ一年だったらよろしく」「……よろしく」彼が立ち上がって、わたしにも手を差し出した。
その手を取る瞬間、手のひらが熱い。たったそれだけ。
なのに、入学式の校門が見えた頃には、わたしの心臓はもう、春の嘘を本物にしていた。2. クラス発表、隣の席は“あの人”だった体育館で入学式が終わって、クラス掲示の前が人でぎゅうぎゅうになる。「えっと……1年3組……あった! 私、3組だ!」胸をなで下ろして教室へ向かう。
廊下の窓から見える校庭は、部活の勧誘の準備でカラフルだった。先輩たちの声、太鼓の音、笛の音。全部がキラキラしていて、ちょっと眩しい。教室のドアを開けた瞬間――見えた。窓際、後ろから二番目の席。
机に肘をついて窓の外を見ている男の子。……佐伯。「え、うそ……」彼がふっとこちらを見て、目が合う。
そして、口元だけで笑った。「やっぱ同じだ」わたし、絶対、顔赤い。席を確認する。
わたしの席は――佐伯の隣。「……ええええ」声に出したら負けだと思って飲み込んだのに、心の中で叫びが止まらない。
運命って、こんなに雑に人をからかう?席に座ると、佐伯がわざとらしく小声で言った。「さっきの続き。よろしく、結城」「……よろしく、佐伯くん」「“くん”か。結城は真面目だね」「そ、そんなこと……」「俺は“澪”って呼んでもいい?」一瞬、呼吸が止まる。
名前を呼ぶって、こんなに近いことなんだ。「……だめじゃない、けど」言い終わる前に、佐伯がさらっと言った。「じゃ、澪。改めてよろしく」やばい。
心臓が、跳ねる。跳ねすぎて苦しい。3. 自己紹介、わたしは“変わりたい”と言えなかった担任の先生が自己紹介を始めましょう、と言って、順番にみんなが立ち上がる。「趣味はダンスです!」
「サッカーやってました!」
「推しは○○です!」明るい。眩しい。
わたしの番が近づくにつれて、手が冷たくなる。(変わりたい、って言えばいいのに)
(何か面白いこと言えば……)でも、喉が固まって、立ち上がったとき、結局口から出たのは無難な言葉だった。「結城澪です。趣味は読書で……よろしくお願いします」着席すると、隣から小さな声。「澪、読書好きなんだ」佐伯が、ちゃんと聞いてた。
それだけで、少し救われる。「うん……推理小説とか」「じゃあ、今度おすすめ教えて」「え……いいよ」「約束ね」“約束”。
たった二文字に、胸がきゅっとなる。4. 放課後、部活勧誘は戦場で、恋はもっと戦場だった放課後の廊下。先輩がチラシを配って、声を張り上げる。「バスケ部見学きてー!」
「軽音! 初心者歓迎!」
「美術部、お菓子あるよ!」わたしは決められずに立ち尽くしていた。
変わりたいのに、どこにも踏み出せない。そこへ、佐伯が近づいてきた。「澪、部活どうする?」「決めてない……」「じゃ、一緒に見て回る? 勧誘、面白いよ」「……うん」一緒に歩く。
それだけで周りの音が遠くなる気がする。
隣を歩く佐伯が、時々わたしの歩幅に合わせて少しだけゆっくりになるのが、やさしくて、ずるい。中庭のほうへ行くと、チア部の先輩が元気に声をかけてきた。「新入生? 体験だけでもどう?」わたしが「え、えっと……」と困っていると、佐伯が先に言った。「澪、ダンス系興味ある?」「……少し、ある」「じゃ行こ。体験だけならタダ」「タダって何……」笑いながら引っ張られる。
腕を掴まれたところが、熱くて、ずっとそのままがいいと思ってしまうのが怖い。体育館の隅で体験が始まる。
音楽が流れて、先輩が振り付けを教えてくれる。「大丈夫、ゆっくりでいいから!」わたしはぎこちなく手を動かす。
鏡に映る自分が、下手で、恥ずかしくて、泣きそうになる。そのとき、佐伯がわたしの横で同じ動きをして、低い声で言った。「澪、リズムは合ってる。あとは肩の力抜けばいける」「……ほんと?」「ほんと。俺、嘘つかない」その言葉が、胸の奥に落ちた。
優しいのに、強い。
わたしが欲しかった“背中を押す言葉”だった。5. 事件:佐伯が“モテる”と知った日体験が終わって外に出たら、女子が何人か佐伯の周りに集まっていた。「佐伯くん、どの部活入るの?」
「LINE交換しない?」
「ねえねえ写真撮ろ!」……え。
ええ。わたしの頭が固まる。
そりゃそうだ。顔も声も雰囲気も、普通にモテる。
でも、現実を突きつけられると心がざわざわする。わたしが一歩引いた瞬間、佐伯がこちらを見た。
そして、女子たちに軽く手を上げて言った。「ごめん、今、澪と回ってる」……澪。
名前。みんなの前で。さらっと。女子たちが「え、彼女?!」みたいな顔をする。
わたしの顔が熱くなる。「ち、違っ……」否定したいのに、声が出ない。
否定したら、佐伯が遠くへ行く気がして。佐伯がわたしの耳元に、やけに近い距離で囁いた。「大丈夫。変な意味じゃない。……でも、澪がいなくなるの、嫌だった」その一言で、足元がふわっと浮いた。
胸が、ぎゅうって締まった。わくわくする。
ドキドキする。
怖いくらい。6. はじめての“放課後の約束”その帰り道。
夕焼けが校舎をオレンジに染める。「澪、明日、放課後少し空いてる?」「え? うん……空いてるけど」「図書室、行こ。おすすめの推理小説、教えてって言ったじゃん」「……覚えてたの?」「約束は守る主義」また、“約束”。
わたしは小さく頷いた。「わかった。……一緒に行こ」佐伯は満足そうに笑った。「よし。じゃ、明日」そのとき、風が吹いて、桜の花びらがわたしの髪に落ちた。
佐伯が手を伸ばして、そっと取ってくれる。指先が、髪に触れる。
たった一瞬なのに、心臓が暴れる。「取れた」「……ありがと」「澪ってさ」「なに?」「顔、すぐ赤くなる。かわいい」……え?わたしは固まって、何も返せなかった。
佐伯は何事もなかったみたいに歩き出す。
ずるい。ずるすぎる。7. 図書室の午後、距離はページ一枚分次の日。放課後。
図書室は静かで、古い紙の匂いがする。窓から光が差して、埃がきらきら舞う。わたしは好きな作家の棚へ案内した。「これ、読みやすい。あと、これも……」佐伯は背表紙を眺めながら、ふとわたしを見る。「澪、話すとき、目がちゃんと前を見るね」「え、そう?」「好きなことの話してるとき、表情が変わる。……いいな、そういうの」佐伯の声がやわらかい。
わたしは思わず聞いてしまった。「佐伯くんは、好きなこととかあるの?」彼は少し黙って、棚から一冊抜いた。
推理小説じゃない、薄い詩集だった。「これ。……昔から好き」「意外」「よく言われる」彼がページを開いたとき、栞が落ちた。
拾おうと同時に手が伸びて、また指先が近づく。
今度は触れた。ほんの少し。佐伯が小さく笑う。「澪といると、よくぶつかる」「わ、わざとじゃない!」「知ってる。……でも、嫌じゃない」その“嫌じゃない”が、わたしの胸を一番強く叩いた。
返事ができない。声が出ない。
ただ、頷くしかない。図書室の時計がカチカチ鳴る。
時間がゆっくり流れているのに、心臓だけが急いでいる。帰り際、廊下で同じクラスの子たちの会話が聞こえた。「佐伯くんってさ、好きな人いるらしいよ」
「え、誰?」
「わかんない。でも、入学初日から誰かと一緒にいたって」わたしは立ち止まった。
耳が熱くなる。入学初日から一緒にいた。
……それ、わたし?でも“好きな人がいる”。
それがわたしじゃなかったら、どうしよう。胸が、痛い。
恋って、こんなに早く人を不安にするんだ。その夜、布団の中でスマホを握って、何度も通知を確認してしまう。
何か来てないかな。来るわけないのに。そして0時過ぎ、画面が光った。佐伯:『今日、楽しかった。澪のおすすめ、読み始めた』心臓が跳ねた。
すぐ返信したいのに、指が止まる。(なんて返すのが正解?)
(重くない?)
(嬉しいって言っていい?)悩んで悩んで、結局送った。澪:『うれしい。続き気になったら明日話そう』送信。
既読がついて、すぐ返ってきた。佐伯:『明日も会えるってこと? 最高』……ずるい。
こんなの、キュンって言うしかない。
数日後、体育。
バドミントンのペアを決めることになった。先生が適当に組み合わせていく。「結城と……佐伯。お前らペアな」「えっ」わたしの声と、周りのざわめきが重なる。
佐伯は平然としてるのに、わたしだけ動揺してる。コートでラケットを握る。
サーブが全然入らない。焦る。恥ずかしい。「ごめん……!」佐伯が笑う。「謝らなくていい。澪、緊張しすぎ」「だって……みんな見てるし」「見てるのはシャトル。俺が見るのは澪」……待って。
それ、言っちゃだめなやつ。わたしはラケットを落としそうになって、佐伯がすぐ拾ってくれる。
手が重なる。熱い。「ほら。深呼吸」佐伯がわたしの手の甲を、軽くトントンと叩く。
それだけなのに、胸がきゅううっとなる。
体育館の音が遠くなる。(無理、これ、好き……)10. 文化祭の実行委員、恋と青春は同時進行5月。
文化祭の実行委員を決める日が来た。「誰かやりたい人?」
沈黙が落ちる。誰も手を上げない。
わたしも、手を上げられない。そのとき、佐伯が手を上げた。「俺、やる」教室がざわつく。
モテる人って、こういうときも目立つ。そして佐伯は、こちらを見て言った。「澪も、一緒にやらない?」「えっ?!」突然の指名。
心臓が跳ねる。
でも――わたしは、あの日書いた一行を思い出した。怖くても挑戦する。「……やる」自分の声が、意外としっかりしていた。
クラスが「おおー!」と盛り上がる。佐伯が小さく頷いて、口の形だけで言う。「かっこいい」それだけで、胸がいっぱいになる。
わたし、変われるかもしれない。
あなたが隣にいるなら。


