無能の鬼姫〜神子の予言と運命の決闘〜

私が神子として覚醒したあの日から、神城さんの周囲の喧騒は一段と激しさを増していた。
いつもなら、微睡の中で彼の温もりに包まれる甘い朝のひとときがあるはずなのに。                              今日、重いまぶたを押し上げて隣を探っても、そこに彼の姿はなかった。                                    シーツに残ったわずかな体温だけが、彼が先ほどまでここにいたことを物語っている。
胸の奥にちりりとした寂しさが走る。けれど、それを言葉にする権利は今の私にはない。
神城さんはただでさえ、次期当主としての重責を担っているのだ。それに加えて、私の覚醒に伴う学園の警備強化――。              放課後を削ってまで奔走する彼の背中を思えば、私はただ、大人しく静寂を守るしかなかった。
「……邪魔は、したくないから」
自分に言い聞かせるように呟き、私は私服に着替えてリビングへと向かった。
扉を開けると、そこには凛さんが凛とした佇まいで立っていた。                                         彼女は私の気配に気づくと、春の陽だまりのような微笑みを向けてくれる。
「あら、玲花ちゃん。おはよう。ぐっすり眠れたかしら?」
「凛さん……おはようございます。おかげさまで、もうすっかり元気になりました」
努めて明るく振る舞う私を見て、彼女は「そうなのね、良かったわ」と優しく目を細めた。
朝食の準備に取り掛かる凛さんの背中を見送りながら、私は手近な参考書を開く。
今日から一週間、学園の警備が落ち着くまで、私は登校を禁じられ、家での謹慎を余儀なくされていた。                     開いたページに並ぶ文字を追いながらも、心はどこか遠く、今頃どこかで戦っているであろう彼の姿を追いかけていた。
でも、遅れを取るわけにはいかない。
彼が外で私のために戦っている間、私はここで、私にできる最善を尽くさなければならないのだから。                       ペン先を走らせ、静寂の中で自分を律するように教科書と向き合う。
やがて、キッチンから食欲をそそる芳醇な香りが漂ってきた。
私は勉強道具を丁寧に片付け、凛さんが用意してくれた食卓につく。湯気の向こう側で、彼女の穏やかな眼差しが私を包み込んでいた。
「あの……凛さん。神城さんは今日、いつ頃帰られるのでしょうか?」
箸を動かしながら、堪えきれずに尋ねていた。
凛さんは少しだけ考え込むような仕草を見せてから、静かに答える。
「そうね……あの子も今は正念場だし、屋敷に戻るのは夜中になってしまうかしら」
「そうです、か……」
零れ落ちた言葉は、自分でも驚くほど頼りなく響いた。
俯きかけた私の表情から寂しさを汲み取ったのだろう。凛さんは、包み込むような慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
「玲花ちゃん、あと一週間の辛抱よ。二人で乗り越えましょうね」
「……はい。でも、やっぱり寂しくて」
素直な吐露に、凛さんは「ふふっ」と悪戯っぽく笑った。
「懐かしいわ。私にもそんな時期があったわね」
「えっ? 凛さんも、ですか?」
いつも完璧で、泰然自若としている凛さんが、今の私のように誰かを求めて寂しがる姿など想像もつかなかった。
「ええ、私がまだ十代の頃よ。あの人ったら仕事だの勉強だの、何でも一人で抱え込んでしまって。私のことなんて二の次、三の次!本当に、あの時は大変だったんだから」
凛さんの言う「あの人」とは、きっと紫苑さんのことだ。あんなに仲睦まじいお二人にも、そんな葛藤があったなんて。
「それでも……凛さんは紫苑さんの隣にいることを選んだんですね。どうしてですか?」
私の問いに、凛さんは遠い空を見るように目を細めた。
「うーん、そうね……明確な理由なんてないわ。ただ、胸の奥から湧き上がってくる『好き』っていう抑えきれない感情に従っただけ。人を愛するのに、理屈なんて要らないのよ。ただ愛し抜くという気持ちさえあれば、それだけで十分なの」
凛さんの言葉が、じわりと胸に染み渡っていく。
ああ、凛さんも私と同じだったんだ。
苦しくて、切なくて、それでもこの手を離さないと決めた。                                             誰かを心から愛するということは、その痛みさえも引き受けるということなのだ。
「だから、玲花ちゃんがどれほど竜馬を大切に思っているか、痛いくらい伝わってきたわ。……でも、まさか自分の命を懸けてまであの子を守ろうとするなんて、正直驚いたの。けれど、その強い覚悟を知ったからこそ、私は確信したわ。玲花ちゃんなら、安心して竜馬を任せられるって」
凛さんの言葉に、私は思わず箸を止めた。
「……どういう、ことですか?」
「あの子、昔はあんなに感情を露わにするような子じゃなかったのよ。どこか冷めていて、自分を押し殺して……。でもね、玲花ちゃんと出会ってからのあの子は、本当に幸せそうな顔を見せるようになったの」
「神城さんが……?」
「ええ。置かれた環境が環境だったから、あの子は普通の子供のような時間を知らずに育ってしまった。私たちもずっと心配していたのよ。このまま喜びも幸せも知らずに生きていくのは、あまりにも残酷で、悲しいことだから。でも、玲花ちゃんがそんな竜馬を変えてくれた。だから、お礼を言わせてくださいね。ありがとう、玲花ちゃん」
胸が締め付けられるような想いだった。凛さんの瞳には、母親としての深い愛情と、感謝の光が宿っている。
「そんな……。私は、何もしていません。彼が変わったのは、彼自身の意志と力ですから」
私が首を振ると、凛さんは否定するように、けれどどこまでも優しく微笑んだ。
「それでも、きっかけは玲花ちゃんなの。本当に、ありがとうね」
食事を終え、凛さんとの対話を胸に抱えたまま、私は自分の部屋へと戻った。
静まり返った室内で、私はベッドに腰を下ろす。
(私は、神城さんの幼い頃を……彼の歩んできた過去を、何も知らない)
今まで、自分のことで精一杯だった。彼に甘え、守られることに慣れて、彼の内側に深く触れようとしていなかったのかもしれない。
けれど、もし私の存在が、彼や周囲の人たちに少しでも光を運べていたのなら。彼が「幸せだ」と感じる理由になれていたのなら、これほど嬉しいことはない。
(これからは、もっと……)
一方的に与えられるだけでなく、互いの心に寄り添い、歩んできた道のりを分かち合いたい。
今夜、彼が帰ってきたら。
夜の静寂の中で、今度は私が彼の話を聞こう。
大切な人の過去も、未来も、そのすべてを愛するために。

深夜二時。静まり返った屋敷に、わずかな衣擦れの音と控えめな足音が響いた。
睡魔に襲われていた私は、その気配に弾かれたように顔を上げ、廊下へと飛び出した。
「お帰りなさい、神城さん」
そこには、月明かりを背負って立つ彼の姿があった。制服の乱れや、目の下にわずかに落ちた影が、彼が戦ってきた時間の過酷さを物語っている。
「……玲花? まだ起きていたのか」
驚いたように目を見開く神城さんに、私は駆け寄り、その冷えた手をそっと包み込んだ。
「凛さんから、夜中になるって聞いていたので。……お疲れ様です」
彼は一瞬だけ、いつものように「俺のことはいいから休め」と突き放そうとした。けれど、私の掌の熱を感じたのか、ふっと肩の力を抜いて、私を壊れ物を扱うように抱き寄せた。
「すまない。寂しい思いをさせた」
「いいんです。それより、神城さん。……少しだけ、お話ししてもいいですか?」
部屋へ招き入れ、温かいお茶を差し出す。彼はそれを一口啜ると、深く長い溜息を吐いてソファに背を預けた。
「神城さん。私、今日、凛さんから昔のあなたのお話を聞きました。……あまり、感情を表に出さない子だったって」
私の言葉に、彼は視線をカップの縁に落とした。
「……ああ。次期当主として、隙を見せてはならないと教育されてきたからな。心など、目的を果たすための邪魔でしかないと思っていた」
「でも、今は違いますよね? 凛さんは、私と出会ってから、神城さんが幸せそうな顔を見せるようになったって、喜んでいました」
私が覗き込むと、神城さんは戸惑ったように視線を彷徨わせ、やがて諦めたように口端を綻ばせた。                      その表情は、凛さんが言っていた通り、かつての彼にはなかったであろう柔らかい光を帯びている。
「……母さんには敵わないな。……ああ、その通りだ。玲花、お前が俺の世界に色を付けたんだ。神城家の次期当主としての義務と責任しかなかった俺の人生に、『誰かを守りたい』という、純粋で、ひどく我儘な願いを教えてくれた」
彼は私の手を引き、自分の胸元へと導いた。トク、トクと、力強く刻まれる鼓動が指先に伝わる。
「お前を失うかもしれないと思ったあの日、俺は初めて自分の無力さを呪い、そして、自分の感情がこれほどまでに激しいものだったと知った。……玲花。俺は、お前に救われたんだ」
「神城さん……」
「これからは、俺にお前を守らせてくれないか。お前の過去も、不安も、すべて俺に預けてほしい。そして……俺の醜い部分も、弱い部分も、すべてお前に知っていてほしいんだ」
月光が差し込む部屋で、私たちは互いの体温を確かめ合うように寄り添った。
今まで「守る者」と「守られる者」だった二人の関係が、今、対等な「愛し合う者」へと溶け合っていく。
「はい。神城さんのこと、もっともっと教えてください。……お互いの全部を、話し合いましょう?」
私が微笑むと、彼は愛おしさに耐えかねたように、私の額に優しく唇を落とした。
外はまだ深い闇の中だったけれど、私たちの心には、夜明けよりも確かな温もりが灯っていた。

あの日、深夜の静寂の中で心を分かち合ってから、さらに数日が過ぎた。
神城さんの忙しさは緩和されるどころか、神子の警備体制の最終調整で、彼との距離は再び物理的に遠のいてしまう。
朝、目覚めれば彼はもうおらず、夜、微睡みの中で帰宅の気配を感じるだけ。
「お互いをもっと知りたい」と願ったけれど、現実は無情だった。                                      一人きりのリビングで凛さんと向かい合う食事や、静まり返った部屋での勉強。
時折、胸を締め付けるような寂しさが込み上げてくる。
(……あと、少し。あと少しの辛抱なんだから)
カレンダーの空白に、見えない「×」をつけながら、私は彼がいない寂しさを、彼を想う強さに変えて耐え続けた。
そして、ついにその日がやってきた。
「玲花、おはよう。……待たせたな」
まぶたを叩く朝陽とともに聞こえてきたのは、待ち焦がれていた低く心地よい声だった。
目を開けると、そこには制服ではなく、リラックスした私服姿の彼がいた。
「神城さん……! 今日は……」
「ああ。今日一日は、何があってもお前のそばにいる。誰にも邪魔はさせない」
そう言って差し出された彼の手を、私は迷わず取った。
二人で過ごす休日は、驚くほど穏やかで、キラキラとした時間に満ちていた。
庭のテラスで、凛さんが用意してくれたお茶を飲みながら、とりとめもない話をする。                              今まで聞けなかった彼の子供時代の失敗談や、好きだった本のこと。
「神城さんでも、木登りに失敗して降りられなくなったことがあるなんて意外です」
「……あまり思い出したくない過去だが、お前が笑うなら話した甲斐もあったな」
少し照れくさそうに視線を逸らす彼は、次期当主としての厳しい仮面を脱ぎ捨てた、ただの「一人の青年」だった。
私はその横顔を見つめながら、凛さんの言葉を思い出していた。
――愛するのに理由なんて要らない。
午後からは、屋敷の図書室でお互いにお気に入りの本を読み耽った。沈黙さえも心地よく、時折重なる視線に胸が高鳴る。
彼が私の肩に頭を預け、ふっと眠りに落ちたとき、私は彼の髪にそっと触れた。
「いつも、頑張ってくれてありがとうございます。大好きですよ、竜馬さん」
届かないかもしれない小さな囁き。けれど、彼は眠ったまま、私の手をぎゅっと握り返してくれた。
寂しさに耐えた一週間は、この一日の幸せを何倍にも膨らませてくれた。
守られるばかりの神子ではなく、彼の心を癒せる存在になりたい。
沈みゆく夕日を眺めながら、私は寄り添う彼の体温を、一秒たりとも忘れないように深く心に刻み込んだ。

一週間の謹慎という名の隔離期間が明け、ようやく学園に登校する日がやってきた。
久しぶりに袖を通した制服は少しだけ背筋を正してくれるような気がしたが、校門を潜った瞬間、私はその異様な空気に足を止めた。
「……あれが、覚醒したっていう『神子』様……?」
「なんて神々しいの。見ているだけで、こちらまで浄化されそうだわ」
ざわめきが波のように広がる。好奇の視線、羨望、そして僅かな畏怖。
すれ違う生徒たちが一様に道を開け、深々と頭を下げる者までいた。                              驚いたことに、廊下で会った教師までもが、これまでの教え子に対する態度とは一変し、聖域に触れるのを憚るような恭しい一礼を向けてくる。
まるで、私という人間が別の何かに置き換わってしまったかのような錯覚。
戸惑う私の肩を、神城さんが力強く抱き寄せた。
「玲花、前だけ見ていろ。……お前たち、あまり無遠慮に視線を向けるな。玲花が困惑している」
神城さんの鋭い牽制の言葉に、周囲の空気がピリリと引き締まる。                                       彼は次期当主としての威厳を纏い、私を盾にするように守りながら歩を進めた。
「神城さん、ありがとうございます……。でも、なんだか凄く大ごとになっていて……」
「お前がどれほどの存在になったか、やっと連中が理解しただけだ。気にするな」
教室の前まで送り届けてくれた彼は、名残惜しそうに私の髪に触れた。
「俺は自分の教室へ行く。……おい、お前たち。玲花に指一本触れさせるなよ」
彼が背後の影に声をかけると、そこには屈強な護衛が五人も控えていた。彼らは神城さんの言葉に無言で深く頷く。
神城さんがいない間、彼らが私を包囲するように守るのだという。……流石に五人は多すぎるのでは、と少し困惑したが、今の神城さんにそれを言っても聞き入れてはもらえないだろう。
「じゃあ、放課後。……何かあればすぐに呼べ」
神城さんと別れ、護衛の方々に気まずい会釈をしてから教室の扉を開けた。
一瞬、クラス中が静まり返る。けれど、その沈黙を切り裂くように明るい声が響いた。
「玲花! おはよー! やっと来たわね!」
駆け寄ってきたのは、親友の冬美だった。
彼女は周りの崇めるような空気などどこ吹く風で、いつも通り私の両手を握りしめる。
「冬美……! おはよう」
「もう、心配したんだから。警備強化だか何だか知らないけど、玲花ちゃんがいない間、教室がなんだか静かすぎて調子狂っちゃったわよ」
冬美のいつもと変わらない、少し砕けた、温かい口調。
周囲の特別視に少しだけ息苦しさを感じていた私の心が、すーっと軽くなっていくのがわかった。
「ごめんね、一週間も休んじゃって」
「いいのよ、元気なら! ねぇねぇ、休み中どうしてたの? 昨日は神城さんと一緒だったんでしょ? 惚気話、たっぷり聞かせてもらうからね!」
ニヤリと笑う冬美の表情に、私は思わず吹き出した。
神子として覚醒しても、周りの環境が変わっても。
こうして笑い合える友達がいる。そして、厳しくも優しく守ってくれる神城さんがいる。
「うん。……たくさん、お話ししたいことがあるの」
私は護衛の方々に少しだけ申し訳なさを感じつつも、久しぶりの教室で、冬美との他愛のないお喋りに花を咲かせる。
冬美は机に身を乗り出し、悪戯っぽく眉を動かす。クラスメイトたちは遠巻きに「神子様が密談を……」なんて畏れ多い顔で見ているけれど、私たちの間にあるのは、いつもの女子高生らしい空気だ。
私は、ついさっきまで神城さんに触れられていた髪を指先で弄りながら、一週間ぶりの休日のことをポツリポツリと話し始めた。
「神城さん、すごく忙しかったのに、その日は一日中ずっと一緒にいてくれたの。二人で庭でお茶を飲んだり、図書室で読書したり……。あ、神城さん、子供の頃に木登りして降りられなくなったことがあるって話を聞いたの」
「ぶふっ! あの神城様が木登り!? しかも降りられないって、可愛すぎでしょ!」
冬美が手を叩いて笑う。私も釣られて笑ってしまう。
「そうでしょ? 普段はあんなにかっこいいのに、私の前では少しだけ隙を見せてくれるっていうか……。お互いの知らないことをたくさん話して、なんだか今までよりも、ずっと心の距離が近くなった気がするの」
「ふーん、心の距離ねぇ……」
冬美は私の真っ赤になった頬をジロジロと眺めてから、ニヤリと口角を上げた。
「で? 結局、手繋いだりとか、その先……例えばおでこにチュッくらいはあったわけ?」
「な、何言ってるの! 冬美!」
思わず声を上げると、入り口に控えていた5人の護衛たちが「何かありましたか!?」と言わんばかりに一斉にこちらを向いた。私は慌てて手を振って彼らを制する。
「えっ、何その反応……まさか、本当にあったの!?」
「ないよ!そんなこと……」
「なんだ〜残念」
冬美はがっかりしながらも腕を組み、頷き始めた。
「でも、そっか。玲花が神子に覚醒して、周りが勝手に崇めて遠巻きにしてるけど、神城さんだけはちゃんと『一人の女の子』として玲花を愛してるってことでしょ。最高にロマンチックじゃないの」
冬美の言葉に、胸の奥がじんわりと熱くなる。
そうだ。世界が私をどう見ようと、彼は私を「玲花」と呼び、あの温かい手で抱きしめてくれる。
「うん。……私、神城さんのことが、もっと好きになっちゃった」
「はいはい、ごちそうさま! 惚気はお腹いっぱい!」
冬美の明るい笑い声に誘われるように、一週間分の不安が完全に溶けて消えていく。
たとえ周りに護衛がいて、生徒たちに崇められる非日常が始まっても、ここには確かな「私の居場所」があるのだと実感していた。

授業が始まると、学園の変貌ぶりはさらに顕著になった。
教師たちは玲花が指名されるたびに「お答えいただけますでしょうか、玲花様」と、まるでお伺いを立てるような口調になり、廊下ですれ違う同級生たちは、彼女が通り過ぎるまで壁際に寄って深く頭を下げる。
玲花が「普通に接してください」と困惑気味に伝えても、彼らにとっての彼女はもはや、不可侵の聖域に座す【神子】そのもの。   特別視される居心地の悪さはあったが、背後に控える五人の護衛たちが放つ威圧感も相まって、玲花の周囲だけが切り取られたような静寂に包まれていた。
ようやく放課後を迎え、校門で待っていた神城さんと合流する。
「疲れたか?」
短い問いかけの中に、彼なりの深い慈しみを感じて、玲花は小さく首を振った。
「少しだけ……でも、冬美ちゃんと話せたから大丈夫です」
二人は迎えの車に乗り込み、住み慣れた神城邸へと帰路についた。
だが、そんな二人の後ろ姿を、校門から遠く離れた校舎の影から見つめる鋭い視線があった。
「お姉様、まだ神城様とご一緒なのね」
ぽつりと溢れた薫の独り言は、夜の静寂に溶けて消えた。                                            姉・玲花の様子を影から窺っていた彼女は、静かに鬼龍院の屋敷へと引き返した。
重厚な門を潜り、本宅の広間に足を踏み入れると、そこには既に一族の重鎮たちが顔を揃えていた。異様なまでの熱気と焦燥が渦巻く中、上座に座る父――鬼龍院家当主が、飢えた獣のような眼光で薫を射抜く。
「薫、戻ったか。して、玲花の様子はどうだった」
待ちわびたと言わんばかりの問いに、薫は優雅に一礼し、朗々とした声で報告を始めた。
「はい、お父様。お姉様の『神子』としての力は、まさに比類なきもの。その神聖かつ膨大な霊力は、今や学園の隅々までをも満たしております。そして何より……婚約者である神城殿の霊力が、以前とは比べものにならぬほど格段に跳ね上がっているのが見て取れました」
その言葉が落ちた瞬間、広間は歓喜のどよめきに包まれた。
「おお……! あの無能と蔑んでいた娘が、真に神子であったとは!」
「笑いが止まらん。だが、これはいかんぞ。一刻も早くあの神城の若造から玲花を引き離さねば、我ら鬼龍院の立場が危うくなる」
手のひらを返したように色めき立つ親族たち。かつて玲花を虐げ、家から追い出すような真似をしたことへの悔恨など、この場の誰一人として持ち合わせてはいない。彼らの頭にあるのは、いかにしてあの「至宝」を再び手中に収めるか、その一点のみであった。
しかし、薫が冷や水を浴びせるように言葉を継ぐ。
「ですが、お姉様の周囲には常に五名ほどの精鋭が付き従い、外域には少なくとも百名を超える護衛が展開しております。力ずくで連れ戻すのは、もはや不可能かと」
「何だと!? くっ……、神城め、そこまで固めているのか。一体どうすれば良いのだ!」
苛立ちに爪を噛む一族の者たち。その醜い狼狽を冷ややかな瞳で見据えながら、薫は静かに唇を分かつ。
「皆様、名案がございます――」
「なんだ、言ってみろ」
身を乗り出した父の、ぎらついた欲望を隠そうともしない声が響く。薫はそんな父に自らの策を告げる。
「お姉様は、救いようのないほどのお人好しですわ。身内の窮地を知れば、例え罠だと疑っても、必ず助けに現れるはず。ですから……神城殿が側にいない隙を狙って私が連絡を入れ、お姉様を屋敷の外へ誘い出します。そこを、私を救いに来たお姉様を拐ってしまえばよろしいのです」
あまりに短絡的で非道な策に、一族の間に一瞬の沈黙が流れる。しかし、それは倫理観ゆえの躊躇ではなく、成功への疑念だった。
「……そんな単純な作戦で、本当に大丈夫なのか? 周囲にはあの鉄壁の護衛がいるのだぞ」
「ご安心を。お姉様自身の意思で動くのであれば、護衛も手出しはできませんわ。すべては、この私に任せてくださいませ」
自信に満ちた薫の笑みに、当主は忌々しげに鼻を鳴らし、重々しく頷いた。
「……まあ、いい。だが、決して失敗は許されんぞ。鬼龍院の再興は、お前の手にかかっているのだからな」
「承知いたしました。すべては、私たちが本来あるべき姿に戻るために」
薫は深々と頭を垂れた。その背中に向けられる期待と野心。
一方、そんな薄汚れた謀略が渦巻いているとは露知らず、玲花たちは平穏の中にいた。
黄金の輝きに包まれた学園の裏側で、どす黒い影が静かに、だが確実に立ち込めていく。
玲花と神城――二人の絆を断ち切らんとする凶嵐は、すぐそこまで迫っていた。