『お湯張りをします。お風呂の栓はしましたか』
どこからか、そんな機械的な音声が聞こえ、ユウヒがテキパキと寝支度をしてくれているのが分かる。
そうだ、フィナンシェ。
すっかり忘れていたが、持参した菓子折りを開封し、テーブルに並べた。
ちょうどリビングへ戻ってきたユウヒが「美味しそう!」と言いながら、コーヒーをマグカップに注いでくれる。
そうしてようやく、俺の目の前の椅子に座ってくれた。
「で、話ってなあに?」
そうだった。ここへ来た目的を忘れそうになっていた。
「もしかして、告ってくれるの?」
「こくって?」
「チェッ、違うのかー。まぁいいや、それで?」
『こくって』という言葉が、自分の中で上手く漢字変換できなかった。
こくって?何のことだ?
それよりも今は、寮に忍び込むリスクについて話を進めることにした。
「昨日の朝に発覚したんだけど、真夜中に学園の塀を乗り越えて骨折した奴がいるんだ」
「あぁ、それはダサいね。でも分かるよ。あの赤レンガの塀は結構な高さだから。怪我する可能性はある」
他人事なのに痛そうに顔を歪めたユウヒが、マグカップに口をつける。
「で、寮としても寮生全員に注意喚起をしてきた」
「あぁ。……つまり、僕はもう泊まれない?」
俺は首を横に振る。
「いや、ユウヒのオーディションまでは残り十五日だろ?月、水、金に泊まるとして残り六回。俺も、バレないように上手くやる。だからユウヒも、今まで以上に周囲の目に気を付けて忍び込んできて、って話」
「いいの?ハヤセ、寮長なのに」
俺はコクリと大きく頷く。
「もしも真夜中、誰かに見つかって咎められたら、ハヤセに貸してた参考書をどうしても今日中に返してもらいたくて取りに来たって言って欲しい」
「僕が、参考書?あまりに嘘くさいなぁ」
「じゃ、漫画にするか」
「そっちのほうが、リアリティあるね」
「とにかく、オーディションが終わるまでは、泊まりにきていいから」
「やったー!じゃあさ。オーディションが終わったら、結果がどうであれ、お礼にハヤセの願い事を一つ、僕が叶えるよ」
「願い事?」
「そう。なんでもいいよ。キスでも、デートでも、それ以上のことでも」
彼がふふふと笑ったとき、俺はさっきの「告ってくれる」の意味が突然わかり、目を見開いて唖然としてしまった。
—
先に風呂に入らせてもらう。
使わせてもらったシャンプーは、いつもユウヒから漂う柑橘系の匂いがしなかった。
きっとあの匂いは、レッスン室でシャワーを浴びたときに漂ってくるのだろう。
風呂上り、下着は持参したが部屋着はユウヒのを借りた。
持ってくるのを忘れた歯ブラシは、買い置きを一本もらい、歯磨き粉はユウヒのを使わせてもらう。
俺は「告って」の衝撃からまだ抜け出せずにいて、寝支度をしながらもすっかり無口だ。
けれどユウヒは、楽しげにダンスの課題曲をずっと口ずさんでいる。
無口になった俺に気付いたりもしていない。
俺はユウヒに告白しそうな雰囲気を、醸し出していただろうか?
お礼としてキスや、デート、それ以上をして欲しそうな顔で、彼を見ていただろうか……。
ユウヒは?
ユウヒはそれに対し、どう思っているのか。
迷惑なのか?
いや、それなら「お礼」なんて自分から言い出さないだろう。
俺には彼の考えていることなど、少しも分からない……。
分からないから、なお気になる。
堂々巡りだ。
「ハヤセ、ねぇ、ハヤセってば」
「え?あぁ、ごめん。考えごとしてた、なに?」
「ハヤセは、二階の僕の部屋で寝て。僕はこの布団で眠るから」
なぜだろう。
俺は当然のように、一つの布団で一緒に眠るのだと思い込んでいた。
「そんな顔しないでよー。僕だって寂しいよ。でもさ、ここは寮じゃないでしょ。だから僕も歯止めが利かなくなっちゃう」
「歯止め?」
「いつも思ってるんだ、ベッドの中でハヤセを抱きしめながら。キスしたい、触りたい、気持ち良くしてあげたいし、僕もなりたいって」
「えっ、あ、え?え?」
「でも、我慢するって決めたから。願掛けっていうの?オーディションの二次が終わるまでは、我慢する!」
「そ、そっか」
「ごめんね、ハヤセ。期待しちゃってたよね」
俺はブンブン首を横に振る。
断じてそんなつもりはなかったのだから。
ユウヒの右腕がダンスの振り付けのように、スッと前に出された。
そして長い指で、俺の頬をやさしく撫でる。
辺りが静まりかえる中、彼の顔がゆっくりと俺に近づいてきて……、俺は思わず息を止める。
ONのままの美しく可愛いユウヒは、俺の唇の一センチ手前で方向を変えた。
そして頬に、チュっと音を立ててキスをしてくれた。
「これで許して。ね?」
今夜はたぶん、色々と考えてしまい眠れないだろう。
考えたって、ユウヒのことなど理解できる訳がないのに……。
—
翌朝は大慌てだった。
なかなか寝付けず、朝方になってようやく眠れた俺は、九時近くに目を覚ます。
階段を下りてユウヒの元へ行くと、彼もまだ眠っていた。
「ユウヒ、ユウヒ、おはよう。今日ってレッスン何時?まだ寝てて大丈夫?」
起こすのは可哀想だが、遅刻したらもっと気の毒だと思い、声をかける。
「ん、ハヤセ?」
寝ぼけたような彼は、俺を布団に引きずり込もうと長い腕を伸ばしてくる。
その甘い雰囲気に流されてしまいたかった。
温かい布団に入り込みたかった。
しかし、寸前で思いとどまり、再度声をかける。
「もう九時だよ。大丈夫?起きなくて」
「え!」
急に覚醒したユウヒは飛び起きて、すごい速さで支度を始める。
「ヤバい、ヤバい、どうしよう。あー、昨日、自転車置いてきたんだ。バスじゃん。ヤバい、ヤバい」
俺たちは朝食も食べず家を出て、バス停に向かって二人で走った。
こんなに急いでいても、家を出る前にはしっかりと火の元や施錠を確認していたユウヒ。
その姿を見ながら、俺はこの男が好きなのかもしれないと、ようやく認める気になった。
どこからか、そんな機械的な音声が聞こえ、ユウヒがテキパキと寝支度をしてくれているのが分かる。
そうだ、フィナンシェ。
すっかり忘れていたが、持参した菓子折りを開封し、テーブルに並べた。
ちょうどリビングへ戻ってきたユウヒが「美味しそう!」と言いながら、コーヒーをマグカップに注いでくれる。
そうしてようやく、俺の目の前の椅子に座ってくれた。
「で、話ってなあに?」
そうだった。ここへ来た目的を忘れそうになっていた。
「もしかして、告ってくれるの?」
「こくって?」
「チェッ、違うのかー。まぁいいや、それで?」
『こくって』という言葉が、自分の中で上手く漢字変換できなかった。
こくって?何のことだ?
それよりも今は、寮に忍び込むリスクについて話を進めることにした。
「昨日の朝に発覚したんだけど、真夜中に学園の塀を乗り越えて骨折した奴がいるんだ」
「あぁ、それはダサいね。でも分かるよ。あの赤レンガの塀は結構な高さだから。怪我する可能性はある」
他人事なのに痛そうに顔を歪めたユウヒが、マグカップに口をつける。
「で、寮としても寮生全員に注意喚起をしてきた」
「あぁ。……つまり、僕はもう泊まれない?」
俺は首を横に振る。
「いや、ユウヒのオーディションまでは残り十五日だろ?月、水、金に泊まるとして残り六回。俺も、バレないように上手くやる。だからユウヒも、今まで以上に周囲の目に気を付けて忍び込んできて、って話」
「いいの?ハヤセ、寮長なのに」
俺はコクリと大きく頷く。
「もしも真夜中、誰かに見つかって咎められたら、ハヤセに貸してた参考書をどうしても今日中に返してもらいたくて取りに来たって言って欲しい」
「僕が、参考書?あまりに嘘くさいなぁ」
「じゃ、漫画にするか」
「そっちのほうが、リアリティあるね」
「とにかく、オーディションが終わるまでは、泊まりにきていいから」
「やったー!じゃあさ。オーディションが終わったら、結果がどうであれ、お礼にハヤセの願い事を一つ、僕が叶えるよ」
「願い事?」
「そう。なんでもいいよ。キスでも、デートでも、それ以上のことでも」
彼がふふふと笑ったとき、俺はさっきの「告ってくれる」の意味が突然わかり、目を見開いて唖然としてしまった。
—
先に風呂に入らせてもらう。
使わせてもらったシャンプーは、いつもユウヒから漂う柑橘系の匂いがしなかった。
きっとあの匂いは、レッスン室でシャワーを浴びたときに漂ってくるのだろう。
風呂上り、下着は持参したが部屋着はユウヒのを借りた。
持ってくるのを忘れた歯ブラシは、買い置きを一本もらい、歯磨き粉はユウヒのを使わせてもらう。
俺は「告って」の衝撃からまだ抜け出せずにいて、寝支度をしながらもすっかり無口だ。
けれどユウヒは、楽しげにダンスの課題曲をずっと口ずさんでいる。
無口になった俺に気付いたりもしていない。
俺はユウヒに告白しそうな雰囲気を、醸し出していただろうか?
お礼としてキスや、デート、それ以上をして欲しそうな顔で、彼を見ていただろうか……。
ユウヒは?
ユウヒはそれに対し、どう思っているのか。
迷惑なのか?
いや、それなら「お礼」なんて自分から言い出さないだろう。
俺には彼の考えていることなど、少しも分からない……。
分からないから、なお気になる。
堂々巡りだ。
「ハヤセ、ねぇ、ハヤセってば」
「え?あぁ、ごめん。考えごとしてた、なに?」
「ハヤセは、二階の僕の部屋で寝て。僕はこの布団で眠るから」
なぜだろう。
俺は当然のように、一つの布団で一緒に眠るのだと思い込んでいた。
「そんな顔しないでよー。僕だって寂しいよ。でもさ、ここは寮じゃないでしょ。だから僕も歯止めが利かなくなっちゃう」
「歯止め?」
「いつも思ってるんだ、ベッドの中でハヤセを抱きしめながら。キスしたい、触りたい、気持ち良くしてあげたいし、僕もなりたいって」
「えっ、あ、え?え?」
「でも、我慢するって決めたから。願掛けっていうの?オーディションの二次が終わるまでは、我慢する!」
「そ、そっか」
「ごめんね、ハヤセ。期待しちゃってたよね」
俺はブンブン首を横に振る。
断じてそんなつもりはなかったのだから。
ユウヒの右腕がダンスの振り付けのように、スッと前に出された。
そして長い指で、俺の頬をやさしく撫でる。
辺りが静まりかえる中、彼の顔がゆっくりと俺に近づいてきて……、俺は思わず息を止める。
ONのままの美しく可愛いユウヒは、俺の唇の一センチ手前で方向を変えた。
そして頬に、チュっと音を立ててキスをしてくれた。
「これで許して。ね?」
今夜はたぶん、色々と考えてしまい眠れないだろう。
考えたって、ユウヒのことなど理解できる訳がないのに……。
—
翌朝は大慌てだった。
なかなか寝付けず、朝方になってようやく眠れた俺は、九時近くに目を覚ます。
階段を下りてユウヒの元へ行くと、彼もまだ眠っていた。
「ユウヒ、ユウヒ、おはよう。今日ってレッスン何時?まだ寝てて大丈夫?」
起こすのは可哀想だが、遅刻したらもっと気の毒だと思い、声をかける。
「ん、ハヤセ?」
寝ぼけたような彼は、俺を布団に引きずり込もうと長い腕を伸ばしてくる。
その甘い雰囲気に流されてしまいたかった。
温かい布団に入り込みたかった。
しかし、寸前で思いとどまり、再度声をかける。
「もう九時だよ。大丈夫?起きなくて」
「え!」
急に覚醒したユウヒは飛び起きて、すごい速さで支度を始める。
「ヤバい、ヤバい、どうしよう。あー、昨日、自転車置いてきたんだ。バスじゃん。ヤバい、ヤバい」
俺たちは朝食も食べず家を出て、バス停に向かって二人で走った。
こんなに急いでいても、家を出る前にはしっかりと火の元や施錠を確認していたユウヒ。
その姿を見ながら、俺はこの男が好きなのかもしれないと、ようやく認める気になった。



