無能の鬼姫〜神子の予言と運命の決闘〜

目が覚めた瞬間、視界の端々で神聖な霊力が爆ぜるのを感じた。私は、神子として覚醒していた。
脳裏を過る疑問は尽きない。あの不可解な夢、母との再会、そして実在した神の影。なぜ母だけが、私が神子に覚醒することを予見できていたのか。母は何故、神の傍らにいたのだろうか。
思考の渦に呑まれそうになるが、今はあえて意識の底に沈める。
答えよりも先に、噛み締めるべき真実があった。
――愛する人を、守り抜けた。
今はただ、その事実に魂を浸していたかった。
視線を上げると、そこには神城さんがいた。つい先刻まで子供のように泣きじゃくっていた彼の顔には、今はただ困惑と、そして深い安堵が複雑に混ざり合っている。
けれど、彼が私をその腕に抱き上げた瞬間、いつもの冷徹なまでに落ち着いた表情が戻ってきた。
「神城さん……心配をかけて、ごめんなさい」
掠れた声で紡ぐと、彼は壊れ物を扱うような手つきで私を強く抱きしめた。
「いや、いいんだ。玲花が無事でいてくれるなら……俺は他に、何も要らない」
その声音に触れて、私は悟った。
氷の仮面の裏側で、彼は震えている。私がどこか遠くへ消えてしまうことを、何よりも恐れているのだと。
意識を失う直前、網膜に焼き付いた神城さんのあの表情が、今も胸の奥で疼いている。
不謹慎かもしれない。けれど、私はその絶望に染まった彼の顔を見て、残酷なほどの幸福を感じていた。
「どうせ私は、無能で役立たずの欠陥品だ」
ずっとそう自分に言い聞かせてきた。私が消えたところで、この広い世界の誰も悲しまない。神城さんの隣に居場所を得てからも、その卑屈な影は消えなかった。いつか愛想を尽かされ、捨てられる。嫌われて、独りぼっちに戻る。そんな未来ばかりを幻視して。
本当は、少しだけ分かっていたのだ。神城さんは、決して私を見捨てたりしない人だと。
信じられなかったのではない。私の臆病さが、信じることを拒んでいただけなのだ。
今回だってそうだ。「彼を助けられるなら死んでもいい」なんて、聞こえのいい自己犠牲を盾にして、結局は彼を地獄のような苦しみに突き落としてしまった。
けれど、もう迷わない。彼が流した涙の熱さが、氷のように冷え切っていた私の心を溶かしたから。彼がどれほど深く、私という存在を愛してくれているのか。痛いほどに、分かってしまったから。
これからは、独りよがりな覚悟ではなく、本当の意味で彼のために生きていこう。そう心に誓った、その時だった。
「玲花、すまないが急いでここを離れるぞ」
神城さんの鋭い声が、感傷を切り裂いた。
「えっ? どうして急に……」
問い返そうとしたが、彼の横顔を見て言葉を呑み込んだ。今まで見たこともないほどに、彼は焦燥の色を滲ませていたから。
理屈は分からない。けれど、あの神城さんがこれほどまでに余裕を失っている。それが、ただ事ではない事態を示していた。
私は溢れ出す疑問を一旦胸に収め、黙って深く頷く。理由は、無事に家に辿り着いてから聞けばいい。
そう思い、彼に身を預けてこの場を去ろうとした。
――刹那、
「玲花!!」
鼓膜を震わせる鋭い怒声に顔を向けると、そこには父が立っていた。                                        その後ろには、私を虐げてきた継母と妹の薫、そして鬼龍院家の人々が、黒い影のように連なっている。
「玲花、話し合おう」
歩み寄る父の顔には、隠しきれない焦燥が張り付いていた。
「お父さん、私は……」
もう、話すことなんて何もない。あの家に戻るつもりもない。
拒絶の言葉を紡ごうとした私の声を、隣に立つ神城さんの硬質な響きが遮った。
「玲花は俺のものだ。貴様らには渡さない」
神城さんが一瞥をくれただけで、父たちは物理的な圧力を受けたかのように、目に見えて怯えを見せた。けれど、彼らも引かなかった。ここで私を逃せば、鬼龍院家の利権や体面が守れないとでも思っているのだろうか。
「部外者は黙っていろ! これは親子の問題だ!」
久々に聞く父の怒声。脳の奥底で、暗い部屋に閉じ込められていた頃のトラウマが疼き出す。                            心臓の鼓動が早まり、恐怖で喉が引き攣って声が出ない。
「玲花、頼む……一度、一度だけでいい。話し合おう」
必死に縋り付こうとする父。その返答に窮し、竦み上がっていた私たちの前に、凛さんたちが立ちはだかった。
「竜馬。ここは私たちが食い止めるわ。早く、玲花ちゃんを連れて行って」
「分かっている」
短く応じた神城さんは、私を羽毛のように軽々と抱き上げた。
視界が揺れ、彼は一分の迷いもなく走り出す。背後からは、父の怒号と凛さんたちの制止する声が遠ざかっていく。
私は、もう振り返らなかった。
ただ静かに瞼を閉じ、逃げ場のない絶望から私を連れ出してくれる神城さんの鼓動に、すべてを委ねた。


次に目を開けた時、視界に広がっていたのは見慣れた神城家の邸宅だった。
結界に守られた敷地内に足を踏み入れ、私をソファにそっと下ろすと、神城さんはようやく憑き物が落ちたような安堵の表情を浮かべた。
「とりあえず、なんとか家まで帰り着けたな」
安堵の溜息をつく彼を見て、申し訳なさが募る。神城さんだって心身ともに疲弊しているはずだ。                          けれど、どうしても拭いきれない疑問が私の胸を支配していた。
「あの、神城さん……どうして、あんなに急いで場所を離れたんですか?」
私の問いに、神城さんは居住まいを正した。その瞳に宿る真剣な光に、思わず背筋が伸びる。
「玲花。神子という存在が、この世界でどれほど特別か……理解しているか?」
「えっ……はい。全校集会の時に、お話されていたのは覚えていますけど……」
あの時、神城さんが決闘を申し込まれる直前のざわめきの中で聞いた「神子」の定義。それはどこか遠いおとぎ話のようだった。
「今、お前が神子として完全に覚醒したことで、あやかし界全体の均衡が根底から覆ってしまったんだ」
「均衡が……変わった?」
想像もつかない規模の話に、私は戸惑うことしかできない。
「俺たち神城家は、あやかしの中でも突出した力を持っている。だが、それに比肩する勢力が二つある。それが、お前の実家である鬼龍院家と、鏡見家だ」
その言葉には聞き覚えがあった。あやかしとして生を受けた者なら、幼い頃に誰もが教え込まれる「三家」の序列。         この世界の秩序を支える、絶対的な力の三角形。
しかし、その常識が今、私という不確定要素によって崩れ去ろうとしているらしい。
「だが、神子が神城家に降臨したことで、俺たちが妖界の頂点に立つことが事実上、確定した」
(それって、つまり……神城家が名実ともに一番強くて、偉くなったということ?)
私の困惑を汲み取るように、神城さんは言葉を継いだ。
「だが、それは『神子が神城家にいる』という前提があってこその話だ。もしお前が他の家に移れば、その一族が新たな頂点に入れ替わることになる」
「それと、あの場を急いで離れたことに、どんな関係があるんですか……?」
「つまり――これから先、玲花という『神子の座』を奪い合うために、多くの一族が血眼になって争奪戦を仕掛けてくるということだ。最悪の場合、強引な連れ去りや誘拐も十分に考えられる」
心臓が跳ねた。私の存在が、そんな血生臭い争いの火種になるなんて。
「大丈夫だ、玲花。俺が一生を賭けて守り抜く。必ずだ……誰にも、指一本触れさせない。だが、これからはお前自身も細心の注意を払って行動してほしい」
「……分かりました」
「それから、学園の生徒や鬼龍院の者たちには、決して気を許すな。常に毒を盛られるくらいの警戒心を持ってくれ」
「はい、肝に銘じます」
「とりあえず、事態が沈静化するまでは学園への登校も控えてもらう」
「えっ、でも……」
思わず声が漏れた。学園を休むのは、少しだけ寂しい。親友の冬美とも会えなくなるし、図書室で静かに本を読む時間も奪われてしまう。
私の曇った表情に気づいたのだろう。神城さんは視線の高さを合わせるように身を乗り出し、優しく、けれど切実な声で言った。
「案ずるな、休みは一週間だけだ。その間に、お前を守るための警備を完璧に作り直す。すべては玲花、お前を失わないためなんだ……どうか、耐えてくれないか」
その瞳に揺れる微かな震えを見て、私は気づいた。
強いと思っていた神城さんも、今、私と同じように不安と戦っているのだ。                                   私を失うかもしれないという恐怖に、その胸を焦がしながら。
神城さんが背負っている重圧は、私には想像もできないほど重いものだろう。                                  それなのに、彼は私の身の安全だけを案じ、一人で戦おうとしている。
元を正せば、私の不用意な行動が彼をここまで追い詰めてしまったのだ。わがままなんて言えるはずがない。
「分かりました。でも、神城さんも……あまり無理はしすぎないでくださいね」
「っ……ああ。ありがとう」
私の言葉に、彼は一瞬だけ目を見開き、それから愛おしそうに表情を緩めた。
ようやく事態の全容を把握し、少しだけ胸の支えが取れたような気がした。
神城さんとこれからのことを話し終えた、その時だった。
ガチャリという慌ただしい音と共に扉が開き、凛さんと紫苑さん、そして使用人の方々が雪崩を打つように部屋へ駆け込んできた。
「玲花ちゃん! よかった……本当に無事なのね!」
「皆さんっ、すみません。ご心配をおかけしてしまって……」
「いいんだよ。玲花さんが無事。それだけで十分だ」
「そうよ! 玲花ちゃんさえ無事なら、他に何もいらないわ!」
(紫苑さん、凛さん……本当に、この家の人たちは優しい)
張り詰めていた心の糸が、温かな言葉に解きほぐされていく。
「でも、まさか玲花ちゃんが伝説の『神子』だったなんてねぇ」
「はい……私自身、まだ実感が湧かなくて、びっくりしています」
「いいことじゃない! あの高貴な存在が、うちの竜馬の婚約者だなんて。ねえ、紫苑?」
「ああ。神子がこの家にいてくれるだけで、一族の安泰は約束されたも同然だ。竜馬……必ず、命に代えても玲花さんを守り抜くんだぞ」
「言われなくても分かっていますよ、父さん」
二人の喜ぶ顔を見て、胸の奥がじんわりと熱くなる。神子としての覚醒が、この家にとって幸福な出来事であったなら、これ以上の救いはない。
「さて、難しい話はここまでにしましょう。玲花ちゃん、あなたは先に休んでおいで」
「えっ? でも、まだ……」
「今日は心身ともに疲れ果てたはずだ。今は、ゆっくりと眠っておくんだ」
皆さんの言葉に甘えるのは少し申し訳なかったけれど、逆らえないほどの疲労が私を包んでいた。
「……分かりました。では、おやすみなさい」
重い足取りで自室に戻り、吸い込まれるようにベッドへ身を投げ出す。
柔らかなシーツの感触を肌に感じた瞬間、抗いようのない強烈な睡魔が泥のように押し寄せ、私は深い意識の底へと沈んでいった。

[sid 神城]
玲花が「神子」として覚醒した――。
その事実に、俺の心はいまだ追いつけずにいる。
神城の血を引く者として、これ以上の誉れはない。一族は歓喜に沸き、運命を寿いでいる。                          だが、俺の胸にあるのは、泥濘のような暗い感情だけだった。
俺の不注意が玲花を傷つけ、あろうことか、その苦痛が彼女を神子へと変貌させる引き金となってしまった。                  あの時、俺が彼女を守り抜いてさえいれば、彼女はただの少女としていられたはずなのに。
案の定、覚醒を知った者たちが動き出した。
なかでも鬼龍院の奴らには吐き気がする。玲花を蔑んでいたくせに、神子の力が判明した途端、恥も外聞もなく縋り付いてきたのだ。
玲花はあのおぞましい連中にすら、慈悲深い眼差しを向け、話し合おうとしていた。
だが、俺がそれを許さない。
彼女がどれほど望もうと、あの腐りきった連中のもとへは絶対に行かせはしない。
これから始まるであろう、凄惨な争奪戦。
世界が彼女を求め、引き裂こうとするだろう。
俺の玲花が奪われてしまうかもしれない――その底知れぬ恐怖が、心を支配していく。
狂気と言われても構わない。
誰にも、指一本触れさせはしない。
もはや俺は、彼女のいない世界で息をすることさえできないのだから。
玲花の寝息が穏やかになったのを見届け、俺たちは重苦しい沈黙が支配する居間へと集まった。                        急遽執り行われることになった、家族会議。議題は一つ、神子として目覚めた彼女の身をどう守り抜くかだ。
「玲花さんが神子として覚醒した以上、諸家が彼女を奪い合う熾烈な争奪戦が始まるだろう。なかでも、最も警戒すべきは……」
「鬼龍院家だろう。父さん」
俺の言葉に、父さんは重々しく頷いた。
「ああ。これまで彼らが玲花さんに強いてきた仕打ちは、到底許されるものではない。だが、玲花さんはあの一族を責めるどころか、自分に非があると思い込んでいた。……あれほど慈悲深い彼女が、困窮した身内に縋られればどうなるか」
父さんが言葉を濁す。だが、その先は言われずとも分かっていた。
家族という絆を盾に、甘い言葉で懐に潜り込まれれば、彼女は自己を犠牲にしてでも手を差し伸べてしまうだろう。               それはもはや、保護などではなく誘拐と同義だ。
「あの子は優しすぎるのよ……。でも、血の繋がりという呪縛は、そう簡単に解けるものではないし……」
母さんの不安げな呟きを、俺の決意が遮る。
「……それでも、玲花を渡す気はない。絶対にだ」
「ええ、そうね。玲花ちゃんはもう、私たちの家族ですもの」
「分かっている。神城の総力を挙げて、彼女を守り抜こう」
話は具体的な警備体制へと移る。
「父さん、学園での警備はどうなっている」
「学園側からは、校内への護衛同行は最低限、五名までと制限を課されている。だが、校門の外であれば制限はない」
「なら、外に百人ほど配置しよう」
「それは……少し多すぎないかしら?」
母さんの懸念ももっともだが、今の俺には過剰だとは思えない。
「いいや、足りないくらいだ。玲花を狙う輩は山ほどいる。それだけの戦力を置いておかなければ、片時も安心できない」
本当なら、彼女の視界を埋め尽くすほどの護衛で固めてしまいたい。だが、それで玲花を怯えさせては本末転倒だ。         今は、この程度で妥協するしかない。
「とりあえず、竜馬。お前は玲花さんの傍についていてやりなさい。警備の段取りはこちらで進めておく」
「……ああ、頼む」
「あなたも今日は疲れ果てたでしょう。無理をせず、ゆっくり休みなさい」
両親の言葉に甘え、俺は彼女の待つ寝室へと足を向けた。
そっと扉を開け、寝室に足を踏み入れる。
そこには、嵐のような喧騒が嘘だったかのように、安らかな寝息を立てる玲花の姿があった。
月光に照らされたその寝顔は、あまりにも無垢で、幸せに満ちている。                                       その愛らしさに触れるたび、俺のささくれ立った心は静かに癒やされていく。
思い返せば、俺に「初めて」を教えてくれたのは、いつだって彼女だった。
人を愛することの喜びも、守りたいと願う痛烈な情熱も。この温かな愛を教えてくれたのは、世界で玲花、ただ一人。
「……俺だけの、美しい花」
独り言が、熱を帯びて空気に溶ける。
彼女がその美しさを存分に咲かせられる場所は、俺の隣以外にあってはならない。あの腐敗しきった一族や、彼女を利用しようと目論む輩に、その花弁を触れさせることなど万に一つもあってはならないのだ。
美しく、気高く咲き誇る彼女を守り続けられるのは、この世界で俺だけだ。
俺は吸い寄せられるようにベッドに入り、彼女の隣に横たわった。
至近距離で見つめるその美しい顔が堪らなく愛おしい。                                                 指先で触れれば壊れてしまいそうなほど繊細で、けれど俺のすべてを支配する神聖な存在。
視界の端々まで彼女の残像で埋め尽くしながら、俺はゆっくりと目を閉じた。
押し寄せる強烈な睡魔に抗うことなく、俺は彼女の香りに包まれながら、深い眠りの淵へと身を委ねた。